第3話 古い鍋のそばで
豊穣の酒場が混み始める頃、エルサは自分の首が三ミントで売られているのを知った。
正確には、首だけではない。
胴体もついていた。
ただし頭部は取り外せる。
「何、これ」
エルサは木製の人形を持ち上げた。
栗色に塗られた髪。
紫色のドレス。
やたらと細い腰。
右手には黒い帳簿、左手には銀貨の袋。
胸元には、不自然なほど大きな赤い宝石が描かれている。
顔は美人というより、目つきの悪い狐に近かった。
台座には、
> 首なし悪女シシーリア
> 解雇避け・破産避けのお守り
> 三ミント
と焼き印が押されている。
「触ると首が取れるよ」
ミナが楽しそうに言った。
エルサは人形の頭を摘まんだ。
軽く引く。
ぽこん、と間の抜けた音がして首が外れた。
「……どうして」
「シシーリアは首を刎ねられたから」
「獄死よ」
声が強くなった。
ミナが瞬きをする。
「詳しいね」
「瓦版に書いてあったでしょう」
実際には瓦版売りが叫んでいた。
本人は樽の中で聞いた。
「でも、首を刎ねた方が人形にしやすいから」
ミナは悪びれなかった。
合理的だった。
大変に不愉快だが、商業上は正しい。
人形の首は、内部の細い木栓で胴体へ留められている。何度も外せる構造だ。子供が処刑ごっこをするのか、大人が解雇避けの縁起物として机へ置くのか。
自分の死が、すでに用途別商品へ加工されている。
処理が早い。
王都の商人は、死体が冷めるのを待つ礼儀すら持っていなかった。
「これを誰が仕入れたの」
「西から来た物売り」
「返品して」
「もう売れてる」
ミナが棚を指した。
人形は残り二体。
最初は十二体あったらしい。
「何でこんなものが錫の塔にあるのよ」
「客が欲しがるから」
「ここは賢者の塔でしょう」
「酒場でもあるよ」
ミナは首を外したままの人形をエルサから取り、胴体へ戻した。
前後を間違えたらしく、顔が背中側を向く。
それでも人形は問題なく立った。
本人の社会的評価も、その程度の精度で作られているのだろう。
「そのうち酒も来るって」
「酒?」
「悪女の涙。渋くて酸っぱい赤葡萄酒」
「私はそんな酒を飲んだことはないわ」
「また詳しいね」
「想像よ」
エルサは人形を棚の奥へ押し込んだ。
目につかない場所へ。
その直後、リーネが木盆を二つ抱えて現れた。
「何してるの」
「商品の配置を改善していたの」
「勝手に触らないで」
「客の食欲を失わせる品は、食堂の奥へ置くべきでしょう」
「昨日、一体売れた」
「誰に」
「銀の塔の学生。試験で首にならないようにって」
「職人としての努力をしなさい」
「本人に言えば?」
本人は死んでいることになっている。
とても便利だった。
この国の誰もが、死んだシシーリアへ好きな意見を言える。
本人から反論される心配がない。
死者は名誉毀損の訴えを起こさない。
エルサは人形の首をもう一度外したい衝動を抑えた。
破損すれば給金から引かれる。
自分の首を模した玩具に、これ以上給金を奪われるのは避けたかった。
「エルサ」
グレタの声が厨房から飛んだ。
今度はすぐに振り向いた。
一拍遅れなかったことへ、自分で気づく。
喜ばしいことかどうかは分からない。
「鍋を運ぶよ。手伝いな」
厨房では、昼のアイントプフが仕上がりつつあった。
昨夜のものより具が多い。
カルトッフェル。
カブ。
タマネギ。
細かく切った塩漬け豚。
乾燥キノコ。
黒パンを丸めた小さな団子。
表面には脂が丸く浮き、湯気とともに胡椒に似た香辛料の匂いが上がっている。
酒場用の鍋は、下働きの食事用より大きい。
人が二人入れそうな深さがあった。
通常の鉄鍋ではない。
外側を厚い錫の覆いが包み、底から三本の管が床へ伸びている。鍋台の中央には、低品質の魔石を入れる小さな炉が組み込まれていた。
火へ直接かけなくても、一定の温度を保つ生活魔導具。
王宮の保温皿ほど精緻ではない。
代わりに、安い魔石で長時間動かせる。
「これが昨日、唸っていた鍋?」
エルサは聞いた。
近づくと、低い振動が足裏から伝わった。
ぶうん。
少し間を置き、
ぶうん。
規則的ではない。
人が眠りながら歯ぎしりをするような音だった。
「古いからね」
グレタは鍋の縁についた汁を布で拭う。
「問題ないの?」
「保温はできてる」
「音は?」
「鳴る時もある」
「いつから?」
「さあね。あたしが来る前からある鍋だよ」
錫の塔では、それが説明になるらしい。
古いから鳴る。
古いから曇る。
古いから粉が出る。
古いものが正常だった時代を知る者がいなくなれば、異常も日常になる。
エルサは床へ伸びた管を見た。
一つだけ、接合部が白っぽい。
粉のようなものが薄く付着している。
指で触れようとすると、横から布が飛んできた。
「触るな」
ハンスだった。
薪を肩へ担いでいる。
「なぜ?」
「熱いから」
「見た目は冷えているわ」
「管の中は熱い」
「白い粉は?」
「古い鍋だから出る」
同じ答え。
「昨日より音が大きくない?」
ハンスは鍋へ耳を向けた。
しばらく聞く。
「少しな」
「それでも使うの?」
「昼の客が来てる。今止めたら出すものがない」
「別の鍋は?」
「あれ」
ハンスが指した先には、さらに古そうな鉄鍋があった。
底へ大きな補修板が三枚。
持ち手の片方は縄で代用。
確かに、今使っている鍋の方がましに見える。
完璧な設備があるかではない。
今日使える設備があるか。
現場の判断基準は、常に比較だった。
「冷める前に運ぶよ」
グレタが大きな柄杓を持ち上げる。
保温鍋は厨房の奥から、酒場側の配膳口へ移された。
鍋台の下には小さな車輪がある。
ハンスとグレタが左右から押す。
エルサも後ろへ手を当てた。
重い。
鉄と錫とスープを合わせれば、小型の馬車に近い重量だ。
車輪が床の溝へはまる。
三人で押す。
鍋の中で、熱い汁が大きく揺れる。
また低い唸り。
ぶうん。
今度は少し高い。
ハンスが眉を寄せた。
「今日は機嫌が悪いな」
「機械に機嫌はないわ」
「あるぞ。悪い時は大体、俺を火傷させる」
「それは整備不良と言うのよ」
「言い方を変えても火傷はする」
反論できなかった。
鍋を配膳口へ固定する。
床側の管と接続。
ハンスが弁を回す。
金属の中を何かが流れ、鍋台が震えた。
保温回路が再び動き出す。
温度計らしい針は、中央より少し上。
正常範囲を示す黒線の内側だった。
少なくとも数字の上では問題ない。
「エルサ、盆を持って」
リーネが言った。
「洗い場では?」
「今日は人が足りない」
「配膳は契約に入っていなかったわ」
「雑用に入ってる」
「客前へ出るとは聞いていない」
「今、聞いた」
エルサは酒場側を見た。
すでに客が入っている。
鉄の塔の職人。
銅の塔の学生。
王都の荷運び人。
商人。
灰色の外套を着た旅人。
顔を知られている可能性は低い。
シシーリアと直接会った平民はほとんどいない。
宮廷画や瓦版の似顔絵も、今の不揃いな髪と煤のついた顔にはつながらないはず。
それでも、客前へ出るのは危険だった。
声。
姿勢。
手の動き。
自分が忘れている癖を、他人が覚えているかもしれない。
「厨房に残る仕事は?」
「鍋磨き」
「それをするわ」
「昨日、磨きすぎたでしょ」
リーネは冷たい。
「配膳は嫌」
「どうして」
「客が嫌いだから」
「酒場で働く人の言葉じゃない」
「三日しか働かないもの」
「二日目で追い出されたい?」
そこを突かれると弱い。
錫の塔を失えば、次の寝床がない。
三日後に逃げるとしても、今追い出されるのは早すぎる。
一方、配膳へ出れば正体露見の確率がわずかに上がる。
露見した時の損失は生命。
だが、配膳を拒み続ければ、雇用終了の確率が大きく上がる。
現在の覆面は頭巾、煤、作業着。
顔を上げなければよい。
丁寧すぎる言葉を使わない。
西の商家で働いていた頃の訛りを少し戻す。
客の顔を見ない。
計算の結果は不本意だった。
「盆を貸して」
リーネが木盆を渡した。
「二杯ずつ。こぼさないで」
「子供ではないわ」
「昨日、皿を割った」
「皿と椀は違う」
「床に落ちれば同じ」
正しいことばかり言う。
エルサは木椀を盆へ載せた。
グレタが柄杓でアイントプフを注ぐ。
一杯目。
カルトッフェル。
塩漬け肉。
団子。
二杯目。
具の量が少ない。
「そちら、少なくない?」
エルサは言った。
「最後に調整する」
グレタが肉を一片足す。
「客は見てるからね。隣より具が少ないと、味より先に怒る」
人間は公平さに敏感だ。
特に、肉の量については。
王宮の席順と大差ない。
違うのは、こちらでは不満がすぐ口へ出ることだった。
「三番卓」
リーネが顎で示す。
エルサは盆を持って酒場へ出た。
豊穣の酒場は、厨房から見た時より広かった。
丸い卓が十以上。
大きさは不揃い。
椅子も長椅子も、修理跡だらけ。
壁には酒樽の蓋、古い農具、壊れた魔道具、各地の麦穂が飾られている。
塔の食堂というより、旅人と職人の休憩所。
客は好き勝手に話していた。
「銅の塔はまた回線料を上げた」
「鉄の塔の釘は値段だけ上がって曲がるぞ」
「白金の学生に貸した本が返ってこない」
「南のリンゴ酒は今年薄い」
他塔への悪口と、食事への文句。
誰も声を潜めない。
宮廷なら、一つの発言が翌朝には三家へ伝わる。
ここでは、誰かが聞いていても気にしないらしい。
あるいは、全員が聞いているから秘密にならない。
三番卓には、銅の塔の学生らしい若者が二人座っていた。
机の上には巻いた図面。
真鍮の小さな部品。
そして、首なしシシーリア人形。
一人が人形の首を外し、卓の上で転がしている。
「やめろ。スープに入る」
「入ったら悪女煮込みだ」
「辛そうだな」
二人は笑った。
エルサは無言で椀を置いた。
木椀の底が卓へ触れる。
少し強い音がした。
若者が顔を上げる。
「新人?」
「そうよ」
危ない。
語尾が整いすぎた。
エルサは少し俯いた。
「そうだけど」
西の訛りを混ぜる。
若者は気にしなかった。
人形の頭を持ち上げる。
「これ、似てると思うか?」
「知らない」
「元王太子妃候補だぞ。見たことないの?」
「普通の人はないでしょう」
「確かに」
もう一人がスープを覗く。
「肉、そっちの方が多くないか?」
来た。
グレタの予告どおりだった。
エルサは二つの椀を見比べる。
どちらも大差ない。
「同じくらいよ」
「俺の方が少ない」
「あなたの肉が汁へ沈んでいるだけ」
匙で軽く探す。
肉片が出る。
「本当だ」
男は満足した。
人間は、損をしていないと分かれば味の話へ戻れる。
単純で助かる。
エルサが立ち去ろうとすると、首の外れた人形が盆へ置かれた。
「これも厨房へ持っていってくれ」
「なぜ」
「首が緩い。直してもらえるか?」
「玩具屋へ持っていきなさい」
「錫の塔は何でも直すんだろ」
「人形の評判までは直せないわ」
口から出た。
二人が笑う。
「上手いな、新人」
エルサは人形を卓へ戻した。
自分の首を修理する義理はない。
次の卓。
次。
配膳は、皿洗いとは違う難しさがあった。
客が椅子を引く。
足を出す。
突然振り向く。
盆の進路へ腕を伸ばす。
注文を変える。
麦酒を追加する。
具を多くしろと言う。
黒パンを一切れ余分に要求する。
エルサは最初こそ肩へ力を入れていたが、何度か往復するうちに、客の動きが読めるようになった。
酔客は右へ大きく揺れる。
図面を広げた学生は突然立たない。
荷運び人は椅子を深く引く。
商人は通路側へ荷物を置く。
人の流れを読み、衝突を避ける。
宴席で給仕の動線を確認していた経験が、少しだけ役に立った。
王宮では、自分が盆を持つことはなかった。
だが、誰がどこを通るかは見ていた。
完全に無駄な教育ではなかったらしい。
「九番卓へ四つ」
リーネが言う。
エルサは椀を四つ載せた。
「多くない?」
「落とさない持ち方、覚えたでしょ」
試されている。
断れば、また元お嬢様扱い。
持てば落とす危険。
エルサは盆の下へ手を広げた。
重心を中央へ。
椀の間隔を揃える。
「行ける」
「ゆっくり」
九番卓は、酒場の奥。
保温鍋に最も近い位置だった。
鍋から三歩ほど。
そこには四人の客がいた。
年配の職人。
若い女。
王都衛兵らしい制服の男。
痩せた商人。
全員、違う格好。
同席しているというより、混雑のため相席になったらしい。
「お待たせ」
エルサは椀を置く。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ目を置く時、保温鍋が鳴った。
ぶうん。
低い音ではない。
甲高い震えが混ざる。
耳の奥がむず痒くなる。
エルサは振り返りかけた。
昨日の失敗を思い出す。
先に椀を置く。
それから鍋を見る。
針は正常範囲。
湯気も出ている。
ハンスが炉の弁を小さく調整していた。
「大丈夫?」
エルサが声をかける。
「たぶんな」
最も信用できない返事だった。
「たぶんで料理を出すの?」
「止めたら冷める」
「客の口へ入るのよ」
「分かってる。だから見てる」
ハンスは鍋の側面へ手を当てた。
振動を確かめる。
「熱は普通だ」
「音は普通ではない」
「古い鍋は鳴る」
三度目。
全員が同じ言葉を使う。
エルサは白い粉のついた接合部を見た。
鍋の下は暗い。
客前で屈み込むわけにはいかない。
何より、自分は下働き二日目。
設備へ口を出して信じてもらえる立場ではない。
「エルサ!」
リーネが呼ぶ。
「麦酒!」
仕事が残っている。
エルサは鍋から離れた。
◇
事故が起きた時、最初に床へ落ちたのは人間ではなかった。
匙だった。
からん、と乾いた音がした。
酒場では食器の音など珍しくない。
誰もすぐには振り向かなかった。
次に椅子が軋んだ。
九番卓の年配職人が、右手を卓の下へ落としていた。
左手で胸元を押さえている。
顔が赤い。
酔ったのかと思った。
昼から麦酒を三杯飲めば、珍しくもない。
その隣の若い女が笑う。
「親方、もう回ったんですか」
返事はなかった。
年配職人の口元が痙攣している。
喉が動く。
何かを吐き出そうとしているが、声にならない。
若い女の笑みが消えた。
「親方?」
彼女が肩へ触れた。
年配職人の体が横へ傾く。
椀が倒れる。
熱いアイントプフが卓から床へ流れ落ちた。
そこで酒場の空気が変わった。
「おい!」
王都衛兵が立ち上がる。
椅子が後ろへ倒れる。
職人を支えようとした瞬間、衛兵自身の指が強く曲がった。
剣の柄を握るような形で固まる。
「手が――」
言い終える前に、彼は膝をついた。
若い女が悲鳴を上げる。
周囲の客が立ち上がる。
一斉に動いたため、椅子と卓がぶつかる。
誰かの麦酒が落ちる。
さらに別の場所で、匙が床へ落ちた。
五番卓。
痩せた学生が口を押さえ、卓へ吐いた。
茶色い汁と黒パン。
その後ろで、荷運び人が腕を押さえている。
「痺れる」
「酒に何か入ってるぞ!」
「毒だ!」
その言葉が、酒場全体へ火を放った。
毒。
人は原因を知らなくても、犯人のいる言葉を好む。
客が出口へ殺到する。
リーネが盆を落とした。
木椀は割れなかったが、中身が床へ広がる。
グレタが厨房から怒鳴る。
「動くな! 走るんじゃない!」
誰も聞かない。
王都衛兵が出口を塞ごうとする。
それが逆に、客の恐怖を煽った。
「閉じ込める気か!」
「塔が毒を盛った!」
「銀の塔を呼べ!」
エルサは通路の中央に立っていた。
逃げるべきだった。
混乱は好都合。
裏口へ抜ける。
外套を持ち、頭巾を深くかぶり、王都から離れる。
毒騒ぎが起きれば、王都衛兵が来る。
銀の塔も来る。
身元確認。
事情聴取。
名簿。
証言。
どれもエルサにとって致命的だった。
ここに残る理由はない。
三日雇用の二日目。
見込み給金十二ミント。
命と比べれば、捨てる価値しかない。
錫の塔は危険になった。
ならば移るべきだ。
出口は客で塞がれている。
厨房の裏口。
排水溝側。
昨日入った経路。
足は動く。
体力も戻りつつある。
エルサは一歩、厨房へ下がった。
その時、リーネが床へ膝をついた。
倒れた盆を拾おうとしているのではない。
若い女の腕を掴み、呼びかけていた。
「聞こえる? ねえ!」
女の唇は白い。
目は開いている。
意識はある。
だが、右手が震えている。
「指が、動かない」
リーネの顔から血の気が引いた。
グレタは年配職人の襟を緩めている。
ハンスは炉を止めようとしている。
マルコの姿はない。
客は混乱。
職員は目の前の人間へ手を取られている。
酒場を捨てれば、少なくとも今日の寝床を失う。
それだけではない。
事故原因が不明のままなら、錫の塔は毒を出した酒場として閉鎖される可能性がある。
煙突の免責があっても、客が死ねば話は別。
塔内での営業停止。
職員の拘束。
王都との対立。
マルコが彼女を匿う余力も消える。
この場所を失う。
次の隠れ家がない。
逃げても、王都衛兵が周囲を封鎖する前に塔域を出られる保証はない。
知らない街路へ出て、身分証も金もほとんどなく、頭巾姿で走れば余計に目立つ。
逃走成功率は低い。
残って事故を早く収束させれば、身元確認を避けられる可能性がある。
面倒事を解決することが、現在の保身に最も近い。
最悪だった。
善意で残るより、ずっと納得できる理由ではある。
エルサは厨房へ向けていた足を止めた。
「リーネ」
返事がない。
「その人に何を食べさせた?」
「今それどころじゃ――」
「答えて!」
声が酒場へ響いた。
宮廷で給仕へ命令していた時の声。
よく通る。
大きく怒鳴らなくても、人を止める声。
何人かが振り向いた。
危ない。
だが今は必要だった。
リーネも顔を上げる。
「アイントプフ。黒パン。薄い麦酒」
「全部食べた?」
「まだ半分」
「麦酒は?」
「一口か二口」
「いつ出した?」
「さっき」
「何番卓?」
「九番」
知っている。
保温鍋のそば。
年配職人も九番。
衛兵も九番。
痩せた商人はまだ倒れていない。
同じ卓で、同じ鍋の料理。
だが全員ではない。
五番卓の学生も発症。
荷運び人は七番付近。
広がっている。
料理か。
酒か。
器か。
席か。
時間か。
一つずつ切り分ける必要がある。
「グレタ!」
エルサは呼んだ。
「同じ鍋を食べた人への配膳を止めて。残りは捨てないで」
「毒なら捨てるよ!」
「証拠まで捨てる気?」
グレタが止まる。
「ハンス、炉を止めて。鍋を動かさないで」
「もう止めてる!」
「接合部へ触らないで」
「何でお前が――」
「白い粉が出てたでしょう!」
ハンスの動きが止まった。
エルサは客の方を見る。
混乱は続いている。
「出口へ走らないで!」
誰も聞かない。
そこで、年配職人が床へ吐いた。
酸っぱい臭い。
煮込み。
麦酒。
胃液。
近くの客が悲鳴を上げ、さらに離れる。
「毒だ!」
また誰かが言う。
エルサは歯を食いしばった。
毒という言葉を否定する証拠はない。
しかし毒と決めれば、全員が食べた物を捨て、器を洗い、席を離れる。
条件が失われる。
「毒かどうかはまだ分からない!」
「なら何だ!」
客の一人が怒鳴る。
答えはない。
分からない。
けれど、分からないままでも止められることはある。
「今食べている物を口へ入れないで。椀も杯もその場へ置いて。席を動かないで!」
「ふざけるな、ここにいろってのか!」
「外へ出て倒れたら、何を食べたか分からなくなる!」
「俺たちを実験に使う気か!」
「死にたいなら好きにして!」
静かになった。
言い方を間違えた。
だが、効いた。
「症状のある人を床へ寝かせて。襟を緩める。吐いた人は横向き。水はまだ飲ませないで」
銀の塔の医師ではない。
医学知識も深くない。
ただ、王宮で倒れた者への初動は見たことがある。
気道を塞がせない。
無理に飲ませない。
倒れた人間を立たせない。
その程度。
それでも、何もしないよりはましだった。
「ミナ!」
洗濯と衛生を担当する少女が、厨房入口で固まっていた。
「布と桶。吐いた物を拭く布は分けて。使った後は洗い場へ持ち込まない」
「う、うん」
「ブルーノは?」
「夜番明けで寝てる」
「起こして。門を閉めるんじゃなく、銀の塔へ人を走らせて」
「分かった」
ミナが駆ける。
エルサは自分が指示を出していることへ遅れて気づいた。
下働き二日目。
三ミントの皿を壊した女。
何の権限もない。
だが、権限のある者がいないなら、空白は使った者のものになる。
「エルサ」
リーネが呼んだ。
若い女の手を支えている。
「この人、冷たい」
エルサは近づいた。
指先へ触れる。
冷たい。
汗をかいている。
脈は速い。
腕には目立つ変色はない。
「いつから痺れたの」
「匙を……持った時」
若い女が答える。
「食べる前?」
「一口、食べて……その後」
「舌は?」
「少し、変」
「味は?」
「普通……だった」
普通。
毒なら味がしないものもある。
設備由来でも同じ。
「椀は触らないで」
エルサは九番卓を見る。
倒れた椀。
こぼれた煮込み。
四人分の木匙。
二つの錫杯。
一つの木杯。
黒パン。
人形。
そして、まだ症状のない痩せた商人。
男は椅子へ座ったまま、青い顔で固まっていた。
「あなたは何を食べた?」
「まだ何も」
「なぜ?」
「祈りの前だった」
円卓信仰の習慣か。
同行者ではなくとも、同じ卓の年長者が食べるまで待つ地域もある。
食べていない者は無症状。
料理との関連は強い。
だが、同じ鍋を食べた酒場全員が発症しているわけではない。
「誰が、どの席へ、どの椀を運んだか覚えてる?」
エルサはリーネへ聞く。
「全部は無理」
「注文板は?」
「厨房」
「消す前?」
「まだ昼の途中だから残ってる」
記録がある。
完全ではない。
だが手掛かりになる。
「エルサ」
今度はグレタ。
年配職人の袖を捲っていた。
「これを見な」
前腕の血管が、皮膚の下で黒く浮いている。
墨を流し込んだような色。
細い筋。
枝分かれしている。
エルサの喉が狭くなった。
地下牢の壁。
ジャックの包帯の隙間。
同じ形。
ただし、年配職人の黒い筋は一瞬で薄くなった。
目の錯覚か。
血流の変化か。
「何なの、これ」
グレタが聞く。
分からない。
分かると言えば嘘になる。
「銀の塔が来るまで触らないで」
「死ぬのかい」
「私に聞かないで」
冷たい言い方になった。
だが、安易に助かるとは言えない。
「息はある。今はそれだけ見て」
酒場の入口で、誰かが叫んだ。
「衛兵だ!」
王都衛兵が来た。
早すぎる。
店内にいた制服の男の仲間か、外へ逃げた客が呼んだのか。
どちらでもよい。
問題は、これから身元確認が始まる可能性。
エルサは頭巾へ手をやった。
深く下げる。
逃げるなら今。
裏口までは近い。
だが酒場には倒れた客。
注文板。
残った料理。
鍋。
器。
すべてが、今ならまだそのまま残っている。
ここを離れれば、誰かが毒殺と決め、洗い流し、捨てる。
錫の塔は閉じるかもしれない。
自分の隠れ場所も消える。
計算は変わらなかった。
残る方が、まだ生存率が高い。
腹立たしい結論だった。
扉が開き、衛兵が三人入ってくる。
「全員、その場を動くな!」
すでにこちらが言ったことだった。
ただし、王都の紋章がつくと命令らしく聞こえる。
先頭の衛兵が床の患者と、こぼれた料理を見た。
「何が起きた」
グレタが答えようとする。
その前に、酒場の客が叫んだ。
「毒だ! 錫の塔が毒を出した!」
空気が再び揺れる。
衛兵の視線が、厨房職員へ向く。
エルサにも。
顔を上げない。
声を出さない。
下働きらしく、壁際へ寄る。
「最初に倒れたのは誰だ」
「俺は見たぞ!」
銅の塔の学生が立ち上がった。
三番卓。
首なしシシーリア人形を持っていた男。
彼は酒場を見回し、指を伸ばした。
エルサの背筋が冷える。
指先はこちらを向いた。
「その新人が運んだ席だ」
すべての視線が集まる。
九番卓。
確かに彼女が配膳した。
五番卓も。
七番卓も、途中から手伝った。
倒れた客の一人は、エルサの配膳した席にいた。
衛兵が歩み寄る。
「名は?」
逃げ道は、なくなった。
エルサは頭巾の影で唇を湿らせた。
「エルサ」
今度は一拍も遅れず、そう答えた。




