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第28話 本物より胸が大きい

舞台上のシシーリアは、本物より背が高く、声が大きく、胸も大きかった。


最後の一点については、エルサは比較したくなかった。


赤い幕の中央で、悪女役の女が扇を広げる。


長い赤髪。


白く塗った顔。


目尻を黒く引き上げた化粧。


胸元には、夜でもないのに黒い宝石が三つ。


右手には赤い扇。


左手には毒瓶。


頭上の王冠は、木へ金色を塗った物らしく、動くたび軽い音を立てていた。


そして胸は、あまりにも大きかった。


「詰め物ね」


エルサは言った。


隣で背伸びをしていたリーネが、舞台から目を離す。


「まだ胸の話してたの?」


「観察していただけよ」


「何が分かるの?」


「腕を上げても形が変わらない。胸というより、胸当てに近いわ」


女優が両腕を広げる。


確かに、赤いドレスの胸元はほとんど動かなかった。


左側だけ、少し高い。


襟の隙間から、赤い布の端まで覗いている。


「本物より大きい?」


リーネが聞いた。


「絵姿よりよ」


「本物は?」


「知らないわ」


返事が早すぎた。


リーネが横から顔を見る。


エルサは舞台へ目を戻した。


「知る必要もないでしょう」


「自分の胸なのに?」


「誰の胸の話をしているの?」


「シシーリア」


「私に聞かないで」


舞台上で太鼓が鳴った。


呼び込み役が、観客へ向けて両手を広げる。


「時は王国を揺るがした裏切りの夜! 西の銀を盗み、王家を毒し、聖女を呪った悪女シシーリアは、王冠を奪って外海へ逃げようとしていた!」


背後の幕へ、密輸船が描かれていた。


黒い帆。


髑髏。


月。


甲板には宝箱。


船首には、なぜか角の生えた魔物。


「船は用意していないわ」


エルサは呟いた。


「また始まった」


リーネが言う。


「西へ逃げるなら船は合理的だけれど、王都地下牢から直接乗船はできないでしょう」


「芝居だよ」


「地理は芝居でも変わらないわ」


舞台袖から、王太子役の男が現れた。


金色のかつら。


青い外套。


胸には王家の輪を大きく歪めた紋章。


本物のレオンハルトより肩幅が広く、顎も四角い。


そして、必要以上に歯が白かった。


男は舞台中央で片膝をつく。


「どうかお考え直しください、シシーリア!」


悪女役は、毒瓶を胸へ抱いた。


「遅いわ! あなたの王冠も心も、この国のすべてが私のものよ!」


「言っていない」


前にいた子供が振り返った。


リーネがエルサの袖を引く。


「台詞に返事しないで」


「返事ではなく訂正よ」


「本人に聞こえないよ」


「聞こえなくても、間違いは間違いでしょう」


王太子役が両手を広げる。


「たとえ王国を滅ぼされようとも、その美しさには逆らえない!」


「逆らっていたわ」


今度は少し声が大きかった。


前の子供だけでなく、その母親らしい女も振り返る。


エルサは頭巾を深くした。


舞台のレオンハルトは、シシーリアへ縋っている。


本物は違った。


地下牢へ来た時、彼は疲れていた。


怒っていた。


そして、信じたかったと言った。


最後には、自分の言葉を信じて背を向けた。


少なくとも、王国が滅びても構わないとは言っていない。


あの男は、王国のためなら婚約者を処刑台へ送れる男だった。


それが正しいかどうかは別として、芝居よりは筋が通っている。


「どうしたの?」


リーネが聞いた。


「何でもないわ」


エルサは腕を組んだ。


「台詞が安いだけよ」


舞台の悪女役は王太子役の周囲を歩いた。


赤い裾が石床を擦る。


裾を持つ右手の位置は高すぎる。


足首が見えている。


王族席へ背中も向けている。


回転の途中で王冠がずれた。


ひどい。


ただし、すべてが間違っているわけでもなかった。


悪女役は扇を閉じ、王太子役の肩へ置いた。


肩の縫い目より、僅かに内側。


だが、首には触れない。


扇の骨は肌へ当てず、外套の上へ寝かせる。


親しさを見せながら、無礼にはならない距離。


正確だった。


エルサは目を細めた。


王宮の夜会でも、あの位置を知らない令嬢はいる。


一度だけなら偶然。


だが、指の角度まで合っていた。


「そこは合っているわ」


「何が?」


「扇」


リーネが舞台を見る。


悪女役は閉じた扇を滑らせ、その先で王太子役の顎を持ち上げた。


観客から笑いと歓声が上がる。


「最初だけ合っていたのに」


エルサは言った。


「何が駄目なの?」


「顎を扇で上げる作法など存在しないわ」


「面白いからじゃない?」


「礼法を面白さで壊さないで」


「悪女の芝居だよ」


「悪女にも礼法はあるでしょう」


「悪女なのに?」


「悪女だからこそよ」


意味を説明する必要はない。


礼法を守ったうえで相手を不快にさせる方が、壊すより技術がいる。


扇を顎へ押しつけるなど、無作法で済ませているだけだった。


ただし、最初の肩への置き方は正確。


誰かが教えた。


それを劇団が途中から面白く変えたのだろう。


舞台袖で、赤い布を持った係が動いた。


悪女役の次の動きに合わせ、背景の密輸船が引き上げられる。


代わりに現れたのは、白い宮殿。


その中央から、純白の女が歩いてきた。


頭には白布。


胸元で組んだ手。


背中には、木枠へ白紙を貼った巨大な光輪。


長い黒髪。


怯えた目。


歩くたびに白い袖が揺れる。


「王太子様から離れてください!」


女は叫んだ。


悪女役が高笑いする。


「出たわね、聖女クロエ!」


「聖女ではない」


「静かに」


リーネが即座に言った。


「称号が増えているでしょう」


「七つの罪も増えてたし」


「増やせばよいものではないわ」


本物のクロエは、白い衣装で祈っているだけの女ではない。


樽へ潜る。


発酵記録をつける。


自分で設備へ触る。


王宮事故では、責任を恐れながらも停止判断を出した。


嫌な女であることと、無能であることは別だった。


むしろクロエを聖女にすることは、彼女が覚えた仕事をすべて取り上げる行為に近い。


「嫌いなのに庇うんだね」


リーネが言った。


「庇っていないわ。訂正しているの」


「同じじゃない?」


「違う」


舞台上では、クロエ役が両手を広げていた。


「愛の光よ、悪女の呪いを打ち払って!」


悪女役は黒い毒瓶を投げる。


瓶はクロエ役の足元へ落ち、軽い木の音を立てた。


クロエ役が胸を押さえ、大げさに倒れる。


光輪が先に地面へ当たり、片側が折れた。


観客が笑う。


王太子役はクロエ役へ駆け寄る。


悪女役はその隙に王冠を奪った。


筋書きとしては分かりやすい。


事実とは関係ないだけで。


舞台係が、左右の煙器へ赤い粉を入れた。


細い煙が上がる。


悪女の呪いを表しているのだろう。


最初の煙は、普通に上へ昇った。


途中で折れた。


次の煙は、腰の高さまでしか上がらない。


赤く薄い煙が舞台床へ広がり、そのまま左奥へ流れていった。


幕の下へ吸われる。


エルサは眉を寄せた。


「煙が低いわね」


リーネは舞台を見たまま答える。


「そういう演出じゃない?」


「後ろの客から見えないでしょう」


「近くの人には見えるよ」


「客によって見える演出が違うの?」


「安い芝居なら、そういうこともあるんじゃない?」


それはあり得る。


だが、煙は均等に広がっていなかった。


左側だけが強く引かれている。


舞台左の幕裾が、内側へ吸い込まれるように揺れた。


風がある。


広場ではなく、舞台の下か奥から。


悪女役が赤煙の中を歩く。


左側へ足を置いた瞬間、僅かに動きを止めた。


一拍。


ほんの短いものだった。


次の瞬間には高笑いを続けている。


観客には演技の間に見えただろう。


だが、エルサは足元を見た。


女優は右足へ重心を移している。


左足を少し浮かせた。


床に何かあるのか。


釘。


割れ。


水。


あるいは、冷たかったのか。


舞台左側には小さな火鉢が置かれていた。


赤煙を照らすための火。


炎は低い。


役者の動線からは離れている。


本来なら危険はない。


その炎が、一度だけ横へ寝た。


上ではない。


舞台奥へ向かって、細く長く伸びる。


赤煙と同じ方向。


エルサは腕を解いた。


「火鉢、動かした方がいいんじゃない?」


リーネが言った。


「位置は離れているわ」


「じゃあ大丈夫?」


「炎が上へ燃えていればね」


その時、クロエ役が起き上がった。


折れた光輪の片側が衣装へ引っかかっている。


女優は気づかず、王太子役へ近づいた。


足元の白布が予定より中央へ広がる。


王太子役が踏みかけた。


避ける。


半歩前へ出る。


舞台中央の白い印を越えた。


悪女役が王太子役へ向かって回転する。


本来なら右側へ抜ける動きだった。


だが、王太子役が半歩前にいる。


そのまま進めば肩がぶつかる。


悪女役は左へ避けた。


裾を持ち上げる。


一回転。


赤い布が大きく広がる。


左の火鉢へ近づいた。


炎が横へ引かれる。


赤煙の中で、裾の端が一瞬だけ明るくなった。


橙色。


糸が縮む。


黒い縁。


焦げた布の匂い。


観客は笑っている。


誰も気づかない。


「左の裾を踏んで!」


エルサの声が広場へ通った。


悪女役が振り向く。


一瞬だけ、観客席のエルサと目が合ったように見えた。


女優は迷わなかった。


右足を大きく引き、燃えている左裾を床へ踏みつけた。


火が小さく潰れる。


だが、完全には消えない。


布の下で赤い光が残った。


「水!」


リーネが動いた。


すぐ近くの屋台に、手洗い用の桶がある。


リーネは掛けてあった布を掴み、水へ沈めた。


店主が何か叫ぶ。


聞かずに絞る。


舞台脇へ走る。


エルサも人を押し分けて進んだ。


舞台上では、王太子役が異変へ気づいていた。


しかし芝居を止めれば、観客も火へ気づく。


男は一瞬だけ悪女役を見る。


悪女役が高笑いした。


「この程度の炎で、悪女が焼けると思って?」


観客が沸いた。


王太子役も合わせる。


「地獄の炎まで従えるとは!」


クロエ役が折れた光輪を捨て、舞台袖へ手を伸ばす。


「聖なる水を!」


リーネが投げた濡れ布を、舞台係が受け取った。


クロエ役へ渡す。


クロエ役は祈りの姿勢のまま膝をつき、濡れ布を裾へ押し当てた。


白布の袖で手元を隠す。


舞台係が火鉢を遠ざける。


焦げた匂い。


湯気。


小さな煙。


火は消えた。


悪女役は裾を踏んだまま、毒瓶を掲げた。


「聖女の水など不要よ!」


クロエ役が即興で返す。


「ならば、なぜ裾を踏んでいるのです!」


観客がさらに笑った。


悪女役は一拍だけ黙った。


そして王太子役へ扇を投げつける。


「王子が離してくれないからよ!」


王太子役は扇を胸で受け止め、膝をついた。


「その裾ごと、あなたをお守りする!」


「言っていないわ」


エルサは反射的に呟いた。


すぐ横へ来ていたリーネが、息を切らしながら言う。


「今はそこじゃない」


「分かっているわ」


舞台はそのまま終幕へ向かった。


予定より短い。


悪女役は王冠を抱えて密輸船へ逃げる。


王太子役は追う。


クロエ役は折れた光輪を両手で持ち上げ、なぜか王国の平和を祈った。


太鼓。


赤い幕。


歓声。


観客の大半は、衣装へ本当に火がついたと気づいていない。


「悪女が火を操った!」


前にいた子供が叫ぶ。


「次も燃えるかな」


母親が答える。


「毎回燃やしたら服がなくなるよ」


正しい。


その程度の判断力は市場にもあるらしい。


舞台脇では、呼び込み役がすでに声を張っていた。


「本日昼公演限定、地獄の炎を従えた悪女シシーリア! 夜公演ではさらに――」


「次はやらない!」


赤い幕の向こうから女の声が飛んだ。


観客がまた笑った。


呼び込み役は少しも怯まない。


「悪女本人からの特別宣言! 夜公演では何が起きるか分からない!」


「宣伝へ使うのが早いわね」


エルサは言った。


「商売だから」


リーネは肩で息をしている。


借りた布を持っていた。


一部が煤で黒くなっている。


「これ、返してくる」


「弁償を求められたら?」


「火を消したのに?」


「店の布でしょう」


「エルサが払って」


「なぜ私が」


「叫んだのエルサだから」


「あなたが勝手に取ったのよ」


「一緒にいたから半分」


悪女の昼食と同じ分け方を適用しないでほしい。


リーネは舞台袖へ向かう。


「待ちなさい」


エルサは追った。


舞台裏へ入る理由はない。


むしろ入らない方がよい。


声を出しすぎた。


宮廷所作を知っていると口にした。


火が裾へついた瞬間に、正確な位置まで叫んだ。


あのまま人混みへ紛れ、錫の塔へ戻るべきだった。


だが、リーネを一人で舞台裏へ入れるのも不安だった。


布代を請求されるかもしれない。


火災の責任まで押しつけられる可能性もある。


市場では、誰が何を払うかは声の大きい者が決める。


それを防ぐため。


それだけだった。



舞台袖は、表より狭かった。


木箱。


綱。


予備の幕。


壊れた王冠。


使い終わった煙器。


水桶。


衣装籠。


役者と舞台係が入り乱れている。


「火鉢が近すぎたんだ!」


「近くない。印から外れたのは役者だろ」


「王子役も前へ出ただろう!」


「クロエの光輪が――」


声が重なっていた。


誰も火傷していない。


それだけはよかった。


悪女役の女は、赤い幕の裏へ座っていた。


王冠を外す。


金色の木が箱へ置かれる。


次に、長い赤髪へ手を入れた。


留め紐を解く。


かつらが一つの塊になって外れた。


下から現れた髪は、地味な薄茶色だった。


肩へ届かない程度。


汗で額へ張りついている。


白粉を布で拭う。


吊り上がっていた目元が少しずつ普通の形へ戻る。


毒々しい口紅も消える。


舞台上の悪女は、顔から先にいなくなった。


女は胸元へ手を入れた。


リーネが目を見開く。


赤い布の束が一つ出る。


続いて、もう一つ。


左右で明らかに大きさが違う。


女は小さい方を見て舌打ちした。


「また潰れてる」


エルサは思わず見た。


「量が違うでしょう」


女が顔を上げる。


「分かる?」


「見れば」


「右は昨日、鼠に齧られたのよ。詰め直す布が足りなかった」


「市場へ出る前に直さなかったの?」


「布を買う金があるなら、黒パンを買うわ」


合理的だった。


腹立たしいほど。


詰め物を外した女は、舞台上よりずっと細かった。


胸だけでなく、肩も。


腰も。


赤い衣装に着られているように見える。


女は靴を脱いだ。


踵には赤い擦れ。


指先には針傷。


手の甲は洗濯仕事のように荒れていた。


焦げた左裾を膝へ乗せる。


小さな鋏で黒くなった部分を切る。


針箱を開く。


赤い糸を探す。


「さっき叫んだの、あんた?」


女がエルサを見た。


エルサは少し間を置いた。


「火が見えただけよ」


「裾を踏めって言った」


「燃えている布を振り回すより、床へ押さえた方が合理的でしょう」


「普通は、水って叫ぶけど」


「水が届くまで燃え続けるわ」


女はエルサを見たまま、赤い糸を針へ通そうとした。


一度外れる。


指が震えている。


舞台上では平然としていたが、完全に怖くなかったわけではないらしい。


二度目も外れた。


エルサは手を出しかけ、止めた。


代わりにリーネが針を取る。


「貸して」


「できるの?」


「少しなら」


リーネが糸を通す。


女へ返す。


「ありがと」


「布、これ」


リーネは煤けた濡れ布を差し出した。


「誰の?」


「隣の屋台」


「返しなよ」


「焦げてる」


「じゃあ払うのは劇団」


舞台の奥から男の声が飛ぶ。


「役者の位置外れなら、役者負担だぞ!」


赤い衣装の女の手が止まった。


エルサは声の方を見た。


帳面を持った男がいる。


興行主か、会計係。


男は焦げた裾を見ている。


「印から左へ外れただろ。衣装修理は契約どおり給金から――」


「その前に王太子役が半歩前へ出たわ」


エルサは言った。


男がこちらを見る。


「誰だ?」


「観客よ」


「観客は舞台の印まで見えないだろ」


「白い印を越えた。クロエ役の光輪が中央へ倒れたから、王太子役が避けた。その王太子役との衝突を避けるため、悪女役が左へ動いた」


言い切ってから、話しすぎたと思った。


だが、もう遅い。


エルサは続ける。


「煙も上へ流れていなかった。舞台左奥へ吸われていた。左の火鉢の炎も横へ引かれていた。位置を外れた役者だけを原因にするのは早いでしょう」


帳面の男が眉を寄せる。


「煙なんて、風があれば流れる」


「広場の旗は揺れていなかったわ」


リーネが言った。


エルサは少し驚いて、隣を見る。


リーネは濡れ布を握ったまま続ける。


「屋台の煙は上だった。舞台の赤い煙だけ、下へ行った」


見ていたらしい。


エルサだけではなかった。


帳面の男が黙る。


舞台係の一人が口を挟んだ。


「左床も冷たかったってさ」


赤い衣装の女が頷く。


「靴の底から分かるくらい。水でもこぼしたのかと思った」


「濡れてはいなかったわね」


エルサが言う。


女が目を細める。


「見えたの?」


「足を止めたでしょう」


「よく見てるね」


「間違いが多かったからよ」


「芝居の?」


「全部」


女は一瞬、口を開けた。


それから笑った。


舞台上の高笑いではない。


短い、普通の笑いだった。


「そう。じゃあ、詳しい観客さん。悪女がどう歩くかも知ってる?」


危険な問いだった。


エルサは答えない。


女は追及せず、焦げた裾へ針を入れた。


「ヘレーネ」


「何?」


「私の名前。役者の方」


赤い糸が焦げ跡の両側をつなぐ。


「舞台じゃシシーリア。降りたらヘレーネ」


エルサは、木箱の上を見た。


金色の王冠。


赤いかつら。


大きさの違う二つの詰め物。


黒い毒瓶。


赤い扇。


シシーリアを作っていた物が、すべて外されている。


残っているのは、薄茶色の髪と、荒れた手と、靴擦れと、焦げた衣装。


「エルサ」


エルサは名乗った。


「錫の塔の下働き」


「下働きが、宮廷の扇の位置まで知ってるの?」


「市場の芝居を見る下働きもいるでしょう」


「見るだけで?」


「観察力の問題よ」


ヘレーネは針を止め、エルサを見た。


疑っている。


だが、確信はない。


エルサは視線を逸らさなかった。


先に逸らせば、余計に怪しくなる。


しばらくして、ヘレーネは肩をすくめた。


「まあいい。助かったから」


「私は叫んだだけよ」


「その叫びがなかったら、今頃は胸まで燃えてた」


リーネが木箱の上の布束を見る。


「詰め物も?」


「そっちは燃えても次を詰めればいい」


ヘレーネは答えた。


「皮膚は替えがないからね」


再び針を動かす。


細かい。


速い。


焦げた布の端を内側へ折り、赤い糸で留めていく。


舞台上で大きく笑っていた女と、同じ手だった。


ただし今は、扇ではなく針を持っている。


王冠も、赤い髪も、大きな胸も、木箱の上へ外されていた。


焦げた悪女の裾を縫っていたのは、洗濯で荒れた手をした、ただの女だった。

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