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第2話 皿を割る元王太子妃候補

翌朝、エルサは自分の髪に殺意を覚えた。


地下牢で短刀を入れられた栗色の髪は、右側だけ耳が完全に出ており、左側は頬へかかる。後ろは首筋で跳ね、短い束と長い束が互いに違う方向を向いていた。


鏡の中の女は、王太子妃候補というより、酔って羊の毛刈りへ参加した素人だった。


「ひどい」


口に出すと、鏡の中の女も同じ顔をした。


昨夜は鏡など見ないほうがよいと思っていた。


正しかった。


ただし今朝から厨房へ入るなら、髪をそのままにはできない。料理へ入れば衛生上の問題になるし、顔へかかれば作業の邪魔になる。


小部屋に置かれていた櫛は、歯が三本欠けていた。髪紐はない。


エルサは麻紐を細く裂き、残った髪を後頭部へまとめようとした。


右側が短すぎて落ちる。


左側は長すぎて膨らむ。


三度やり直し、諦めた。


「合理的に考えましょう」


誰もいない部屋で、自分へ言い聞かせる。


外見は生存に必要な最低限でよい。


身元を隠す点では、不格好な髪はむしろ好都合。


かつてのシシーリアを知る者でも、宮廷画家が描いた滑らかな髪の令嬢と、目の前の野良犬じみた女を同一人物とは思わない。


利点はある。


とても不愉快な利点ではあった。


扉が二度叩かれた。


返事をする前に開く。


「起きてるね」


入ってきたのは、四十代半ばほどの女だった。


背が高く、肩幅が広い。灰色の髪を後ろで一つに結び、厚い前掛けをつけている。片手に衣服、もう片方に木靴を持っていた。


昨日、着替えを置いていったのもこの女かもしれない。


女はエルサの髪を見た。


何も言わない。


目だけが、ひどいものを見たと正直に語っていた。


「グレタだよ。厨房と酒場の下働きをまとめてる」


「エルサです」


自分で名乗ると、まだ舌の上で名前が滑った。


グレタは気にしない。


持ってきた衣服を寝台へ置く。


「昨日のは大きすぎたろ。こっちを着な。古いけど破れてはいない」


生成りのシャツ。


茶色のスカート。


短い上着。


煤で色の分からなくなった前掛け。


どれも洗ってあるが、染みは落ちていない。


エルサは袖口を確かめた。


「貸与品?」


「そうだよ」


「破損時は給金から?」


「マルコから聞いたのかい」


「契約に書かれていました」


「三日仕事に板まで使わせたって?」


グレタは呆れた。


「面倒な子だね」


「条件の確認は必要です」


「皿を割らなきゃ、そうそう引かれないよ」


昨日も聞いた。


新人は割る。


暗黙の前提らしい。


「割りません」


「そうかい」


グレタは否定しなかった。


その言い方が、否定されるより腹立たしい。


「朝飯は?」


「まだです」


「食堂で残りを食べな。急ぎな。朝の皿が山になってる」


「髪を整えるものはありませんか」


グレタは改めて髪を見た。


「刃物ならあるよ」


「それ以上切るの?」


「揃えるんだよ」


「誰が?」


「私が」


エルサは一歩下がった。


グレタの腰には、小ぶりの肉切り包丁が差してある。


「それを使うつもり?」


「髪切り鋏を取ってくる」


「そうしてください」


「王宮のお嬢様じゃあるまいし、髪くらい何でも切れるよ」


心臓が一度、強く打った。


グレタに他意はない。


汚れた手を見れば、元貴族か裕福な家の出身だと疑われても不思議ではない。


エルサは声を整えた。


「包丁で切られるのは、昨日で十分です」


「昨日?」


「何でもありません」


グレタは追及しなかった。


この塔では、過去を聞かないという話は本当らしい。


「髪は昼にする。今は頭巾を使いな」


生成りの布を渡される。


エルサはそれを頭へ巻いた。


宮廷で侍女が着けていたものより粗末で、形も悪い。


だが短い髪は隠れた。


鏡の中には、見知らぬ下働きがいた。


これならよい。


少なくともシシーリアには見えない。



錫の塔の朝食は、前夜のアイントプフを薄めたものだった。


具はほとんど残っていない。


汁の底に、潰れたカルトッフェルとキャベツの欠片が沈んでいる。塩気も弱く、代わりに煮込みすぎた根菜の甘みがあった。


黒パンを一切れ浸す。


昨夜より胃は食べ物を受け入れた。


満足するほどではないが、仕事前の燃料としては足りる。


周囲には職人や下働きが二十人ほどいた。


誰もエルサを気にしていないようで、時折視線が飛んでくる。


見慣れない顔。


不揃いな髪。


言葉遣いだけ妙に整った女。


当然の警戒だった。


エルサも彼らを観察した。


煤で黒い腕の男。


薬草の匂いがする女。


指先へ麦芽をつけた少年。


胸元へ細かな工具を下げた職人。


錫の塔と呼ばれていても、料理人だけの集まりではないらしい。


醸造。


防腐。


日用魔道具。


農業。


洗濯。


倉庫。


複数の職能が、同じ食堂へ集まっている。


ただし、彼らの間に見える序列は、王宮とは違った。


服の布地や家名ではない。


誰が大鍋の栓を直せるか。


誰が腐った麦を匂いで見抜けるか。


誰が火傷せず鉄鍋を持てるか。


そういう、実際に役立つことが人の位置を決めている。


大変に野蛮で、合理的だった。


「新人」


背後から声をかけられた。


振り向く。


年下に見える少女が立っていた。


細身。


赤茶色の髪を二本の三つ編みにしている。腕には木皿を十枚ほど抱えていた。


「食べ終わったなら、持ってきて」


「どこへ?」


「洗い場」


少女はエルサの返事を待たず、歩いていく。


エルサは椀と匙を持って立ち上がった。


その時、隣の男がパンを食べながら言った。


「リーネ、最初から飛ばすなよ。昨日まで死人だったらしいぞ」


「死人なら皿を洗わないの?」


リーネと呼ばれた少女は足を止めなかった。


「洗わないだろ」


「生きてるなら洗うでしょ」


正論だった。


エルサは男を見た。


若い。


背が高く、袖を肩まで捲っている。腕には古い火傷の痕。腰へ火掻き棒を差していた。


「あなたは?」


「ハンス。火と鍋。あと重いもの」


「人間も?」


「軽ければ」


昨日のマルコと似たことを言う。


錫の塔では、人間の扱いが荷物と大差ないらしい。


「急いで」


リーネの声が飛ぶ。


エルサは椀を持って洗い場へ向かった。



洗い場には、皿が山になっていた。


誇張ではない。


木皿。


土器の椀。


錫の大皿。


木匙。


鉄鍋。


小鍋。


樽の栓。


正体の分からない網。


壁際に置かれた三つの大桶から、湯気と灰汁の臭いが上がっている。


床は濡れ、木の簀子が敷かれていた。


「左が油物。真ん中が軽い汚れ。右はすすぎ」


リーネが説明する。


「木皿は長く浸けない。割れるから。錫皿に灰を使いすぎると曇る。土器は欠けを見て、縁が傷んでいたらこっちへ分ける。匙は数える。なくなるから」


「洗剤は?」


リーネが眉を寄せた。


「灰汁」


「それは分かっています。濃度は?」


「見れば分かる」


「何を見て?」


「泡と色」


「基準は?」


「手を入れて、ぬるっとするくらい」


「数値では?」


リーネは黙った。


理解できないのではない。


呆れている。


「毎朝測ってる暇があると思う?」


「再現性が必要でしょう」


「昨日と同じ灰を、昨日と同じ桶に入れて、同じくらいの湯で溶く。それで十分」


「灰の質が違えば?」


「触れば分かる」


また感覚。


ハンスの炉の音と同じだ。


現場の人間は、自分の身体を計測器として使っている。


シシーリアのいた世界では、身体感覚は信用されなかった。


帳簿。


印章。


証書。


重量札。


数字が正しさを証明する。


ここでは違う。


触れば分かる。


匂えば分かる。


音で分かる。


その言葉を、怠慢と切り捨てるのは簡単だった。


だが、彼らは実際に毎日仕事を回している。


「まず見てて」


リーネは木皿を取った。


真ん中の桶で布を濡らし、表面を素早く拭う。


油の強い箇所だけ左桶の灰汁へつける。


縁を親指でなぞる。


欠けがないか確認。


右桶ですすぐ。


立てかける。


一枚につき、ほんの数呼吸。


速い。


エルサは動きを覚えた。


「できる?」


「ええ」


木皿を取る。


見た目は簡単だ。


料理の汚れを落とし、すすぎ、置く。


会計より単純。


最初の一枚を、左の灰汁桶へ入れた。


布でこする。


落ちない。


もう一度。


まだ脂が光っている。


力を入れる。


木皿が軋んだ。


「浸けすぎ」


リーネが横から引き上げた。


「まだ汚れが」


「そこは木目」


「脂に見えるわ」


「木目」


皿を傾けて光へ当てる。


確かに、色の濃い木目だった。


「分かりにくい」


「毎日見れば分かる」


二枚目。


今度は軽く洗う。


すすぐ。


置く。


「逆」


「何が?」


「伏せ方。水が溜まる」


リーネが皿を立て直す。


三枚目。


土器。


表面の煮込みを落とす。


縁に小さな欠け。


エルサは指先で触れた。


使用可能か廃棄か。


王宮なら即座に廃棄だろう。


錫の塔では修理または用途変更かもしれない。


「これは?」


「欠け箱」


「修理するの?」


「小さいなら。大きければ植木鉢か灰受け」


壊れたものは別用途へ回す。


悪くない。


四枚目。


錫皿。


表面は鈍く光っている。


エルサは灰汁布で拭いた。


黒い汚れが残る。


さらに灰をつける。


強くこする。


リーネの手が止めた。


「やりすぎ」


「まだ曇っているでしょう」


「錫は銀じゃない」


「分かっています」


「分かってない洗い方してる」


言い返そうとして、止まった。


確かに、王宮の銀器と同じ感覚で磨いていた。


銀は曇りを嫌う。


錫は柔らかい。


磨きすぎれば傷がつく。


知識としては知っていた。


手が覚えていなかった。


「次」


リーネは皿を取り上げた。


苛立ちを隠さない。


エルサも苛立っていた。


簡単な仕事のはずなのに、簡単ではない。


五枚目。


木匙。


細い溝に固まった粥が入っている。


爪で落とす。


すすぐ。


置く。


「数えた?」


「一つでしょう」


「今の山、全部」


「これから洗うのに?」


「洗う前と後で数える。落としたのを誰かが踏んだら危ない」


面倒だ。


だが必要ではある。


エルサは洗い前の匙を数え始めた。


二十七。


一本だけ形が違う。


柄に青い糸。


「これは?」


「薬草用。別」


「なぜ同じ場所に?」


「誰かが間違えた」


「混ざらないよう箱を分ければ?」


リーネは一瞬止まった。


「箱が足りない」


「札をつければ?」


「札が濡れる」


「柄へ刻みを――」


「今は洗って」


切られた。


正しい。


改善案を出す前に、目の前の仕事を終えるべきだった。


しかし、明らかな非効率を見ると口を出したくなる。


シシーリアは、人が作った仕組みの穴を探すよう教育されてきた。


今はその教育が、皿一枚より役に立たない。


しばらく、作業は続いた。


エルサの速度は遅い。


洗い残しを恐れてこすりすぎる。


皿を置く角度を間違える。


木匙をまとめて持ち、一本落とす。


床へ落ちた匙を拾おうとして、背後の桶へ肘をぶつける。


湯が跳ねる。


頭巾が濡れる。


リーネが深く息を吐いた。


「貴族のお嬢様って、皿を洗ったことないの?」


エルサの手が止まった。


「貴族ではありません」


「じゃあ商人の娘?」


「違います」


「手がそういう手」


「どんな手?」


「何かを持っても、重さを分かってない手」


見事な観察だった。


エルサは木皿を持ち直した。


「重さは分かるわ」


「じゃあ、その皿を五枚重ねて持って」


言われた通り重ねる。


持ち上げる。


思ったより不安定だ。


濡れた木皿は滑る。


「指を広げて、下から支える」


リーネが自分の手で示す。


エルサも真似る。


安定した。


「力じゃないのね」


「力もいるけど、落とさない持ち方がある」


「先に教えて」


「聞かれなかった」


「新人へ必要なことを教えるのは、あなたの仕事では?」


リーネの目が細くなった。


「新人ができるって言ったから」


その通りだった。


エルサは、見ればできると思った。


皿洗い程度。


単純労働。


誰でもできる。


そう考えていた。


リーネには、その傲慢さが最初から見えていたのだろう。


「もう一度」


エルサは五枚を持ち上げる。


今度は安定した。


「それで運ぶ。急がない」


「分かったわ」


一歩。


二歩。


洗い終えた皿を棚へ運ぶ。


床の簀子は濡れている。


滑らないよう、足裏を置く。


三歩。


四歩。


背後からハンスの声がした。


「グレタ! 奥の保温鍋、また唸ってるぞ!」


反射的に振り向いた。


その瞬間、上の皿が滑った。


リーネが「あ」と言う。


エルサは咄嗟に腕を引いた。


一枚目は胸へ当たり、二枚目と三枚目を押した。


四枚目が床へ落ちる。


木皿なら割れなかったかもしれない。


だが一番下に混ざっていたのは、縁の薄い錫皿だった。


簀子の角へ当たる。


甲高い音。


皿の縁が曲がり、中央へ亀裂が入った。


洗い場が静かになった。


すべての音が止まったわけではない。


鍋は鳴っている。


水も流れている。


遠くで誰かが笑っている。


ただ、近くにいた人間が全員、こちらを見た。


エルサは床の皿を見下ろした。


割った。


正確には裂けた。


マルコの予言どおりだった。


三日給金十五ミント。


修理実費。


錫皿一枚の価格。


食事と寝床を引けば、そもそもほとんど残らない給金からさらに引かれる。


「いくら?」


エルサは聞いた。


リーネが眉を寄せる。


「何が」


「修理代」


「先に怪我してないか見るところでしょ」


「怪我はしていないわ」


手を見る。


切れていない。


胸元へ皿が当たったが、痣になる程度。


「皿は?」


「見れば分かるでしょ。使えない」


「修理できる?」


「フランツかオットーに聞かないと」


「では、修理費を――」


「謝らないの?」


言葉が止まった。


リーネは怒っていた。


皿を割ったことだけではない。


「弁償はします」


「そうじゃない」


「損失を補填すれば、問題は解決するでしょう」


「誰が棚を片づけるの」


「私が」


「誰が修理へ持っていくの」


「私が行きます」


「今日使う皿が一枚減ったら、誰が困るの」


答えられなかった。


リーネは床へ屈み、裂けた錫皿を拾った。


指先で縁を確かめる。


「お嬢様は、金を払えば終わりだと思ってる」


「お嬢様ではないと言ったでしょう」


「じゃあ、何で謝らないの」


エルサは口を開いた。


謝罪。


すみません。


申し訳ありません。


宮廷で何度も使った。


相手の機嫌を取るため。


交渉を進めるため。


責任を曖昧にするため。


言葉としては知っている。


けれど、今ここでそれを口にすれば、自分の無能を認めることになる。


皿洗いすらできなかった。


帳簿を読み、外国商人と渡り合い、王宮の宴席を取り仕切ったシシーリアが。


木皿と錫皿の扱いを間違え、床を濡らし、皿を割った。


恥だった。


あまりにも小さく、言い逃れのできない恥。


「……悪かったわ」


ようやく言う。


リーネの表情は変わらない。


「聞こえない」


「悪かったと言ったの」


「誰に?」


面倒な少女だ。


エルサは息を吸った。


「リーネ。仕事を増やして、悪かったわ」


「皿にも」


「皿に謝るの?」


「作った職人に」


合理的に考えれば、物に謝る意味はない。


だが、皿には材料と手間がかかっている。


東で鉱石を掘る者。


錫を運ぶ者。


加工する者。


売る者。


使う者。


一枚の皿の後ろに、複数の労働がある。


エルサは裂けた皿を見た。


「……作った人にも、申し訳ないことをしたわ」


リーネは少しだけ目を逸らした。


怒りが完全に消えたわけではない。


しかし、それ以上責める気もないらしい。


「次は振り向かない」


「ええ」


「呼ばれても、置いてから」


「分かったわ」


「分かったなら洗う」


厳しい。


だが追い出されはしなかった。


エルサは残った皿へ戻った。


今度は一枚ずつ。


木皿は長く浸けない。


錫皿はこすりすぎない。


土器は縁を見る。


匙は数える。


単純な仕事ではない。


ただ、覚えることが少ない仕事でもない。



昼前、グレタが洗い場へ来た。


裂けた錫皿は、作業台の端へ置かれている。


「割ったかい」


第一声だった。


「予言が当たって嬉しい?」


エルサは答えた。


グレタは笑う。


「新人は割る」


「割らない新人もいるでしょう」


「いるよ」


「誰?」


「クロエ」


名前を聞いた瞬間、指が止まった。


木皿が灰汁桶の中で傾く。


クロエ。


王太子の新しい婚約者。


シシーリアが死んだ後、その席へ座った女。


一歩引いた笑み。


黒い髪。


南のリンデン家の養女。


無害で、慎ましく、王太子の傷を癒した少女。


グレタは続けた。


「初日から皿を一枚も割らなかった。洗いも早かったねえ。麦の匂いにも敏かったし、泡を見る目もあった」


「ここで働いていたの?」


声が硬くなる。


リーネがエルサを見た。


「知らなかったの?」


「知る理由がないわ」


「少し前まで、あんたと同じ下働きだったよ」


グレタは何でもない話のように言う。


「家を継げない地方座士の三女でね。食いぶちを稼ぐために奉公へ来た。醸造の筋がよくて、クルトが気に入ってた」


「それが、王太子の婚約者に?」


「世の中、何があるか分からないね」


グレタは割れた皿を持ち上げた。


「クロエは皿を割らなかったけど、最初の麦酒を一樽、酸っぱくしたよ」


「一樽?」


「温度を読み違えた」


少しだけ溜飲が下がる。


自分でも醜いと思う。


だが、完全無欠ではないと分かるだけで安心する。


「弁償したの?」


「半年かけて働いた」


「婚約者になってから返せば、すぐでしょう」


「王宮へ行く前に返したよ」


エルサは黙った。


逃げずに働いて返した。


借金を残さずに王宮へ入った。


嫌な女だ。


そういう真面目さは、憎みづらい。


「クロエ様は、よい方でした」


リーネが言った。


様。


今は王太子婚約者だから当然だ。


「皿を割っても、最初に謝る人だった」


棘がある。


エルサへ向けた言葉だ。


「そう」


「仕事も覚えるのが早かった」


「そう」


「字も綺麗で、計算もできて――」


「それで?」


声が強くなった。


リーネが口を閉じる。


グレタが二人を見た。


「知り合いかい?」


「いいえ」


即答した。


クロエと直接話したことは、ほとんどない。


王宮の夜会で遠くから見た程度。


婚約破棄の前には、名前すら覚えていなかった。


それでも、彼女は自分の後へ座った。


自分の死によって空いた場所へ。


知り合いでないからこそ、都合よく憎める。


「あの人の話はやめて」


「なぜ?」


リーネが聞く。


「嫌いだからよ」


洗い場が一瞬静まった。


グレタは眉を上げた。


リーネは露骨に顔をしかめる。


「会ったこともないのに?」


「嫌いになるのに、会う必要はないでしょう」


「変なの」


「人間は大抵、知らない相手の方が嫌いやすいものよ」


リーネには通じなかった。


当然だ。


自分でも筋が通っていない。


クロエが陰謀へ関与した証拠はない。


王家に選ばれただけかもしれない。


王太子と以前から知り合いだったという噂はある。


けれど、その程度。


シシーリアの失脚を仕組んだのは、もっと大きな力だ。


クロエ一人へ向ける憎しみは、合理的ではない。


分かっている。


分かっていても、嫌だった。


彼女が皿を割らなかったという話すら。


「休憩にするよ」


グレタが言った。


「エルサ、カルトッフェルを剥きな。昼の鍋に使う」


洗い場の隅に、土のついたカルトッフェルが山積みになっている。


小さな刃物と桶が渡された。


エルサは丸椅子へ座った。


一つ取る。


皮を剥く。


貴族になる前、港の共同炊事場で手伝った記憶はある。


だが十年近く前だ。


刃を入れる。


皮と一緒に、白い身が厚く削れた。


リーネが横から見ていた。


「厚い」


「久しぶりなのよ」


「食べるところまで捨ててる」


「分かっているわ」


二つ目。


クロエ。


刃が深く入る。


白い身が大きく落ちた。


クロエは皿を割らなかった。


三つ目。


クロエは初日に謝った。


また厚くなる。


クロエは借金を働いて返した。


四つ目。


王太子の隣にいる。


皮ではなく、半分近く削ってしまった。


リーネが手を伸ばし、カルトッフェルを取り上げた。


「何してるの」


「剥いているでしょう」


「殺してる」


「芋は死なないわ」


「食べるところがなくなる」


リーネは薄く皮を剥いて見せた。


刃を寝かせる。


表面だけをなぞる。


芽の部分は深く抉る。


「ここは取る。芽は食べると腹を壊すから。ほかは薄く」


知っている。


カルトッフェルの芽に毒があることくらい。


それでも、自分の手ではうまくできない。


エルサは新しい一つを取った。


刃を寝かせる。


薄く。


途中で引っかかる。


また身を削る。


「クロエ様は、もっと上手かった」


リーネが言った。


エルサの刃が止まった。


「リーネ」


「何」


「次にその名前を出したら、この芋をあなたの口へ入れるわ」


「生で?」


「芽つきで」


リーネの顔が引きつった。


少しだけ気分がよい。


「性格悪い」


「知ってる」


地下牢でジャックが使った言葉を、そのまま返した。


グレタが離れた場所で笑っている。


「喧嘩するなら手を動かしな!」


二人とも黙ってカルトッフェルへ戻った。


エルサは皮を剥く。


薄く。


また厚い。


芽だけ深く。


失敗。


別の一つ。


皿洗いもできない。


皮むきも下手。


金を払えば終わりだと思っていた。


現場では、損失の値段だけでなく、増えた手間と失われた時間まで誰かが背負う。


シシーリアが知っていたのは、帳簿へ載る費用だけだった。


載らない費用は、見えていなかった。


認めるのは腹立たしい。


だが、見えなかったものは、覚えるしかない。


エルサは刃を寝かせた。


今度は、さきほどより少し薄く皮が剥けた。


「まだ厚い」


リーネが言う。


「昨日よりはましよ」


「昨日、剥いてないでしょ」


「では、最初より」


「最初がひどすぎる」


「黙って」


昼の鍋へ入るカルトッフェルは、必要な量より少し小さくなった。


その日の給金から、裂けた錫皿の修理代が三ミント引かれた。


エルサは初めて、自分の労働が一枚の皿より安いことを知った。


王太子妃候補だった時より、ずっと分かりやすい評価だった。

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