第8話 麦酒が呼吸している
樽は、呼吸していた。
ごぼり。
一度膨らみ、
止まり、
また、内側から木の腹を押す。
ごぼり。
醸造所の扉は閉じている。
それでも、厚い板を通して音が聞こえた。
生き物がいる。
そう考えるのが、いちばん簡単だった。
麦酒の樽の中に、生き物がいる。
普通なら馬鹿げている。
錫の塔に来てからは、普通という言葉の信用が急速に落ちていた。
「開けないで」
エルサは言った。
扉へ伸びたリーネの手が止まる。
「見ないと分からないでしょ」
「中で圧力が上がっているなら、扉を開けた人間が最初に飛ばされるわ」
「扉が?」
「樽が」
「扉を開けただけで?」
「樽はあなたが扉を開けたかどうかまで配慮しないもの」
ごぼり。
今度は音の後に、細い軋みが続いた。
木材が締めつけられている。
あるいは、内側から押し広げられている。
リーネの顔が青くなった。
「クルトを呼ぶ」
「マルコとハンスも。火は止めて」
「醸造所に火なんて――」
「灯りも」
リーネが駆け出す。
エルサは一人、扉の前へ残った。
正確には、一人ではない。
扉の向こうに、呼吸する樽がいる。
包んだ苦いパンを持つ手へ、汗が滲んだ。
前の事故の時も、最初は古い保温鍋だった。
ただの集団食中毒。
ただの器具の摩耗。
ただの故障。
一つずつ、ありふれた名前をつければ小さく見える。
名前をつけた瞬間、人は安心して考えるのをやめる。
今回も同じかもしれない。
ただの異常発酵。
気温。
酵母。
糖分。
樽の洗浄不足。
醸造所では珍しくない失敗。
ただし、普通の失敗なら、樽は生き物のように一定の間隔で息をしない。
ごぼり。
壁に掛かった小さな錫灯が、一度暗くなった。
同時に、樽の音が止まる。
灯りが戻る。
ごぼり。
エルサは顔を上げた。
もう一度。
錫灯が揺れる。
樽の内側で液体が脈打つ。
偶然。
次。
灯りが弱まる。
樽が静まる。
明るくなる。
ごぼり。
「……同期している」
自分の声が、やけに近く聞こえた。
床下の生活回路。
醸造所の温度管理。
錫灯。
同じ系統から熱と微弱な魔力を受けている可能性がある。
前の保温鍋の事故以来、一部の回路は封鎖された。
修理中のため、別系統へ負荷を回している。
ならば、その出力変動が樽へ影響しているのか。
けれど、通常の麦酒なら多少温度が動いても、音と灯りが同時に脈打つことはない。
中身が、回路へ反応している。
エルサは扉の下を見る。
板と床の隙間から、薄い泡が滲み出していた。
白い。
麦酒の泡に見える。
だが、動きがおかしい。
流れているのではない。
一度膨らみ、縮み、また前へ進む。
床を這う肺のようだった。
泡は扉の下を抜け、石床へ広がった。
錫灯が明るくなる。
泡の縁が、淡く青白く光った。
エルサは一歩下がった。
泡の光はすぐ消える。
灯りが弱まる。
また消える。
灯りが戻る。
床の泡が脈打つ。
「触るな!」
背後から声が飛んだ。
ハンスだった。
続いてクルト、グレタ、リーネが駆け込んでくる。
最後にマルコ。
誰も事情を聞かず、まず足元を見た。
それが錫の塔らしい。
「樽は?」
クルトが尋ねた。
「呼吸してる」
リーネが答えた。
「樽が呼吸するか」
「してるから言ってるの!」
ごぼり。
クルトの顔から冗談が消えた。
五十前後の男で、土と酵母の臭いが染みついた上着を着ている。
農業、醸造、防腐を担当する旅職人。
クロエの元上司。
その情報を思い出した瞬間、エルサは少し不愉快になった。
今はクロエのことを考える場合ではない。
「仕込みはいつ?」
クルトが聞く。
「今朝」
リーネが答えた。
「酵母は?」
「三番棚の常用株。昨日の親種から」
「水」
「北井戸」
「麦」
一瞬、誰も答えなかった。
エルサが包んだパンを持ち上げる。
「今日届いた南部小麦」
クルトの目が細くなった。
「パンにしたら、金属みたいな苦味がありました」
「生でも?」
「薄く」
「黴は」
「なし」
「虫」
「なし」
「臭い」
「普通」
「検査印」
「全部あるわ」
クルトは舌打ちした。
「全部あるのが一番厄介だな」
エルサは少しだけ彼への評価を上げた。
同じことを考える人間は信用しやすい。
全面的に信用してよいという意味ではない。
「扉を開ける」
クルトが言った。
「危険です」
「開けなきゃ抜けない」
「何を?」
「圧を」
「樽の栓を直接抜くつもり?」
「このままなら勝手に抜ける。樽板ごとな」
木が軋む。
金属の輪が、きん、と鳴った。
反論する時間は少ない。
「全員、壁際へ」
マルコが言った。
声が低い。
普段の飯炊き親父の調子ではなかった。
「ハンス、盾板。グレタ、毛布。リーネ、厨房側を閉めろ。火と灯りを落とせ。エルサ、お前は下がれ」
「記録を取ります」
「爆発したら紙もお前も残らん」
「だから、爆発する前を残すのよ」
マルコがこちらを見る。
呆れと計算が混ざった目だった。
「壁際から動くな」
許可と解釈した。
ハンスが厚い木の盾板を運び込む。
本来は大鍋を移動する際、熱と飛沫を防ぐ道具らしい。
クルトと二人で扉の前へ立てる。
グレタは濡らした毛布を用意した。
泡へ直接触れず、床の流れを囲む。
リーネが厨房側の扉を閉め、掛け金を下ろす。
「灯り、落とすよ!」
声の後、壁の錫灯が消えた。
薄暗くなる。
小窓から入る昼の光だけが残った。
樽の音が止まる。
ごぼり。
来ない。
全員が黙る。
一呼吸。
二呼吸。
三呼吸。
「止まった?」
リーネが小声で言った。
その瞬間、廊下の遠くで別の灯りがついた。
壁の細い錫管を伝い、淡い光が走る。
ごぼり。
床の泡が光った。
「やっぱり回路だ」
ハンスが言った。
「回路が酒を発酵させるわけがない」
クルトが返す。
「温度は送る」
「熱だけなら、こんな光り方はしない」
「じゃあ何だ」
「それをこれから見る!」
言い争っている場合ではない。
ただし、専門家同士は危険な時ほど、自分の専門から話す。
ハンスには回路と熱。
クルトには麦と酵母。
二人とも間違っていない。
二人とも、それだけでは足りない。
前の鍋の時と同じだった。
「樽の中身を捨てる前に、少量だけ取れない?」
エルサが言った。
クルトが振り返る。
「樽が割れそうだって話を聞いてたか?」
「聞いているわ。だから、正面から栓を抜かず、上の逃がし管を使う」
醸造樽の上部には、発酵中の余分な気体を抜く細い管がある。
通常なら水受けへつながり、泡だけが戻らない構造になっている。
「逃がし管が詰まってる」
クルトが言った。
「何で?」
「泡だ」
「なら、管を切る」
「切った瞬間に吹くぞ」
「毛布で受ける」
グレタが口を挟んだ。
「捨て樽を持ってきな。細管ごと受ける」
判断は早かった。
クルトが一瞬迷い、頷く。
「ハンス、樽輪を押さえろ。マルコ、扉を少しだけ」
「少しってのは信用ならんな」
「腕一本分」
「誰の腕だ」
「お前の太い方」
「両方太い」
緊迫した状況で、どうでもよい会話を挟む。
恐怖を散らすためか。
単にこの人たちがいつもこうなのか。
エルサにはまだ分からない。
マルコが盾板の陰から扉の掛け金へ手を伸ばす。
ゆっくり外す。
扉が内側から押されていた。
隙間が開いた瞬間、白い泡が床へ溢れた。
「閉めるな!」
クルトが叫ぶ。
閉めれば圧が戻る。
開ければ泡が来る。
実に選択肢が悪い。
ハンスが盾板で泡を受け止める。
グレタとリーネが濡れ毛布を床へ広げ、流れを排水溝側へ誘導する。
泡は軽いのに、妙に粘った。
普通の麦酒の泡なら、木板へ当たれば弾ける。
これは形を保ったまま、まとわりつく。
錫灯の遠い明滅に合わせ、青白く脈打つ。
エルサは壁際で記録板へ書いた。
灯り消灯時、活動低下。
遠隔回路点灯時、再活性。
泡、白色。
回路付近で青白く発光。
金属臭。
時間。
回数。
人は恐怖を数字へ変えると、少しだけ扱いやすくなる。
少なくともエルサはそうだった。
扉が腕一本分開いた。
内部が見える。
中央に据えられた大樽。
木の腹は明らかに膨らんでいる。
鉄輪が食い込み、樽板の継ぎ目から泡が噴き出していた。
周囲には小樽と温度管。
床を這う錫の刻印。
その刻印の一部だけが、泡の下で光っている。
黒いものは見えない。
それでも、保温鍋の床下で見た黒い根を思い出した。
見えないだけで、下にあるのかもしれない。
「上だ!」
クルトが言った。
樽の上部にある逃がし管は、泡で完全に詰まっていた。
白い塊が管の口を塞ぎ、呼吸するように膨らんでいる。
ハンスが長柄の鉤を差し込む。
引く。
動かない。
もう一度。
泡の塊が千切れた。
次の瞬間、鋭い音がした。
ぱん。
小さな破裂。
逃がし管の先が外れ、泡と気体が噴き出した。
盾板へ白い飛沫が叩きつけられる。
甘い麦の匂い。
酵母。
酸。
その奥に、焼けた鉄のような臭い。
クルトが切った管を捨て樽へ向ける。
泡が流れ込む。
ごぼごぼと音を立てながら、樽の膨らみが少しずつ戻っていく。
鉄輪の軋みが弱まる。
誰も動かない。
まだ終わっていない。
泡は出続ける。
通常の発酵で生じる量ではない。
「仕込み量は?」
エルサが聞いた。
「半樽」
クルトが答えた。
「今、出た泡だけで?」
「四分の一樽」
「中身が増えた?」
「酒が泡になったなら減る」
「減ってるように見える?」
クルトは樽側面の目盛りを見る。
液量を確認するための細い浮標。
泡が多すぎて見えにくい。
布で拭う。
目盛りは、仕込み時より上にあった。
「増えてる」
リーネが呟いた。
「水を足した?」
クルトの声が低くなる。
「足してない」
「誰かが?」
「鍵は俺とルッツだけだ」
「では、液体が増えたのではなく、内部へ何かが溶け込んで体積を押し上げている?」
エルサは言った。
全員がこちらを見る。
正確な説明ではない。
仮説ですらない。
ただ、見えていることを言葉へしただけだった。
クルトは柄杓で捨て樽の泡を少量掬った。
「触らないで」
エルサが言う。
「味を見ないと分からん」
「前の事故で何を学んだの?」
「食い物は食わなきゃ分からん」
「死者は感想を残せないわ」
「一口で死ぬなら、もう樽の近くにいる時点で同じだ」
クルトは泡へ鼻を近づけた。
匂いを嗅ぐ。
舌はつけなかった。
最低限の理性はある。
「酸っぱくない」
「腐敗臭も?」
「ない。酵母は動いてる。むしろ元気すぎる」
「酵母が原因?」
リーネが聞く。
クルトは首を振った。
「酵母は食ったものを吐いてるだけだ」
「何を?」
「糖と、ほかに中にあったもの」
エルサは苦いパンを開いた。
「腐ったのではない」
自分の言葉が、静かな醸造所へ落ちた。
「もともと中にあったものが、泡になって出ただけ」
クルトがエルサを見る。
目が変わった。
下働きを見る目ではない。
何かを確認する目だった。
「誰に教わった」
「誰にも」
「醸造を知ってる口だ」
「知識ではなく、見たままよ。普通の小麦は苦くない。普通の麦酒は灯りに合わせて光らない。酵母だけが違うなら、パンまで苦くならない」
クルトはしばらく黙っていた。
やがて柄杓の泡を小さな陶器へ移す。
通常小麦で仕込んでいた別樽からも、同じ量の泡を取る。
二つを並べる。
一方は白い。
一方も白い。
外見だけなら同じ。
遠い錫灯が明滅する。
問題の泡だけが、淡く青く光った。
通常の泡は変わらない。
リーネが息を呑む。
ハンスは床へ屈み込んだ。
「ここだ」
樽の下から流れ出した泡が、床刻印の一箇所で強く光っている。
前の事故で封鎖した回路とは別系統。
ただし、古い補助線が地下でつながっている可能性がある。
ハンスが工具の柄で床を軽く叩く。
一箇所だけ、音が違った。
空洞。
「床下を開ける?」
オットーがいない。
フランツも外出中。
魔導具の担当なしで床を開けるのは危険だ。
「今日は開けない」
マルコが決めた。
「樽を隔離。問題の小麦も封鎖。厨房、パン、麦酒、全部止める」
「全部?」
グレタが眉を寄せる。
「十二袋全部」
「今夜の食堂は?」
「通常麦の残りで回す」
「足りないよ」
「カルトッフェルを増やせ」
「また肉が減る」
「肉はもうない」
実に悲しい現実だった。
「酒場は?」
「薄麦酒だけ出す。足りなきゃ水を沸かせ」
「客が怒る」
「爆発した樽を飲ませるよりましだ」
マルコの判断は早い。
ただし、損失も早い。
小麦十二袋。
試験仕込み一樽。
営業制限。
再調査。
また肉が遠ざかる。
エルサは記録板を握り直した。
「過去の記録を見たい」
「何の」
マルコが聞く。
「同じような異常発酵」
「あると思うか?」
「ないなら確認して終わり。あるなら、今回だけの問題ではない」
クルトが泡の陶器を見つめた。
「昔、一度あった気がする」
全員の視線が集まる。
「いつ?」
マルコが尋ねた。
「俺が地方へ出てた頃だ。五年か、六年前」
「誰が記録した」
クルトはすぐ答えなかった。
答えを迷っているのではない。
名前を口にすることをためらっている。
エルサは嫌な予感がした。
今日だけで二度目だった。
予感が多すぎる。
「前の醸造見習いだ」
クルトが言った。
「記録は残したはずだ。南部小麦の苦味と、過剰発泡」
エルサの指が記録板へ食い込む。
「名前は」
聞かなくても分かっていた。
それでも、聞かないという選択はできなかった。
クルトは答えた。
「クロエだ」
床の泡が、もう一度青白く脈打った。




