第7話 修理代は食卓から出る
肉がない。
エルサは木椀の中を二度確認した。
煮崩れたカルトッフェル。
カブ。
タマネギ。
細く刻まれたキャベツ。
豆が三粒。
豚肉は見当たらない。
脂身らしい白い欠片を一つ見つけ、匙で掬い上げたが、よく見れば柔らかくなったカブだった。
「見つめても増えないよ」
向かい側でリーネが言った。
「見つめていたのではないわ。数えていたの」
「何を」
「肉を」
「だから、ないって」
「一切れも?」
「一切れも」
リーネは黒パンをアイントプフへ浸した。
酸味のある硬いパンが、薄い汁を吸って重くなる。
「昨日はあったでしょう」
「昨日でなくなった」
「豚が?」
「お金が」
厨房脇の職員食堂には、いつもの朝より人が少なかった。
豊穣の酒場はまだ本格的な営業を再開していない。古い保温鍋は取り外され、床下の該当区画も封鎖されたままだった。
客へ料理を出さないから、厨房全体の仕込み量も少ない。
それでも塔で働く者は食べる。
食べなければ倒れる。
倒れれば、さらに治療費がかかる。
合理的に考えれば、食事を削るべきではない。
合理的に考えれば。
金がない時、人間は大抵、最初に合理性から削る。
エルサは汁を一口飲んだ。
塩気も薄い。
肉だけではなく、豚脂まで減らされている。
「ひどい味ね」
「昨日まで人の作った飯を食べて、ありがたいって顔してたくせに」
「昨日までのものは、もう少し味がしたもの」
「贅沢」
「味覚は身分によって消失しないわ」
「消失させれば食費が浮くよ」
「銀の塔へ相談したら?」
「舌を抜かれそう」
「その分、食べる量も減るわね」
リーネは一度だけエルサを見て、それから小さく笑った。
笑われるようなことを言ったつもりはなかった。
最近、この塔では事実を述べると笑われる。
王宮では、事実を述べると嫌われた。
どちらがましかは、まだ判断できない。
職員食堂の隅では、ハンスが汁の中から豆を探していた。
見つけるたびに匙の背で椀の縁へ押しつけ、潰している。数を増やそうとしているように見えた。
グレタは厨房の入口へ立ち、配られた椀の数を数えていた。
自分の分には、まだ手をつけていない。
最後に食べる。
王国中に残る古い作法だが、グレタの場合は大人らしさを誇示するためではない。
全員へ行き渡ったかを確認しているだけだった。
「事故一回で、ここまで減るものなの?」
エルサが尋ねると、リーネはパンを噛みながら指を折った。
「患者の治療費」
一本。
「酒場を閉めた分の売上」
二本。
「捨てた仕込み」
三本。
「鍋の取り外し」
四本。
「床を剥がした代金」
五本。
「鉄と銅の塔に調べてもらった手間賃」
六本目はなかったため、反対の手へ移った。
「共同調査だったでしょう」
「共同でも人は働いてる。働いたら金がいる」
「鉄の塔は鍋を持って帰っただけよ」
「持って帰るのにも荷車がいる」
「銅の塔は床下を覗いて文句を言っていたわ」
「文句を言える人を育てるのにも金がいる」
リーネは最後のパンを汁へ沈めた。
「それに、酒場の客へ返した食事代。何人かは服も汚れたから洗濯代。倒れたゲルトさんの家には、錫の塔から見舞金も出した」
「見舞金?」
「出すでしょ」
当然のように言われた。
事故原因は、まだ完全には分かっていない。
錫の塔だけの責任とも決まっていない。
それでも、自分たちの酒場で倒れた者へ金を出した。
王宮なら、責任の所在が確定するまで支払いは保留される。
保留中に相手が死ねば、死亡者への補償規定へ切り替わる。
そのほうが安い場合もある。
エルサは匙を置いた。
「誰が決めたの?」
「マルコ」
やはり。
「金があるのね」
「ないよ」
「ないのに払ったの?」
「ないから、肉がなくなったんでしょ」
リーネは空になった椀を持って立ち上がった。
「修理代は、どこか知らないところから湧いてこない。食卓から出るんだよ」
言い残し、洗い場へ向かう。
エルサは椀の中のカブを見た。
修理代は食卓から出る。
正確には、食卓だけではない。
給金。
燃料。
消耗品。
新しい器の購入。
次の修繕。
見えやすい肉を削り、その後ろで見えにくい何かも削られる。
ゼーヴェル家の帳簿では、そうした削減を「軽微な経費調整」と記した。
軽微。
実際に肉を食べられなくなる側にとっては、あまり軽くない。
「エルサ」
グレタに呼ばれた。
今度は一拍も遅れず顔を上げる。
「食べ終わったら倉庫へ。リーネと仕入れを確認しておいで」
「仕入れ?」
「安い小麦が入る」
グレタはそう言ってから、自分の椀を取った。
中身はエルサたちと同じだった。
肉はない。
塔の責任者だけ別鍋ということはないらしい。
「南の小麦よ」
リーネが洗い場から言った。
「安いんだから、文句言わないでよね」
安い。
その言葉は、エルサにとって肉より味がした。
◇
荷下ろし場には、十二袋の小麦が積まれていた。
麻袋の表面へ、南部リンデン領の集荷印が押されている。
丸の中へ麦穂が三本。
その下に製粉所の番号。
さらに王都検査所の受領印。
外見上、おかしいところはない。
「これが安い小麦?」
エルサは一番上の袋を押した。
乾燥状態は悪くない。
湿ってはいない。
虫が動く感触もない。
「普通に見えるけど」
リーネは荷札を確認しながら言った。
「普通なら、どうして安いの」
「今年は南が豊作だったから」
「それだけ?」
「粒が少し小さい」
「それだけ?」
「製粉所の倉庫を早く空けたいって」
「それだけ?」
リーネが振り返った。
「何回聞くの」
「安い理由が三つ出てきたからよ」
「安い理由なんて、多いほうが安心でしょ」
「反対よ。理由が多すぎる商品は、誰も本当の理由を知らない可能性がある」
エルサは荷札へ顔を近づけた。
仕入れ価格は、通常の南部小麦より二割ほど安い。
豊作による下落だけなら、地域全体の価格が落ちる。
粒が小さいなら等級を下げて売る。
倉庫を空けたいなら、期限付きの値引きが記される。
三つとも、それぞれあり得る。
あり得る理由を三つ並べれば、人は納得する。
納得した時点で、それ以上調べない。
「商人を疑ってるの?」
「商人は疑われることを前提に商売をしているわ」
「全員?」
「疑われて困る商人から先に消えるもの」
「西って嫌なところだね」
「南にも商人はいるでしょう」
「西みたいな顔はしてない」
「顔で帳簿はつけられないわ」
「あなた、時々すごく西っぽいよ」
エルサの手が止まった。
リーネは荷札を見ていて、こちらを見ていない。
何気ない言葉だった。
追及する調子ではない。
それでも胸の内側へ細い針が入る。
エルサは袋の口を縛る紐へ触れた。
「港町にいたことがあるの」
嘘ではない。
「だから?」
「安いものには慣れているわ」
これも嘘ではなかった。
港の貧民街では、安いものしか買えなかった。
ゼーヴェル家へ入ってからは、安いものを大量に買い、他人へ高く売る側になった。
人生は同じ机の反対側へ人を座らせる。
その時、以前座っていた側の顔を覚えていられる者は少ない。
リーネは袋を一つ開けた。
小麦の乾いた匂いが広がる。
淡い黄色。
粒は確かにやや小さい。
手へ掬うと、さらさらと指の隙間から落ちた。
「黴はない」
リーネが言う。
「虫も」
エルサは一粒噛んだ。
硬い。
奥歯で割れる。
粉っぽい甘み。
最後に、わずかな刺激が舌へ残った。
「どう?」
「生の小麦を味見する仕事まで給金に含まれていたかしら」
「嫌なら吐いて」
エルサは飲み込まず、掌へ出した。
もう一粒。
今度は前歯で砕き、舌の上へ置く。
何かがある。
腐敗臭ではない。
酸味でもない。
薬草や燻蒸剤の味とも違う。
「苦い?」
リーネが尋ねた。
「少し」
「小麦なんてこんなものじゃない?」
「生では判断しにくいわ。焼きましょう」
「全部?」
「なぜ十二袋を一度に焼くのよ」
「あなたならやりそう」
「私は食べ物を粗末にしないわ」
「皮を厚く剥いてたくせに」
「過去の失敗を永遠に請求するつもり?」
「皿の修理代は引き終わったけど、カルトッフェルの分はまだ」
エルサは袋の口を閉じた。
リーネの態度は生意気だった。
だが、以前ほど不快ではない。
不快に慣れただけかもしれない。
人間関係とは、相手の美点を見つけるより、欠点の位置を覚えるほうが早く安定する。
◇
試し焼きには、二つの粉を使った。
今日届いた南部小麦。
比較用に残してあった通常の小麦。
同じ石臼。
同じ量の水。
同じ塩。
同じ酵母。
発酵時間も揃える。
「パン一つ焼くだけなのに面倒」
リーネが生地を捏ねながら言った。
「条件を揃えなければ、味が違っても小麦のせいか分からないでしょう」
「食べて変なら変でいいじゃない」
「何が変なのか分からなければ、次も同じものを買うわ」
「買わなきゃいい」
「それで肉が戻るの?」
リーネは黙った。
肉は強い。
議論を終わらせる力がある。
厨房の小さな焼き窯へ、二つの生地を並べて入れた。
目印として、通常の小麦には表面へ一本線。
安い小麦には二本線を入れる。
焼いている間、エルサは仕入れ帳を開いた。
記録補助として初めて正規に触れる帳簿だった。
誰かの机から盗み見る必要はない。
隠れて頁をめくる必要もない。
閲覧権。
それだけのことが、妙に落ち着かなかった。
許可されて見る記録は、盗んで見る記録より責任が重い。
読んだ事実が残る。
知らなかったとは言えなくなる。
南部小麦十二袋。
納入元はカウフマン商会王都東支店。
仲介人の名。
製粉所。
集荷倉庫。
検査済み。
水濡れなし。
害虫なし。
異臭なし。
重量不足なし。
一つずつ問題がない。
問題がないという確認が、何枚も並んでいる。
「エルサ」
リーネが呼んだ。
焼き窯から香ばしい匂いが出ている。
エルサは帳簿を閉じた。
二つの小さな丸パンが取り出された。
外見はほとんど同じ。
安い小麦のほうが、わずかに膨らみが悪い。
許容範囲ではある。
リーネがナイフを入れる。
表面が割れ、湯気が上がった。
まず通常の小麦。
エルサは一切れを口へ入れた。
香ばしい。
塩は薄い。
酵母の酸味。
少し粗いが、職員食としては普通のパンだった。
次に、二本線のパン。
噛んだ瞬間は変わらない。
二度。
三度。
飲み込む直前、舌の両側へ硬い苦味が残った。
金属を舐めた時に似ている。
古い血の味にも近い。
エルサは手を止めた。
「苦い」
リーネも顔をしかめた。
「窯の煤じゃない?」
「同時に焼いたもう一つは苦くない」
「塩が偏ったとか」
「塩ではないわ」
「石臼の欠片?」
エルサは焼く前の粉を指先へ取った。
舐める。
やはり薄い苦味がある。
「粉の時点で苦い」
「食べても平気?」
「分からない」
「分からないのに食べたの?」
「あなたも食べたでしょう」
「あなたが先に食べたから」
「毒見役ではないわ」
「元お嬢様なら慣れてるかと思って」
「毒見をされる側よ」
言ってから、エルサは口を閉じた。
リーネがこちらを見る。
一瞬だけ。
「昔の話?」
「港の商家にいた頃よ」
「商家でも毒見するの?」
「儲けすぎると、されるわ」
リーネは完全には納得していない顔だった。
だが追及はしなかった。
代わりにパンの断面を指で押す。
「黴じゃないよね」
「見た限りでは」
「虫もいなかった」
「ええ」
「検査印もある」
「あるわ」
「じゃあ、誰が間違えたの?」
エルサは答えなかった。
農民。
集荷人。
倉庫。
製粉所。
検査所。
商人。
運送人。
錫の塔。
誰か一人が嘘をついたと考えれば、話は簡単になる。
簡単な話は、簡単すぎるという理由で疑うべきだった。
「この小麦は使わない」
エルサは言った。
「十二袋も買ったんだよ」
「苦いパンを十二袋分焼けば、損が増えるだけよ」
「返品できる?」
「契約書を見る」
「返品できなかったら?」
「返せる理由を探す」
「商人みたい」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「褒めてない」
「知ってる」
エルサは試し焼きしたパンを布で包んだ。
粉も別の袋へ採取する。
仕入れ袋の封印。
荷札。
製粉所番号。
検査印。
すべて記録へ残す。
前の事故では、食べた者と食べなかった者を分けた。
今度は、同じ麦がどこを通り、どこで何と混ざったかを分けることになる。
まだ事件ですらない。
苦いパンが一つ焼けただけだ。
それでもエルサの胃の奥には、朝の薄いアイントプフとは違う重さが残った。
十二袋。
安値。
南部小麦。
確認印はすべて揃っている。
揃いすぎている。
厨房の奥で、何かが鳴った。
低い音だった。
木材が乾いて割れたような。
そのあとに、もう一度。
ご、と。
内側から樽の壁を押すような音。
リーネが顔を上げた。
「今の、何?」
醸造所のほうだった。
二人は目を合わせた。
三度目の音が響く。
今度は、はっきりと長かった。
ごぼり。
巨大な生き物が、木の樽の中で息を吐いたような音だった。
エルサは包んだパンを掴んだ。
「今日届いた小麦は、どこへ運んだの」
リーネの顔から色が引いた。
「十袋は倉庫」
「残りは?」
「一袋は厨房」
「もう一袋」
答えは聞く前から分かっていた。
リーネが醸造所の扉を見る。
「試験仕込みの麦酒に使った」
扉の向こうで、樽がもう一度呼吸した。




