↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/33

第7話 修理代は食卓から出る

肉がない。


エルサは木椀の中を二度確認した。


煮崩れたカルトッフェル。


カブ。


タマネギ。


細く刻まれたキャベツ。


豆が三粒。


豚肉は見当たらない。


脂身らしい白い欠片を一つ見つけ、匙で掬い上げたが、よく見れば柔らかくなったカブだった。


「見つめても増えないよ」


向かい側でリーネが言った。


「見つめていたのではないわ。数えていたの」


「何を」


「肉を」


「だから、ないって」


「一切れも?」


「一切れも」


リーネは黒パンをアイントプフへ浸した。


酸味のある硬いパンが、薄い汁を吸って重くなる。


「昨日はあったでしょう」


「昨日でなくなった」


「豚が?」


「お金が」


厨房脇の職員食堂には、いつもの朝より人が少なかった。


豊穣の酒場はまだ本格的な営業を再開していない。古い保温鍋は取り外され、床下の該当区画も封鎖されたままだった。


客へ料理を出さないから、厨房全体の仕込み量も少ない。


それでも塔で働く者は食べる。


食べなければ倒れる。


倒れれば、さらに治療費がかかる。


合理的に考えれば、食事を削るべきではない。


合理的に考えれば。


金がない時、人間は大抵、最初に合理性から削る。


エルサは汁を一口飲んだ。


塩気も薄い。


肉だけではなく、豚脂まで減らされている。


「ひどい味ね」


「昨日まで人の作った飯を食べて、ありがたいって顔してたくせに」


「昨日までのものは、もう少し味がしたもの」


「贅沢」


「味覚は身分によって消失しないわ」


「消失させれば食費が浮くよ」


「銀の塔へ相談したら?」


「舌を抜かれそう」


「その分、食べる量も減るわね」


リーネは一度だけエルサを見て、それから小さく笑った。


笑われるようなことを言ったつもりはなかった。


最近、この塔では事実を述べると笑われる。


王宮では、事実を述べると嫌われた。


どちらがましかは、まだ判断できない。


職員食堂の隅では、ハンスが汁の中から豆を探していた。


見つけるたびに匙の背で椀の縁へ押しつけ、潰している。数を増やそうとしているように見えた。


グレタは厨房の入口へ立ち、配られた椀の数を数えていた。


自分の分には、まだ手をつけていない。


最後に食べる。


王国中に残る古い作法だが、グレタの場合は大人らしさを誇示するためではない。


全員へ行き渡ったかを確認しているだけだった。


「事故一回で、ここまで減るものなの?」


エルサが尋ねると、リーネはパンを噛みながら指を折った。


「患者の治療費」


一本。


「酒場を閉めた分の売上」


二本。


「捨てた仕込み」


三本。


「鍋の取り外し」


四本。


「床を剥がした代金」


五本。


「鉄と銅の塔に調べてもらった手間賃」


六本目はなかったため、反対の手へ移った。


「共同調査だったでしょう」


「共同でも人は働いてる。働いたら金がいる」


「鉄の塔は鍋を持って帰っただけよ」


「持って帰るのにも荷車がいる」


「銅の塔は床下を覗いて文句を言っていたわ」


「文句を言える人を育てるのにも金がいる」


リーネは最後のパンを汁へ沈めた。


「それに、酒場の客へ返した食事代。何人かは服も汚れたから洗濯代。倒れたゲルトさんの家には、錫の塔から見舞金も出した」


「見舞金?」


「出すでしょ」


当然のように言われた。


事故原因は、まだ完全には分かっていない。


錫の塔だけの責任とも決まっていない。


それでも、自分たちの酒場で倒れた者へ金を出した。


王宮なら、責任の所在が確定するまで支払いは保留される。


保留中に相手が死ねば、死亡者への補償規定へ切り替わる。


そのほうが安い場合もある。


エルサは匙を置いた。


「誰が決めたの?」


「マルコ」


やはり。


「金があるのね」


「ないよ」


「ないのに払ったの?」


「ないから、肉がなくなったんでしょ」


リーネは空になった椀を持って立ち上がった。


「修理代は、どこか知らないところから湧いてこない。食卓から出るんだよ」


言い残し、洗い場へ向かう。


エルサは椀の中のカブを見た。


修理代は食卓から出る。


正確には、食卓だけではない。


給金。


燃料。


消耗品。


新しい器の購入。


次の修繕。


見えやすい肉を削り、その後ろで見えにくい何かも削られる。


ゼーヴェル家の帳簿では、そうした削減を「軽微な経費調整」と記した。


軽微。


実際に肉を食べられなくなる側にとっては、あまり軽くない。


「エルサ」


グレタに呼ばれた。


今度は一拍も遅れず顔を上げる。


「食べ終わったら倉庫へ。リーネと仕入れを確認しておいで」


「仕入れ?」


「安い小麦が入る」


グレタはそう言ってから、自分の椀を取った。


中身はエルサたちと同じだった。


肉はない。


塔の責任者だけ別鍋ということはないらしい。


「南の小麦よ」


リーネが洗い場から言った。


「安いんだから、文句言わないでよね」


安い。


その言葉は、エルサにとって肉より味がした。



荷下ろし場には、十二袋の小麦が積まれていた。


麻袋の表面へ、南部リンデン領の集荷印が押されている。


丸の中へ麦穂が三本。


その下に製粉所の番号。


さらに王都検査所の受領印。


外見上、おかしいところはない。


「これが安い小麦?」


エルサは一番上の袋を押した。


乾燥状態は悪くない。


湿ってはいない。


虫が動く感触もない。


「普通に見えるけど」


リーネは荷札を確認しながら言った。


「普通なら、どうして安いの」


「今年は南が豊作だったから」


「それだけ?」


「粒が少し小さい」


「それだけ?」


「製粉所の倉庫を早く空けたいって」


「それだけ?」


リーネが振り返った。


「何回聞くの」


「安い理由が三つ出てきたからよ」


「安い理由なんて、多いほうが安心でしょ」


「反対よ。理由が多すぎる商品は、誰も本当の理由を知らない可能性がある」


エルサは荷札へ顔を近づけた。


仕入れ価格は、通常の南部小麦より二割ほど安い。


豊作による下落だけなら、地域全体の価格が落ちる。


粒が小さいなら等級を下げて売る。


倉庫を空けたいなら、期限付きの値引きが記される。


三つとも、それぞれあり得る。


あり得る理由を三つ並べれば、人は納得する。


納得した時点で、それ以上調べない。


「商人を疑ってるの?」


「商人は疑われることを前提に商売をしているわ」


「全員?」


「疑われて困る商人から先に消えるもの」


「西って嫌なところだね」


「南にも商人はいるでしょう」


「西みたいな顔はしてない」


「顔で帳簿はつけられないわ」


「あなた、時々すごく西っぽいよ」


エルサの手が止まった。


リーネは荷札を見ていて、こちらを見ていない。


何気ない言葉だった。


追及する調子ではない。


それでも胸の内側へ細い針が入る。


エルサは袋の口を縛る紐へ触れた。


「港町にいたことがあるの」


嘘ではない。


「だから?」


「安いものには慣れているわ」


これも嘘ではなかった。


港の貧民街では、安いものしか買えなかった。


ゼーヴェル家へ入ってからは、安いものを大量に買い、他人へ高く売る側になった。


人生は同じ机の反対側へ人を座らせる。


その時、以前座っていた側の顔を覚えていられる者は少ない。


リーネは袋を一つ開けた。


小麦の乾いた匂いが広がる。


淡い黄色。


粒は確かにやや小さい。


手へ掬うと、さらさらと指の隙間から落ちた。


「黴はない」


リーネが言う。


「虫も」


エルサは一粒噛んだ。


硬い。


奥歯で割れる。


粉っぽい甘み。


最後に、わずかな刺激が舌へ残った。


「どう?」


「生の小麦を味見する仕事まで給金に含まれていたかしら」


「嫌なら吐いて」


エルサは飲み込まず、掌へ出した。


もう一粒。


今度は前歯で砕き、舌の上へ置く。


何かがある。


腐敗臭ではない。


酸味でもない。


薬草や燻蒸剤の味とも違う。


「苦い?」


リーネが尋ねた。


「少し」


「小麦なんてこんなものじゃない?」


「生では判断しにくいわ。焼きましょう」


「全部?」


「なぜ十二袋を一度に焼くのよ」


「あなたならやりそう」


「私は食べ物を粗末にしないわ」


「皮を厚く剥いてたくせに」


「過去の失敗を永遠に請求するつもり?」


「皿の修理代は引き終わったけど、カルトッフェルの分はまだ」


エルサは袋の口を閉じた。


リーネの態度は生意気だった。


だが、以前ほど不快ではない。


不快に慣れただけかもしれない。


人間関係とは、相手の美点を見つけるより、欠点の位置を覚えるほうが早く安定する。



試し焼きには、二つの粉を使った。


今日届いた南部小麦。


比較用に残してあった通常の小麦。


同じ石臼。


同じ量の水。


同じ塩。


同じ酵母。


発酵時間も揃える。


「パン一つ焼くだけなのに面倒」


リーネが生地を捏ねながら言った。


「条件を揃えなければ、味が違っても小麦のせいか分からないでしょう」


「食べて変なら変でいいじゃない」


「何が変なのか分からなければ、次も同じものを買うわ」


「買わなきゃいい」


「それで肉が戻るの?」


リーネは黙った。


肉は強い。


議論を終わらせる力がある。


厨房の小さな焼き窯へ、二つの生地を並べて入れた。


目印として、通常の小麦には表面へ一本線。


安い小麦には二本線を入れる。


焼いている間、エルサは仕入れ帳を開いた。


記録補助として初めて正規に触れる帳簿だった。


誰かの机から盗み見る必要はない。


隠れて頁をめくる必要もない。


閲覧権。


それだけのことが、妙に落ち着かなかった。


許可されて見る記録は、盗んで見る記録より責任が重い。


読んだ事実が残る。


知らなかったとは言えなくなる。


南部小麦十二袋。


納入元はカウフマン商会王都東支店。


仲介人の名。


製粉所。


集荷倉庫。


検査済み。


水濡れなし。


害虫なし。


異臭なし。


重量不足なし。


一つずつ問題がない。


問題がないという確認が、何枚も並んでいる。


「エルサ」


リーネが呼んだ。


焼き窯から香ばしい匂いが出ている。


エルサは帳簿を閉じた。


二つの小さな丸パンが取り出された。


外見はほとんど同じ。


安い小麦のほうが、わずかに膨らみが悪い。


許容範囲ではある。


リーネがナイフを入れる。


表面が割れ、湯気が上がった。


まず通常の小麦。


エルサは一切れを口へ入れた。


香ばしい。


塩は薄い。


酵母の酸味。


少し粗いが、職員食としては普通のパンだった。


次に、二本線のパン。


噛んだ瞬間は変わらない。


二度。


三度。


飲み込む直前、舌の両側へ硬い苦味が残った。


金属を舐めた時に似ている。


古い血の味にも近い。


エルサは手を止めた。


「苦い」


リーネも顔をしかめた。


「窯の煤じゃない?」


「同時に焼いたもう一つは苦くない」


「塩が偏ったとか」


「塩ではないわ」


「石臼の欠片?」


エルサは焼く前の粉を指先へ取った。


舐める。


やはり薄い苦味がある。


「粉の時点で苦い」


「食べても平気?」


「分からない」


「分からないのに食べたの?」


「あなたも食べたでしょう」


「あなたが先に食べたから」


「毒見役ではないわ」


「元お嬢様なら慣れてるかと思って」


「毒見をされる側よ」


言ってから、エルサは口を閉じた。


リーネがこちらを見る。


一瞬だけ。


「昔の話?」


「港の商家にいた頃よ」


「商家でも毒見するの?」


「儲けすぎると、されるわ」


リーネは完全には納得していない顔だった。


だが追及はしなかった。


代わりにパンの断面を指で押す。


「黴じゃないよね」


「見た限りでは」


「虫もいなかった」


「ええ」


「検査印もある」


「あるわ」


「じゃあ、誰が間違えたの?」


エルサは答えなかった。


農民。


集荷人。


倉庫。


製粉所。


検査所。


商人。


運送人。


錫の塔。


誰か一人が嘘をついたと考えれば、話は簡単になる。


簡単な話は、簡単すぎるという理由で疑うべきだった。


「この小麦は使わない」


エルサは言った。


「十二袋も買ったんだよ」


「苦いパンを十二袋分焼けば、損が増えるだけよ」


「返品できる?」


「契約書を見る」


「返品できなかったら?」


「返せる理由を探す」


「商人みたい」


「褒め言葉として受け取っておくわ」


「褒めてない」


「知ってる」


エルサは試し焼きしたパンを布で包んだ。


粉も別の袋へ採取する。


仕入れ袋の封印。


荷札。


製粉所番号。


検査印。


すべて記録へ残す。


前の事故では、食べた者と食べなかった者を分けた。


今度は、同じ麦がどこを通り、どこで何と混ざったかを分けることになる。


まだ事件ですらない。


苦いパンが一つ焼けただけだ。


それでもエルサの胃の奥には、朝の薄いアイントプフとは違う重さが残った。


十二袋。


安値。


南部小麦。


確認印はすべて揃っている。


揃いすぎている。


厨房の奥で、何かが鳴った。


低い音だった。


木材が乾いて割れたような。


そのあとに、もう一度。


ご、と。


内側から樽の壁を押すような音。


リーネが顔を上げた。


「今の、何?」


醸造所のほうだった。


二人は目を合わせた。


三度目の音が響く。


今度は、はっきりと長かった。


ごぼり。


巨大な生き物が、木の樽の中で息を吐いたような音だった。


エルサは包んだパンを掴んだ。


「今日届いた小麦は、どこへ運んだの」


リーネの顔から色が引いた。


「十袋は倉庫」


「残りは?」


「一袋は厨房」


「もう一袋」


答えは聞く前から分かっていた。


リーネが醸造所の扉を見る。


「試験仕込みの麦酒に使った」


扉の向こうで、樽がもう一度呼吸した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。