第1話 排水溝で死ぬな
死者を運ぶ者は、荷下ろしまで丁寧にしてくれるとは限らない。
樽の蓋が開いた時、シシーリアの目へ最初に入ったのは、曇った朝空でも、逃げ切った自由の景色でもなかった。
泥のついた長靴だった。
「降りろ」
ジャックが言った。
樽の中で丸まっていた脚は、すぐには動かなかった。膝を伸ばすと、固まった筋が引きつり、ふくらはぎに痛みが走る。
シシーリアは樽の縁へ手をかけた。
排水路で切った掌が木肌に擦れた。傷へ酸っぱい酒の残りが入り込み、歯の奥まで響くような痛みが走る。
それでも声は出さなかった。
ここまで運ばれた荷物が、降ろす段階で壊れやすいと判断されれば、引き返して交換される可能性がある。
人間としてはあまりに悲しい考え方だが、現在の彼女は人間より荷物に近かった。
「手を貸していただける?」
「片腕の男に言う台詞か、それ」
「片腕しかなくても、私よりは元気でしょう」
ジャックは鼻で笑った。
残った左手で、彼女の二の腕を掴む。引き上げ方は乱暴だったが、樽の外へ落としはしなかった。
地面へ降りた瞬間、膝から力が抜けた。
シシーリアは荷車の側板へ肩をぶつけ、そのまま石畳へ座り込んだ。
朝靄が薄く漂っている。
王都の中心部とは違い、辺りには白い石造りの建物も、飾り気のある街灯もなかった。
低い工房。
積み上げられた酒樽。
黒ずんだ煙突。
泥のついた荷車。
干された薬草と、濡れた作業着。
少し離れた場所では、巨大な風見鶏のような金属板が、風もないのにきしみながら回っている。
建物全体から、麦汁、炭、煮込み料理、湿った木材、獣脂、発酵しすぎた果実の臭いがした。
王宮の香油と蝋燭の匂いより、ずっと騒がしい臭いだった。
「ここは?」
「降ろし場だ」
「それは見れば分かります」
「なら聞くな」
ジャックは荷車から空樽を下ろし始めた。
二人の部下も、シシーリアを見ない。最初から、ここまで運ぶ契約しかしていないらしい。
シシーリアは建物を見上げた。
塔と呼ぶには、ずいぶん低い。
背後には確かに円柱状の高い建築物が伸びているが、王宮から見えた賢者の塔の印象とはまるで違った。
上層部分は煤け、外壁には継ぎ接ぎの足場が組まれ、窓から長い管や縄が突き出している。
塔の周囲へ無計画に工房、倉庫、醸造所、食堂を増築した結果、建物全体が太った獣のように横へ広がっていた。
壁には、錫色の円形看板。
その下に、小さな文字で標語が刻まれている。
> 器は低く、総てを支える。
錫の塔。
七つの賢者の塔の中で、最も格が低いとされる場所。
宮廷でその名が出る時は、たいてい笑い話と一緒だった。
食事と酒しか作れない塔。
高尚な魔法を理解できない落ちこぼれの集まり。
他塔の雑用係。
王都の宴席で錫の塔の職人が紹介されれば、誰かが決まって「今夜の麦酒は期待できますな」と言い、周囲が上品に笑った。
シシーリアも笑ったことがある。
記憶から削除したい項目が、一つ増えた。
「中へ入らないの?」
ジャックは答えなかった。
荷車の底から、濡れた麻袋を引きずり出す。
彼はその袋をシシーリアの隣へ落とした。
中身は、黒パン一つ、水筒、灰色の外套だった。
「それを使え」
「代金は?」
「払ってある」
「誰が?」
「霧に聞け」
「便利な言葉ね」
「便利だから使ってる」
ジャックは荷車へ乗った。
シシーリアは外套を持ち上げた。
粗い毛織物。擦り切れた袖。裏側に薄く煙の臭いが染み込んでいる。
人目を避けるには役立つ。
寒さを防ぐにも。
「待って」
ジャックが手綱を取る。
「何だ」
「私をここへ置けば、誰かが拾うのね?」
「さあな」
「何も知らない人間を、ただ賢者の塔の裏へ捨てるほど、霧の運び屋は慈善的ではないでしょう」
「俺たちは慈善家だ。料金さえ払えばな」
「誰が払ったの?」
ジャックは彼女を見下ろした。
目の下には疲労の影があり、濡れた無精髭には白い霧が細かな水滴となって付着していた。
「お嬢様」
その呼び方には、もう敬意も皮肉もあまり残っていなかった。
「生き延びた直後に、全部を知ろうとするな。知るってのは、持ち歩く荷物が増えるってことだ。今のお前は、自分の体だけでも重そうだろ」
反論する言葉が一瞬遅れた。
腹立たしい。
だが、正しい。
正しさとは、大抵の場合、こちらの気分を害するために存在する。
「少なくとも、あなたの腕については――」
ジャックの目が冷えた。
シシーリアは口を閉じた。
不用意な追及は、命を縮める。
今日はすでに一度学んだ。
学費はまだ払っていない。
払わせられる前に黙るべきだった。
「次に会った時、その続きを聞くわ」
「次があると思うな」
「ないと思っている人間は、そんな言い方をしないものよ」
ジャックは小さく舌打ちした。
「死ぬなよ」
それだけ言って、手綱を鳴らす。
荷車が動き出した。
車輪が泥を踏み、二本の轍を残す。
シシーリアはその場に座ったまま、緑の外套が朝靄の向こうへ消えるのを見送った。
追おうとは思わなかった。
追える脚でもない。
立ち上がろうとすると、視界の端が暗くなった。
胃が空だ。
喉が乾いている。
体は冷えている。
排水路で濡れた服は、肌へ貼りついたまま。
現在の資産。
価値の怪しいアルト金貨一枚。
死人の指貫一つ。
黒パン一つ。
知らない塔。
使えない脚。
大変に心強い。
シシーリアは袋の黒パンを見た。
表面がひび割れ、石のように硬い。
水へ浸さなければ、前歯のほうが負けそうだった。
けれど、食べ物は食べ物だ。
手を伸ばす。
指先が届く前に、腹の奥が強く縮んだ。
気持ち悪い。
空腹が行き過ぎると、人間は食べ物を見ただけで吐き気がするらしい。
西の飢饉記録で読んだことがある。
読み物として理解するのと、自分の胃が実演するのとでは、ずいぶん趣が違う。
彼女はパンを掴み、立ち上がろうとした。
錫の塔の敷地内へ入れば、王都衛兵は手を出せない。
煙突の免責。
賢者の塔に認められた治外法権。
そこまで行けば、少なくとも路上で拘束される危険は減る。
建物の裏口までは、二十歩ほど。
二十歩。
数字にすれば少ない。
一歩目で膝が折れた。
シシーリアは石壁へ手をついた。
掌の傷が開く。
血が薄く滲み、壁へついた。
二歩。
三歩。
四歩目で、靴が泥へ沈んだ。
死者から剥いだ靴は大きさが合っていない。踵が浮き、足裏の皮が擦れている。
五歩。
排水溝が見えた。
建物の壁際を流れる、細い水路。
厨房や醸造所の排水が、湯気を立てながら流れ込んでいる。
麦の殻。
野菜の皮。
白い脂。
泡。
濁った水は意外にも温かそうだった。
その隣なら、少なくとも風は少し弱い。
十二歩目で、彼女は考えるのをやめた。
十六歩目で、石壁が遠ざかった。
二十歩目へ届く前に、地面が近づいた。
倒れる瞬間、せめて顔だけは排水溝へ入れまいと体を捻った。
最後に残った貴族的矜持ではない。
溺死は避けたい。
すでに獄死したことになっているのに、今度は食堂の汚水で死ぬのは、死因が多すぎる。
頬が濡れた石へ当たった。
痛みは遅れて来た。
遠くで扉が開く音がした。
誰かが何かを引きずっている。
木箱か、樽か。
足音が近づいた。
「何だ、これ」
男の声だった。
シシーリアは目を開けようとした。
瞼が重い。
「おい」
靴先で、肩を軽く押される。
死体確認としては乱雑。
生存確認としては妥当。
「こんなところで寝るな。荷が通れない」
返事をしようとした。
唇が動いただけだった。
男が屈み込む気配がする。
煤と麦酒と、煮た肉の臭い。
太い指が首筋へ触れた。
脈を測っている。
「生きてるな」
残念そうにも、安心したようにも聞こえなかった。
ただ事実を確認した声だった。
シシーリアは何とか目を開いた。
視界の中心に、丸い顔があった。
三十代後半ほど。
短い茶髪。
無精髭。
煤けた革の前掛け。
腕まくりした太い前腕には、火傷の跡と細かな切り傷がある。
恰幅がよい。
牢番とは違う。
この男の腹は酒だけでなく、きちんと食事をした人間の腹だった。
男はシシーリアの顔を見て、それから排水溝を見た。
「死ぬなら、もう少し横で頼む」
第一声としては、かなり悪い。
「……どうして」
声が掠れた。
「排水が詰まる」
想像以上に悪かった。
「人が……死ぬのよ」
「ここじゃ珍しくない」
男はあっさり答えた。
「だが排水が詰まると、厨房と醸造所と洗濯場が止まる。百人が困る。だから横で死んでくれ」
温かい慈悲も、救済の約束もない。
ただし筋は通っている。
筋が通っていることが、今のシシーリアには有り難かった。
「まだ……死ぬ予定はないわ」
「そうか」
男は彼女の手元を見た。
黒パン。
外套。
服の汚れ。
靴。
掌の血。
切られた髪。
一つずつ。
妙にゆっくりと。
「なら、立てるか?」
「立てるなら、寝ていません」
「もっともだ」
男は笑った。
快活で大きな笑いではない。
口元だけが緩むような、含みのある笑いだった。
「名前は?」
喉の奥が冷えた。
シシーリア。
その名は死んだ。
ゼーヴェル家の娘。
王太子の元婚約者。
国家反逆者。
悪女。
どれも、今ここで名乗れば命を失う。
偽名が必要だった。
何でもよい。
何でもよいはずなのに、一つも浮かばない。
新しい名前を考える余裕などなかった。
人間は名前を捨てれば自由になれると思っていた。
実際には、名前がなければ呼ばれた時に振り向くことさえできない。
「……ないわ」
男の眉が少し上がった。
「ない?」
「捨てたの」
「名前を?」
「そうよ」
「もったいない」
まるで食べ残しを惜しむように言った。
男はシシーリアの顔をもう一度見た。
栗色の髪。
汚れた肌。
死者の服。
「じゃあ、エルサでいい」
「なぜ?」
「今朝、仕込みの樽へ入れるはずだった酵母の札に、そう書いてあった」
「酵母?」
「床へ落として濡れた。使えなくなったから、名前だけ余ってる」
あまりにも雑だった。
シシーリア・フォン・ゼーヴェルという名は、王家と七豪族の政治を揺らした。
エルサという名は、濡れて使えなくなった酵母の札から拾われた。
身分相応というものかもしれない。
「ほかの候補は?」
「今日の荷札なら、塩漬けニシン、豚脂、二番樽、薪だな」
「エルサで結構よ」
「よし。エルサ」
男は試すように呼んだ。
シシーリアは一瞬遅れて、男を見た。
彼はその遅れを見逃さなかった。
だが何も言わない。
「俺はマルコだ」
姓は名乗らなかった。
役職も。
ただの厨房職人か、醸造所の親方か。
少なくとも塔長には見えない。
賢者の塔の長が、朝から排水溝脇で荷物を運んでいるはずがない。
「立てないなら運ぶが、代金は取る」
「人を運ぶのに?」
「ここまで何を食った?」
「何も」
「水は?」
「少し」
「寝たか?」
「樽の中で」
「それは睡眠じゃないな」
マルコは彼女の脇へ腕を差し入れた。
「待って。代金はいくら?」
「今決めるのか?」
「今決めなければ、あとで好きな額を請求されるでしょう」
マルコの口元がまた緩んだ。
「なるほど」
「何が?」
「聞いてた通りだ」
シシーリアの背中に、冷たいものが走った。
「誰から、何を聞いたの」
「痩せた野良猫が来るって」
「猫は契約書を読みません」
「だから困ってた」
男は答えにならない返事をし、そのまま彼女を抱え上げた。
シシーリアは反射的に抵抗した。
「下ろして」
「歩けるのか?」
「無理でも、運び方があるでしょう」
「樽がいいか?」
黙るしかなかった。
マルコは見た目どおり重いものを運び慣れていた。シシーリア一人程度なら、野菜袋と大差ないらしい。
腕は太く、体温が高かった。
濡れた服越しでも温かい。
その事実が腹立たしかった。
他人の温かさへ安心するほど、自分が弱っている。
錫の塔の裏口を入る。
中は静かな保護施設ではなかった。
怒鳴り声。
包丁の音。
鍋がぶつかる音。
床を転がる樽。
魔導具の歯車。
若い職人の笑い声。
誰かが歌っている。
誰かが喧嘩している。
誰かが「樽を逆に置くな」と叫び、別の誰かが「札を逆に貼ったのはそっちだ」と言い返している。
天井には銅管と錫管が這い、壁へ鍋、匙、鋸、木槌、乾燥薬草が同じように吊られていた。
厨房と工房と倉庫の境界がない。
床には小麦粉。
煤。
野菜屑。
削った金属片。
それでも不潔という印象はなかった。
汚れている場所と、汚してはいけない場所が明確に分けられている。
作業のための汚れだった。
マルコは人を避けながら、奥の小部屋へ入った。
そこには簡素な寝台と、小さな丸机があった。
角のない家具。
王宮にも同じ慣習はあったが、こちらの机は儀礼ではなく、ぶつかって怪我をしないために丸く削られているように見えた。
マルコはシシーリア――エルサを寝台へ下ろした。
「服を脱げ」
「また?」
「濡れたまま寝たら熱を出す」
「着替えは?」
「今持ってくる」
「女性を呼んで」
「いるにはいるが、今は朝飯の仕込み中だ」
「なら待つわ」
「熱を出す時間は待ってくれない」
「あなた、この塔では女性の服を脱がせるのが通常業務なの?」
「倒れた酔っ払いなら男女問わず脱がせる」
「最低の職場ね」
「まだ雇ってない」
マルコはそう言って外へ出た。
扉は閉めた。
一応、最低限の良識はあるらしい。
しばらくして、灰色の下着と麻の作業着、布、桶が置かれた。
誰が運んできたのかは分からない。
シシーリアは震える指で死者の服を脱いだ。
布が肌へ貼りついている。
剥がすたび、冷えた皮膚が痛んだ。
胸元には赤い擦り傷。
膝は紫色。
肘は泥まみれ。
掌の傷は思ったより浅い。
指貫と金貨は、濡れてはいたが残っている。
指貫を握る。
身元不明の少女。
マリアという名を、彼女はまだ知らない。
知らない者の死を借りた。
知らないから軽い、ということにはならなかった。
シシーリアは指貫と金貨を新しい服の内側へ隠した。
濡れた服は桶へ入れる。
その服を洗えば、死者の臭いは消えるのだろうか。
考えたくなかった。
作業着は大きかった。
袖を二度折る。
腰紐を強く締める。
髪は、地下牢で乱雑に切られたまま。
耳の横だけ短く、後ろは肩へ届く。
鏡はない。
ありがたい。
しばらくすると、扉が開いた。
マルコが木椀を持って入ってくる。
湯気。
最初に鼻へ届いたのは、豚脂と煮たタマネギの匂いだった。
次に、カブ。
麦酒。
焦げた根菜。
塩。
木椀の中には、濁った茶色の汁と、崩れかけたカルトッフェル、細い肉片、キャベツの芯が入っている。
貴族の食卓なら、厨房へ返される料理だった。
見た目が悪い。
具材の切り方も揃っていない。
脂が表面へ浮いている。
それでも、シシーリアの胃が強く反応した。
「食べられるか?」
マルコが聞く。
「毒見は?」
「俺が朝から食ってる」
「あなたに効かない毒かもしれない」
「面倒な猫だな」
「猫扱いをやめて」
「エルサ」
名前で呼ばれる。
また一拍遅れた。
マルコは椀と匙を丸机へ置いた。
「自分で食えるなら、食え。無理なら口へ突っ込む」
「脅迫?」
「介助だ」
「結構よ」
シシーリアは寝台から起き上がった。
頭が揺れる。
丸机へ手をつき、椀を引き寄せた。
匙は木製。
王宮で使っていた銀の匙より厚く、口当たりは悪そうだった。
汁を一匙すくう。
湯気が顔へ当たる。
口へ入れた。
熱い。
舌の先を火傷した。
味は、塩気が強い。
タマネギは煮崩れ、キャベツの芯は筋っぽい。豚肉はほとんど脂身で、麦酒の酸味が少し残っている。
洗練からは遠い。
だが、喉を通った熱が胃へ落ちる。
そこから体の内側へ、ゆっくり広がった。
次の一匙。
カルトッフェルが舌で潰れた。
少し土臭い。
脂と塩を吸っている。
噛む必要もないほど柔らかい。
三匙目で、手の震えが強くなった。
空腹のせいだけではない。
体が食事を受け入れた途端、それまで我慢していた弱さを思い出したらしい。
匙が椀の縁へ当たり、音を立てる。
マルコは見ていた。
同情する顔ではない。
残量を測る料理人の目だった。
「急ぐな」
「急いでいないわ」
「それなら匙を持つ手を止めろ」
「冷めるでしょう」
「冷めても食える」
「温かい方が価値があるわ」
「そうだな」
マルコは否定しなかった。
シシーリアは椀を両手で持った。
直接、口をつける。
貴族の作法ではない。
今の彼女は貴族ではない。
汁が唇へ触れる。
熱い。
鼻の奥へタマネギと脂の匂いが抜ける。
喉が動く。
一口。
もう一口。
途中から、何を食べているのかよく分からなくなった。
ただ、温かかった。
温かいというだけで、食べ物には人間を黙らせる力がある。
王宮では、料理は身分、財力、教養、政治的関係を示す記号だった。
この椀は違う。
冷えた体へ熱と塩と脂を入れる。
それだけ。
それだけのことが、今は何より重要だった。
最後のカルトッフェルを匙で潰し、汁と一緒に飲み込む。
椀は空になった。
シシーリアは木目を見つめた。
「おかわりは?」
マルコが聞いた。
「あるの?」
「鍋ならある」
「いただくわ」
声が少し掠れた。
マルコは椀を持って立ち上がった。
何も言わない。
それが助かった。
二杯目は、一杯目よりゆっくり食べた。
途中で黒パンも出された。
硬かった。
汁へ浸すと、表面から柔らかくなる。
シシーリアは小さくちぎり、椀の底へ沈めた。
牢で見た看守の髭についていた黒パン。
瓦版売りの声。
レオンハルトの白い手袋。
少女の指貫。
いくつもの像が浮かび、消えた。
満腹には程遠い。
だが、胃に物が入った。
それだけで、考える余裕が戻ってくる。
シシーリアは匙を置いた。
「代金を」
マルコは丸椅子へ腰掛けた。
「払えるのか?」
「アルト金貨なら一枚」
「見せなくていい」
「なぜ?」
「ここへ来た人間が持ってる金なんて、大抵ろくな金じゃない」
「価値は落ちていても、金貨よ」
「王都じゃな」
「ここも王都でしょう」
「塔は塔だ」
煙突の免責だけでなく、通貨の常識まで別らしい。
「では、どう払えば?」
「働け」
想定内。
シシーリアは背筋を伸ばした。
まだ頭は重い。
しかし交渉はできる。
交渉は、空腹や寒さより慣れている。
「仕事の内容は?」
「皿洗い。野菜洗い。床掃除。薪運び。鍋磨き。手が空けば何でも」
「期間」
「三日」
「短いわね」
「役に立たなければ長い」
「給金」
「寝床と食事を引いて、三日で十五ミント」
「安い」
「死人にしては高い」
「私は死んでいない」
「表では死んでる」
マルコはあっさり言った。
シシーリアの指が止まった。
彼は知っている。
少なくとも、ただの行き倒れとは思っていない。
「誰から聞いたの?」
「痩せた猫が来るって」
「それは先ほども聞きました。誰が伝えたのかと聞いているの」
「聞いてどうする?」
「相手の目的を判断する」
「今のお前に、断れる目的があるのか?」
痛いところを突く。
マルコは笑っていない。
「ないでしょうね」
「じゃあ、体が動くようになってから考えろ」
「あなたは私が誰か知っている」
「名前のないエルサ」
「それ以外を」
「知っているかもしれない」
「知らないかもしれない?」
「どっちでも、今日の仕事には関係ない」
「私を匿う危険は?」
「塔の中で誰を雇うかは、塔が決める」
煙突の免責。
王家の兵も勝手には踏み込めない。
だからこそ、犯罪者と禁忌研究の逃げ場にもなっている。
マルコは、その歪んだ特権を当然のように使っている。
「身元保証は?」
「しない」
「塔外で捕まった場合は?」
「助けない」
「怪我をした場合」
「仕事中なら治療費の半分。勝手に転んだら自腹」
「道具を壊した場合」
「給金から引く」
「額は?」
「修理代」
「新品価格ではなく?」
「直せるものは直す塔だからな」
そこだけは悪くない。
「食事は?」
「朝、昼、夜。働けるなら」
「働けない日は?」
「病人食。二日続けば雇用を見直す」
「寝床」
「下働き部屋。今夜だけここ」
「鍵は?」
「共同部屋に鍵なんかつけたら、誰が中で死んだか分からなくなる」
「女性専用?」
「そうだ」
「個人の荷物は?」
「自分で守れ」
「仕事中の衣服」
「貸す。破けば引く」
「何でも給金から引くのね」
「給金ってのは、引くためにある」
「払うためでしょう」
「うちでは両方だ」
マルコは指を折った。
「三日。飯三回。寝床。十五ミント。皿を割れば引く。逃げるなら勝手に逃げろ。追わない。だが、塔の中を探るなら捕まえる」
「探る?」
「お前、見る目が多すぎる」
シシーリアは無意識に周囲を確認していた。
扉の蝶番。
窓の大きさ。
机の材質。
マルコの靴底。
鍵の位置。
外から聞こえる足音。
逃走経路を探す癖。
「生き残るには必要よ」
「ここで生きるなら、仕事を覚える方が必要だ」
「両方覚えます」
「欲張りだ」
「持っていない人間は、欲張らなければ何も増えないもの」
マルコは少し黙った。
人を値踏みする目。
料理人より商人に近い目だった。
やはり、ただの親切な飯炊きではない。
シシーリアは条件を頭の中で並べた。
三日。
食事。
寝床。
十五ミント。
身元保証なし。
塔外保護なし。
秘密保持の明文化なし。
危険は大きい。
だが代替案はない。
王都の宿へ行けば、名前と身分証を求められる。
街路へ戻れば、瓦版に描かれた悪女の似顔絵と照合される。
ゼーヴェル家へ戻るのは自殺。
王宮は論外。
霧の運び屋を追う手段もない。
現在の最善手は、三日間ここで食べ、寝て、情報を集めること。
四日目に逃げる準備をしておけばよい。
「一つ追加して」
「何だ」
「私の過去を、ほかの職員へ聞かないこと」
「聞かない」
即答だった。
「ずいぶん簡単ね」
「ここにいる奴の過去を一人ずつ聞いてたら、仕事が終わらん」
「私が何者でも?」
「皿を洗えるならな」
「洗えなかったら?」
「三日で追い出す」
合理的。
冷たい。
信頼できる。
優しい言葉を使う人間より、条件を明確にする人間の方が信用できる。
少なくとも、裏切られた時に驚かずに済む。
「契約書は?」
マルコが初めて声を上げて笑った。
「皿洗い三日の契約に?」
「口約束では、言った言わないになるでしょう」
「紙がもったいない」
「では板へ書いて」
「本当に面倒だな、お前」
マルコは壁際の小さな板と炭筆を取った。
簡単に条件を書く。
字は大きく、癖が強い。
だが誤魔化しはない。
最後に、雇用主の欄へ「マルコ」とだけ書いた。
シシーリアは板を受け取る。
文面を確認。
食事三回。
寝床一つ。
三日間。
十五ミント。
破損品は修理実費。
負傷は仕事起因の場合、治療費半額負担。
退職自由。
塔内情報の持ち出し禁止。
思っていたよりまともだった。
「署名を」
炭筆を渡される。
シシーリアは止まった。
シシーリアと書くわけにはいかない。
エルサ。
初めて書く名。
文字数が少ない。
形も簡単。
何の歴史もない。
彼女は板へ、エルサと書いた。
書き終えた文字は、ひどく他人行儀だった。
マルコが板を覗く。
「字が綺麗だな」
「下働きに不要?」
「いや。だが、皿洗いに慣れた手じゃない」
「見れば分かるでしょう」
シシーリアの手は、爪が割れ、汚れていても、長年の肉体労働をしてきた手ではない。
ペンだこ。
薄い指。
指輪の跡。
完全に隠すのは難しい。
「明日には少し慣れる」
マルコが言った。
「何に?」
「皿を割るのに」
「割る前提なの?」
「新人は割る」
「私は割りません」
「じゃあ給金は残る」
マルコは契約板を壁へ掛けた。
「今日は寝ろ。昼に起きられたら、粥を食え。夕方、歩けるなら厨房を見せる」
「明日から仕事?」
「ああ」
扉へ向かう。
シシーリアは呼び止めた。
「マルコ」
「何だ」
「なぜ、私を入れたの?」
男は扉へ手をかけたまま振り返る。
さきほどまでの陽気さが少し薄れた。
「排水溝が詰まると困るからだ」
また答えにならない答え。
「それだけ?」
「今はな」
扉が開く。
外の音と麦汁の臭いが流れ込む。
「明日から皿洗いだ、エルサ」
一拍。
今度は少し早く、シシーリアは顔を上げた。
マルコの目が細くなる。
「割ったら給金から引く」
扉が閉まった。
部屋に一人残される。
壁には、炭で書かれた三日契約。
丸机には、空になった木椀。
内側のポケットには、価値の落ちた金貨と、死者の指貫。
シシーリア・フォン・ゼーヴェルは死んだ。
エルサという下働きは、三日間だけ生きることを許された。
随分と短い余生だった。
だが、明日の朝食は出る。
今は、それで十分だった。




