第5話 黒い根
鉄の塔から来た男は、保温鍋を見るなり舌打ちした。
「錫か」
挨拶より先だった。
男は五十歳前後。背は低いが、肩と腕が異様に太い。焦げ茶色の革前掛けには、細かな鉄粉が星のように付着している。顎髭の先まで煤けていた。
腰には金槌が三本。
大きさが違う。
すべて、普通の人間なら武器として扱う重量に見えた。
「錫の塔に来て、錫を見て驚くの?」
エルサが言う。
男は振り向いた。
「誰だ、この細いの」
「事故の記録を作った新人」
マルコが答えた。
「エルサだ」
「皿洗い?」
「今のところは」
「皿洗いを分解に立ち会わせるのか」
「板を持ってる」
「板なら壁にもある」
「字を書く方だ」
男はエルサの抱えた記録板を見た。
興味を失った顔をする。
「ボリスだ。鉄の塔、鍛造と修理」
ドワーフだった。
近くで見るまで分からなかった。
耳の形や身長ではなく、手を見て気づいた。指が短く太く、爪の間へ煤が染み込んでいる。人間の鍛冶職人より、さらに関節が厚い。
「修理できる?」
エルサが聞く。
「見てからだ」
「壊れている箇所の見当は?」
「見てからだ」
「費用は?」
「見てからだ」
「何でも見てからなのね」
「見ずに値をつけるのは商人だけだ」
「商人でも品は見るわ」
「なら黙って見ろ」
相性はよくなさそうだった。
もっとも、エルサと初対面で相性のよい人間は、これまでほとんどいない。
銅の塔から来た技師は、ボリスとは正反対だった。
痩せた若い男。
髪は油で撫でつけ、青銅色の細い眼鏡をかけている。灰色の外套には銅線の刺繍が入り、指先に汚れがない。
彼は保温鍋へ近づく前に、紙を一枚取り出した。
「作業範囲を確認します」
第一声だった。
「銅の塔が確認するのは、床下の供給回路および鍋台まで。鍋本体、接合金属、内部容器は鉄または錫の管轄です」
ボリスが鼻を鳴らす。
「始まったぞ」
「規定です」
「客が五人倒れてる」
「だからこそ責任範囲を明確にします」
「直す前から、責任を逃がすのか」
「混同を避けるのです」
「同じだ」
若い技師のこめかみが動いた。
「銅の塔、生活回路監査部のアルノーです」
彼はマルコへ紙を差し出す。
「立会責任者の署名を」
マルコは黒パンの欠片を口に入れながら紙を見た。
「ずいぶん早く作ったな」
「依頼を受けた時点で」
「まだ何も見てないのに」
「だから作業前確認書です」
「エルサ」
マルコが紙を渡した。
「読め」
「なぜ私が」
「字が小さい」
「あなた、昨日からそればかりね」
エルサは紙を受け取った。
銅の塔式の定型書類。
作業対象。
責任区分。
損壊時の補償。
調査で得た情報の所有権。
危険物発見時の優先回収権。
最後の項目で目が止まる。
「危険物が見つかった場合、銅の塔が持ち帰ることになっている」
「回路由来なら」
アルノーが答えた。
「原因が分かる前に所有権だけ決めるの?」
「回路を通じて発生した異常物なら、銅の塔に研究優先権があります」
「錫の中から出ても?」
「回路由来なら」
「床から出ても?」
「回路由来なら」
ボリスが笑った。
「便利な言葉だな」
アルノーは無視した。
「署名を」
「しない」
エルサが言った。
マルコが横で笑う。
「俺の代わりに断るなよ」
「署名したら、何が出ても持っていかれる」
「持ち帰って調査しなければ、危険性を判断できません」
「持ち帰った後、結果を錫の塔へ返す義務が書かれていない」
アルノーは紙へ目を落とした。
「必要に応じて共有します」
「誰が必要を決めるの?」
「銅の塔です」
「なら駄目ね」
「あなたに決定権はない」
「ないわ。でも読めと言われたから、不利な条項を指摘しただけ」
エルサは紙をマルコへ返した。
マルコは口元を緩めている。
最初から気づいていた可能性が高い。
わざとエルサへ読ませたのだ。
利用されている。
分かっている。
だが、ここで役に立つことは雇用延長へつながる。
利用される側にも利益があるなら、契約としては成立する。
「危険物は共同封印」
マルコが言った。
「開封は三塔立会い。記録の写しは全部へ渡す。持ち帰りは相談して決める」
「銅の塔の規定にありません」
「錫の塔の規定にはある」
「その規定を見せてください」
「今作る」
アルノーが目を閉じた。
ボリスが声を上げて笑う。
「気に入ったぞ、飯炊き」
「塔長と呼んでくれてもいい」
酒場にいた全員の動きが止まった。
エルサも。
マルコは、何でもないことのように保温鍋の弁へ布をかけていた。
「何と?」
エルサが聞く。
「塔長」
ボリスが答えた。
「こいつ、錫の賢者だぞ。知らなかったのか」
知らなかった。
予想はしていた。
ただの料理人ではない。
現場全体が自然に従う。
他塔へ直接連絡を通す。
衛兵と銀の塔の医師にも遠慮しない。
それでも、塔長本人が排水溝の脇で行き倒れを拾い、アイントプフを運び、黒パンをかじりながら事故処理をするとは思わなかった。
「言ってなかったか?」
マルコが聞く。
「聞いていないわ」
「マルコとは言った」
「姓と役職を言っていない」
「聞かれなかった」
リーネが近くで小さく笑った。
前に自分が言われた言葉だった。
聞かれなかった。
腹立たしい。
エルサはマルコを睨む。
「雇用主の欄に、塔長と書くべきでしょう」
「マルコで契約したから、マルコで払う」
「責任主体が違う」
「三日十五ミントの皿洗い契約で、塔の資産まで担保に取る気か?」
「取れるなら」
「欲張りだな」
「持っていない人間は、欲張らなければ増えないの」
前にも言った。
マルコは覚えていたらしく、目を細めた。
「後で契約板を直す」
「今」
「鍋が先だ」
正しい。
正しいことが腹立たしい。
エルサは諦めた。
アルノーの確認書には、マルコが数行を書き足した。
危険物は三塔共同封印。
記録は共有。
単独持ち出し禁止。
アルノーは露骨に不満そうだったが、患者が出ている以上、調査を拒否して帰るわけにもいかなかった。
署名が三つ並ぶ。
マルコ・ピューター。
ボリス。
アルノー。
エルサは初めて、マルコの姓を知った。
ピューター。
錫そのもの。
偽名のように出来すぎている。
「それ、本名?」
「失礼だな」
「あなたなら塔に合わせて名乗りそうだから」
「お前に言われたくない」
反論できなかった。
◇
保温鍋の周囲へ縄が張られた。
酒場の卓は壁際へ寄せられ、床へ厚い布と浅い木箱が置かれる。外した部品を順番どおり並べるためだった。
ミナは窓を開ける。
冷たい秋の空気が入り、酒場に残っていた煮込みと吐瀉物の臭いを押し流した。
リーネは記録板を持つエルサの隣へ座った。
「何で私も?」
「配膳順を覚えているから」
「もう話した」
「分解中に何か思い出すかもしれない」
「エルサが書けばいいでしょ」
「私は鍋を使っていない」
「私も直せない」
「でも毎日見ている」
リーネは不満そうだった。
それでも帰らない。
ハンスは鍋の弁の前。
オットーという補修見習いの少年も呼ばれていた。年は十五前後。工具箱を抱え、白い粉のついた指を前掛けで拭っている。
「粉に触らないで」
エルサが言う。
オットーが手を止めた。
「いつも触ってる」
「今日から触らないで」
「何で?」
「人が倒れた設備から出た粉だから」
「錫が古くなると出るやつだよ」
「それを調べるの」
「でも毎日出る」
その言葉が引っかかった。
「毎日?」
「古い鍋とか、冷蔵箱とか、湯沸かし器とか」
オットーは指を折る。
「最近は少し多いけど」
「どれくらい最近?」
「春くらい?」
半年ほど。
「どこで?」
「塔の中、いろいろ」
アルノーが口を挟む。
「錫材の品質低下でしょう。銅回路とは関係ありません」
ボリスが鍋の外装を叩いた。
低い音。
「品質は悪くない」
「見ただけで?」
「叩けば分かる」
「数値で示してください」
「お前は鉄を数字で食うのか」
「規格は必要です」
また始まった。
現場の感覚と規格。
皿洗いと同じだった。
ただし今回は、間違えれば人が倒れる。
「外装の錫は正常」
ボリスが言う。
「柔らかさも音も、古いなりだ。問題は継ぎ目だな」
彼は鍋の下部へ顔を寄せた。
白い粉が溜まっている。
細い鉄匙で少量をすくい、黒い板へ落とす。
粉は真っ白ではない。
灰色。
一部に青い光沢がある。
「錫だけじゃない」
「何が混じってる?」
ハンスが聞く。
「接合材。たぶん昔の低温合金だ。鉛は少ない。銀もない。鉄粉が少し」
「毒になる?」
リーネが聞く。
ボリスは鼻を鳴らす。
「食う量による。だが、これだけで五人が同時に痺れるほどじゃない」
「粉が鍋へ入った可能性は?」
エルサが聞く。
「接合部は外側だ」
ハンスが答える。
「普通なら料理に入らない」
「普通なら」
エルサは書く。
接合粉。
外部。
通常は混入しない。
「魔石を確認します」
アルノーが鍋台の小炉へ向かった。
封印札を剥がす。
留め具を外す。
中から、親指ほどの灰色の魔石が出た。
光は弱い。
亀裂なし。
焦げ跡なし。
アルノーは測定用の銅環へ入れる。
環の内側を、淡い青い光が一周した。
「残量四割。出力履歴に急激な放電なし」
「壊れてない?」
リーネが聞く。
「魔石は正常です」
アルノーの声には、わずかな安堵があった。
自分の担当が原因ではないと確認した人間の声。
「供給側の回路は?」
エルサが聞く。
「まだ見ていません」
「魔石が正常なら、鍋も正常?」
「そうは言っていない」
「でも安心した顔をした」
アルノーの目が冷える。
「観察ではなく、記録を」
「観察を記録しているの」
「主観は不要です」
「ハンスの音も主観だった。でも異常の手掛かりになった」
「感覚証言と技術測定を同列にしないでください」
「同列にはしていない。両方書くだけ」
「混乱を生みます」
「片方だけ消す方が困る」
エルサは板へ書き続けた。
魔石は正常。
アルノーは正常と判断。
表情変化。
最後の一つは、さすがに書かなかった。
◇
鍋本体を持ち上げるには、六人必要だった。
底の管を外し、煮込みの残りを封印壺へ移す。
残った汁は冷えて、脂が白く固まり始めている。
昨日までなら食事だったものが、今日は検体と呼ばれる。
名前が変わると、同じ物でも口へ入らなくなる。
鍋を吊り具へかける。
ハンス、ボリス、マルコ、ブルーノ、フランツ、オットーが縄を引く。
ブルーノは夜番の男だった。
普段は居眠りしていると聞いたが、縄を扱う手つきは妙に正確だった。全員の足元を見て、重心がずれる前に指示を出す。
「右、半歩」
鍋が浮く。
「止めろ」
全員が同時に止まった。
元騎士か傭兵。
少なくとも、ただの眠そうな門番ではない。
錫の塔には、過去を聞かない人間が多い。
便利で、不気味だった。
鍋台が露出する。
中央に魔石炉。
周囲へ刻まれた銅の回路。
その外側を、錫の細管が輪のように囲んでいる。
一見、異常はない。
アルノーは膝をつき、回路へ測定針を当てた。
「主線、正常。帰還線、正常。漏出値、許容内」
針が小さく揺れる。
「では回路は問題ない?」
エルサが聞く。
「現時点では」
「事故時も?」
「停止後の測定です。事故時の値ではない」
正直な答えだった。
「履歴は残らないの?」
「この型には記録器がありません」
安価な生活魔導具。
保温するだけ。
事故が起きなければ、履歴など不要とされたのだろう。
「接続を外します」
アルノーが帰還線へ工具を差し込む。
固い。
「錆びてるな」
ボリスが言う。
「銅は錆ではなく緑青です」
「細かい」
「別物です」
「外れれば同じだ」
「同じではない」
二人で工具を奪い合いかける。
マルコが間へ手を入れた。
「壊したら両方の塔へ請求するぞ」
二人とも止まった。
金銭は、専門の壁を越える。
アルノーが留め具を回す。
一度。
二度。
三度目で、乾いた音がした。
留め具が外れる。
同時に、黒いものが床へ落ちた。
細い。
焦げた糸のようだった。
ミナが息を呑む。
オットーが屈みかける。
「触るな!」
エルサとアルノーの声が重なった。
少年が止まる。
床の黒い糸は、指一本ほどの長さ。
艶がない。
植物の根。
焼けた髪。
乾いた血管。
どれにも見える。
ただの汚れではなかった。
先端が枝分かれしている。
エルサの掌が冷えた。
地下牢の石壁。
ジャックの肩。
患者ゲルトの腕。
同じ形。
「何だ、これ」
ハンスが言った。
誰も答えない。
ボリスが長い鋏を取り出した。
黒い糸へ近づける。
先端が触れる直前、黒いものが僅かに縮んだ。
エルサは瞬きをした。
見間違いか。
床の振動。
風。
「動いた?」
リーネが囁く。
彼女にも見えた。
ボリスの顔から笑みが消える。
「箱」
マルコが言った。
ミナが浅い錫箱を持ってくる。
「錫は駄目だ」
アルノーが止める。
「反応する可能性があります」
「何へ?」
「不明です」
「なら何を使う」
「ガラス」
「割れたら?」
「陶器」
「染みたら?」
「銀」
「銀の箱なんかあるか」
マルコは周囲を見る。
専門家が三人いて、誰も容器一つ決められない。
エルサは黒い根のそばに落ちている、割れた土器の欠片を見た。
「大きい保存瓶を二重にする」
全員が見る。
「内側は白い陶器。外側を木箱。隙間へ灰を詰める。蓋は錫を使わず、蝋布で縛る」
「根拠は」
アルノーが聞く。
「ない。だから、反応しにくい材料を重ねる」
「陶器へ染みる可能性」
「内側へ灰紙を敷く。変色すれば分かる」
「灰紙?」
オットーが聞く。
「細かい灰を薄い紙へ挟むの。湿気や油が出れば跡になる」
西の倉庫で使っていた方法だった。
香辛料や薬種の漏れを見つける。
魔導結晶用ではない。
だが、何もしないよりまし。
「それでいく」
マルコが決めた。
「待ってください」
アルノーが言う。
「銅の塔の封印容器を取り寄せるべきです」
「何刻かかる?」
「早くて二刻」
「それまで床へ置くのか?」
「触れないよう隔離を」
「酒場の真ん中で?」
「規定では」
「規定の外に出たから、人が倒れたんでしょう」
エルサが言った。
アルノーが睨む。
けれど反論はしなかった。
保存瓶が用意される。
ボリスが鋏で黒い根を持ち上げる。
軽い。
硬そうに見えたが、途中でしなる。
瓶へ落ちた瞬間、かすかな音がした。
こつん。
植物ではない。
結晶。
陶器へ当たる硬い音。
「根の形をした石?」
リーネが言った。
「石なら動かない」
ミナが答える。
「動いてない」
ハンスが言う。
「動いた」
リーネ。
「床が揺れただけだ」
「止まった鍋も鳴った」
「冷えて縮んだ音だ」
説明はできる。
どれも正しい可能性がある。
それでも、エルサは瓶の中を見た。
黒い結晶の先端が、さきほどより僅かに曲がっているように思えた。
記録へは書かなかった。
観察者が二人いる。
だが確証がない。
代わりに、
> 根状の黒色結晶。植物様の分岐。軽量。可撓性あり。陶器接触時に硬質音。
と書いた。
「可撓性?」
リーネが読めない顔をする。
「曲がるけれど折れないという意味」
「曲がる、でいいじゃない」
「記録だから」
「分かりにくい」
「あとで書き直す」
エルサは少し考え、
> 曲げても戻る。
と横へ追記した。
読める記録の方がよい。
理論は、使えなければ食べられない知識と同じだった。
◇
床下回路を開けるため、酒場の板を数枚外した。
冷たい空気が上がってくる。
湿った石。
油。
古い灰。
金属。
そして、焦げた麦のような臭い。
ミナが言ったものと同じ。
エルサは口布を巻いた。
全員も続く。
床下は、人が這って入れる程度の高さしかない。
青銅の支柱。
銅線。
錫管。
排水路。
厨房からの熱回収管。
異なる時代に増設されたものが、互いへ絡みついている。
設計された設備というより、長年継ぎ足された巣だった。
「誰が入る」
マルコが聞く。
「俺だ」
ハンス。
「回路は私が」
アルノー。
「接合部は俺が見る」
ボリス。
三人が同時に答えた。
穴は狭い。
一人ずつしか入れない。
「困ったら隣へ聞け、か」
マルコが呟いた。
建国期の工房盟約。
今は隣へ入る場所すらない。
「まずハンス」
エルサが言った。
「毎日使っている人が、普段と違う場所を見る。その後にアルノーが回路、ボリスが金属」
「お前が決めるのか」
ボリスが言う。
「順番を提案しただけ」
「理由は悪くない」
マルコが決めた。
ハンスが油灯を持って潜る。
足だけが見える。
しばらく、布が擦れる音。
「白い粉が多い」
声が床下から響く。
「どこ?」
エルサが聞く。
「帰還管の下。九番卓側」
発症者が集中した側。
「ほかは?」
「管が濡れてる」
「水?」
「違う。油でもない」
「臭いは」
「焦げた麦」
「ミナと一致」
エルサは書く。
「奥へ行く」
ハンスの足が消える。
しばらくして、息を呑む音がした。
「何がある?」
「管が黒い」
酒場の空気が固まる。
「戻れ」
マルコが言う。
「待て。見るだけ――」
「戻れ、ハンス」
声が変わった。
塔長の声。
ハンスが後退する。
床下から出た顔には、煤ではない黒い粉がついていた。
ミナが布で拭おうとする。
エルサが止める。
「触らないで。別の布を」
ハンスは咳き込んだ。
黒い痰は出ない。
ただの埃らしい。
少なくとも今は。
「どんな形?」
エルサが聞く。
「帰還管の継ぎ目から、根みたいに広がってる。床石にも入ってる」
「同じもの?」
「たぶん」
「触った?」
「触るなって言われたからな」
少し誇らしげだった。
普段なら触っていただろう。
「次は私が」
アルノーが潜る。
測定針。
銅線。
小さな灯り。
しばらく無言。
「供給線は正常」
床下から声。
「帰還線の値が高い」
「どれくらい」
「停止中の許容値を超えています」
「魔石は抜いてあるのに?」
「外部から流入している」
「どこから」
「床下主線。おそらく旧生活回路」
「鍋から戻るはずの線へ、外から入ってる?」
「そうです」
逆流。
保温鍋は魔石で熱を作り、余剰を床下へ戻す。
だが、別の回路から余剰が押し返されていた。
「事故時はもっと高かった可能性」
アルノーが言う。
「針が正常だったのは?」
ハンスが聞く。
「針は鍋側の供給だけを見る。帰還側の逆流は測らない」
「正常じゃないのに、正常を示した?」
「測定対象は正常でした」
「同じことだろ」
「違います」
また部分的な正しさ。
針は嘘をついていない。
ただ、見ていないものを表示しなかった。
「旧回路はどこへつながってる?」
エルサが聞く。
「図面が必要です」
「この塔にある?」
マルコは答えない。
それが答えだった。
完全な図面はない。
増設。
補修。
担当変更。
古い線が残る。
誰も全体を知らない。
「戻って」
アルノーが床下から出る。
眼鏡へ黒い粉がついている。
彼は気づかず、測定器を見ていた。
「旧主線から不規則な流入があります。波形は生活回路のものではありません」
「何の回路?」
「分かりません」
「銅の塔でも?」
「この場では」
言い方が変わった。
分からないと言いたくない人間の、ぎりぎりの譲歩。
ボリスが最後に潜る。
金槌は置いていった。
細い探針と小刀だけ。
「錫管が食われてる」
すぐに声がした。
「腐食?」
「腐食じゃない。金属が粉へ変わってる」
エルサは言葉を知らなかった。
だが、オットーが日常的に掃いていた白い粉。
鍋だけではない。
冷蔵箱。
湯沸かし器。
春から増えている。
「黒い根が触れた場所?」
「全部じゃない。だが根の周りがひどい」
「黒い根が錫を壊した?」
「逆かもしれん。錫が壊れた場所へ根が出た」
どちらが先か分からない。
「接合部は?」
「薄い。事故時の熱で一部が開いたな。そこから逆流したマナが鍋の外殻へ回った」
「料理へ入った?」
「直接は入らん」
「なら、なぜ食べた人だけ倒れたの」
返事がない。
ボリスが床下から出る。
髭に白い粉。
額に汗。
「鍋の中身が、変わったんじゃないか」
「どういう意味?」
「煮込みがマナを抱えた。食った奴の中で流れた。鍋の近くにいた奴は、床下の漏れも浴びた」
料理の摂取。
座席側の曝露。
二つが重なった者が発症。
エレナの仮説と一致する。
「でも全員ではない」
リーネが言う。
「体質、食べた量、座っていた時間」
エルサは答えた。
「ほかにも条件があるかもしれない」
「毒じゃないの?」
「毒という名前をつけても、条件は消えない」
エルサは板を見た。
原因。
摩耗した錫接合部。
旧生活回路からの逆流。
鍋台の測定針は供給側のみ正常表示。
黒い根状結晶。
料理が余剰魔力を抱えた可能性。
床下漏出。
摂取と曝露の重複。
一つずつなら、人は倒れなかったかもしれない。
全員が自分の担当だけを見れば、正常と判断できる。
錫は古いが使える。
魔石は正常。
供給回路も正常。
料理も腐っていない。
器にも毒はない。
それでも人が倒れた。
毒を入れた者はいない。
だが毒になる工程は存在した。
「暫定結論を書け」
マルコが言った。
「私が?」
「板を持ってる」
エルサは炭筆を握った。
言葉を選ぶ。
断定しすぎれば、後で覆る。
曖昧すぎれば、誰も動かない。
> 古い保温鍋の錫接合部が摩耗し、床下旧生活回路からの逆流を受けた。
> その際、鍋内の料理へ余剰魔力が蓄積し、同時に鍋周辺の床下から漏出が起きた可能性が高い。
> 発症は、料理の摂取と床下回路への近接が重なった者へ偏る。
> 魔石および供給側測定値は正常。
> ただし帰還側は正常ではなかった。
> 黒い根状結晶の由来と役割は不明。
書き終える。
ボリスが読む。
「長い」
アルノーも読む。
「不正確な箇所があります」
ハンスは読む前に言った。
「俺には読めん」
「では短くする」
エルサは下へ、もう一つ書いた。
> 鍋だけが壊れたのではない。
> 床下だけが壊れたのでもない。
> それぞれの小さな異常が重なり、人を倒した。
今度は全員が黙った。
「それなら分かる」
リーネが言った。
「報告書には上を使う」
エルサは答えた。
「入口の札には下」
「最初からそうして」
「詳しい方も必要よ」
「誰が読むの」
「読める人」
「読めない人は?」
「短い方」
リーネは少し考え、頷いた。
記録は一つでなくてよい。
詳しいもの。
使うもの。
伝えるもの。
内容を嘘にせず、形を変える。
それも技術なのだろう。
◇
銀の塔から使者が戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。
エレナ本人ではない。
若い助手。
白い治療衣の袖へ、銀色の線が入っている。
顔が硬い。
「患者四名のうち、三名は安定。一名は症状が継続しています」
「誰?」
グレタが聞く。
「ゲルト氏」
最初に倒れた年配職人。
「黒い筋は?」
エルサが聞いた。
助手の視線が動く。
「その件について、あなた方に話す権限はありません」
あった。
消えていなかった。
銀の塔は知っている。
「魔力酔い?」
マルコが聞く。
「暫定的に、重度の魔力酔いとして扱います」
「暫定なら、いつ見直す?」
「追加検査後」
「隔離するのか」
「安全のため」
「家族への連絡は」
「銀の塔が行います」
「本人は帰れる?」
「現時点では未定です」
言葉は丁寧。
内容は、連れていったまま返さない可能性。
エルサはその病名をまだ知らない。
ただ、ジャックの腕と同じ黒い筋を見た。
銀の塔の反応も。
「面会は?」
グレタが聞く。
「許可制です」
「誰が許可を出す」
「銀の塔です」
また同じ形。
持ち帰った側が、必要を決める。
患者も、記録も、危険物も。
塔の壁の向こうへ入れば、外からは見えなくなる。
「残りの患者は?」
「安定後、順次帰宅予定です。ただし経過観察を続けます」
「ゲルトだけ違う理由は?」
助手は答えなかった。
「銀の塔から正式な封鎖要請です」
紙を差し出す。
「事故設備および黒色異物は現状維持。銀の塔の調査官が到着するまで、独自の追加作業を禁じます」
「もう分解した」
ボリスが言った。
助手の顔色が変わる。
「何を?」
「鍋と床」
「患者発生設備へ、許可なく?」
「鉄と銅と錫が立ち会った」
「銀の塔の許可は」
「鍋を直すのに医者の許可がいるのか」
「人体への影響が確認されています」
「人が倒れる前に呼んでも来ないくせに、倒れた後は全部自分のものか」
ボリスの声が低くなる。
助手が後ずさる。
マルコが紙を取った。
「黒い根は封印済み。記録もある。銀の塔へ写しを渡す」
「原物を」
「共同封印だ」
「医療上の危険物です」
「設備内から出た」
アルノーが言う。
「回路由来の可能性もあります」
「銅の塔が所有権を?」
「共同封印です」
彼までマルコの言葉を使った。
面白い。
数刻前には単独持ち帰りを主張していた。
銀の塔へ渡るくらいなら、錫と鉄との共有を選ぶらしい。
協力の動機としては、理想より縄張り争いの方が強い。
それでも結果は同じ。
一つが独占しない。
「正式な扱いは、三塔と銀の塔で協議する」
マルコが言った。
「それまでは動かさない」
助手は納得していない。
だが、塔長一人と他塔技師二人を相手に押し切る権限はない。
「ゲルト氏は隔離病棟へ移します」
最後に言った。
「病名は」
マルコが聞く。
助手は一瞬迷った。
「魔力酔いです」
嘘ではない。
全部でもない。
銀の塔の使者が帰る。
扉が閉まった。
酒場には、冷たい風だけが残る。
「黒い血管を見たことがある?」
エルサはマルコへ聞いた。
「ある」
初めて、彼は誤魔化さなかった。
「どこで?」
「まだ言えない」
やはり全部は話さない。
「ジャック?」
マルコの目が止まる。
一瞬だけ。
十分だった。
つながった。
救出者の腕。
患者の血管。
地下牢の壁。
床下の結晶。
「あなたは、何を知っているの」
エルサは聞いた。
「お前を拾った理由くらいは知ってる」
「それを聞いているのではないわ」
「今は同じ話だ」
「どうして」
「黒い根は、帳簿の外にあるからだ」
意味が分からない。
マルコは封印瓶を見る。
「誰も数えていない。誰も所有していない。誰も責任を持たない。だが、どこにでもつながってる」
「それを私に数えさせるために助けた?」
「まだ三日目にもなってないぞ」
「答えて」
「雇用が続いたらな」
「それを餌にするの?」
「お前も給金を餌に働くだろ」
否定できない。
「明日、契約の話をする」
マルコが言った。
「三日目の最後に」
「追い出す可能性も?」
「ある」
「今日、役に立ったのに?」
「役に立つ奴は、面倒も増やす」
「あなたが言う?」
「俺が言うから重いんだ」
マルコは封印瓶へ布をかけた。
黒い根が見えなくなる。
「今日は終わりだ。手と顔を洗え。使った布は別に煮ろ。食事は小鍋の粥。肉はなし」
「事故のせい?」
グレタが聞く。
「治療費と休業で、肉代が飛んだ」
これからの費用が、もう始まっている。
事故は解決しても、食卓から肉が消える。
「私の給金は?」
エルサが聞く。
「減らさない」
「今のは確認よ」
「分かってる」
「板に」
「明日」
また先延ばし。
エルサは封印瓶の隣へ、自分の記録板を置いた。
黒い根。
白い粉。
正常な魔石。
正常な針。
異常な帰還線。
すべて同じ事故の中にある。
直接原因は分かった。
古い錫と、逆流した回路。
だが、それで黒い根が説明できたわけではない。
なぜ床下にあるのか。
なぜ人の血管と同じ形なのか。
なぜ地下牢にもあったのか。
答えは増えなかった。
質問だけが、一本の根から枝分かれした。
酒場を出ようとした時、陶器の保存瓶から小さな音がした。
こつ。
誰かが内側から、爪で叩いたような音。
エルサは立ち止まった。
リーネも振り返る。
「今の」
「冷えたんだ」
ハンスが言った。
「結晶が瓶に当たっただけ」
説明はつく。
全員、そう思うことにした。
エルサは瓶の布を取らなかった。
中を見れば、持ち歩く荷物が増える。
ジャックの言葉を思い出す。
知るというのは、持ち歩く荷物が増えること。
今の彼女は、アルト金貨一枚と、死者の指貫と、十二ミントの見込み給金しか持っていない。
そこへ、正体不明の黒い根まで加わった。
大変に心強い財産だった。
翌朝、銀の塔から正式な通知が届いた。
四名の患者を魔力酔いとして隔離搬送。
うち一名は、退院時期未定。
ゲルトの名だけが、帰宅予定者の欄になかった。




