第6話 三日分の雇用
三日目の朝、エルサは自分の解雇通知を読んでいた。
正確には、解雇通知ではない。
豊穣の酒場の入口へ貼り出す、営業再開の告知だった。
> 豊穣の酒場における一時的な体調不良について
>
> 原因は、旧式保温鍋の経年劣化による魔力漏出と判断されました。
> 該当設備は停止・撤去し、鉄の塔および銅の塔の確認を受けています。
> 発症者は銀の塔にて治療中であり、重篤な状態にはありません。
> 食材および飲料に毒物、腐敗、意図的な異物混入は確認されませんでした。
>
> 安全確認後、豊穣の酒場は営業を再開いたします。
>
> 錫の塔
文章は短い。
読みやすい。
嘘も書かれていない。
そのため、なお悪かった。
エルサは紙を持ったまま、厨房の奥にある小さな事務室へ入った。
部屋には机が一つ。
棚が三つ。
丸椅子が二脚。
壁へ古い伝票、醸造記録、献立表、修理依頼書が留められている。
その中央で、マルコが塩漬けニシンを食べていた。
朝食ではない。
交渉前に腹を満たしておこうという、実に賢明で腹立たしい判断だった。
「重篤な状態にはありません?」
エルサは紙を机へ置いた。
マルコはニシンの骨を外す。
「死んでない」
「ゲルトは帰宅予定者の欄にいなかった」
「死んでない」
「退院時期未定」
「重篤とは書いてない」
「銀の塔が書いていないだけでしょう」
「だから、こっちも書かない」
マルコは骨を皿の端へ置いた。
木皿だった。
昨日までなら、同じ皿を銀器のように磨こうとしてリーネに止められていたかもしれない。
今は、油染みと木目の違いくらいは分かる。
大した進歩ではない。
人間は三日で王太子妃候補から皿洗いへ落ちることはできるが、皿洗いから熟練者にはなれない。
「旧式保温鍋の経年劣化と判断された、とある」
エルサは告知文を指で叩いた。
「間違いか?」
「それだけではない」
「入口へ貼る紙に、床下の旧生活回路、帰還線の逆流、錫接合部の粉化、黒い根状結晶、料理への余剰魔力蓄積の可能性まで書くのか?」
「書かなくていい。ただし、経年劣化だけで終わらせるのは駄目」
「客が読みたいのは、もう食って平気かどうかだ」
「それなら、保温鍋を撤去したから当面の危険は低い、と書けばいい」
「同じ意味だ」
「違う。あなたの文章だと、古い鍋を捨てれば終わったように見える」
「客にとっては終わった」
「錫の塔にとっては?」
マルコは返事をしなかった。
塩漬けニシンを黒パンへ載せる。
魚の塩気と油が、乾いたパンへ染み込む。横には薄く切ったタマネギ。事故前なら、少量の豚脂かチーズも付いたのかもしれない。
食卓から肉が消えている。
事故の治療費。
休業損失。
修理費。
すでに生活へ出ている。
だからこそ、マルコが早く酒場を再開したい理由も分かった。
分かることと、同意することは別だった。
「内部記録は残す」
マルコが言った。
「どこに?」
「塔内」
「誰が読める?」
「必要な奴」
「誰が必要を決める?」
「俺だ」
銀の塔と同じ答えだった。
持ち帰った側が必要を決める。
塔長が必要を決める。
記録があることと、使えることは違う。
「昨日の告知板へは、原因不明の黒色異物について一行もない」
「外へ出すな」
「なぜ?」
「分からないからだ」
「分からないものほど、共有すべきでしょう」
「分からないものを外へ出すと、分かった顔をした奴が勝手な名前をつける」
マルコの声から、少しだけ軽さが消えた。
「黒い根を『呪い』と呼ぶ奴が出る。錫の塔の鍋で人が魔物になったと言う奴も出る。銀の塔が患者を隠した、王家が人体実験をしてる、シシーリアの怨霊が戻った――王都じゃ、今日の夕方までに十種類は作れる」
最後の一つは、すでに商品化されても不思議ではない。
自分の怨霊なら、本人の許可なく活動を始めている可能性が高かった。
「だから黙る?」
「だから、出す相手を選ぶ」
「あなたが?」
「塔長だからな」
「昨日まで役職を隠していた人が?」
「聞かれなかった」
「その返しを便利に使いすぎよ」
マルコは黒パンを噛んだ。
エルサは机の上に置かれた別の紙へ目を向けた。
外向け告知とは別。
鉄の塔への修理報告。
銅の塔への回路異常報告。
銀の塔への患者発症条件記録。
王都衛兵隊への事故概要。
それぞれ、内容が違う。
鉄へは金属の粉化。
銅へは帰還線の逆流。
銀へは症状と摂取条件。
衛兵へは意図的混入なし。
一つの事故が、相手の担当ごとに切り分けられている。
必要な情報だけを渡す。
合理的。
そして、再び壁を作る方法でもある。
「この四枚、全部合わせて読める人は?」
エルサが聞いた。
「俺」
「ほかには?」
「フランツが一部。クルトも一部。グレタは食材と営業。ハンスは設備」
「全部は?」
「俺」
一人で抱えている。
工房盟約の最初の約束に、正面から反している。
困った時は、一人で抱えるな。
もっとも、エルサがその文言を知っているのは、貴族教育で建国史を読まされたからだ。錫の塔が実際にどこまで盟約を重く見ているかは分からない。
壁へ目を向ける。
古い紙の隅に、煤で汚れた標語があった。
> 知ったことは、次の者へ残せ。
書かれている。
守られているかは別として。
「残している」
マルコが言った。
エルサの視線を読んだらしい。
「紙には」
「読めなければ、残していないのと同じよ」
「全員に全部を読ませれば、仕事が止まる」
「全員でなくていい。少なくとも、情報をつなぐ役がもう一人いる」
「俺が倒れた時のため?」
「太りすぎで?」
「失礼だな」
「保温鍋よりは新しいでしょうけれど、壊れない保証はないわ」
マルコはしばらくエルサを見た。
その目は、排水溝脇で初めて会った時と同じだった。
服。
手。
足。
視線。
言葉。
使える箇所と壊れた箇所を測る目。
「それで」
彼は言った。
「お前は何が欲しい」
ようやく本題だった。
今日で三日契約が終わる。
残るなら、新しい条件が必要。
追い出されるなら、昼までに準備を始める必要がある。
現在の資産。
価値の落ちたアルト金貨一枚。
死者の指貫。
見込み給金十二ミント。
借り物の服。
粗末な外套。
黒い根に関する断片的知識。
王都で最も目立ってはいけない顔。
これで宿と食事を確保するのは難しい。
錫の塔へ残る価値は高い。
だからこそ、弱みを見せてはいけない。
「先に、あなたの条件を」
「一週間」
マルコは答えた。
「短い」
「昨日までは三日だった」
「仕事内容は?」
「厨房下働き。皿洗い、掃除、皮むき。必要な時だけ記録」
「給金」
「一週間四十ミント。食事と寝床込み」
「安い」
「皿洗いとしては普通だ」
「記録を含むなら安い」
「記録は必要な時だけ」
「事故は、必要になる時を選んで起きないわ」
「毎日、事故が起きたら潰れる」
「毎日、記録を整えなかった結果が昨日でしょう」
マルコは机へ肘をついた。
「お前は何ができる」
「条件を整理できる」
「皿は割る」
「一枚だけ」
「皮は厚い」
「最初より薄い」
「配膳は嫌がる」
「身元が危険だから」
「客へ死にたいなら好きにしろと言う」
「あれは状況上、必要だった」
「衛兵を怒らせる」
「相手の理解が遅いの」
「鉄と銅も怒らせた」
「先に喧嘩していたでしょう」
「銀まで怒らせた」
「患者を返さない方が悪い」
数えるほど不利になる。
エルサは口を閉じた。
マルコの指摘は事実だった。
三日間で皿を壊し、客へ暴言を吐き、衛兵と他塔の技師へ喧嘩を売り、銀の塔の隔離へ疑念を向けた。
履歴だけ見れば、雇用継続より出入り禁止が妥当である。
「でも、役に立った」
エルサは言った。
「誰が配膳したかだけで犯人にされるのを止めた。発症者と無症状者を分けた。食事、酒、器、席、時刻を並べた。リーネとミナとハンスが持っていた情報を一つにした。銅の塔の確認書から、危険物の単独持ち帰り条項を見つけた。外向け記録と内部記録が食い違えば、後で責任転嫁に使われることも分かる」
「自分の価値をよく喋るな」
「黙っていたら、あなたが安く買うでしょう」
「商人だな」
「元よ」
口に出した後で、少し早かったと気づいた。
元商人。
どこの。
なぜ元なのか。
マルコは追及しない。
ただ、目の奥へ記録した。
「一か月」
エルサは言った。
「長い」
「一週間では、帳簿と記録の所在を覚えるだけで終わる」
「覚えてどうする」
「必要な記録をつなげる」
「塔の中を探るな、という契約だった」
「仕事として見るなら探るとは言わない」
「言い換えが上手い」
「契約とは、言い換えを減らすためにあるのよ」
「給金は?」
「一か月二百四十ミント」
マルコが笑った。
声を上げて。
廊下の向こうで誰かが振り向く気配がした。
「高い?」
「厨房下働きの倍以上だ」
「厨房下働きと記録補助。事故調査時の整理。外部提出文書の確認」
「塔長の秘書にでもなる気か」
「嫌よ。あなたの予定まで管理したら、食事の回数しか書くことがないでしょう」
「失礼だな。酒も飲む」
「では、なおさら嫌」
エルサは指を折った。
「一日三食。下働き部屋。作業着貸与。業務上の負傷は治療費全額」
「半額」
「事故現場へ立ち会わせるなら全額」
「自分から首を突っ込んだ場合は?」
「業務に必要なら全額」
「誰が必要を決める」
「事前はマルコ。緊急時はエルサ。事後に記録」
「自分の判断で怪我して、全額請求できるな」
「不適切なら減額理由を書けばいい」
「書類が増える」
「事故より安い」
マルコの笑みが薄くなる。
彼は計算している。
エルサを置く費用。
置かない場合の損失。
秘密を知った人間を外へ出す危険。
王都で捕まる可能性。
黒い根とジャックをつなげたこと。
使える頭脳。
面倒な性格。
皿一枚。
すべてを。
「内部記録閲覧権」
エルサは続けた。
「駄目だ」
即答。
「なぜ?」
「見せられないものがある」
「全部とは言っていない」
「どこまで」
「今回の保温鍋事故に関連する設備、修理、食材、患者、過去の類似事例。錫器の粉化。旧生活回路。銀の塔とのやり取り」
「最後はうちの記録じゃない」
「錫の塔が持つ範囲」
「黒い根も?」
「当然」
「持ち出し禁止」
「写しは塔内保管。私用の持ち出しはしない」
「人へ話すな」
「業務上必要な相手を除く」
「誰が必要を決める」
「原則マルコ。緊急時はエルサ。事後記録」
「それが好きだな」
「あなたが全部を自分で決めたがるからよ」
マルコは指で机を叩いた。
一度。
二度。
三度。
厨房から、包丁の音が聞こえる。
規則的。
カルトッフェルか、カブを切っている。
酒場はまだ閉じている。
客の声はない。
その分、厨房の音が広く響いた。
「外向け報告には口を出すな」
「確認はする」
「決定は俺」
「反対意見は内部記録へ残す」
「入口へ勝手に貼るな」
「しない」
「他塔の書類へ勝手に追記するな」
「不利なら止める」
「止めて、俺へ回せ」
「緊急時は?」
「止めろ。署名はするな」
「事後記録」
「書け」
少しずつ条件が重なる。
契約になる。
「給金は一か月百八十ミント」
マルコが言った。
「二百二十」
「二百」
「皿の修理代は別?」
「三日契約分から引く。新契約へ持ち越さない」
「二百十」
「二百」
「記録作業中は厨房作業を免除」
「暇な時は皿を洗え」
「記録がなくても整理はある」
「食事前後は厨房優先」
「繁忙時だけ」
「毎日繁忙だ」
「では、朝の皿と夕食の下処理。昼は記録」
「酒場再開後は配膳も」
「嫌」
「雑用だ」
「身元露見の危険手当」
「下働きに危険手当?」
「私だけ危険が違う」
「自分から有名になったんだろ」
「なっていない。勝手に有名にされたの」
「なっていない。勝手に有名にされたの」
口が滑った。
また。
マルコは何も言わない。
知っているからだ。
シシーリアが誰か。
その名が今、木製人形や赤葡萄酒になって売られていることも。
「配膳は、必要時だけ」
マルコが譲る。
「頭巾とフードを認める」
「客前でフードは目立つ」
「なら煤をつけろ」
「普段からついていると言われてる」
「便利だな」
「喜ばしくない」
「一か月二百ミント。厨房下働き兼記録補助。食事三回。寝床。作業着。業務上の負傷は、指示された仕事なら全額。独断なら半額。内部記録は担当範囲だけ閲覧。持ち出し禁止。外向け発表の決定は俺。異論は内部へ残す」
「過去を聞かない」
「業務に必要がなければ」
「塔外で拘束された場合」
「助けない」
「塔の仕事中なら?」
マルコが黙る。
ここが重要だった。
一か月も働けば、塔外へ出される可能性がある。
材料の買い付け。
他塔との連絡。
修理同行。
外で捕まれば終わる。
「塔の命令で外へ出た場合、錫の塔は雇用主として身元保証と救出交渉を行う」
エルサは言った。
「無理だ」
「なぜ?」
「お前の身元を保証できる人間がいない」
「エルサとして雇っているでしょう」
「エルサが何者か聞かれたら?」
「錫の塔の記録補助」
「その前は?」
「知らない」
「王都衛兵は納得しない」
「煙突の免責を盾にすれば?」
「塔内だけだ」
「なら、塔外へ出さない」
「仕事にならん」
「では保証して」
「面倒だな」
「知ってる」
ジャックと同じ言葉。
今度は自分から使った。
マルコは一瞬、笑いそうになった。
「塔の業務中に拘束された場合、錫の塔が職務上の行動だったと証明する。救出ではなく、返還交渉」
「返還期限」
「決められん」
「遅滞なく」
「書類の言葉を使うな」
「契約でしょう」
「遅滞なく、可能な範囲で」
「可能な範囲、は削除」
「無理な時は無理だ」
「無理と判断した理由を記録」
「本当に記録が好きだな」
「人は後から、都合よく忘れるから」
その言葉で、部屋の空気が少し変わった。
エルサは自分が何を思い出したのか、口にはしなかった。
法廷。
証言。
見たはずの人間。
署名したはずの帳簿。
誰も嘘をついていない顔。
都合よく整った記憶。
マルコも聞かなかった。
彼は紙を一枚取り出した。
三日契約に使った板ではない。
今度は紙。
少なくとも、一か月の契約には紙を使う価値があるらしい。
「書け」
「私が?」
「条件を一番覚えてる」
「雇用主が書きなさい」
「字が小さい」
「読めないほど腹が出たの?」
「昨日より少し」
仕方なく、エルサは座った。
羽ペンを取る。
インク壺。
紙。
三日ぶりに持つ、まともな筆記具。
指へ馴染む。
皿より軽い。
カルトッフェルの皮むき包丁より扱いやすい。
自分の手へ戻ってきた道具だった。
契約条件を書く。
雇用期間、一か月。
職務、厨房下働き兼記録補助。
給金、二百ミント。
食事、朝昼夕。
寝床、女性下働き部屋。
作業着貸与。
修理実費。
業務上負傷。
記録閲覧範囲。
持ち出し禁止。
外向け発表。
異論の保存。
塔外業務中の身元保証。
拘束時の返還交渉。
過去の不問。
書いているうちに、文章の癖が出る。
責任主体を先に置く。
期限を明記する。
例外を別項目にする。
ゼーヴェル家で叩き込まれた書き方。
見られれば、分かる人間には分かる。
エルサは途中で表現を崩した。
西の商家式ではなく、王都の一般的な契約文へ寄せる。
マルコは何も言わない。
だが、見ている。
「雇用主」
紙の最後へ書く。
> 錫の塔長 マルコ・ピューター
今度は役職も姓もある。
「これでよい?」
マルコは受け取り、目を細めた。
「字が小さい」
「読んで」
「読める」
「なら文句を言わない」
彼は最後まで読む。
途中で二か所、指を止めた。
「ここ。緊急時の閲覧は塔長不在時に限る」
「遅い」
「勝手に倉庫へ入られるよりましだ」
「封印庫は除外すると書く」
「それならいい」
「こちら。塔外での身元保証は、塔の正式な業務札を持つ場合だけ」
「札を出し忘れたら?」
「出る前に確認しろ」
「事故時は?」
「緊急札をグレタかフランツが出す」
「マルコ不在時も?」
「二人の連署」
合理的。
エルサは修正した。
マルコが署名する。
大きく、癖の強い字。
続いて、紙をエルサへ回す。
署名欄。
一か月前――ではない。
たった三日前まで、彼女はシシーリア・フォン・ゼーヴェルと書いていた。
その署名は国家反逆の帳簿へ偽造され、処刑の根拠になった。
署名とは本人の意思を示すものだと教えられた。
実際には、本人が書いていなくても、十分本人を殺せる。
エルサ。
炭筆ではなく、インクで書く。
最初の契約板より、字が自然だった。
「一か月か」
マルコが言った。
「短い?」
「お前が言うと長くなりそうだ」
「一か月後に追い出すなら、前日に通知して」
「そこまで書くか?」
「書く」
追記する。
契約終了の前日通知。
マルコが呆れている。
しかし止めない。
「これで成立」
エルサは言った。
「まだだ」
「何が?」
マルコは机の引き出しを開けた。
小さな革袋を出す。
机へ置く。
硬貨の音。
「三日分」
エルサは袋を開いた。
ミント銅貨。
十二枚。
十五ミントから、裂けた錫皿の修理費三ミントを引いた額。
契約どおり。
少ない。
驚くほど少ない。
王宮にいた頃なら、髪飾りを留める細い銀線にも足りない。
西の商家では、港湾労働者の日当を帳簿の一行として見ていた。
今は、その一枚一枚が朝食、寝床、石鹸、縫い糸へ変わる。
自分の三日分。
皿を割り、皮を厚く剥き、客に怒鳴り、記録を作った対価。
「数えるか?」
マルコが聞く。
「当然」
一枚ずつ。
十二。
間違いない。
「信用がないな」
「確認と不信は別よ」
「便利な言葉だ」
「便利だから使ってる」
ジャックの言葉まで借りた。
借り物が増えていく。
名前。
服。
寝床。
言葉。
死者の時間。
人間は、すべてを自分だけで作って生きているわけではないらしい。
認めるのは少し不愉快だった。
硬貨を袋へ戻す。
内側の隠し場所へしまう。
アルト金貨一枚。
十二ミント。
指貫。
資産が増えた。
微々たる額。
それでもゼロではない。
「それから」
エルサは告知文を持ち上げた。
「ここを直す」
「まだ言うのか」
「旧式保温鍋の経年劣化に加え、床下回路の異常が確認された。該当区画を停止し、再発防止の確認を進めている」
「長い」
「一行増えるだけ」
「客は読まない」
「読める人が読んで、読めない人へ話す」
「黒い根は?」
「外へは書かない」
マルコが少し目を細めた。
譲歩したと見たのだろう。
違う。
交換条件だった。
「内部記録へ原状を残す。黒い根を含める。銀の塔、鉄の塔、銅の塔へ渡した文書の写しも同じ場所へ保管。勝手に書き換えた場合、訂正前を残す」
「誰が管理する」
「記録補助」
「雇ったばかりの?」
「契約したばかりの」
マルコは笑った。
「分かった」
「本当に?」
「ただし封印庫の鍵は渡さない」
「閲覧時に立会人」
「フランツか俺」
「グレタも」
「グレタは忙しい」
「ならリーネ」
「読めるのか?」
「これから覚えればいい」
リーネは注文板を読める。
簡単な字も書ける。
数字も理解する。
正式な記録文は難しいかもしれない。
だが、現場と記録をつなぐなら、エルサ一人よりよい。
一人で抱えるな。
「リーネを巻き込むな」
「本人に選ばせる」
「嫌がるぞ」
「私も嫌よ」
「なら相性がいい」
同意したくなかった。
◇
契約成立後、エルサの最初の仕事は皿洗いではなかった。
告知文の書き直し。
次に、事故記録の整理。
発症者一覧。
無症状者一覧。
注文板の写し。
座席図。
鍋の分解記録。
鉄、銅、銀、衛兵隊へ渡した文書。
黒い根の封印記録。
ゲルトの隔離通知。
すべてへ日付と作成者をつける。
変更箇所には線を引き、消さずに残す。
紙が足りないため、一部は板へ書き、重要部分だけ紙へ写す。
贅沢な記録方法ではない。
だが、誰がいつ何を知ったかは残る。
作業を始めて半刻ほどで、リーネが事務室へ顔を出した。
「グレタが、野菜を手伝えって」
「今、記録中」
「厨房優先って契約したんでしょ」
「繁忙時だけ」
「昼の仕込みは繁忙」
「毎日でしょう」
「マルコもそう言ってた」
あの男は、契約成立直後から都合のよい解釈を始めている。
予想どおりだった。
エルサは羽ペンを置いた。
「どこまで?」
「カルトッフェル二籠」
「一人で?」
「私と」
「あなたも?」
「グレタが、記録係が芋も剥けないと思われたら困るって」
誰が思うのか。
おそらくグレタ本人である。
厨房へ行く。
酒場が閉まっているため、普段より静かだった。
それでも昼食は必要だ。
職人は働く。
患者が出ても、塔全体が食べることを止めるわけにはいかない。
大鍋は使えない。
代わりに小さな鉄鍋が三つ並んでいる。
火の番をするハンス。
根菜を切るグレタ。
薄い粥を混ぜるミナ。
オットーは壊れた器具を選別している。
肉はない。
カルトッフェル。
カブ。
タマネギ。
少量の乾燥キノコ。
塩。
昨日までより、明らかに粗末だった。
事故が食卓へ残した請求書。
「座りな」
グレタが丸椅子を足で押した。
エルサとリーネは向かい合って座る。
籠のカルトッフェルを一つ取る。
土が乾いて、表面へ薄くこびりついている。
刃を寝かせる。
皮を薄く。
三日前よりは、手が動く。
まだ途中で厚くなる。
芽を深く抉る。
横でリーネが速い。
皮が長く、細くつながって落ちる。
「契約、延びたんだって」
「一か月」
「長い」
マルコと同じことを言う。
「嫌?」
「別に」
「それは歓迎?」
「違う」
「残念」
「でも」
リーネは手を止めずに言った。
「昨日の板は、分かりやすかった」
発症者と無症状者を並べた表。
席の図。
詳しい記録の下へ書いた短い説明。
鍋だけが壊れたのではない。
床下だけが壊れたのでもない。
それぞれの小さな異常が重なり、人を倒した。
「ありがとう」
エルサは言った。
リーネが顔を上げた。
「今、普通にお礼を言った?」
「言うわよ」
「皿を割った時は、あんなに謝らなかったのに」
「学習したの」
「三日で?」
「皿洗いより早く覚えた」
「皿洗いも覚えて」
「努力する」
リーネは少し笑った。
ほんの少し。
すぐにカルトッフェルへ視線を戻す。
完全に信頼されたわけではない。
当然だった。
三日しかいない。
偽名。
過去不明。
元お嬢様らしい手。
妙に契約と記録へ詳しい。
クロエを嫌う。
衛兵へ喧嘩を売る。
十分に怪しい。
それでも、昨日までより一段だけ、隣へ座る距離が近い。
「記録を手伝って」
エルサが言った。
リーネの手が止まる。
「嫌」
即答。
「まだ内容を言っていない」
「字が多い」
「注文板は読めるでしょう」
「料理の数だけ」
「客の名前も覚えている」
「常連だけ」
「誰がどこへ座り、何を頼んだか、私より知ってる」
「だから何」
「私は記録の形を作れる。でも、現場を全部知っているわけじゃない」
リーネは疑うように見る。
「エルサが私に教えるの?」
「あなたが私に教えるのよ」
「何を」
「現場で必要なこと。私はそれを、あとで読める形へする」
リーネはしばらく黙った。
自分が教える側だと言われ、悪い気はしないらしい。
「字は?」
「必要なら教える」
「クロエ様は教えるの上手かった」
刃が少し深く入った。
白い身が削れる。
リーネが見た。
「厚い」
「今のはあなたのせい」
「何で」
「名前を出したから」
「一か月もいるなら、慣れて」
正しい。
クロエという名は、王国中から消えない。
むしろ王太子婚約者として増えていく。
そのたびにカルトッフェルを半分にしていたら、食料が尽きる。
「嫌な女だと思う?」
リーネが聞いた。
「クロエを?」
「私を」
意外な質問だった。
エルサは少し考えた。
「生意気」
「それは知ってる」
「説明が足りない」
「聞かれなかったから」
「その言い方、本当に嫌い」
「マルコにも言ってた」
「だから嫌なの」
リーネは笑った。
今度は明確に。
エルサも、口元が少し動いた。
笑うほどではない。
ただ、息が抜けた。
三日前、彼女は地下牢から死者の服を着て逃げた。
二日前、排水溝の横で倒れた。
昨日、客が倒れた。
今日、一か月の仕事を得て、カルトッフェルを剥いている。
変化が急すぎる。
人間の心が追いつく速度ではない。
だから、手を動かす。
皮を剥く。
芽を取る。
食べられる部分を残す。
一つ。
二つ。
三つ。
完全に薄くはない。
けれど、最初の半分ほどは捨てていない。
「エルサ!」
厨房の奥からマルコが呼んだ。
返事をするより先に、顔が上がった。
一拍も遅れなかった。
手に持ったカルトッフェルも落とさない。
「何?」
「銀の塔から返事だ。ゲルトの面会は明日から、錫の塔の代表一人だけ許可する」
「誰が行くの」
「お前」
「なぜ私?」
「黒い筋を最初に記録した」
「医師ではないわ」
「記録補助だ」
契約したばかりの職務が、さっそく拡大解釈されている。
「塔外業務札は?」
エルサは聞いた。
マルコが紙札を掲げる。
用意していた。
抜け目がない。
「フードは?」
「貸す」
「危険手当」
「契約にない」
「患者の隔離病棟よ」
「治療費は全額」
「怪我を前提にしないで」
「しない。備えるだけだ」
マルコは笑っている。
エルサはため息をついた。
一か月。
逃げ場所だった塔へ残るには、十分に長い。
この国の異常へ巻き込まれるには、十分すぎる。
「あとで条件を追加する」
「もう契約した」
「変更契約」
「紙がもったいない」
「では板へ書いて」
三日前と同じ会話。
違うのは、今のエルサには十二ミントと、一か月の仕事と、閲覧できる記録があることだった。
大した財産ではない。
だが、明日の朝食も出る。
明後日も。
少なくとも一か月は。
エルサは手元のカルトッフェルへ刃を戻した。
皮を薄く剥く。
一周。
芽だけを深く取る。
籠へ入れる。
リーネが横から確認した。
「まだ少し厚い」
「昨日よりは?」
少女はカルトッフェルを持ち上げ、光へ透かすように眺めた。
「昨日よりは、まし」
十分だった。
シシーリア・フォン・ゼーヴェルは獄中で死んだ。
エルサという女は、錫の塔で一か月雇われた。
英雄になる予定はない。
冤罪を晴らす予定もない。
王宮へ戻る予定など、なおさらない。
ただ、明日は銀の塔へ行き、黒い血管の出た男の記録を取る。
その後は皿を洗い、帳簿を読み、夕食のカルトッフェルを剥く。
生き直すというのは、もっと劇的なものだと思っていた。
実際には、契約書へ署名し、給金を数え、食べられる部分をなるべく厚く残すことらしい。
エルサは次のカルトッフェルを取った。
今度の皮は、最初から最後まで、細くつながって落ちた。




