第4話 食べた者、食べなかった者
「エルサ」
王都衛兵は、確認するようにその名を繰り返した。
名前が短いことは便利だった。
偽名を言う時、舌がもつれる余地が少ない。
「姓は?」
不便な質問は、その次に来た。
酒場の床には、倒れた客が四人。
吐瀉物。
こぼれたアイントプフ。
割れてはいないが転がった椀。
奥では、古い保温鍋が停止した後も、低い余韻を残して震えている。
入口には衛兵が三人。
逃げ道はない。
「ありません」
エルサは答えた。
「姓がない?」
「今は」
衛兵の眉が動いた。
良くない答えだった。
姓を持たない平民は珍しくない。だが、平民は普通「姓がない」と答える。
今はない、とは言わない。
その言い方には、以前はあったと自白する響きがある。
「出身は」
「西です」
「どこだ」
「港の近く」
「何という港だ」
ゼーハフェン。
喉まで出かかった。
西の大港。
ゼーヴェル家の本拠。
答えとしては正しい。
そして危険すぎる。
「小さいところです」
「名を聞いている」
衛兵の声が硬くなる。
背後で、倒れた年配職人が呻いた。
呼吸はある。
顔は赤黒い。
グレタが濡れ布で口元を拭っている。
銀の塔はまだ来ない。
衛兵は人命より先に身元を聞いている。
職務上は正しいのだろう。
毒を運んだ可能性のある新人。
偽名。
身元不明。
事件の直前に配膳。
便利な犯人としては、あまりに出来がよい。
つい数日前、シシーリアも同じように完成された。
偽造帳簿。
目撃証言。
署名。
関係者。
誰もが、自分の担当範囲では正しい証拠を持っていた。
最後に一人の悪女へ結びつけただけ。
同じ流れが始まっている。
エルサは衛兵の胸元を見た。
王都衛兵隊の銅章。
階級線は二本。
小隊のまとめ役程度。
自分の判断で錫の塔へ踏み込める立場ではない。
だが、酒場は客へ開放された区画だ。
煙突の免責があっても、一般営業中の事故への初動確認は認められているのだろう。
「身元の確認は後で」
エルサは言った。
「何?」
「今、倒れている人間がいます」
「それは見れば分かる」
「なら銀の塔が来るまで、食べたものを確認してください」
「尋問を受ける立場で命令するな」
「尋問ではなく、事故調査でしょう」
衛兵の顔が険しくなる。
失敗。
相手の権限を言葉で狭めれば、反発される。
王宮では、役人へ正論を言う時ほど、相手の顔を立てる必要があった。
下働きの服を着た今も同じらしい。
人間は衣服が変わっても面倒さを失わない。
「あなた方が毒物事件として処理するにしても、何を食べ、何を飲み、どの器を使ったかが必要です」
少しだけ言い方を変える。
衛兵の仕事に必要な情報だと示す。
「客が動けば、分からなくなります」
「だから全員を止めている」
「何を止めたか、記録していますか?」
衛兵は黙った。
していない。
先頭の男は店内を見回した。
客は壁際や卓のそばで固まっている。
誰がどの席にいたかは、まだ辛うじて分かる。
だが、騒ぎの中で何人かは場所を移動した。
杯を持ったまま立っている者もいる。
他人の卓へ逃げた者。
出口から押し戻された者。
時間が経つほど、条件は混ざる。
「板を」
エルサはリーネへ言った。
「何の?」
「注文板」
「衛兵が話してるでしょ」
「聞こえているわ。板を持ってきて」
リーネは動かない。
衛兵を見る。
グレタを見る。
誰の命令に従うべきか迷っている。
当然だった。
エルサには権限がない。
「持っておいで」
グレタが言った。
リーネが厨房へ走る。
衛兵はグレタへ向き直った。
「責任者か」
「酒場の現場はね」
「塔の代表は」
「今呼んでる」
マルコ。
どこにいたのか。
事故が起きてから姿を見せていない。
偶然とは思えない。
エルサがどこまで動けるか見ているのか。
あるいは、銀の塔や塔内警備との調整へ回っているのか。
どちらでも腹立たしい。
「その女は昨日雇ったばかりだそうだな」
衛兵が言った。
「そうだよ」
「身元不明で」
「ここじゃ珍しくない」
「事件当日に、身元不明者を配膳へ出した?」
「雇ったのは昨日。事故は今日。日付を合わせたけりゃ、毒を仕込む方が昨日来る理由はないね」
グレタは強い。
理屈が正しいかは別として、相手を黙らせる勢いがある。
衛兵はエルサを見た。
疑いは消えていない。
だが、その場で拘束する段階でもないらしい。
「逃げるな」
「逃げる場所があるように見える?」
エルサは答えた。
衛兵は頭巾、煤けた前掛け、濡れた木靴を見た。
何も言わなかった。
実際には逃げる場所は必要だった。
持っていないだけである。
◇
リーネが持ってきた注文板には、昼の注文が炭で書かれていた。
卓番号。
料理の数。
麦酒の種類。
追加の黒パン。
簡単な印。
誰が配膳したかまでは残っていない。
エルサは厨房の壁から、もう一枚の古い板を外した。
裏には、消し残された仕入れ数字が薄く残っている。
「炭筆」
リーネが渡す。
「何を書くの」
「倒れた人と、倒れていない人の違い」
「毒を食べた人が倒れたんでしょ」
「何が毒なの?」
「アイントプフ」
「同じ鍋を食べた全員が倒れている?」
リーネは酒場を見る。
答えられない。
「麦酒かもしれない」
「飲んでいない女も倒れた」
グレタが言う。
「器は?」
エルサは続けた。
「木椀。錫杯。木杯。匙。座席。配膳時刻。鍋から注いだ順番。全部分ける」
「そんなの覚えてない」
リーネが言う。
「一人ではね」
エルサは炭筆を走らせた。
板の中央に線を引く。
左へ発症者。
右へ無症状者。
上へ項目。
料理。
麦酒。
黒パン。
器。
座席。
時刻。
配膳者。
「何だ、それ」
衛兵が覗き込む。
「表です」
「見れば分かる」
「では使い方も分かるでしょう」
衛兵の眉間に皺が寄った。
リーネが小さく息を吐く。
「怒らせるの得意だね」
「望んでいないわ」
「望んでやってたら怖い」
エルサは無視した。
「最初に倒れた人」
「ゲルト親方」
若い女が答えた。
九番卓で、年配職人に肩を貸している。
「所属は?」
「鉄の塔。炉板の加工です」
「食べたもの」
「アイントプフ。黒パン。薄い麦酒」
「どれくらい」
「半分くらい」
「最初に口へ入れたのは?」
「スープ」
「器」
「木椀と木匙。麦酒は錫杯」
エルサは書く。
字を小さくすれば、板一枚へ収まる。
シシーリアとして書類を作っていた頃、周囲は彼女の字を美しいと言った。
今は、急いで書いた炭の線。
それでも、情報を置く場所としては十分だった。
「次。若い女」
「イルゼ」
リーネが名前を知っていた。
「常連。銅の塔の刻印工房」
「症状」
「右手の痺れ。冷汗。吐き気」
「食べた量」
「二口くらい」
「麦酒」
「一口」
「器」
「木椀、木匙、錫杯」
九番卓。
ゲルトと同じ。
「王都衛兵」
倒れた制服の男の仲間が答えた。
「オスカー。アイントプフは三口。黒パンはまだ。麦酒は半杯」
「症状」
「両手の強張り、吐き気、眩暈」
「器」
「木椀、木匙、木杯だ」
錫杯ではない。
杯は外れる。
「五番卓の学生」
別の学生が手を挙げた。
「カール。白金の塔」
床へ吐いた痩せた若者は、壁へもたれている。
意識はある。
「食べたもの」
「アイントプフと黒パン。酒は飲んでない」
「器」
「土器の椀。木匙」
木椀でもない。
共通するのはアイントプフ。
だが、無症状者が多すぎる。
「同じ卓で食べて、何ともない人」
何人かが手を挙げた。
エルサは一人ずつ聞く。
料理。
量。
器。
時刻。
席。
すぐに板が文字で埋まり始める。
リーネが横から注文板を確認する。
「三番卓は、鍋を置いてすぐ出した分」
「誰が運んだ?」
「エルサ」
銅の塔の学生二人。
無症状。
同じアイントプフ。
木椀。
木匙。
錫杯。
エルサが配膳。
発症なし。
衛兵の視線が少し変わる。
配膳者が毒を入れたなら、自分が運んだすべての卓で起きる方が自然だ。
もちろん、特定の椀だけへ入れた可能性は残る。
だが疑いは一段薄くなる。
「七番卓」
「私とミナ」
リーネが答える。
「荷運び人の男が痺れた」
「ほかは?」
「三人。無症状」
「同じ料理?」
「全員アイントプフ」
「酒」
「二人は薄い麦酒。一人は水。倒れた人は強い麦酒」
酒の種類も揃わない。
「八番卓」
「症状なし」
「料理は?」
「アイントプフが四つ」
エルサは板へ印をつける。
同じ料理を食べ、無症状。
料理単体では説明できない。
「食べた時刻」
エルサは聞いた。
リーネが顔をしかめる。
「そこまで分からない」
「配膳順なら?」
注文板を見る。
最初は三番。
次に四番。
六番。
八番。
その後、九番。
五番。
七番。
混雑で順番が前後している。
「誰が鍋から注いだの?」
「最初はグレタ。途中から私」
「どの卓から?」
「五番の途中」
グレタが答えた。
注ぐ者も一致しない。
「鍋をかき混ぜた?」
「何度か」
「いつ?」
「具が沈んだ時」
「発症した卓へ出す前?」
「全部覚えてるわけないだろ」
グレタの声に苛立ちが混じる。
エルサは炭筆を止めた。
責めているように聞こえた。
違う。
今必要なのは、正確な記憶だけではない。
曖昧さを曖昧なまま残すこと。
「分からないなら、分からないと書く」
「役に立つのかい」
「後から、知っているふりをされるよりは」
法廷では、曖昧な記憶が時間とともに断定へ変わる。
見た気がする。
きっとそうだった。
ほかの証言者も言っている。
最後には、誰も直接見ていないことが事実になる。
エルサはそれを知っている。
知りすぎていた。
「覚えていないことは空欄にする。推測で埋めない」
衛兵が彼女を見た。
「ずいぶん、調査に慣れているな」
「商家では、荷が腐った時に誰の責任か調べます」
嘘ではない。
ゼーヴェル家では、腐敗、破損、盗難、重量不足をすべて記録した。
誰の責任か。
保険が適用されるか。
荷主と船主のどちらが損失を負うか。
人間が倒れた今も、やっていることは似ている。
違いは、損失品が息をしていることだった。
「どこの商家だ」
「潰れました」
短く答える。
衛兵は追及しようとした。
その時、酒場の入口が騒がしくなった。
銀の塔が到着した。
◇
最初に入ってきたのは、白ではなく灰色の外套を着た女だった。
三十代前半ほど。
髪を後ろできつく束ね、革鞄を二つ持っている。
後ろに、銀の塔の治療衣を着た助手が四人。
担架。
薬箱。
水差し。
口布。
衛兵が道を開ける。
女は挨拶をしなかった。
「最初の発症者」
グレタがゲルトを示す。
女は膝をつき、瞼、舌、指先を見る。
手首へ触れる。
呼吸を聞く。
「発症から」
「半刻も経ってない」
「吐いた?」
「一度」
「意識は」
「ある」
女はゲルトへ問いかける。
名前。
年齢。
現在地。
何を食べたか。
本人は途切れながら答えた。
「魔力酔いに似る。ただし断定しない」
女は助手へ言った。
「四人を分けて寝かせる。吐瀉物に触れた布は封じる。水は少量。痙攣が強ければ銀針」
魔力酔い。
魔石や魔導具の出力へ長く曝された時に出る症状。
眩暈。
吐き気。
痺れ。
確かに似ている。
だが酒場の客が、なぜ。
女医は次の患者へ移った。
イルゼの右腕を捲る。
黒い血管はもう見えない。
エルサが見たものが本当に存在したのか分からなくなる。
「何か変色は?」
エルサは思わず聞いた。
女医が顔を上げた。
眼差しが鋭い。
「誰」
「配膳担当」
「医師か」
「違います」
「なら患者から離れて」
正しい。
エルサは一歩下がった。
「でも、最初の人の腕に黒い筋が出ていました」
女医の動きが一瞬止まる。
ほんの一瞬。
すぐにイルゼの腕へ視線を戻した。
「どのような」
「血管に沿って、根のように」
「色は」
「黒。少し紫にも見えました」
「どれくらいの時間」
「数呼吸。今は消えています」
女医は助手を呼ぶ。
「ゲルトの両腕を確認。変色があれば触らず記録」
声は平静。
だが指示が一段具体的になった。
知っている。
少なくとも、似た症例を。
「名は?」
女医がエルサへ聞く。
「エルサ」
「私はエレナ。銀の塔の医師長補佐」
エルサはその名を覚えた。
エレナは注文板の横にある表へ気づいた。
「これは?」
「発症者と無症状者の条件です」
女医は板を取る。
料理。
飲料。
器。
席。
時刻。
配膳。
炭の文字を目で追う。
「誰が作った」
「私です」
「医学を学んだ?」
「いいえ」
「なら、なぜ座席まで」
「同じものを食べても、倒れていない人がいるから」
エレナは無症状者の列を見る。
三番卓。
八番卓。
九番卓の商人。
料理は同じ。
「発症者の席を図にできる?」
エルサは酒場を見た。
丸卓の配置。
保温鍋。
厨房口。
入口。
窓。
板の裏へ簡単な図を描く。
円を十個。
卓番号。
発症者へ黒点。
無症状者へ白点。
九番。
五番。
七番。
黒点は、酒場の奥へ偏っている。
三番卓は鍋から遠い。
無症状。
八番卓は中央だが、鍋と反対側。
無症状。
「近い」
リーネが言った。
エルサも見ていた。
発症者は全員、古い保温鍋の側。
九番は最も近い。
五番と七番も、鍋から数歩。
ただし、近くにいた全員が発症したわけではない。
「料理じゃなくて、席?」
衛兵が言った。
「席が人を痺れさせるの?」
リーネが聞く。
「床下に回路がある」
ハンスが答えた。
全員が彼を見る。
「保温鍋の管は、床下の生活回路へつながってる。奥側を回って厨房へ戻る」
「昨日から音が変だったのね」
エルサが言う。
「変だったが動いてた」
「正常に?」
「針は正常だった」
「音は?」
「古い鍋なら鳴る」
「今日と同じ音?」
ハンスは黙った。
エルサは待った。
問いを重ねると、責められていると思わせる。
彼が現場で感じたことを、自分の言葉で出す必要がある。
「昨日より高かった」
ハンスが言った。
「どれくらい」
「一段」
「一段?」
「炉の音には高さがある」
衛兵が鼻で笑いかけた。
エレナが制した。
「続けて」
ハンスは保温鍋を見る。
「普通は腹に響く。今日は耳の奥に来た。止める前、一度だけもっと高くなった」
「その時、何をした?」
「弁を絞った」
「針は?」
「正常線の内側」
数字は正常。
音は異常。
エルサは表へ書き足す。
保温鍋。
高音。
床下回路。
座席。
現場の感覚と記録が、初めて同じ板へ並んだ。
「ミナ」
エルサは呼んだ。
「何」
「床を拭いた時、何か変わったことは?」
「吐いたもの?」
「事故の前。朝でも昨日でもいい」
ミナは考える。
洗濯と衛生。
彼女は床の汚れ、布、臭いを見る。
エルサにはない情報を持っている。
「九番の下、最近乾きにくい」
「水漏れ?」
「水じゃないと思う。濡れてる感じじゃなくて、足の裏が少しぺたつく」
「いつから」
「三日くらい?」
「臭いは」
「金属っぽい。あと、焦げた麦みたいな」
ハンスが顔を上げた。
「回路油か」
「管から漏れた?」
「油なら色が出る」
「白い粉は?」
エルサが言う。
保温鍋の接合部。
ハンスは視線を逸らした。
「古い錫だ。削れれば粉は出る」
「いつもと同じ量?」
答えない。
「ハンス」
リーネが呼ぶ。
青年は舌打ちした。
「増えてた」
「いつから」
「分からん。少しずつだ」
「掃除していたのは?」
「俺かオットー」
「記録は?」
「粉を掃いた記録なんかつけない」
エルサは板へ書く。
白い粉。
増加。
記録なし。
衛兵が口を挟む。
「つまり、鍋の故障で毒が出たと?」
「まだ言っていません」
「では何が分かった」
「料理だけでは説明できない。酒でも、器でも、配膳者でもない。発症者は古い保温鍋側へ偏っている。鍋は異音を出し、接合部の粉が増えていた。床にも異常があった」
「十分、鍋が原因だろう」
「近くで食べて無症状の人がいる」
九番卓の痩せた商人。
同じ席。
ただし食べていない。
その条件が重要だった。
「鍋の近くにいるだけでは発症しない。料理を食べた者の一部に出ている」
エレナが言った。
「曝露と摂取の両方かもしれない」
衛兵は顔をしかめる。
「分かる言葉で頼む」
「鍋の異常だけでも、料理だけでも足りない可能性がある」
エルサが言い直す。
「二つが重なった人が倒れた」
「料理は同じ鍋だろ」
「同じ鍋でも、注いだ時刻が違う。保温時間も、鍋の中の位置も違う。器へ入れた後、どの席へ置いたかも違う」
「煮込みを一杯食うのに、そこまで違うのか」
「違わなければ、全員倒れています」
衛兵は黙った。
単純な毒なら、食べた者が一様に倒れる。
量による差はあっても、発症者が鍋の周囲へ偏る理由は薄い。
毒物事件としては、形が悪い。
事故としても、まだ答えはない。
エレナは板を見つめた。
「この記録は銀の塔が預かる」
「駄目です」
エルサは即答した。
酒場が静かになる。
銀の塔の医師長補佐へ、下働きが拒否した。
リーネが目を閉じた。
おそらく、また始まったと思っている。
エレナの目が細くなる。
「理由を」
「原本を一つにすると、銀の塔が持ち帰った後、錫の塔には何も残らない」
「必要なら写しを送る」
「いつ?」
「調査後」
「酒場の閉鎖判断は、その前に出ます」
衛兵が口を挟む。
「閉鎖はあり得る」
予想どおりだった。
「だから、原本はここ。銀の塔が写す」
「患者を運ぶのが先だ」
「なら私が写します」
「お前は容疑者だろう」
衛兵が言う。
エルサは彼を見る。
「だからこそ、記録が一か所へ持ち去られるのは困ります」
自分を守るため。
錫の塔を守るため。
理由は明確だった。
エレナはしばらくエルサを見た。
次にグレタ。
ハンス。
板。
倒れた患者。
「二枚作る」
エレナが言った。
「銀の塔用と錫の塔用。衛兵隊が必要なら、三枚目」
「時間が」
衛兵が言う。
「毒殺として誰かを縛る時間はあるのに、記録を写す時間はない?」
エレナの声は冷たい。
衛兵は黙った。
銀の塔は、民衆に最も信頼される塔。
王都衛兵でも強く出にくいらしい。
エルサは新しい板を二枚用意した。
リーネが注文板を読み上げる。
ミナが座席を確認する。
ハンスが配膳時の炉の状態を思い出す。
グレタが注いだ順番を補う。
エルサが書く。
一人では分からない。
リーネは客と注文を覚えている。
ミナは床と布と臭いを見ている。
ハンスは炉の音を聞いている。
グレタは鍋と料理の状態を知っている。
エレナは症状を分類できる。
それぞれが持つものは断片。
エルサがしているのは、断片の置き場所を作ることだけだった。
それだけで、点が線へ変わる。
王宮では、情報を集める者が権力を持った。
ここでは、情報を並べる者が、ようやく人の役に立てる。
皿洗いよりは向いていた。
少なくとも、今のところ板は割れない。
◇
患者は銀の塔へ運ばれることになった。
ゲルト、イルゼ、オスカー、カール。
荷運び人の男は症状が軽く、酒場内で経過を見る。
数を改めると、発症者は五人。
重症四人。
軽症一人。
同じアイントプフを食べた客は二十七人。
発症率だけ見れば、料理全体の毒ではない。
銀の塔の助手が担架を運び出す。
エレナは最後に保温鍋へ近づいた。
触れずに観察する。
白い粉。
弁。
針。
床との接続部。
「魔石は抜いた?」
「まだ」
ハンスが答える。
「停止だけ」
「抜かないで」
エレナは言った。
「鉄か銅の技師が来るまで、そのまま封じる」
「錫の塔の設備だ」
ハンスの声が尖る。
「自分たちで見る」
「患者が出た設備を、同じ塔だけで調べれば隠蔽を疑われる」
「銀の塔に回路が分かるのか」
「分からない。だから鉄か銅を呼ぶ」
「鉄は鍋を見る。銅は回路を見る。どっちも自分の担当外は触らないぞ」
ハンスの言葉には、長年の苛立ちがあった。
七塔。
専門。
権限。
壁。
「なら両方呼ぶ」
エレナは答えた。
「来ればな」
ハンスは鼻で笑う。
「錫の塔の酒場で古い鍋が壊れた。そんな話で、上の塔が技師を出すと思うか?」
誰も答えない。
おそらく出さない。
事故としては小さい。
死者はまだいない。
錫の塔の安い食堂。
平民と下級職人。
優先順位は低い。
「マルコはどこ?」
グレタが言った。
「さっきから見ないね」
「呼ばれてるぞ、飯炊き」
低い声が入口からした。
全員が振り向く。
マルコが立っていた。
いつもの煤けた前掛け。
片手に黒パン。
もう片方に紙束。
まるで昼食へ戻ってきただけの顔だった。
「遅い」
エルサは言った。
「銀の塔へ連絡してた」
「来た後よ」
「鉄と銅にも使いを出した」
ハンスが目を丸くする。
「来るのか?」
「鉄は一人出す。銅は返事待ち」
「どうやって話を通した」
「昨日、鉄の塔の親方へ酒を一樽貸した」
マルコは黒パンをかじった。
「返済代わりだ」
人をつなぐのは、理念ではなく未払いの酒らしい。
現実的でよい。
「衛兵隊は酒場を一時閉鎖すると言ってる」
グレタが言う。
「そうなるだろうな」
「困るよ」
「困るな」
マルコは同意しただけだった。
怒らない。
焦らない。
「客への補償は?」
エルサが聞く。
「これから計算する」
「患者の治療費は?」
「錫の塔持ち。銀と交渉する」
「営業停止中の食材は」
「別棟へ回す。食えるものは職員食。危ないものは封じる」
「従業員の給金」
マルコはパンを噛む。
飲み込む。
「痛いところを聞くな」
「止まれば、私の三日契約は?」
酒場の何人かがエルサを見る。
患者が運ばれている最中に、自分の給金。
人情としては悪い。
生存上は重要。
マルコは少し笑った。
「事故調査中も仕事はある」
「契約期間へ含む?」
「含む」
「閉鎖を理由に減額は?」
「しない」
「今、皆の前で言ったわね」
「板に書くか?」
「後で」
リーネが呆れた顔をした。
「本当に給金のことしか考えてない」
「給金がなくても食べられる人には分からないでしょうね」
言い返す。
リーネは口を閉じた。
彼女も下働きだ。
給金がなくて平気な側ではない。
エルサは少し言いすぎたと気づいた。
謝るほどではない。
たぶん。
「表を見せろ」
マルコが言う。
エルサは板を渡した。
彼は目を走らせる。
発症者。
無症状者。
料理。
酒。
器。
時刻。
席。
鍋の音。
白い粉。
床のべたつき。
「誰が作った」
「私」
「一人で?」
「リーネとミナとハンスとグレタ。エレナ医師も」
マルコは頷いた。
「そうか」
褒めない。
驚かない。
まるで、最初からそうなると知っていたような顔。
腹立たしい。
「何か分かる?」
グレタが聞く。
「同じ料理でも、倒れてない客がいる」
マルコは板を返す。
「古い保温鍋の周りに発症が偏ってる。鍋だけなら、食べてない客にも出るはずだが、出てない」
「二つが重なった可能性」
エレナが言う。
「料理が何かを運び、席の回路が何かを起こした」
衛兵が顔をしかめる。
「魔術の話か」
「魔術というほど立派じゃない」
マルコは答えた。
「飯を温めるだけの古い生活回路だ」
生活を支える安い設備。
それが人を倒した。
高尚な国家魔法でも、禁忌の兵器でもない。
ただの保温鍋。
世界の終わりは、案外そういう物から始まるのかもしれない。
「鍋を開けるのは技師が来てから」
マルコが言う。
「それまで誰も触るな。酒場は閉める。客の名前と連絡先を取る。無症状でも今夜までは一人になるなと伝えろ」
「身元を言いたくない客は?」
リーネが聞く。
豊穣の酒場には、訳ありの旅人も多い。
「名は聞かなくていい。宿だけ聞け」
「逃げた客は」
「追わない。入口へ症状を書いた札を出す」
煙突の免責を盾に、強制拘束はしない。
だが情報は残す。
マルコの判断は速い。
役職を名乗らない料理人にしては、あまりに自然に全体へ命令している。
衛兵も、エレナも反論しない。
エルサは彼を見た。
「あなた、本当に何者?」
マルコは黒パンの残りを口へ入れた。
「今それを聞くのか?」
ジャックと同じ返し。
この周囲の男は、都合の悪い質問を同じ場所で覚えるらしい。
「今でなければ、いつ聞けるの」
「鍋を開けた後だな」
「なぜ後?」
「今は腹が減ってる」
マルコは厨房へ向かう。
「飯を食ってない奴は食え。残ってる別鍋を使え。事故を調べる奴が倒れたら、記録が一行増える」
あまりにも実用的だった。
「エルサ」
呼ばれる。
すぐに振り向いた。
マルコが足を止める。
視線が一瞬だけ細くなる。
「その板、なくすなよ」
「分かってる」
「字が小さすぎる。俺には読みにくい」
「目が悪いの?」
「腹が出ると、板が遠くなる」
緊張の残る酒場で、誰かが小さく笑った。
グレタだった。
続いてハンス。
リーネは笑わなかったが、口元が少し動いた。
患者は運ばれた。
酒場は閉鎖。
保温鍋は封鎖。
毒の正体は不明。
何も解決していない。
それでも、誰か一人を縛って終わりにはならなかった。
少なくとも今は。
エルサは板を抱えた。
炭の粉が前掛けへつく。
自分の名前の横には、配膳担当と書かれている。
容疑者にも見える。
記録係にも見える。
どちらになるかは、次に何を見つけるかで決まる。
背後で、停止した保温鍋が小さく鳴った。
炉も魔石も止まっているはずなのに。
きいん。
金属の縁を、濡れた指でなぞったような細い音。
ハンスが振り返る。
「今の、聞いたか」
エルサは頷いた。
青年は鍋を見つめたまま、低く言った。
「今日は、炉の音が一段高かった」
停止した鍋の底で、何かがかすかに擦れた。




