第15話 夜叉
妾は夜叉と呼ばれている。
夜叉と呼ばれる女の鬼だ。
讃岐の夜叉と呼ばれている。
妾も自分は夜叉だと思っている。
讃岐の国は乾いた国だ。
大きな川が無い。
雨が降らねば、すぐ乾き、人は渇いて飢えて死ぬ。
そんな乾いた国に空海様が産まれた。
知恵に溢れた空海様が、お産まれになった。
空海様は唐の国に渡り、多くの技と教えを学び、持ち帰った。
帰って来た空海様は、多くの技と教えを惜しみなく広め、讃岐の国を変えた。
大きな池を作る技を授けてくださった。
雨水を貯め、乾かぬようにして下さった。
讃岐は豊かに実る国になった。
豊かに実った年に食べさせてもらった。
空海様が作り方を学んで帰った饂飩という食べ物だ。
こんなに美味しい物があるのかと、さすが空海様だと思った。
産まれたばかりの弟を見た。
乳離れしたら、弟にも食べさせてやりたいと思った。
日照りの続く年が来た。
いつまで待っても雨が降らなかった。
溜池の水も干上がってしまった。
実りは少なかった。
年貢は少なくならなかった。
皆、飢えた。
父と母は食べずに、妾達に食べさせて、飢えて死んだ。
残った妾達は飢えた。
やせ細った幼い弟が、うわ言を呟く。
「どうして……どうして……」
ああ、どうしてだろうと思った。
どうして妾は食べてしまったのだろうと思った。
空海様のお恵みである、あの、ありがたい食べ物を、私だけが食べた事がある。
饂飩の味を弟は知らない。
妾が食べずに残しておけば、この、やせ細った弟に食べさせてやることが出来たかも知れないのに。
妾だけが食べてしまった。
弟は饂飩の味を知らぬまま飢えて死んだ。
国衙の役人を見た。
煌びやかな衣をまとった貴族を見た。
痩せた妾達から搾り取る、肥え太った貴族を見た。
奪った食べ物で肥え太り、食べることの出来ぬ歌などを作っているという。
獣を仕留めて肉を食うために射る弓矢を、家の中で的に当てる遊びに使っているという。
都に帰った時、遊び仲間に笑われぬように励んでいるのだという。
飢えた妾達から奪って食いながら、遊びの腕を鍛えているという。
人のすることではなかろうと思った。
ならば、妾も人であることをやめようと思った。
轟く大渦潮が海峡を閉ざす門となる大鳴門の海を渡り、空海様が練り歩いたという熊野の山に登った。
草の根を噛み、木の皮を食いちぎりながら、弓矢を作り、滝に祈った。
あの人では無い者達に、本当の弓矢の使い方を教えてやろう。
この国の全ての貴族を射殺す鬼になろう。
祈りながら矢を射て五年が過ぎた。
狙った獣を逃す事は無くなった。
祈りながら矢を射て十年が過ぎた。
強風の中、狙った鳥を逃す事は無くなった。
大鳴門を渡り、乾いた国に戻った。
乾いた国を貴族どもの血で潤してやるためだ。
射った。
射った。
射った。
逃げる者を追い、射った。
船で逃げれば船で追った。
熊手を掛けて、大渦に引き落とし、鉤縄を手繰って乗り移り、大渦に叩き落とした。
貴族が着ていた狩衣を奪い取って身に纏い、射った。
返り血を浴びた狩衣で射ち続けた。
本当の使い方を教えてやると言って射った。
付き従って来た者達が夜叉のようだと言った。
ああ、その通りだと答えた。
分からぬ者を射殺する手間が省けて良かったと言ってやった。
讃岐の新宮滝夜叉と呼ばれるようになった。
射ち続ける日々の中、伊予掾が来た。
あれも貴族だが、武器を持たず、逃げもせず、あるべき形を語る者を射つ気は失せた。
時を待つ。
より多くの貴族を射つことが出来るだろうと思った。
船が要る。
気が進まぬのだが、潮湧島に催促に行く。
細饂飩を好む潮湧の島々の衆は気に入らぬが、射殺するほどの事ではない。
匠の作業場に着くと童が居た。
あのような童まで使わねばならぬのかと大工衆に問えば、侘しい漁村の兄弟の身の上話が返って来た。
そうか、それで、あのように痩せているのかと思った。
妾の弟を思う。
きっと、空海様の説く密厳浄土に辿り着いて、大日如来様のお慈悲に包まれているだろう。
父も母も、慎ましく暮らして、飢えて死んだ者は皆、そうだろう。
もう妾は食べることなど許されぬ饂飩を、思う存分、味わっているだろう。
歩み寄る。
痩せた男子は、じっと灯明を見ている。
そうだろう。
貧しき者には、灯明など、思いもよらぬ代物であろう。
問いかけて、男子が答える。
「どうして……」
どうして
どうして
どうして
私の中で燃え盛る炎が渦になる。
弟が今際の際に呟いたのと同じ言葉を言う童の目。
弟と同じ、吸い込まれるような虚ろな目。
これは空海様が妾にお与えになった罰か、それともお慈悲か。
もう揺れ動くことなどないはずの妾の心が乱れる。
「構わん」
妾は誰の指図も受けないと今治の六郎に言い返して、童の手を引く。
大工衆に兄の居場所を聞く。
潮湧島の衆から無理やり粉と道具を借り受ける。
童の兄は、邪魔だった。
当て身で眠らせて、今は静かだ。
饂飩を食べさせるのは弟だけで良い。
弟を隣に座らせて、饂飩の作り方を見せてやる。
明日の朝には弟の笑顔が見れるだろう。
弟が、たまに思いついたように呟く。
「濁った水を吸った糸が燃えるなんて、おかしい」
あれは油というもので、火を近づけると燃えるものだ。
油に浸した糸は、油を吸い上げて、糸の先で油が燃えて、糸は燃えずに残るものだ。
弟に、そう教える。
久しく感じた事のない穏やかな心持ちになる。
「お義姉さんが弓矢の名人の滝夜叉さんなの」
さあ、どうだろうね。
そう言う自分の答えに心が揺れる。
自分が名人だなどと思ったことが無いのは本当だ。
弟に夜叉と呼ばれたくない気持ちに驚く。
さっきの呼ばれ方は、何か違う気がしたのだが、鬼と呼ばれるよりは良い。
「さっき見た船の絵が、おかしいんだ。漕ぎ手を守る形になってない」
可愛いものだと思った。
武器を持たぬ漕ぎ手は、誰も狙わないよ。
海の戦いには、そういう流儀があるのさ。
そう答えてやる。
「漕ぎ手が櫓を手放して武器を持つと狙われるのかな」
そうさねえ。
流儀に反する事だから、皆、怒って狙うだろうね。
だから、お前は、してはいけないよ。
そう諭す。
「船に火を点けるのは流儀に反することなのかな」
微笑んでいる自分に戸惑う。
聡いようでも、まだ童だ。
船の周りに、たっぷり水があるんだ。
火を点けても、簡単に消されてしまうよ。
そう答えてから、また戸惑う。
童が船を燃やしてやろうなどと思うものだろうか。
まるで妾に、そっくりじゃないか。
やはり、これは空海様が妾にお与えくださったお慈悲だ。
弟は、飢えて恨んで、人の道を踏み外しかけている。
弟に饂飩を食べさせれば正気に戻るだろう。
明日の朝が待ち遠しい。
一晩、寝かせた美味しい饂飩を食べさせよう。
饂飩を食べた弟の笑顔を早く見たいと気持ちが急く。
目を覚ました兄の方が煩く寄って来るので、また当て身で眠らせて放り投げてから、急いで弟の傍らに戻る。
本当に邪魔な兄だ。
いっその事、海に沈めてやろうか。
そう思ってから慌てた。
今の妾の顔を弟に見られてしまっただろうか。
「満ちた月、欠けた月、お月様は何個あるのかな」
そう呟いて、月を見上げていた。
空海様のお慈悲に、手を合わせて感謝する。
この弟が道を踏み外す前に、夜叉の姿を見せてやれば、きっと人の道に戻るだろう。
見られたくはないが、饂飩を食べさせてから、見せてやろう。




