プロローグ 悪女は獄中で死んだ
王都の地下牢は、驚くほど効率よく人の体温を奪う。
石壁に染み込んだ湿気は、西の海風とは違う。ただ冷たく、重く、饐えた鉄と古い藁の臭いがした。
シシーリア・フォン・ゼーヴェルは、冷え切った寝台の端へ腰を掛け、男の指が自分の首筋を一周するのを黙って受け入れていた。
指ではない。
細い革紐だった。
喉仏の下へ回され、うなじで交差し、強く引かれる。革が皮膚を擦った。飲み込もうとした唾が、途中で引っかかる。
「細いな」
処刑人の助手らしい男が言った。
返事を求めている様子はない。男は紐へ炭で印をつけ、看守へ渡した。
縄の長さを決めるのか。首枷の寸法か。処刑台へ固定する鉄輪かもしれない。
どれでも大差はなかった。
明日の正午までには、シシーリアの首と胴は別々の財産として処理される。
遺体は王家。
衣服と装身具は王立調停院。
没収済みの私財は国庫。
名前だけが、ゼーヴェル家の汚点として歴史院の記録に残る。
実に無駄がない。
「終わりだ」
助手は道具を革袋へ戻し、牢を出ていった。
鉄格子が閉まる。鍵が二度回った。
残った看守は、壁にもたれて大きなあくびをした。頬に赤い酒焼けがあり、腰の剣帯は腹へ食い込んでいる。無精髭には、昼に食べたらしい黒パンの欠片がついていた。
シシーリアは膝の上で手を組んだ。
指先の感覚はほとんどない。
冷えのせいだけではなかった。
右手の中に隠した金貨が、汗で滑りそうになっている。
裁判へ連行される途中、袖の裏地から辛うじて切り取った一枚。かつてなら王都の宿で十日は暮らせたアルト金貨だ。最近は銀の含有量ならぬ金の含有量まで怪しいと噂されているが、看守一人の良心を曲げるには足りる――はずだった。
シシーリアは看守を見た。
目が合う。
男の視線が、彼女の顔から胸元へ落ち、手元へ移った。
気づいている。
ならば話は早い。
「明日の朝まで、外へ手紙を一本出していただきたいの」
声は思ったより平静だった。
喉の内側だけが乾いている。
看守は鼻を鳴らした。
「誰にだ」
「宛先は、手紙へ書きます」
「紙もインクもないぞ」
「それも用意して」
シシーリアは格子へ近づき、金貨を指の間から見せた。
王家の紋章が刻まれた、少し軽い金貨。
看守の目が細くなる。
「一枚か」
「手紙一本よ」
「明日、首を落とされる女の手紙を運べって?」
「獄死したことにすれば、処刑人の手間が省けるでしょう。あなたが手紙を出したかどうかまで、死人は証言できないわ」
看守はしばらく黙っていた。
悪くない提案だと思ったらしい。
男は格子の隙間から手を伸ばし、金貨を受け取った。親指の爪で縁を弾き、耳元へ近づける。
澄んだ音はしなかった。
男の顔に失望が浮かぶ。
「アルトか」
「王都の金貨よ」
「王都の金貨だから困るんだ」
看守は金貨を投げ返した。
シシーリアは取り損ねた。金貨が石床へ落ち、乾いた音を立てて藁の中へ転がる。
「ゼー銀貨なら考えた」
「金貨より銀貨が欲しいの?」
「本物の銀ならな。今どき、アルトなんざ酒場でも嫌な顔をされる」
看守はもう興味を失ったように、腰の鍵束を鳴らして背を向けた。
「寝ろ。明日は早い」
足音が遠ざかる。
シシーリアは藁へ膝をつき、金貨を探した。
指先が震えている。
暗い床を何度も撫で、ようやく冷たい円形へ触れた。拾い上げた金貨を握る。王家の紋章が掌へ食い込んだ。
買収失敗。
残り時間は半日。
外部との連絡手段なし。
ゼーヴェル家が救出に動く確率は、ゼロ。
王家が再審を認める確率も、ゼロ。
最高円卓会議は、すでに全会一致で自分の処刑を承認している。養父アルベルト・フォン・ゼーヴェル本人が、最も強く処刑を求めたと聞いた。
見事なトカゲの尻尾切りだこと。
西の銀密輸も、違法鋳造も、グライフ家との裏取引も、王都通貨の暴落も。
すべてを、王宮へ入り込んだ養女一人の独断だったことにする。
血のつながらない娘一人で、本家と通貨発行権が守れるのなら、安い取引だ。
シシーリア自身がゼーヴェル家の帳簿をつけていたとしても、同じ判断をした可能性がある。
だから、恨むより先に計算してしまう。
王家へ差し出す譲歩と賠償。
そして、自分の首。
妥当な落としどころだった。
問題は、その支払われる首が自分のものだという一点だけである。
シシーリアは藁の上へ座り直した。
石壁の隙間に、黒い筋が走っていた。
湿気で生えた黴だろうか。植物の細い根にも見える。けれど、地下深くの牢獄に根を伸ばす植物などあるはずがない。
灯りが揺れると、黒い筋もわずかに動いたように見えた。
目の疲れだ。
明日の今頃には、目玉ごと用済みになる。
考える価値はない。
廊下の奥で、再び鍵が鳴った。
看守が戻ってきたのかと思った。
違った。
足音が一人分しかない。
規則正しく、迷いがなく、石床へ響く。
やがて姿を現した男を見て、シシーリアは膝の上の金貨を袖へ隠した。
王太子レオンハルト・フォン・ヴァイスハルト。
明日処刑される女の、昨日までの婚約者だった。
◇
「少し、痩せたね」
鉄格子の前に立ったレオンハルトは、ほかに言葉を知らない男のようにそう言った。
銀糸の入った濃紺の外套。
磨かれた長靴。
腰には王太子の儀礼剣。
地下牢には何もかもが場違いだった。
シシーリアは自分の姿を見下ろした。
血の染みた白い囚人服。割れた爪。裁判の際に引きずられてできた膝の痣。脂の抜けた髪は絡まり、肩へ張りついている。
痩せたというより、余計なものが剥がれただけだろう。
宝石。
絹。
香油。
ゼーヴェル家の名。
王太子の婚約者という肩書。
人間はずいぶん軽くなれるものだ。
「牢獄の食事は、美容には向かないようですわ」
昔と同じ敬語が口から出た。
レオンハルトの顔が歪む。
彼は眠っていないらしい。目の下に深い隈がある。金色の髪も整えられてはいたが、前髪の一部が不自然に浮いていた。
侍従に任せず、自分で急いで支度をしたのかもしれない。
「そんな話をしに来たのではない」
「存じております」
「私は……」
レオンハルトは格子を握った。
白い手袋が、黒い鉄へ触れる。
「私は、君を信じたかった」
信じたかった。
便利な過去形だった。
「けれど、私は見た。君がグライフ家の密使から銀の手形を受け取るところを。君の部屋から、違法鋳造の帳簿も出た。君の署名もあった」
偽造された証拠。
仕組まれた現行犯。
シシーリアには分かっている。
しかし、レオンハルトは自分の目で見た。
嘘のつけない男にとって、自分の目で確認したものほど強い証拠はない。
「法廷では、何も弁明しなかった」
「申し上げても、結果は変わりませんでしたから」
「それでも!」
声が石壁へ反響した。
遠くで看守が身じろぎする気配がしたが、近づいてはこない。王太子が何を言おうと、明日の執行予定は変わらないと知っているのだろう。
レオンハルトは声を落とした。
「一つだけ、答えてくれ」
来る。
シシーリアは膝の上で指を握った。
「私との婚約も、最初からゼーヴェル家のためだったのか」
喉が狭くなる。
ここで無実を訴えれば、レオンハルトは動くかもしれない。
彼は愚かではない。
真っ直ぐすぎるだけだ。
疑いを持てば、父王へ再調査を求める。調停院へ掛け合い、自分の証言を撤回しようとするだろう。
だが、もう遅い。
最高円卓会議の全会一致は成立した。
ゼーヴェル家は自分を切り、王家も処刑によって西との取引を終わらせようとしている。
レオンハルト一人が騒げば、その取引が崩れる。
それでも、シシーリアの首は落ちる。
助かる見込みが増えないのなら、余計な駒を動かすべきではない。
「ええ」
シシーリアは答えた。
レオンハルトの指へ力が入った。
「あなたは王になる方でした。私は西の港で拾われた、血筋も持たない養女。あなたとの婚約がなければ、ゼーヴェル家で価値を持つこともありませんでしたわ」
「では、私に言ったことも」
「どのお話でしょう」
残酷にするなら、具体的であるほどよい。
相手が自分だけのものだと思っていた記憶を選び、それを価値のないものへ変える。
「迷い樹の森へ行ってみたいと、君が言った。王になったら、護衛をつけて連れていくと約束した」
「ああ」
覚えている。
夏の離宮。
焼き菓子へ蜂蜜を垂らしすぎたレオンハルトが、侍女に注意されていた。
シシーリアは森へ行きたかったのではない。森を迂回する物流路の不便さを調査したかった。
けれど、彼と行くのなら、それも悪くないと思っていた。
「王族の通行許可があれば、ゼーヴェル家の商隊も森の調査へ入りやすくなりますもの。あなたがそう約束してくださって、助かりました」
レオンハルトの顔から血の気が引いた。
効いた。
胸の奥で、何かが鈍く潰れた。
だが、潰れて困るものなら、明日まで持っていても仕方がない。
「病で寝込んだ時、三日もそばにいてくれたのは」
「未来の王が死ねば、婚約者の価値も下がります」
一つずつ。
丁寧に。
彼が愛情と呼んでいたものを、許可、価値、利得へ変換していく。
全部が嘘ではなかった。
だからこそ、信じさせられる。
シシーリアは本当に、彼の立場を利用していた。
彼の優しさを好ましく思いながら、王太子としての価値も計算していた。
人の感情は帳簿の左右ほど、きれいには分かれない。
レオンハルトは鉄格子から手を離した。
手袋の掌に、黒い汚れがついていた。
「最初から、私は君にとって……」
「王冠へ近づくための道具でした」
最後まで言わせなかった。
彼自身の口で、自分を道具だったと言わせるのは酷すぎる。
そこだけを避けたことに意味はない。
レオンハルトはしばらく動かなかった。
やがて、儀礼剣の柄へ触れた。自分の立場を確認する癖だった。
「分かった」
声は震えていた。
「もう、二度と会うこともないだろう」
「ええ」
明日には死ぬ。
実に正確な見通しだった。
レオンハルトが背を向ける。
足音が遠ざかる。
角を曲がる直前、一度だけ立ち止まった。
けれど、振り向かなかった。
シシーリアも呼び止めなかった。
鉄の扉が閉まり、鍵の音がした。
地下牢に静けさが戻る。
シシーリアは立ち上がり、格子へ近づいた。
レオンハルトが握っていた場所へ指を触れる。
鉄が、少しだけ温かかった。
ほんのわずかに残った他人の体温。
「無駄なことをしたわ」
誰へ向けた言葉か、自分でも分からない。
手を離す。
指先が冷える。
これで、レオンハルトが再調査を求める可能性もなくなった。
彼は明日、正義のために悪女の処刑を見届ける。
王家は西を抑え込む。
ゼーヴェル家は生き残る。
全員が、自分の利益を得る。
優れた取引だった。
支払われる側を除けば。
シシーリアは寝台へ戻り、横になった。
眠れるとは思わなかった。
目を閉じると、レオンハルトの白い手袋についた黒い汚れが浮かんだ。
やがて、廊下の灯りが一つ消えた。
次に目を開けた時、どれほど時間が経っていたのか分からない。
鉄格子の向こうで、錆びた鍵が回っていた。
見張りの交代には早すぎる。
シシーリアは身を起こした。
入ってきたのは、看守ではなかった。
◇
最初に見えたのは、汚れた緑の外套だった。
男が三人。
全員が顔の下半分を布で覆っている。足音が軽い。武器を持つ位置も、王都の衛兵とは違った。
先頭の男だけ、右袖が肩口から空になっていた。
隻腕。
濡れた外套から、森の土と煙の臭いがする。
男はシシーリアを見ると、挨拶もせずに言った。
「立てるか」
「どなた?」
「立てるかと聞いた」
声は低く、掠れていた。
シシーリアは寝台から足を下ろした。
立ち上がると、膝が震えた。男へ悟られないよう、石壁へ手をつく。
「質問へ答えていただければ、考えます」
「元気だな。立てるらしい」
隻腕の男が顎を動かした。
後ろの二人が、大きな麻袋を牢内へ運び込む。
袋は人一人分ほどの長さがあった。
床へ置かれた瞬間、鈍い音がした。
中身が柔らかい。
シシーリアの胃が縮む。
男の一人が袋の紐を解いた。
麻布をめくる。
少女の顔が現れた。
シシーリアと同じくらいの年頃。
頬は痩せ、唇は青い。髪には白い粉が入り込み、濡れて固まっている。首筋へ触れなくても、死んでいると分かった。
死後、それほど時間は経っていない。
衣服は粗末な麻。
袖口は何度も繕われている。
左手の爪には粉が詰まり、指先は布仕事をする者のように荒れていた。
「……何の真似かしら」
「見れば分かるだろ」
隻腕の男が言った。
「お前の死体だ」
シシーリアは少女の顔を見た。
似てはいない。
年齢と体格は近い。
髪色も暗がりなら誤魔化せる。
顔を潰すつもりだろう。
「ずいぶんと出来の悪い鏡ね」
「安心しろ。朝までには、お前より美人じゃなくなる」
後ろの男が笑った。
シシーリアは笑わなかった。
隻腕の男も笑わない。
「服を脱げ」
「少しは説明を――」
「生きたいなら脱げ。お前の絹をそいつへ着せる。お前はそいつの襤褸を着る。朝になれば、国家反逆の悪女シシーリアは牢内で死んでいる。顔は分からん。首も折れている。王家もゼーヴェルも、確認を急いで棺へ入れる」
即物的で、分かりやすい。
偽装としては粗い。
しかし、王家もゼーヴェル家も、シシーリアが死んだことを望んでいる。
望む結論へ沿った証拠は、多少粗くても通る。
「死因は?」
「首吊り」
「この牢には、縄を掛けられる場所がないわ」
「だから首を折る。看守が規則違反で縄を渡したことにする。あの太った男なら、賄賂を受け取ったと言われても皆信じる」
先ほど買収に失敗した看守の顔が浮かんだ。
気の毒だが、シシーリアよりは長く生きるだろう。
「検死は銀の塔が行うはずよ」
「夜明け前に埋葬命令が出る」
「ずいぶん手回しがいいのね」
「時間を使うな」
男の声に苛立ちが混じった。
シシーリアは隻腕の袖口へ目を向けた。
包帯が覗いている。
その隙間に、黒い変色があった。
火傷ではない。
植物の根のように枝分かれした黒い筋が、肩の下から胸元へ伸びている。
牢の壁にあったものと、どこか似ていた。
男が外套を引き、隠す。
「見るな」
「普通の傷ではなさそうね」
男の目が細くなった。
空気が変わる。
後ろの二人が、僅かに武器へ手を近づけた。
失敗した。
助けに来た者へ、最初に指摘する内容ではなかった。
けれど、口へ出したものは戻らない。
シシーリアは震える膝へ力を入れ、男の目を見返した。
ここで怯えれば、救出対象から余計な荷物へ格下げされる。
「私を助けるだけなら、こんな手間は不要でしょう。牢番を殺して外へ出せばいい。この死体を用意したのは、私が生きていると知られては困る者がいるから。あなたたちは、その者から報酬を受け取っている」
隻腕の男は答えない。
「誰の差し金?」
「霧に聞け」
男は短く言った。
「俺たちは運ぶのが仕事だ」
首元で、変色した青銅の徽章が揺れた。
裏返しになった双子葉。
霧の運び屋。
迷い樹の森を通り、密輸品と指名手配犯を運ぶ犯罪者集団。
ゼーヴェル家の帳簿で、何度かその名を見たことがある。
正式な支払先としてではない。
紛失、腐敗、海難、重量誤差。
そうした名目の陰に、彼らへの費用が隠されていた。
「なるほど」
助けを呼んだのはゼーヴェル家ではない。
彼らなら、シシーリアを生かす理由がない。
王家でもない。
ならば第三者。
自分の知識に価値を見いだした者。
あるいは、王家と西の取引を壊したい者。
どちらにせよ、無償の善意ではない。
それなら理解できる。
「条件は?」
隻腕の男が眉を寄せた。
「何?」
「私を運んだあと、何をさせるつもり?」
「今それを聞くのか」
「今でなければ、聞けないでしょう」
一拍の沈黙。
男は深く息を吐いた。
「生き延びた後の値段は、俺の仕事じゃない。嫌ならここに残れ」
明確でよい。
将来の代価は不明。
現在の選択肢は、確実な死と、不明な債務。
比較するまでもない。
シシーリアは囚人服の襟へ手をかけた。
「後ろを向いてくださる?」
三人とも動かなかった。
「急げ」
「最低ね」
「知ってる」
仕方なく、背を向けて服を脱いだ。
地下牢の空気が肌を刺す。
裁判の日に着せられた白い囚人服を脱ぎ、その下に残っていた薄い下着も外す。
男の一人が、少女の服を剥いでいる。
死人の腕が床へ落ち、乾いた音を立てた。
シシーリアは目を逸らさなかった。
少女の脇腹には古い痣がある。手首には擦り傷。胸元は薄く、肋骨が浮いていた。
病死か。
衰弱か。
働けなくなり、治療を受けられず死んだ。
この国では珍しくもない。
隻腕の男が、少女から剥いだ服を投げてよこす。
「着ろ」
まだ僅かに湿っていた。
冷たい。
それ以上に、生臭い。
死者の汗と、薬草と、小麦粉の臭いが混じっている。
シシーリアの胃がせり上がる。
けれど、吐くほど腹に物が入っていない。
服へ腕を通す。
袖が少し短い。
胸元は緩い。
布の裏側へ残った冷たさが、肌へ張りつく。
つい先ほどまで、別の人間を包んでいた服。
大変に趣味が悪い。
だが、命には代えられない。
「髪を切る」
男の一人が短刀を出した。
シシーリアは反射的に後ずさった。
「待って」
「長さが違う」
「分かっているわ。せめて自分で――」
髪を掴まれた。
刃が滑る。
ざり、と耳元で音がした。
栗色の髪が束になって床へ落ちた。
王太子が美しいと言った髪。
ゼーヴェル家の侍女が毎朝梳かし、香油を馴染ませ、季節ごとに飾り紐を替えた髪。
今は死者の足元に散っている。
思ったほど、何も感じなかった。
髪はまた伸びる。
首は伸びない。
優先順位は明白だった。
少女へシシーリアの囚人服を着せる。
髪を整える。
首へ縄の跡をつける。
隻腕の男が少女の顔へ布をかぶせた。
その前に、左手から小さなものが落ちた。
石床を転がり、シシーリアの足元で止まる。
金属製の指貫だった。
表面は擦れ、くすんでいる。
縁に小さな刻印があったが、暗くて読めない。
男の一人が靴先で蹴ろうとする。
シシーリアは先に拾った。
「捨てろ」
「身元につながるわ」
「だから捨てるんだ」
「ここへ残せば、この死体がシシーリアではない証拠になる。持って出たほうがいい」
理屈としては正しい。
男はそれ以上言わなかった。
シシーリアは指貫を死者の服のポケットへ入れた。
金貨も一緒に押し込む。
ポケットの底で、二つの金属が触れた。
自分の全財産と、死者の持ち物。
どちらが価値を持つのか、今は分からなかった。
隻腕の男が少女の首へ手をかける。
シシーリアは顔を背けた。
湿った音がした。
これで少女は、シシーリアになった。
シシーリアは、誰でもない女になった。
「行くぞ」
牢の奥、便所桶の横にある排水口の石板が外されていた。
人一人が辛うじて通れる穴。
下から、濁った水と腐敗物の臭いが上がってくる。
「そこを?」
「正門がいいなら、戻って寝てろ」
シシーリアは穴を見下ろした。
死者の服の裾を結ぶ。
膝をつく。
冷たい泥が掌へついた。
明日処刑される予定の王太子妃候補は、這いつくばって排水口へ入った。
背後では、名も知らない少女が、自分の顔を潰されようとしていた。
シシーリアは一度だけ振り返った。
布の下から、少女の左手が見えている。
指貫のなくなった指。
何かを縫い続けた手。
「行け」
隻腕の男に背を押される。
シシーリアは前を向いた。
振り返ったところで、死者は戻らない。
生者が止まれば、死者が一人増えるだけだ。
◇
排水路は、人間が通るために造られていなかった。
膝と肘を使い、冷たい泥の中を進む。
天井が低い。石壁へ肩が擦れる。死者の服はすぐに汚水を吸い、重くなった。
前を行く男の靴が、水を跳ね上げる。
後ろからは隻腕の男がついてくる。
逃げ道はない。
途中、何度か吐きそうになった。
腐敗した野菜。
汚物。
錆。
薬品。
王宮の地下には、地上の美しさを維持するためのものがすべて流れ込んでいた。
人も同じなのだろう。
都合の悪いものを下へ落とし、見えなくする。
シシーリアは滑り、手をついた。
掌へ鋭いものが刺さる。
声を上げかけ、唇を噛んだ。
「止まるな」
前方から声がする。
「分かっているわ」
「なら動け」
腹が立つ。
腹が立つ程度には、まだ生きている。
それは悪くない兆候だった。
どれほど進んだのか。
やがて排水路が広くなり、古い地下水路へ出た。
そこには車輪の小さな荷車が用意されていた。上には汚れた麻布と、空の酒樽が積まれている。
「入れ」
「また袋?」
「今度は樽だ」
「人の扱いを知らないのね」
「死人の扱いなら慣れてる」
隻腕の男が樽の蓋を開けた。
内側は酒の臭いが強い。完全な空樽ではない。底に酸っぱい液体が残っている。
シシーリアは裾を持ち上げ、樽へ入った。
膝を抱える。
狭い。
蓋が閉じられる直前、隻腕の男へ尋ねた。
「名前くらい教えてくださらない?」
「必要ない」
「私があなたを呼ぶ時に困るわ」
男は少し考えた。
「ジャック」
「本名?」
「次に聞いたら置いていく」
蓋が閉じた。
暗闇。
木の隙間から、僅かに空気が入る。
荷車が動き出した。
車輪が石を踏むたび、背中へ衝撃が来た。
外で男たちが短い言葉を交わす。
地下門。
検問。
荷札。
時折、荷車が止まる。
一度、知らない男の声がした。
「この時間に酒樽か」
「銀の塔の消毒用だ。流行り病が出た」
「札は?」
「ここだ」
紙の擦れる音。
沈黙。
「不足してるな」
「今月から税が上がったのか?」
「夜間通行料だ」
別の沈黙。
金属が鳴る。
一枚ではない。数枚。
受け取った男が、歯で硬貨を噛む音まで聞こえた。
「ゼー銀貨か」
声が明るくなった。
「通れ」
荷車が動く。
シシーリアは樽の中で目を閉じた。
王家の金貨では動かなかった看守。
西の銀貨で開いた門。
剣や法律より、正直な国だった。
やがて水路の冷気が薄れ、地上の音が増えた。
馬車。
呼び売り。
鐘。
遠くで犬が吠える。
夜明けが近い。
荷車が坂を上る。
樽の中の空気が少し暖かくなった。
その時、街中へ大きな鐘が響いた。
一度。
二度。
三度。
処刑や王族の死を告げる重い鐘ではない。
公式の布告を知らせる鐘。
荷車が止まる。
外から、瓦版売りの甲高い声が聞こえた。
「号外だよ! 号外!」
紙を叩く音。
「国家反逆の悪女シシーリア、獄中にて怪死!」
別の声が続く。
「王太子を欺いた密輸令嬢、処刑を待たず自ら命を絶つ!」
ずいぶん仕事が早い。
死体が発見され、看守が報告し、王立調停院が確認し、布告文を作り、印刷所へ回し、瓦版売りが街へ出る。
そのすべてが、夜明け前に終わったらしい。
食料支援の命令書なら、三日はかかるだろうに。
自分の死は、実に効率よく処理された。
荷車が再び動き出す。
樽の外で、人々が噂していた。
「首を吊ったんだって?」
「いや、王子に毒を盛られて口封じされたらしい」
「西の隠し財産を持ってたんだろ」
「美人だったのになあ」
「悪女ほど顔がいいもんさ」
誰も本物を知らない。
知る必要もない。
彼らにとってシシーリアは、朝のパンへ添える噂話だった。
樽の底で、シシーリアはポケットへ手を入れた。
金貨。
指貫。
指貫の縁が、掌へ当たる。
この小さな道具を使っていた少女は、今頃シシーリアとして発見されている。
首を折られ、顔を潰され、悪女の罪を着せられる。
一方、本物の悪女はその服を着て、酒樽の中で街を出ようとしている。
あまりにも悪趣味な取引だった。
だが、取引は成立している。
シシーリアは生きている。
少女はすでに死んでいた。
差し引きで死者は増えていない。
そう計算することはできる。
できるだけだ。
指貫を握る。
捨てるべきだった。
身元につながる。
偽装の穴になる。
それでも、指が開かなかった。
荷車が石畳から土の道へ入る。
揺れが柔らかくなる。
王都の鐘が遠ざかっていく。
シシーリア・フォン・ゼーヴェルは、王宮の記録上、死んだ。
王太子との婚約は消滅。
ゼーヴェル家の籍から抹消。
財産は没収。
名誉は破棄。
追跡される理由さえ、表向きはなくなった。
完全な自由。
名前も家も金も未来もないという意味で。
樽の中は暗い。
外の男たちが、次の経路について話している。
錫。
塔。
厨房。
人手。
断片しか聞き取れない。
どこへ運ばれるのか、まだ分からない。
そこで何を要求されるのかも。
ただ、生きている。
今は、それでよい。
こうしてシシーリア・フォン・ゼーヴェルは、予定より半日早く死んだ。
生き残った女には、まだ名前がなかった。




