第27話 悪女の昼食
首を戻された人形の隣で、今度は毒瓶が売られていた。
ただし、中身は毒ではなく砂糖菓子だった。
「悪女の毒だよ! 舐めれば舌が真っ赤になる! 王太子を一晩で虜にした禁断の味!」
菓子屋の男が、小さな硝子瓶を掲げた。
瓶の中には、黒い糖蜜を固めた飴が詰まっている。底には赤い粉が沈み、振るたびに毒々しく舞った。
栓には髑髏の絵。
首には赤い紐。
瓶そのものは、どう見ても安い薬瓶だった。
エルサは眉を寄せた。
「栓が甘いわね」
菓子屋が目を丸くする。
「味の話かい?」
「作りの話よ。本当に毒を入れるなら、こんな浅い栓では運搬中に漏れるでしょう。封蝋もない。瓶口の形も悪い。腰へ下げたら歩いている間に中身が――」
「買わないなら、次の客を止めないでおくれ」
菓子屋は迷惑そうに言った。
正論だった。
リーネが瓶を一つ取る。
「舌が赤くなるんだって」
「戻しなさい」
「どうして?」
「高いからよ」
エルサは値札を見た。
普通の飴玉なら三つ買える額だった。
容器代。
赤い紐。
髑髏の絵。
悪女という商品名。
中身より外側へ多く払わせる設計である。
「でも瓶も使えるよ」
「何に?」
「針を入れる」
「針を入れる瓶に髑髏が必要?」
「間違えて飲まない」
「針を?」
「水とか」
用途は理解できた。
価格は理解できない。
リーネは自分の小銭を出し、一本買った。
菓子屋が栓を開け、中から黒い飴を一粒、掌へ落とす。
「舐める?」
リーネが差し出した。
「自分の毒殺未遂を再現する趣味はないわ」
「王太子を倒した味だよ」
菓子屋が笑う。
「倒れていないでしょう」
言ってから、エルサは口を閉じた。
王太子は毒で倒れていない。
王宮宴席で倒れたのは、別の者たちだ。
そこまで続ければ、なぜ市場の下働きが詳しいのかという話になる。
リーネは飴を口へ入れた。
頬を動かす。
「甘い」
「砂糖菓子なのだから当然でしょう」
「ちょっと酸っぱい」
「赤い粉ね」
「食べる?」
「要らない」
「舌、赤くなった?」
リーネが舌を出す。
確かに赤い。
病的というより、染め布のような色だった。
「品がないわ」
「休みの日だし」
休暇は品まで失わせるらしい。
リーネは毒瓶を外套の内袋へ入れた。
歩くたび、瓶が小さく鳴った。
その音を聞きながら、エルサは隣の屋台へ目を向けた。
黒い布紐が、何十本も垂れていた。
細い物。
太い物。
端へ銀色の糸を入れた物。
小さな赤石を縫いつけた物。
屋台の上には、大きな札がある。
> 処刑前夜の黒いリボン
> 裏切った男との縁を断つ
> 悪女シシーリア最後の装身具
エルサは立ち止まった。
「これも見るの?」
リーネが聞いた。
「見ていないわ」
「止まってる」
「道が狭いのよ」
十分に広かった。
屋台の女が一本を取る。
「お嬢さん、恋人に裏切られたかい? 悪女のリボンを結んで眠れば、朝には未練が切れるよ」
「いません」
「なら、嫌いな男へ贈るといい。結び目一つで悪夢。二つで失恋。三つなら髪が抜ける」
「効能の根拠は?」
「悪女が処刑前夜、これを髪へ結んだのさ。王太子への恨みを込めてね」
「処刑前には――」
言いかけて止まる。
地下牢へ装身具を持ち込むことは許されない。
髪に残っていた物も、投獄時にすべて外された。
処刑前夜のシシーリアは、黒いリボンなど結んでいなかった。
髪は脂と埃で絡まり、肩へ張りついていた。
最後に触れた装身具は、看守へ投げ返された価値の落ちた金貨だった。
「処刑前には?」
リーネが聞いた。
エルサは黒い布紐から目を離した。
「牢内で髪を結ぶ飾りなど、普通は許可されないでしょう」
「詳しいね」
「安全管理よ。首を吊るために使える物を残すはずがない」
屋台の女が肩をすくめた。
「細かいことを言うねえ。芝居じゃ髪へ結んでるよ」
「芝居が先なの?」
「さあね。瓦版だったかもしれないし、西の土産屋が先かもしれない」
女は黒いリボンを元の場所へ戻した。
「売れ始めた頃には、もう皆知ってたよ」
皆が知っている。
本人だけが知らない最後の夜を。
存在しなかった装身具へ、存在しなかった恨みを込める。
死者の過去とは、ずいぶん自由に作り直せるものらしい。
「買う?」
リーネが聞いた。
「なぜ私が」
「髪に合いそう」
「短すぎて結べないでしょう」
「首に巻くとか」
「処刑具へ寄せるのはやめなさい」
リーネは小さく笑った。
エルサは歩き出す。
次の角では、瓦版売りが声を張り上げていた。
「悪女シシーリア、七つの大罪! 王冠を盗み、王太子を惑わせ、聖女を呪い、魔物を呼んだ世紀の悪女! 処刑台で明かされた最後の告白!」
「罪が増えているわ」
エルサは呟いた。
「何個だったの?」
「少なくとも七つではない」
「何個?」
「数えていないわ」
数えられる程度には少なかった。
国家反逆。
銀の密輸。
違法鋳造。
王都通貨への攻撃。
グライフ家との裏取引。
罪状としては複数あったが、元を辿れば同じ事件へまとめられていた。
毒殺。
呪詛。
魔物召喚。
王冠窃盗など、どこから増えたのか分からない。
リーネは瓦版を一枚取った。
「買わないよ」
売り子へ念を押し、版画を見る。
紙の中央には、長い赤髪の女が描かれていた。
片手に王冠。
片手に毒瓶。
足元には倒れた王太子。
背後には密輸船。
空には翼のある魔物。
左端では、純白の服を着たクロエらしき女が祈っている。
頭上には大きな光輪。
シシーリアの胸は、現実の倍ほどあった。
「似てる?」
リーネが聞いた。
「誰に?」
「人形よりは、エルサに」
「髪が赤いでしょう」
「栗色に見えなくもない」
「胸も違うわ」
「そこ見るんだ」
「版画全体の均衡を見ているの」
「大きいよね」
「不自然よ」
売り子が口を挟んだ。
「美人は胸も大きい方が売れるんだ」
「美醜と胸囲を一つの基準へ入れないで」
「悪女が痩せてたら景気が悪いだろ」
市場の論理は強かった。
リーネが版画の文字を追う。
読み書きはできるが、細かな字には少し時間がかかる。
「一つ目、王冠を盗んだ」
「盗んでいないわ」
「二つ目、王太子を惑わせた」
エルサは黙った。
「三つ目、西の銀を盗んだ」
「それも正確ではない」
「四つ目、毒を盛った」
「盛っていない」
「五つ目、聖女クロエを呪った」
「聖女ではない」
「呪ってない方は?」
「そちらもよ」
「六つ目、北の魔物を呼んだ」
「呼んでいないわ」
「七つ目、処刑前に密輸船を用意して逃げようとした」
エルサは版画を見た。
密輸船の帆には、なぜか髑髏が描かれている。
「船で逃げていない」
「逃げてはいない、なの?」
リーネの視線が向く。
「逃げようとしたとしても、地下牢から西の港まで船は入れないでしょう」
「詳しいね」
「地理の問題よ」
実際には、地下水路を荷車で運ばれた。
船より余程ひどい乗り心地だった。
リーネが瓦版を売り子へ返す。
「どうして七つなの?」
売り子は簡単に答えた。
「五つじゃ少ない。十だと覚えられない。七つが一番売れる」
陰謀ではなかった。
語呂と値段と紙面の都合。
人間一人の罪状は、売りやすい数へ調整されていた。
エルサは反論する気を失った。
正しい罪状へ直したところで、紙が多く売れるわけではない。
むしろ内容が地味になる。
密輸と帳簿と通貨操作より、毒瓶と魔物の方が絵になる。
理解できる。
理解できることが腹立たしい。
広場へ近づくと、子供たちの声が聞こえた。
「王冠を返しなさい、悪女!」
「嫌よ! 王太子も王国も私のもの!」
赤い布を肩へ巻いた少女が、木箱を頭へ載せて高笑いしている。
向かいには、木の棒を腰へ差した少年。
王太子役らしい。
その横で、白い布を頭から被った小さな子が、両手を組んでいた。
「愛の力で王子様を助けます」
「遅いわよ! もう毒を飲ませたもの!」
悪女役の少女が、木匙を王太子役の口元へ突き出した。
少年は大げさに倒れる。
地面へ転がり、舌を出す。
白い布の子が手をかざす。
「聖女の光!」
王太子が即座に起き上がった。
「治った!」
「治療が早すぎるわ」
エルサは呟いた。
リーネが笑う。
「子供の遊びだよ」
「毒の種類も量も確認せず治療を始めるのは危険でしょう」
「そこ?」
今度は看守役の子供が、赤い布の少女へ縄を掛けた。
「悪女を処刑する!」
「嫌よ! 魔物を呼ぶわ!」
少女が両手を上げる。
近くにいた別の子供二人が、犬のように四つん這いで走り回った。
「魔物だ!」
「悪女の味方だ!」
筋書きは完全に崩れていた。
王太子は処刑人へ変わり、聖女は魔物を蹴り、悪女は王冠を被ったまま逃げ出した。
瓦版。
人形。
芝居。
市場で見聞きしたものが、子供の遊びへ混ざっている。
誰が何を最初に作ったのか、もう分からない。
赤い布の少女が、別の遊びへ呼ばれた。
「私、行く!」
「悪女は?」
「誰かやって!」
少女は赤い布を放り出し、走っていった。
残った子供たちが周囲を見る。
一人がエルサを見つけた。
短い栗色の髪。
地味な服。
少し吊り上がった目。
「お姉ちゃん、悪女やって」
「嫌よ」
即答だった。
「すぐ終わるよ」
「何をするの?」
「毒を飲ませて、王冠を取って、処刑される」
「報酬は?」
子供が困った顔をした。
「ないよ」
「無給で処刑される理由はないでしょう」
リーネが吹き出した。
子供たちも笑った。
何が面白いのか分かっていない笑い方だった。
「じゃあ悪女は僕がやる!」
王太子役だった少年が赤い布を巻く。
別の子供が木の棒を受け取って王太子になる。
役は簡単に入れ替わった。
誰が悪女でもよい。
赤い布を巻き、毒瓶を持ち、最後に倒れれば成立する。
エルサは首元へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
革紐が喉へ回された感触は、まだ完全には消えていない。
子供たちは知らない。
知る必要もない。
彼らが真似しているのは、誰かが売った遊びだった。
怒る相手が違う。
それでも、この場へ長くいる理由もなかった。
「行くわよ」
エルサはリーネの袖を引いた。
「どこへ?」
「あなたの針と石鹸を買うのでしょう」
「その前にお昼」
「まだ言っているの?」
「お腹空いた」
言われてみれば、エルサも空腹だった。
朝からカルトッフェルを剥き、下水区の階段を上がり、人混みを歩いた。
錫の塔の昼食を食べ損ねている。
支給されるはずだったアイントプフは、グレタが残してくれているだろう。
夕方に食べればよい。
その後に夕食も食べればよい。
食事を一回減らす必要はない。
問題は、市場で余分な金を使うことだった。
「安いところよ」
エルサは念を押した。
「分かってる」
リーネは広場の向こうを指した。
黒い鳥の看板が揺れている。
首から上が描かれていなかった。
鳥なのか女なのかも分かりにくい。
看板の下には、
> 《首なし雌鴉亭》
と書かれていた。
「安そうに見えないわ」
「昼は小皿がある」
「値段を先に確認する」
「座ってからでいいでしょ」
「座った後では断りにくくなるでしょう」
「断ればいいよ」
「あなたは市場の圧力を軽視しているわ」
「市場の圧力って何?」
「店主の顔、匂い、空腹、後ろに並ぶ客、席を取った責任。それらすべてよ」
リーネは聞いていなかった。
すでに店へ入っている。
◇
《首なし雌鴉亭》の中は、店名ほど暗くなかった。
壁は煤けている。
天井は低い。
丸く削られた木卓が六つ。
市場側の壁は大きく開き、外の広場と移動舞台が見える。
奥では、大鍋から赤い湯気が立っていた。
燻製肉。
酢。
煮た根菜。
焼いた黒パン。
発酵乳。
匂いは悪くない。
むしろ空腹には危険だった。
店の女主人が、二人を空いた卓へ案内する。
「昼公演前なら《悪女の最後の一皿》が安いよ」
嫌な名前が聞こえた。
エルサは席へ座る前に止まった。
「普通の昼食は?」
「根菜煮込み。黒ヴルスト。パンつき」
「悪女の方は?」
「赤根菜煮込み。黒ヴルスト。白い発酵乳。パンつき。香草酢もある」
「ほぼ同じでしょう」
「悪女は盛付けが違う」
「いくら?」
女主人が答える。
普通の昼食より三ミント高い。
三ミント。
錫皿一枚を割った時の修理代と同額だった。
エルサは即座に首を振った。
「普通ので」
「悪女の方が芝居も見やすい席だよ」
「席へ追加料金を払う必要はないわ」
「小皿なら二人で分けられる。パンを一枚足しても、普通の昼食二つより安い」
エルサは計算した。
確かに安い。
一人分としては少ないが、黒パンを足せば昼食になる。
リーネが袖を引く。
「それにしよう」
「半分よ」
「何が?」
「支払額も料理も、正確に半分」
「分かった」
信用できない返事だった。
「ヴルストもよ」
「分かってる」
さらに信用できなくなった。
エルサは女主人を見る。
「小皿一つ。黒パンを一枚追加。飲み物は?」
「薄い麦酒なら別料金」
「水は?」
「煮沸したのがある」
「それで」
女主人は厨房へ戻った。
エルサとリーネは卓の向かいに座る。
休暇。
市場。
昼食。
仕事ではない。
誰かの事故も起きていない。
調査対象もない。
少なくとも、今のところは。
「顔が仕事してる」
リーネが言った。
「料理の価格と量を確認しているだけよ」
「それを仕事って言うんじゃない?」
「生活よ」
「休みも生活だよ」
反論しようとしたところへ、木皿が置かれた。
赤い根菜の煮込み。
黒いヴルスト。
白い発酵乳。
黒パン。
小さな土器には香草酢。
盛付けは確かに普通の昼食とは違った。
赤い煮込みを皿の半分へ広げ、その上へ黒いヴルストを斜めに置く。
白い発酵乳は、胸元へ刺された短剣のように一筋。
黒パンは、処刑台を模した形へ切られている。
「赤が悪女のドレス。黒が罪。白が聖女の涙だよ」
女主人が説明する。
「白だけ多すぎない?」
リーネが言った。
エルサは発酵乳の量を見た。
「聖女の要素を減らしてもらえる?」
「嫌いなのかい?」
「酸味が強そうだからよ」
女主人は笑って去った。
エルサは木匙を取る。
リーネも取る。
二人の間へ皿を置き直す。
ヴルストを小さなナイフで切る。
正確に半分。
と思ったところで、皮が弾け、片方が少し大きくなった。
リーネの匙が伸びる。
「待ちなさい」
「何?」
「大きい方でしょう」
「近かったから」
「距離は所有権を決めないわ」
「切った人が小さい方でいいんじゃない?」
「その慣習はどこにあるの?」
「今作った」
マルコと同じことを言った。
腹立たしい。
エルサは大きい方を自分の側へ寄せた。
「費用は半分。量も半分」
「細かい」
「食事は盗難の起きやすい資産よ」
「一緒に食べてるだけなのに」
「一緒だからこそよ」
リーネは赤根菜を一匙すくった。
口へ入れる。
「甘い」
エルサも食べる。
柔らかく煮た赤い根菜は、土臭さが僅かに残っていた。
だが香草と酢がよく合う。
甘味のあとに、穏やかな酸味。
黒いヴルストは燻製が強く、塩気も濃い。
皮を噛むと弾け、熱い脂が出る。
白い発酵乳をつけると、酸味が脂を抑えた。
最後に香草酢を少し落とす。
悪くない。
むしろ、市場の昼食としてよくできている。
塩気の強いヴルストで黒パンを食べさせ、根菜で量を補い、発酵乳と酢で重さを切る。
材料も高級ではない。
見せ方で値段を上げているが、味の組み立ては合理的だった。
「おいしいね」
リーネが言う。
エルサはもう一口食べた。
「料理に罪はないわ。値段にはあるけれど」
「悪女なのに?」
「悪女と味は関係ないでしょう」
「でも、これ悪女の料理だよ」
「料理人は悪女ではないわ」
「シシーリアが食べた最後の料理なんでしょ?」
「食べていない」
また即答してしまった。
リーネの匙が止まる。
「どうして分かるの?」
エルサは黒パンを千切った。
硬い。
煮込みへ浸す。
「処刑前の囚人へ、こんな高価な盛付けをすると思う?」
「そう言われたら、しないかも」
「最後の食事なら、もっと安い物でしょう」
実際には、地下牢で最後に食べた物をよく覚えていない。
冷えた粥だったか。
硬い黒パンだったか。
水は鉄臭かった。
食事より、翌日の首の方が重要だった。
「じゃあ、誰が考えたんだろう」
リーネが聞いた。
エルサは厨房を見る。
女主人が別の卓へ同じ料理を運んでいる。
客は赤い煮込みを見て笑い、毒瓶菓子を隣へ置き、人形の首を外していた。
「聞いてみるわ」
「仕事じゃない?」
「苦情よ」
食べ終える前に女主人を呼ぶ。
「この料理を最初に作ったのは誰?」
「私の亭主の姉だよ」
「悪女商品全体は?」
「知らないねえ」
「人形と瓦版と芝居と料理のうち、何が最初?」
女主人は少し考えた。
「人形は西から来たって聞いた。芝居の絵師が人形を見て、赤い髪にした。菓子屋は芝居絵を見て毒瓶を作った。うちは菓子屋と瓦版を見て料理にした」
「黒いリボンは?」
「あれは恋占い屋が勝手に始めたんじゃないかい」
「子供の処刑遊びは?」
「子供に聞きな」
一人ではない。
人形屋は首を外した。
絵師は髪を赤くした。
菓子屋は毒瓶にした。
瓦版屋は罪を七つへ増やした。
料理屋は皿へ盛った。
劇団は台詞を与えた。
子供は全部を一緒にして遊んだ。
誰か一人を止めても、もう消えない。
シシーリアの名前は、市場の中で細かく分けられ、別々の商品へ混ぜられていた。
まるで、壊した物を別の鍋へ少しずつ戻すように。
「最近は、本物が生きてるって噂まであるよ」
女主人が言った。
エルサの指が止まった。
「誰が?」
「さあね。劇団の宣伝だろう。今日の昼公演も、本物の悪女が出るかもしれないってさ」
「本物は死んだでしょう」
声が、思ったより低くなった。
女主人は気にしなかった。
「死人が出る方が客は喜ぶよ。芝居ならね」
「悪趣味だね」
リーネが言った。
エルサは残った黒パンを煮込みへ押し込む。
本物は死んだ。
王宮の記録でも。
ゼーヴェル家の記録でも。
市場の噂でも。
そうでなければ困る。
女主人が離れたあと、二人は皿を空にした。
赤根菜の汁も。
発酵乳も。
黒パンの欠片も。
リーネが最後のヴルスト片へ匙を伸ばす。
エルサの匙も同時に当たった。
「私の半分よ」
「さっき大きい方取ったでしょ」
「切断時の誤差よ」
「じゃあこれは誤差の調整」
「勝手に調整しないで」
結局、ナイフでさらに半分へ切った。
小さすぎて、ほとんど味はしなかった。
それでも均等だった。
支払いも正確に半分。
追加した黒パン代だけ、リーネが少し多く出すと言った。
エルサは拒んだ。
借りを作るほどの額ではない。
同時に、貸し借りとして記録するほどの額でもなかった。
それが少し不思議だった。
店を出たら、石鹸を買う。
針を受け取る。
櫛は、安くて木目のよい物があれば考える。
その後は錫の塔へ戻る。
次に市場へ来るなら、悪女の名がついていない普通の煮込みを選ぶ。
そう考えてから、エルサは止まった。
次に来る。
いつ来るのか。
何のために。
三か月のうちに、もう一度半休があるかもしれない。
買い物が必要になるかもしれない。
リーネと来るかもしれない。
可能性を計算しただけ。
予定ではない。
「何?」
リーネが聞いた。
「何でもないわ」
外で太鼓が鳴った。
一度。
二度。
三度。
市場広場から歓声が上がる。
女主人が大声で告げた。
「悪女芝居が始まるよ! 本日は本物のシシーリアが出るかもしれない特別公演!」
「見よう」
リーネが立ち上がった。
「帰るわよ」
「まだ針も受け取ってない」
「なら先に針でしょう」
「芝居が終わったら」
「混むわ」
「もう混んでる」
確かに、店の前を人が流れていた。
子供。
市場の客。
荷運び人。
学生。
酒を持った職人。
皆が広場へ向かう。
一人で逆らって歩けば、余計に時間がかかる。
リーネを見失えば探す必要もある。
帰路を知っているとはいえ、一人より二人の方が安全。
さらに昼食代には、芝居が見える席の分まで含まれていた可能性がある。
見なければ、支払った価値を回収できない。
「少しだけよ」
エルサは立った。
「見たいんだ」
「料金に含まれる範囲を確認するだけ」
「無料だよ」
「なら、時間を支払っているの」
「休みだから余ってる」
休暇とは、時間まで価値を失うらしい。
二人は人の流れへ入った。
広場には、荷車を改造した簡易舞台が組まれていた。
赤と黒の幕。
木箱へ布をかぶせた王座。
背景には、海と密輸船。
舞台脇には小さな火鉢が二つ。
赤い煙を出すための筒。
木製の首枷。
客席はなく、人々が立って舞台を囲んでいる。
リーネが背伸びをした。
エルサは人の隙間から舞台を見る。
太鼓が止まった。
呼び込み役が声を張る。
「王国を震わせた世紀の悪女! 西の銀を盗み、王太子を毒し、聖女クロエを呪った女! その名は――」
赤い幕が開いた。
長い赤髪。
深紅のドレス。
胸元には黒い宝石。
右手に扇。
左手に毒瓶。
女が大きく顎を上げ、舞台の中央へ進み出る。
観客へ向かって、高く笑った。
リーネがエルサの耳元へ顔を寄せる。
「あれがシシーリア?」
「髪色が違うわ」
「そこ?」
エルサは舞台の女を見た。
背が高い。
髪が赤い。
胸が大きい。
少なくとも、正確なのは悪女という呼び名だけらしかった。




