第29話 返せる名前
悪女シシーリアの昼食は、硬い黒パンと薄いチーズだった。
舞台上では王冠を奪い、王太子を跪かせ、聖女へ毒を投げた女が、楽屋では黒パンへ小刀を当てている。
刃を前後に動かす。
乾いた表面から、細かな粉が落ちた。
一度では切れない。
二度。
三度。
ようやく、親指ほどの薄片が剥がれた。
ヘレーネはその上へ、さらに薄いチーズを載せる。
チーズの方が、黒パンより小さかった。
「それだけ?」
リーネが聞いた。
ヘレーネは黒パンを噛みながら頷く。
「昼はね」
「悪女料理は?」
「高いから食べない」
「でも、悪女役なんでしょ。安くしてもらえないの?」
「ならないわよ。あれは店の商品。私は劇団の商品」
言い方は乾いていた。
悲しそうでもない。
当然の仕分けとして口にしている。
ヘレーネは冷めた茶を飲んだ。
茶葉より香草の茎が多い。
蜂蜜は入っていない。
一口飲むたび、喉の奥で小さく息を整える。
「声、痛いの?」
リーネが聞く。
「一日六回も高笑いすればね」
「六回?」
「昼の呼び込みで二回。宣伝公演で二回。夜公演で二回。客が多いと増える」
「笑う回数で給金は増えるの?」
「増えない」
「損だね」
「笑わなかったら、もっと減る」
合理的だった。
エルサは木箱の上を見た。
赤いかつら。
金色の王冠。
左右で大きさの違う布の束。
シシーリアの名を使って売られる物は多い。
人形。
菓子。
瓦版。
料理。
芝居。
しかし、その名を演じる女の昼食へ、ヴルストの一本も届いていない。
《悪女の最後の一皿》には、黒いヴルストも赤い根菜も白い発酵乳もついていた。
こちらの悪女には、硬い黒パンと薄いチーズ。
名前が生んだ利益は、名前を使った者へ均等に届くわけではないらしい。
もっとも、シシーリア本人にも届いていない。
それなら公平と言えなくもなかった。
悪い意味で。
リーネが、木箱の上の詰め物を指す。
「それ、一つ売れば料理を食べられるんじゃない?」
「駄目よ」
ヘレーネは即座に言った。
「片方売ったら、もっと左右が違うでしょう」
「もう違うよ」
「リーネ」
エルサは止めた。
ヘレーネは気にせず、二つの布束を見比べる。
「右へもう一枚詰めれば揃うの。でも、ちょうどいい赤布がない」
「別の色では駄目なの?」
「襟元から見えたら胸じゃなくて洗濯物になるでしょ」
すでに洗濯物だった。
口には出さなかった。
ヘレーネは最後のチーズを黒パンへ載せた。
一口で食べる。
硬いパンを何度も噛む。
その間にも、膝の上では焦げた赤い裾が広げられていた。
切り取った黒い部分は、完全にはなくなっていない。
焦げ跡の周囲を内側へ折り、裏から赤い糸で留めてある。
縫い目は細かい。
だが、このままでは左裾だけ僅かに短くなる。
「そこを引きすぎると、立った時に左だけ上がるわ」
エルサが言った。
ヘレーネは針を止める。
「どれくらい?」
「半指ほど」
「半指って、誰の指?」
「私の」
「細いから困る」
「では、あなたの指で三分の一」
ヘレーネは自分の指を布へ当てた。
「このくらい?」
「もう少し」
「役者になる気?」
「ないわ」
「衣装係なら?」
「もっとない」
「詳しいのに」
「見れば分かるでしょう」
本当は、見ただけでは分からない。
歩いた時に裾の左右差がどの程度目立つか。
王族席へ近づく時、どちらの足が先に出るか。
階段で裾を持ち上げた時、足首がどこまで見えるか。
シシーリアは何年も、衣装係と侍女に囲まれて覚えた。
自分で縫ったことはほとんどない。
直す手は持たず、直された形だけを知っている。
ヘレーネは反対だった。
理想の形を知らない代わりに、針を使える。
「焦げたところを切らないのね」
エルサは言った。
「切ったら短くなるでしょ」
「分かっているなら聞かないで」
「詳しい人がそう言ったことにしたら、興行主が糸代を払うかもしれないから」
エルサはヘレーネを見た。
ヘレーネも見返す。
「駄目?」
「私の名前を使わないで」
「まだ聞いてないけど」
「先に言っておくの」
「じゃあ、錫の塔の下働きが言ってたってする」
「それもやめて」
「面倒ね」
その評価は正しい。
ヘレーネが針を進める。
一針。
二針。
三針。
四針目で、針先が指へ入った。
「痛っ」
小さな血の珠が浮く。
エルサは裾を見た。
「衣装へつけないで」
ヘレーネが顔を上げる。
「傷の心配じゃないの?」
「小さいでしょう」
「冷たい」
「血染みは落とすのに手間がかかるわ」
リーネが布切れを差し出した。
「押さえて」
「ありがとう」
ヘレーネは指へ布を巻く。
「エルサは本当に心配してないんだね」
「針傷で死ぬなら、縫い手は全員いなくなるでしょう」
「でも、血がついたら困るとは思う」
「損失が具体的だからよ」
「分かりやすいね」
ヘレーネは笑い、また針を持った。
「衣装係を待ってたら、夜公演に間に合わないもの。舞台へ出るところまでが役者の仕事」
「役者は縫い手ではないでしょう」
「でも、縫わないと役者になれない」
その言葉に、エルサは少し黙った。
記録補助は皿洗いではない。
だが、皿を洗わなければ錫の塔で働けない。
厨房下働きは事故報告を書く役ではない。
だが、書かなければ誰かへ間違った責任が載る。
職務とは、契約書へ書かれた範囲より、実際に断れない範囲の方が広い。
ヘレーネは針を動かしながら、黒パンの残りを茶へ浸した。
水分を吸わせる。
柔らかくなったところを食べる。
「公演ごとの給金?」
エルサは聞いた。
「そう」
「昼と夜で別?」
「昼は宣伝だから、夜の分に含まれる」
「昼公演で怪我をした場合は?」
「夜へ出られなければ、なし」
「昼の分も?」
「宣伝だから」
「客が少ない場合は?」
「減る」
「客が多い場合は?」
「変わらない」
「食事は?」
「夜公演が終われば賄いが出る」
「昼は?」
ヘレーネは黒パンを持ち上げた。
見れば分かるらしい。
「怪我で一日休んだ場合は?」
「出ない」
「最低保証は?」
「何それ」
エルサは目を閉じた。
最低保証が何か分からない契約。
あるいは、存在しないため知らなくてよい契約。
どちらにしても条件は悪い。
「衣装の修理費は?」
「小さい傷なら役者」
「小さいの定義は?」
「興行主」
「大きい傷なら?」
「劇団」
「大きいの定義は?」
「興行主」
「判定者と支払者が同じではない」
「だから、だいたい小さくなる」
事故ではなく、損傷の分類が。
エルサは眉を寄せた。
「契約書は読んだの?」
「読んだ」
「本人ではないことは書いてある?」
ヘレーネが笑う。
「そこ?」
「重要でしょう」
「書いてあるわよ。役名シシーリア。本人とは無関係。公演時間中のみ使用」
明確だった。
腹立たしいほど。
「悪女役を始める前は?」
リーネが聞いた。
「洗濯場」
ヘレーネは自分の手を見る。
指の節。
赤く荒れた甲。
割れた爪。
「宿屋と食堂から布を集めて、洗って、煮て、干す。冬は水が冷たい。夏は臭い。春は客が減って仕事も減る」
「芝居の方がいい?」
「前よりは」
「条件悪いのに?」
「洗濯場より声の方が高く売れるから」
ヘレーネは特に誇らしげでもなかった。
事実として答えた。
「悪女役は客が入る。客が入れば夜の賄いもある。洗濯場では、手が切れても布一枚分しか増えない」
「でも、火がつく」
リーネが言った。
「毎回じゃないわよ」
「次もついたら?」
「次は避ける」
「どうやって?」
「火鉢へ近づかない」
エルサは即座に首を振った。
「あなた一人が気をつけても足りないわ」
ヘレーネが針を止める。
「さっきも言ってたね」
「王太子役が前へ出た。クロエ役の衣装も中央へ広がった。煙も低かった。火鉢の炎は横へ流れた。あなたの位置だけ直しても、別の誰かが同じ場所へ押し出されるでしょう」
「詳しい観客さん」
「見ていたからよ」
「ずっと胸を?」
「舞台全体よ」
リーネが笑った。
ヘレーネも笑う。
エルサだけ笑わなかった。
その時、楽屋の幕が開いた。
帳面を持った男が立っている。
衣装修理費をヘレーネへ載せようとした男だった。
「ヘレーネ。署名」
差し出された紙を見て、ヘレーネの顔から笑いが消えた。
「もう書いたの?」
「夜公演前に処理する」
「まだ原因を見てないでしょ」
「見ただろ。位置を外れた。裾が燃えた。小規模損傷」
男は紙を振った。
「夜へ出るなら、先に署名してくれ」
ヘレーネは針を置いた。
立つ。
焦げた衣装を抱える。
「読ませて」
「舞台袖で」
男は先に出た。
ヘレーネが小さく息を吐く。
「署名しないと夜へ出られないの?」
リーネが聞いた。
「そうは言ってない」
「でも、そう聞こえた」
「そう聞こえるように言ったのよ」
エルサは立ち上がった。
「見せてもらうわ」
ヘレーネが振り返る。
「何を?」
「記録を」
「関係ないでしょ」
「観客として見ていた」
「半休中じゃなかった?」
「休暇中でも目は使えるわ」
リーネが呟く。
「頭も使ってる」
「黙って」
◇
舞台袖の記録机には、焦げた紙の匂いが残っていた。
昼公演で使った台本。
小道具の一覧。
観客数。
売上。
衣装補修。
火鉢用の炭。
赤煙粉。
興行は、芝居より先に数字へ戻っていた。
帳面の男が事故記録を机へ置く。
ヘレーネが読む。
エルサは横から見た。
> 昼宣伝公演中、悪女役ヘレーネが指定位置を外れ、演出用火鉢へ接近。
> 衣装左裾を損傷。
> 小規模損傷につき、使用役者負担。
三行。
火がつくまでに起きたことが、すべて消えている。
最後にヘレーネが動いた。
その一つだけが残っている。
「これは署名できないわ」
エルサは言った。
帳面の男が顔を上げる。
「あんたの署名じゃない」
「本人にも勧めない」
「関係者じゃないだろ」
「観客として事故を見た証人よ」
「観客は舞台の決まりを知らない」
「決まりを知らなくても、動いた順番は見えるでしょう」
男は露骨に嫌そうな顔をした。
それでも紙を引っ込めなかった。
市場の興行であっても、目撃者を無視して書いた記録が後から問題になる程度の知識はあるらしい。
「何が違う」
「最初にクロエ役が中央へ寄った」
幕の向こうから声がした。
「光輪が折れたからよ」
白い衣装の女が顔を出す。
化粧は半分落ちている。
手には折れた光輪。
「衣装へ引っかかった。予定より中央に倒れたのは認める」
「それを避けて、王太子役が半歩前へ出た」
金色のかつらを外した男も来た。
「踏んだら怪我をさせるだろ」
「だから出たんでしょう」
エルサは言った。
「その王太子役との衝突を避け、ヘレーネが左へ動いた」
帳面の男が紙を見る。
「だが、位置を外れたのは事実だ」
「理由を書いて」
「全部書いたら紙が増える」
「紙より修理費の方が高いでしょう」
「紙代もかかる」
「なら裏を使えば?」
「事故記録の裏へ書くな」
そこだけは規則があるらしい。
エルサは机の横に積まれた短冊紙を一枚取った。
「これを添付すればいいわ」
「勝手に使うな」
「紙代はいくら?」
「払う気か?」
「内容を消すより安ければ」
男が黙った。
リーネが横から言う。
「広場の旗は揺れてなかったよ」
「何?」
「舞台の赤い煙は左へ流れた。でも、屋台の煙は上だった。旗も動いてなかった」
王太子役が頷く。
「火鉢の炎も変だった」
舞台係が口を挟む。
「一度、横へ寝た。炭は同じだった」
クロエ役が言う。
「左へ寄った時、床が冷たかったってヘレーネも言ってた」
「靴越しでも分かった」
ヘレーネが答える。
「水はなかった」
帳面の男は、集まった顔を順に見た。
最初は役者一人の位置外れだった。
今は、
クロエ役の衣装。
王太子役の半歩。
悪女役の回避。
煙。
炎。
床。
少なくとも六つある。
一人へ載せるには、多すぎた。
「原因未確定」
エルサは言った。
「確認後に費用を決める。それでいいでしょう」
「確認って、誰がする」
「舞台係が火鉢と煙器。役者が動線。興行側が床と幕」
「役者は芝居をするんだ」
「事故の確認も舞台へ戻るための仕事でしょう」
ヘレーネが小さく笑う。
「それ、私が言ったみたいに書いて」
「やめて」
帳面の男は頭を掻いた。
「夜公演がある」
「だから今、単独責任へ確定しないの」
「処理を残したくない」
「間違った処理を終わらせるより、正しい未処理の方がましよ」
エルサは短冊紙へ書き始めた。
男が止める前に。
> 原因未確定。
> 共演者動線、役者位置、火鉢位置、煙器、風向き、舞台床および舞台装置を確認後、費用負担を決定する。
その下へ、事故後の対応も書く。
> 悪女役ヘレーネは、着火確認後、左裾を踏み延焼を抑制。
> 舞台係および立会者が濡れ布で消火。
> 火傷者なし。観客混乱なし。
帳面の男が読む。
「誰が着火を確認した」
「私」
「役者本人じゃないのか」
「本人は客へ背を向けない演技中だった。私が先に見た」
「濡れ布は?」
「私」
リーネが言う。
「屋台から借りた」
「借りた布の弁償は?」
全員が黙った。
忘れていた。
リーネが煤けた布を見下ろす。
「これも事故費用?」
帳面の男が渋い顔をする。
「劇団で払う」
「記録して」
エルサが言った。
「細かいな」
「細かくないと、あとでリーネへ請求が戻るでしょう」
男は別の紙へ、濡れ布一枚と書いた。
エルサは短冊紙の下へ署名欄を作る。
ヘレーネ。
王太子役。
クロエ役。
舞台係。
目撃者。
リーネが先に炭筆を取った。
少し不格好な字で、自分の名を書く。
エルサも書く。
> エルサ
> 錫の塔厨房下働き兼記録補助
> 目撃者
シシーリアではない。
悪女芝居の事故記録へ、本物のシシーリアの名は残らない。
代わりに、エルサが残る。
三か月だけ有効な業務札と同じ名。
錫の塔で給金を受け取る名。
皿を割った修理代を引かれる名。
事故へ異論を書いた名。
ヘレーネは、その下へ自分の名前を書いた。
役名ではない。
ヘレーネ。
焦げたのはシシーリアの衣装でも、署名するのはヘレーネだった。
帳面の男は紙を見た。
「修理費は保留。夜公演は予定どおり」
ヘレーネの肩から、僅かに力が抜けた。
大げさに喜ばない。
ただ、赤い衣装を抱え直す。
「ありがとう」
「事実を書いただけよ」
エルサは答えた。
「助けたつもりはない」
「じゃあ、事実にありがとう」
その言い方は反論しにくかった。
◇
衣装荷車の横へ戻ると、ヘレーネは赤いかつらを木型へ掛けた。
王冠をその隣へ置く。
夜公演までに、焦げた裾をもう少し直さなければならない。
リーネが、かつらとヘレーネを見比べる。
「次もシシーリアになるの?」
「夜公演でね」
「ずっとシシーリアじゃないんだ」
「ずっと悪女でいたら疲れるでしょう」
ヘレーネは針へ糸を通した。
「公演中だけシシーリア。終わればヘレーネ。次の公演でまたシシーリア」
「便利ね」
エルサは言った。
「何が?」
「返せる名前で」
ヘレーネは首を傾げる。
「返さないと、別の役ができないもの」
「ほかに何をするの?」
リーネが聞いた。
「村娘。宿屋の女将。王妃。魔女。死体」
「死体って、寝てるだけ?」
「踏まれない技術がいるのよ」
「避ければ?」
「死体が動いたら笑われるでしょう」
「今日の火みたいに、芝居だと思われるかも」
「次から死体役で燃えるのはやめて」
ヘレーネは笑った。
演じる死体は、舞台が終われば起き上がれる。
地下牢へ運び込まれた少女は、起きなかった。
顔を潰され。
シシーリアの服を着せられ。
シシーリアの名で葬られた。
自分の名前へ戻ることもできない。
エルサは服の内側へ手を当てた。
業務札。
硬い革の感触。
エルサと書かれている。
この名前も、いつまで自分のものかは分からない。
契約が切れた時、業務札は返す。
給金板から名が消える。
寝床も食事も保証されない。
それでも、シシーリアへ戻るわけではない。
何へ戻るのか。
答えはなかった。
「エルサ?」
リーネに呼ばれた。
考えるより先に顔を上げる。
それが少し腹立たしかった。
「何?」
「ヘレーネが聞いてる」
「何を?」
「本当にシシーリアの衣装に詳しいのかって」
「詳しくないわ」
「詳しい人ってことにして糸代を取ろうとしてたのに」
「それはヘレーネが勝手に言ったの」
ヘレーネは針を進めながら言う。
「最近、シシーリア役へ詳しい人が多いのよ」
エルサの指が、業務札の端で止まった。
「どういう意味?」
「その顔」
リーネが言う。
「また仕事の顔になった」
「確認よ」
「休みの日の方が質問多くない?」
ヘレーネが笑う。
「二週間くらい前、女が来たの」
針が赤い布を抜ける。
「面布をつけた女。地味な外套。手袋。顔は見えなかった」
「劇団へ何の用?」
「シシーリアの所作が間違ってるって」
エルサは黙った。
ヘレーネは続ける。
「扇の持ち方。王太子の隣へ立つ位置。杯の受け方。裾の上げ方。紙へ描いて持ってきた」
「劇団が買ったの?」
「少し。客が喜ぶかもしれないって」
「肩へ扇を置く位置も?」
「それも」
「顎を上げたのは?」
「興行主が足した」
やはり。
正しい所作を知る者と、芝居の誇張は別だった。
「紙はある?」
「舞台係が持ってると思う」
「字は?」
「きれい」
「どの地方の書式?」
「知らないわよ」
「数字は?」
「衣装の長さは数字で書いてた。一つ、何度か直してあった」
「何を?」
「腰から裾まで。最初の数字を消して、少し長く」
完全に宮廷衣装へ慣れた者なら、何度も直すだろうか。
本人の寸法ではなく、写し。
あるいは、複数の資料を合わせた。
正確な一部と、誤り。
エルサは質問を続けようとした。
ヘレーネが先に言う。
「その女、自分が本物だって言ってた」
音が遠くなった。
市場の呼び声。
荷車。
太鼓。
誰かの笑い。
全部、薄い幕の向こうへ行った。
「何の本物?」
リーネが聞く。
「シシーリア」
ヘレーネは、針を布へ刺したまま答える。
「自分こそ、シシーリア・フォン・ゼーヴェルだって」
エルサの喉が狭くなった。
指先が冷える。
地下牢。
麻袋。
粉の入った爪。
繕われた袖。
金属の指貫。
「何を根拠に?」
声は平静だった。
少なくとも、自分にはそう聞こえた。
「処刑されたのは別の女だったって」
ヘレーネが言った。
その一文だけは、正しい。
正しすぎた。
リーネが眉を寄せる。
「別の女?」
「自分は逃げた。王家もゼーヴェル家も騙されてる。いずれ家も財産も取り戻すって」
「顔は見せなかったの?」
「見せない。傷があるとか、追われてるとか」
「声は?」
エルサが聞く。
「女。若いと思う。でも、よく分からない。丁寧な話し方だった」
「西の訛りは?」
「少しあったかも」
「どの言葉?」
「知らないわよ」
質問が速すぎる。
エルサは口を閉じた。
リーネが横から見ている。
「知り合い?」
「違うわ」
「でも、すごく気にしてる」
「詐欺として不自然だからよ」
「どこが?」
「本人だと主張するなら、顔を隠したままでは信用を得られない。処刑されたのが別人だったとしても、公的記録上はシシーリアが死亡している。家籍は抹消。婚約も終了。旧財産は没収済み。戻ると主張するだけでは――」
言いすぎた。
リーネとヘレーネが見ている。
「詳しいね」
ヘレーネが言った。
エルサは呼吸を整えた。
「国家反逆罪なら、一般的にそうなるでしょう」
「一般的に、婚約まで知ってる?」
「瓦版へ書いてあるわ」
「財産没収も?」
「罪人の財産は没収される」
間違ってはいない。
説明として弱いだけ。
ヘレーネは追及しなかった。
針を動かす。
「私は偽物よって言ったの」
「本人へ?」
「役者だもの。本人ではないって契約書にも書いてある」
エルサはヘレーネを見た。
ヘレーネは本物ではない。
それを隠していない。
契約書へ書き。
役名として借り。
公演が終われば返す。
一方、顔を隠した女は、本物だと主張する。
名だけで信用を得ようとする。
本人の財産。
本人の婚約。
本人の過去。
本人の死。
それらへ触れようとしている。
偽物と明記した女の方が、よほど正直だった。
「役をやめろって言われた?」
エルサは聞いた。
「言われた。偽物が本物を演じるのは侮辱だって」
「やめたの?」
「それだと給金が出ないわ」
当然だった。
ヘレーネはシシーリアの名誉を守るために働いているのではない。
自分の食事と給金のために演じている。
「女は舞台へ出たがったの?」
「出ないって。客の前へ出る時ではないんだって」
本物は舞台に立たない。
その言葉だけなら、エルサも同意した。
「でも、衣装は作ってる」
ヘレーネが続けた。
「どこで?」
「《黒鷲衣装店》」
エルサは名前を聞いたことがなかった。
リーネは知っているらしい。
「市場の裏の?」
「そう。赤い礼装。王太子妃候補へ戻る時に着るんだって」
「戻れないわ」
エルサは即座に言った。
「婚約は終了している」
ヘレーネがまた見る。
エルサは付け足した。
「死人との婚約を継続させる法律はないでしょう」
「生きてるって言ってるけど」
「生きているなら、まず死亡記録を無効にしなければならない。次に身元確認。再審。家籍。没収財産。婚約はその後よ」
言葉が止まらない。
自分でも分かっている。
止められない。
顔のない女が何を知り、何を知らないのか。
どこまで偶然なのか。
誰に教えられたのか。
「旧財産を使えるとも言ってた」
ヘレーネが言う。
「使えない」
「戻る予定だから、担保にできるって」
「戻る予定の財産は担保ではないわ」
「金貸しへも行ったらしいよ」
「どこへ?」
「知らない。衣装屋が話してた」
「衣装代の頭金は?」
「そこまで知らない」
「注文日は?」
「二週間くらい前」
「受取りは?」
「今夜だったかな」
エルサは立ち上がっていた。
自分でも、いつ立ったか分からない。
リーネが見上げる。
「行くの?」
「どこへ?」
「黒鷲衣装店」
「行かないわ」
返事は早かった。
「買い物が残っているでしょう。針と石鹸と櫛」
「櫛、買うの?」
「今はそこではない」
「行くんだ」
「確認するだけよ」
ヘレーネが笑う。
「何を?」
エルサは答えを探した。
本当の目的は言えない。
処刑されたのが別人だと知る理由。
シシーリアの所作を知る理由。
旧財産へ触れようとする根拠。
自分が生きていることを、どこまで知っているか。
どれも、錫の塔のエルサが確認する理由にはならない。
「ヘレーネへ請求が戻らないかを」
ようやく言った。
「私?」
「その女が本物を主張しているなら、劇団へ名の使用料や損害を請求する可能性があるでしょう。事故記録にも影響する」
「そこまで考えてなかった」
「だから確認するの」
リーネが立つ。
「私も行く」
「あなたは針を受け取るのでしょう」
「同じ方向」
「本当に?」
「たぶん」
信用できない。
だが、一人で行くよりはよい。
顔のない女が近くにいる可能性がある。
ヘレーネが店の場所を教える。
「この通りを出て、二つ目の角。黒い鳥の看板」
「黒鷲?」
「近くで見れば鷲らしいわ」
「遠くでは?」
「首の長い鶏」
看板として致命的だった。
ヘレーネは赤い衣装を膝へ戻す。
夜公演までに補修を終えなければならない。
エルサたちは楽屋を出る。
市場の午後は、昼より人が増えていた。
菓子屋。
布屋。
呼び込み。
悪女の毒瓶。
首の外れる人形。
芝居を見終えた子供たちが、さっそく火を操る悪女ごっこをしている。
本来の半休の目的は、針と石鹸と櫛だった。
今から向かうのは、死んだ自分の礼装を作っている店。
「確認するだけよ」
エルサはもう一度言った。
休暇中に使うには、ずいぶん便利な言葉だった。




