第三話『濡れた手』
「『Ethica』……」
暖炉の火は既に弱まり始め、辺りには少しばかりの凍てつきが擦過し始めている。
だがその言葉に宿る熱は、何人たりとも奪うことのできない炎を宿していた。
「確か、ラテン語で『倫理学』を意味する……」
「流石いいとこのお坊ちゃまだ。語学的な面では大正解だぜ。
だが、今大会名自体はオランダの哲学者スピノザの著書、『倫理学』に由来するらしい」
「……殺しの場に『倫理学』とは。名づけたやつはセンスがある。脱帽です」
「……読んだことは?」
「いや、ありませんね……」
「俺はあるぜ。まぁ難解すぎて、途中で読むのを諦めたがな」
ふと、アーサーは自分が落ち着いてきていることに気が付いた。
拭い去りえぬ衝撃と興奮を、未だ心中に燻ぶらせていることには変わりないが。
二人の間の会話の応酬、この些細な取り組みが冷却器のような効果を発揮したのだ。
そしてこれはリチャード自身がアーサーの様子を鑑みて、実行した作戦であるようだった。
リチャードはそれが成功したのを見て取ると、続けて『Ethica』の話題へと話を戻す。
「誰が名付けたのかは知らん。だがこの大会が、世間に対して倫理を問う代物になるのは確実だ。
参加プレイヤーは二万人弱ほど。幾人の候補者の中から厳選されて選ばれたものに、様々な手段で勧誘をしている」
「……じゃあ貴方がここにきたのは――」
「もちろん、この大会に参加してもらうためだ」
「……」
アーサーは何も言わない。
沈黙の中、腕を組み、目の前にドクドクと広がる真っ赤なワインを眺めるだけ。
リチャードも何も語らない。まだ説明しなくてはならないことがあるのだろうが、彼の様子を伺いながら再びワインに口をつける。
そのような状態が数十秒続いた後、自ら質問するのがこの場の最適解だと考えたのだろう、先に口を開いたのはアーサーの方であった。
「全タイトルというなら、『BYR』といったFPSジャンルも?」
「もちろん」
「ゲームバランスは?
僕らのようなジャンルが圧倒してしまうと思うんですが」
「ルール周りの情報はお漏らし厳禁だ。なんとも答えられねぇが、上手く調整しているとだけは言っておく」
「どっからそんな資金が?
国連に差し押さえられたはずでしょう」
「もちろん各タイトルを作ってたゲーム会社の協力だ。
それだけじゃねぇ、刺激を求めてやまない世界中の富豪が資金の提供をしてくれたよ」
「……全ジャンルを集めるって言っても、一からまた冒険とかするわけで?」
「冒険パートがあるかどうかは言えねぇが、そのプレイヤーが、最後にログインした時点での装備品やパラメーター、スキルをそのまま適用している。国連に没収されないよう、秘密裡に保管してたんだ。感謝しとけよ」
「……ありがとう、ございます。
……だが、一度死んだはずの運営が、どうやって二万人の命の保証を?
国連だって馬鹿じゃない。すでに首根っこを押さえられてる可能性も――」
「逆だよ。俺たちが金とスキャンダルで押さえてるんだ。スポンサーの方々のおかげでね。
身体管理だって最新の医療技術をもって臨んでいる。道徳性に富んだ非合法性を提供する所存だ」
「……はは、相変わらず悪趣味だ」
アーサーは穴だらけに見えながら、その実どこまでもリアルなアートの上を歩かされている気分になる。
おそらく、自分が思いつかない問題にまで対策は入念に施されている。
不審感は否めないものの、アーサーにはそう思われるだけの妙な信頼と確信があった。
(この大会は、確かな安全と犯罪の坩堝のもと成り立っている)
疑問は尽きない。
だが、アーサーの持つ認識の枠組みはこのとき完全に固定された。
「最後の質問です。人質というのは?
僕らの命を保証してくれるというのなら、この言葉が僕らに向くのはおかしいでしょう」
「あぁ、それはさっきも言った通り大会持続のためのものだ。世間に対する方便だがね」
「……つまり」
「仮にどこかしらの国家やらがゲームを強制終了させようとしてきた場合、武力行使を行った場合。
俺達は、『お前らが変な動きを見せればプレイヤーは皆殺しにする』と宣言してやるのさ」
リチャードは続ける。
「MMOへのダイブっていうのは詰まるところ、魂をゲーム内に置換する芸当だ。肉体からゴーグルを無理やり剥ぎ取れば、魂はサーバー内に置きっぱなしになる。
こっちは即座に殺すことができるんだぞと、アピールするのさ。
こうすれば、連中は指くわえて見ていることしかできないだろうし、配信だって続けられる。
……もちろん、そう簡単にはいかないだろう。だがな、俺達だって明後日のために全てを捧げてきたんだ。
――やってやるさ、例え一生、牢の奥に繋がれることになったのだとしても」
そう語るリチャードの瞳に宿っていたものは何か。
『覚悟』である。
それは善でも悪でもない、そんな二元論なんかでは太刀打ちなぞ出来はしない。
ただ実行すると。あの時代を取り戻すための、つかの間の一瞬を。
そんな覚悟が、燃え走る炎にも負けないほどに、爛々と瞳に沈んでいた。
「アーサー。一度引いた波はな、更に勢いを増して、巨大な岩をも砕くんだぜ」
「――」
「……もう質問は十分だろう。後は俺が頼むだけだ」
答えは出た。
何を願われたとしても、彼がすべきことは、もう自己が決めていた。
それはリチャードも理解している。
だが絶対に懐柔させて、大会に参加させると――
「――頼むアーサー、『Ethica』に出場してくれ」
そんな祈りにも似た執念が、いま彼の頭を下げさせ、この場を支配しているのだ。
「……」
「お前が! かつて『エインヘリャル』で力を振るったお前が!
あの万夫不倒の英傑が集う中、第一位として君臨し続けたお前がいれば!
この大会は確実に盛り上がるんだ!! たくさんの人間がお前を見るためだけに莫大な数字を動かす!
なぁ頼む! この通りだ! 俺達を救ってくれ! 『英雄』!」
額をつける絨毯に穴が開くのではないかというほど、必死で懇願し、かつてのアーサーの二つ名を口にするリチャード。先ほどまでの余裕や、気に食わない素振りは鳴りをひそめている。別人かと思われるほどに、乞食かと思われるほどに。そして、『見たものの心を、必ず動かす』。そう思わせるほどに請い願うのだ。
それはアーサーだって例外ではない。事実、彼はその覚悟を伴いプライドをかなぐり捨てた姿を見て――
「申し訳ありませんが、お断りします」
――苦虫を噛み締めたような表情をして、拒否したのだから。
「……ッッ!! なぜだ……!」
「……なるほど、納得はできる。保障もある。だがあなたは一つ勘違いをしている。
――確かに僕はこれまでの日々に、絶望している。だがそれはさっき言ったように、世間に対する恨みではない。
背負った恐怖に対してだ」
「……!」
「――怖いんですよ、またあんな、世間の目に晒されるのは……」
そう、あの日。サービスが終了し、世間が彼の背中に傷を抉り出し始めたあの日。
アーサーは『墜落』を経験した。
万人からの賞賛を全身で受けてきた内的宇宙から、蛆が燃え湧き、肉躍る、地獄への『墜落』を。
アーサーの手は、ひとりでに震えている。
仮にゲームに参加し、全てが終わった時、何が残る?
それは今以上の失望だろう。そして今以上の恐怖だろう。
世間はもはや彼を人間とは定義しないだろう。
だから彼は更に失うことへの、恐怖に震えているのだ。
それは『英雄』らしくはない、いや、ないのだろうか?
名声を失った恐怖に喘ぐからこそ、英雄らしいといえないか。
「別にあなたがたを止めたりはしません、それで救われる人間だっているはず。
だけど、すみません。僕はもう、あんな目には、あいたくない。絶望は今の分だけで十分だ」
互いに、沈黙が続く。
俯くアーサーに、訴えるような目で彼を見つめるリチャード。
だがもうこれは確定的だ。アーサーにはもはや戦える意志はない。
それは、誰の目から見ても明らか。大会は彼抜きでやるしかない。
その事実を、リチャードは受け止めなくてはならない。
しかし、しかしだ。
その程度で――
「英雄になりたいじゃなかったのかい、あんたは」
「……はい?」
――その程度で諦められるような男では、今回の大会を運営なぞ出来はしない。
「いや、だから、英雄になる以前に僕らは犯罪者として――」
「いいや、言ったろ? 名声はきっと回復する。
いいか、お前らは『人質』なんだ。俺達企業という『悪魔』に捕らわれた憐れで可哀そうな子羊さ。
そんなやつらが、俺達に負けることなくゲームクリアを完遂して、この世界に帰還したらどうなる?」
「――」
「『英雄』さ。特にその中心で活躍してたやつはな。
まぁMMSだから勿論、不都合な記憶は一時的に消去される。
だが、それだってお前には都合がいいだろ? 世間の目なんて気にせず戦えるんだからな」
アーサーの表情に、狼狽の色が浮かぶ。
「……だがそれは結果論です。しかも予測したものにすぎない」
「予測じゃねぇ。俺達が引き寄せる現実だ」
「……だけど」
「納得できねぇか? だったら――」
そういうとリチャードはその場で立ち上がり、ソファに置いてあった鞄から一枚のファイルを取り出す。
そこには様々なゲームタイトルの名が記されており、上記には『名簿一覧』という文字が見えた。
「――『黒犬』、『人斬り火車』、『星芒』」
「――その名前……!!」
「聞き覚えしかねぇだろ?
安心しろ、連中はみな参加者だぜ」
「……」
「まだ足りねぇってか。だったらこいつはどうだ?
――『治癒の花』、あるいは『Ms.ベスト・ヒーラー』か?」
その刹那、アーサーの脳裏に蘇る。
輝きの終焉、その只中に輝く一等星が。
『――最後の約束ね――』
夕日を背に、こちらを振り向き微笑む一人の女。
溶け消えそうなほど波打つ青色の髪。
「……なん、だと?」
――アーサーの眼が、開かれる。
全身の毛が逆立つ。
何が為か、それも分からぬ汗が服に滲む。
今日一番の衝撃が、脳を鷲掴みにし、叩きつける。
その名が示すものは、憐憫の象徴。
彼が探し求めた、今は届かぬ『青い花』。
想い焦がれた、彼を英雄たらしめる存在。
「――彼女が、参加しているのか?」
「あぁそうだとも。
――随分、探し回ったらしいな。あいつを」
「――」
芯の奥から震えている。
まさに運命が、彼を貪ろうとしているかのようだ。
彼の目には男の姿と、想起された彼女しか映っていない。
そんなアーサーを見て、リチャードは心に針が刺さったように表情を歪ませた。それは嘘をついた後の善人に似ている。
「……どうだい、アーサー。彼女に会える最後のチャンスかもしれないぞ。参加する価値は、何も一つじゃねぇってこった」
「――あぁ、そうだな。だが、だが……っ!」
想いが、一度引いたはずの恐怖に飲まれていく。
それほどまでに強烈なのだ。あの日々の呪いは。
だが彼女を探し回った、あの焼かれるような日々も、また強烈で――
そんな彼に、リチャードは確信を抱く。
あと一手。あと一手で、彼の恐怖を打ち壊せると。
「……アーサー王はティンタジェルで生まれ、カムランの丘にて死んだ。
だが、かの王の肉体は墓に埋められたわけじゃねぇ。アーサー王は『聖剣エクスカリバー』を湖へと返した後、アヴァロンへと運ばれた――このグラストンベリーにな。
なぁ、『アーサー』。伝説はここで終わっていたっけか?」
「……」
「――アーサー王は、帰還する。
ブリテンがピンチになったその時、アヴァロンより戻ってくるんだよ」
――その言葉が、決定打になった。
英雄ならどうするか、そうやって彼は己が人生を決めてきた。それはこれからも変わらずに、例え死んだとしても、変わらずに。
奇妙な興奮が、謎に満ちたカタルシスが、彼を酷く打ちつけるのだ。
――英雄なら、どうするか。
――アーサー王なら、どうするか。
「――お前はどうするかだ。『アーサー』」
「…………」
答えは、決まった。決まってしまった。
迷いがないわけではない。
だがその選択に、そしてそれが連れていく結末に、彼は後悔を託しはしない。
いつだってそうしてきた。自らの行動には自己責任と自己容認が求められるのだと、彼は知っていたのだから。
立ち尽くしていたその背中が、リチャードの方を向く。
動かす脚は、台所を向いている。
彼はそのまま、流れるように拭きものを握り、止まることなく机に戻ってくる。
赤く、艶やかに溢れたワイン。
持ってきたそれを、ゆっくり被せる。
「……僕が、サービス終了の報を受けて、まず何をしたか教えましょうか」
じんわりと、布に滲んだエキスが手を濡らす。
それは冷たく心地よく、アーサーの右手に馴染んでいる。
「――吐いた。全てを、僕の中身全てをね」
その青い瞳には、リチャードのものとよく似た覚悟が、金色を伴って揺らめいていた。




