第26話 休暇は給金になりません
三か月分の仕事を得た翌朝、エルサは半日分の仕事を取り上げられた。
少なくとも、エルサはそれを休暇とは呼ばなかった。
知っていたのは、カルトッフェルが八十七個あり、そのうち六個には深く芽が入り、二個が柔らかくなり始めていることだった。
柔らかい二個は昼の鍋へ回す。
芽の深い六個は、食べられる部分を確かめてから別籠へ。
残りは、なるべく小さくしないように剥く。
それが今朝の仕事だった。
「今日は薄い」
隣でカルトッフェルを剥いていたリーネが言った。
エルサは手を止めず、顎を上げた。
「当然でしょう。いつまでも同じ失敗をするほど無能ではないわ」
刃を寝かせる。
薄茶色の皮が細くつながり、足元の桶へ落ちた。
最初の頃は、皮と一緒に白い身まで厚く削っていた。芽を取れば半分になり、考え事をすればさらに一回り小さくなった。
今は違う。
芽は深く。
それ以外は薄く。
呼ばれても、一度カルトッフェルを置いてから振り向く。
錫皿を銀器のように磨かない。
木皿を灰汁へ浸けすぎない。
濡れた器は下から支える。
修理できる皿を、勝手に捨てない。
覚えたことは少なくなかった。
リーネが、エルサの手元ではなく籠の中を見た。
「芋が小さいからじゃない?」
エルサも籠を見た。
確かに、今朝のカルトッフェルは小粒だった。
「大きさにかかわらず、昨日より薄いわ」
「昨日はカブだったよ」
「比較対象がなくても技術は向上するものよ」
「便利な言い方」
リーネは鼻で笑い、自分の芋へ戻った。
野菜下処理場には、土と湿った藁の匂いが満ちていた。
壁際では、グレタがキャベツを半分に割っている。芯を落とし、細く刻み、塩と一緒に大樽へ詰める。その隣では、ミナが根菜を選別し、傷のあるものへ炭の印をつけていた。
天井近くには、昨日吊るした燻製肉。
奥の醸造区画からは、乾かしている麦芽の甘い匂い。
裏庭では、空の酒樽が石床を擦る低い音を立てている。
冬支度だった。
秋のうちに仕込んでおかなければ、冬になってから困る。
キャベツは塩漬けにする。
肉は煙へ通す。
カルトッフェルとカブは、傷みやすいものから食べる。
麦芽は湿気を残さない。
灰咳が増える季節に備え、病人食へ使う乾燥薬草も別に包む。
エルサは小さなカルトッフェルを一つ取り、刃を当てた。
三か月。
王宮の宴席事故を終えたあと、マルコが新しく書いた雇用期間。
三日ではない。
一か月でもない。
三か月。
秋の終わりまで働けば、冬へ入る。
冬へ入っても、契約は少し残る。
つまり自分は、今吊るされている燻製肉を食べる可能性がある。
樽の底で発酵しているキャベツも。
まだ袋へ入ったままの豆も。
自分が食べるかもしれない物を、自分で仕込んでいる。
その事実は、妙に落ち着かなかった。
家族の食卓を用意するような感傷ではない。
もっと現実的な話だ。
三か月分の給金。
一日三回の食事。
寝床。
作業着。
業務に必要な筆記具。
塔外へ出る時の業務札。
そこから控除される可能性があるのは、壊した器、破いた服、紛失した道具、仕事以外で負った怪我の治療費。
石鹸も必要になる。
櫛の歯も二本欠けている。
予備の靴も欲しい。
今の木靴は踵が削れており、冬の濡れた坂では滑る可能性が高い。
安い外套。
下着。
硬貨を隠せる内袋。
契約満了後に次の仕事を探す間の宿代。
最低でも、それだけは用意したい。
三か月働き切れば、追い出されたあとも数日は生存できる。
数日あれば、次の仕事を探せる。
その次の数日を買う。
それが現在のエルサにとって、最も長期的な将来設計だった。
「止まってる」
リーネが言った。
エルサは手元を見た。
刃をカルトッフェルへ当てたまま、動かしていなかった。
「考えていたの」
「芋を?」
「七箱を」
「どの七箱?」
「王宮から戻ってきた七箱よ」
返却された銀器。
検体容器。
保温設備から外した部品。
王宮側の記録写し。
どこへ返すか決まっていない器具。
誰が受け取ったか記録の合わない封筒。
王宮宴席事故は終わった。
後始末は、七箱に増えて錫の塔へ戻ってきた。
「芋を見ながら?」
「芋以外を見ながら剥く練習よ」
「それ、練習する必要ある?」
ある。
記録補助になったからといって、厨房仕事を免除されたわけではない。
朝は野菜の下処理。
昼は記録室。
夕方は皿洗い。
必要なら酒場の配膳。
その間に七箱の受領記録、返却先、隔離物、洗浄済みと未洗浄を分けなければならない。
記録補助という言葉には、記録に関係することなら何でも補助させられる、という意味が含まれていたらしい。
大変に広い職務だった。
給金は同じだった。
「今ので三十二」
エルサは、剥き終えた籠を見た。
「さっきも三十二だったよ」
「確認よ」
「同じ籠を二回?」
「途中で誰かが動かした可能性があるでしょう」
「誰も触ってない」
「見ていたの?」
「エルサがずっと見てたよ」
そうだった。
エルサは答えず、新しいカルトッフェルを取った。
今度は、剥いた芋を大きさの順へ並べ直した。
大きいもの。
中くらい。
小さいもの。
昼の鍋へ入れた時、火の通りが揃う。
理にかなっている。
少なくとも、本人はそう思った。
壁際から包丁の音が止んだ。
グレタがこちらを見ていた。
「エルサ」
エルサは手の中の芋を台へ置いてから振り向いた。
「何?」
「昼から休み」
エルサは一度、グレタを見た。
次に、リーネを見た。
リーネは驚いていない。
ミナも根菜へ炭の印をつけたまま、口元だけ笑っている。
どうやら聞き間違いではないらしい。
「何の仕事を?」
「何もしない仕事」
「それは仕事ではないでしょう」
「だから休みなんだよ」
グレタはキャベツへ戻った。
エルサは刃を置いた。
「理由を聞いていません」
「王宮から戻って、まともに休んでない」
「寝ています」
「記録帳の上でね」
「机へ伏せただけよ」
「寝たって言うんだよ」
「正確には短時間の意識消失でしょう」
グレタが包丁を止めた。
「余計に休みな」
刻んだキャベツを両手ですくい、大樽へ入れる。
塩を振る。
上から押し込む。
「昨日、同じ皿を二回数えた」
「洗浄前と洗浄後よ」
「どっちも洗浄後だった」
エルサは黙った。
「七箱の中身も並べ直した」
「受領先ごとに分けたの」
「そのあと、重さごとに並べ直した」
「運ぶ順番を考えたのよ」
「そのあと、もう一度受領先へ戻した」
「比較した結果、最初の分類が妥当だっただけでしょう」
「確認が増えて仕事が遅くなってる」
正しい。
正しいが、認めたくなかった。
エルサは少し考えた。
「半休分を給金へ換算してください」
「しない」
「では後日まとめて」
「駄目」
「記録作業だけなら座ってできます」
「休むだけで契約を増やすんじゃないよ」
「契約とは言っていません」
「言ってなくても顔に書いてある」
リーネが笑った。
エルサはそちらを見た。
「何がおかしいの?」
「半休を交渉する人、初めて見た」
「条件が不明なまま受け入れる方がおかしいでしょう」
エルサは指を折った。
「まず、半休中も給金は減らないの?」
「減らない」
「昼食は?」
「出る」
「夕食は?」
「出る」
「寝床は?」
「ある」
「業務札は?」
「取らない」
「塔内に残っても?」
「残っていい」
「記録室へ入るのは?」
「駄目」
「なぜ?」
「休みだから」
「閲覧はせず、索引だけなら――」
グレタが近づいてきた。
エルサの手から皮むき包丁を取り上げる。
次に前掛けの紐を解いた。
「何をするの」
「仕事を取り上げてる」
「まだ昼前でしょう」
「昼までにまた仕事を見つけるから、今から休み」
「半休ではなくなるわ」
「給金は減らない」
「そういう問題では――」
「そういう問題だろう?」
背後からマルコの声がした。
酒場側から、大きな鍋蓋を抱えて通りかかったところだった。
エルサは振り向く。
「塔長。半休中の業務について確認を」
「休み中に皿を洗ったら、洗った分だけ給金から引く」
「なぜ?」
「仕事を増やすから」
「その処理に根拠は?」
「今決めた」
エルサは本気で給金板を思い浮かべた。
グレタが鍋蓋を持つマルコの背中を叩く。
「塔長の冗談を契約へ入れるんじゃないよ」
「冗談なの?」
「半分は」
マルコはそのまま通り過ぎた。
「どちらの半分?」
返事はなかった。
エルサは前掛けを取り返そうとした。
グレタが高い場所へ掛ける。
「届くわ」
「取ったら夕食のカルトッフェルを全部剥かせる」
「それは休暇命令と矛盾するでしょう」
「夕食後なら休暇は終わってる」
反論の余地がなかった。
エルサは前掛けを見上げた。
働かない。
それでも給金は減らない。
昼食も夕食も出る。
寝床もある。
業務札も有効。
条件だけ見れば、損失はない。
むしろ労働時間を減らしながら同じ対価を得るのだから、得と評価できる。
しかし、どうにも納得しづらかった。
対価を払わずに食べるのと似ている。
後で別の名目で引かれるのではないか。
勤務評価へ影響するのではないか。
三か月契約の終了時に、働かなかった半日として不利に扱われるのではないか。
「顔が休んでない」
リーネが言った。
「顔は勤務時間外よ」
「意味が分からない」
「私にもよ」
◇
女性下働き部屋へ戻ると、エルサは寝台へ腰掛けた。
座っただけだった。
横にはならない。
仕事着も脱がない。
手元には、王宮宴席事故の内部記録へつける予定の索引札があった。
実物の記録は記録室から持ち出していない。
索引札だけなら、機密資料ではない。
たぶん。
最初の札へ、
> 食材
> 保温
> 銀器
> 炉出力
と書く。
二枚目には、
> 発症者
> 無症状者
> 配膳時刻
と書こうとした。
炭筆が手から抜かれた。
リーネだった。
「何をするの」
「休ませる」
「座っているでしょう」
「手が仕事してる」
「手だけなら休暇中でも使えるわ」
「それ、休みじゃない」
「肉体労働ではないでしょう」
「頭も休み」
「頭を止めたら死ぬわ」
「普通は死なないよ」
リーネは索引札と炭筆を、自分の寝台の下へ入れた。
エルサは手を伸ばしかけ、やめた。
取り返すほどの資料ではない。
頭の中で組めばよい。
食材。
器。
炉。
配膳。
症状。
時刻。
七箱の受領記録と対応させるなら、二重索引にして――。
「今も仕事してる」
「見えないでしょう」
「顔で分かる」
今日二人目だった。
エルサは寝台へ座ったまま、両手を膝へ置いた。
することがない。
壁。
寝台。
共同の私物箱。
洗った布。
窓代わりの細い通気口。
見慣れた物ばかりだった。
休暇とは、これらを眺めることなのだろうか。
シシーリアだった頃、予定のない日はほとんどなかった。
茶会。
衣装合わせ。
王宮礼法。
商人との面談。
婚約者として出席する宴席。
予定が入っていない時間は、次の予定の準備へ使った。
地下牢では何日も何もできなかった。
扉は閉じていた。
食事は選べなかった。
何もしなくても、処刑の時刻だけが近づいた。
あれは休暇ではない。
今は、扉が開いている。
食事が出る。
寝床もある。
外へ出てもよい。
働かなくても、契約は今日の午後だけ短くなったりしない。
その方が、かえって落ち着かなかった。
「市場へ行く?」
リーネが言った。
エルサは顔を上げた。
「なぜ?」
「休みだから」
「理由になっていないわ」
「針を受け取る。石鹸も買う。冬前の布を見る」
「あなたの用事でしょう」
「エルサも櫛を買えば?」
「不要よ」
リーネはエルサの私物箱へ手を伸ばした。
「勝手に開けないで」
「開いてる」
確かに蓋は半分開いていた。
リーネは中から木の櫛を取り出す。
歯が二本欠けている。
「これ」
「まだ使えるわ」
「使えると、痛くないは別だよ」
「髪は短いのだから問題ない」
「朝、引っかかってた」
見られていたらしい。
「頭巾で隠れるわ」
「頭巾を取った時に困るでしょ」
「取らなければいい」
「ずっと?」
エルサは答えなかった。
リーネが櫛を戻す。
「昼は屋台で食べよう」
「昼食は塔で支給されます」
「今日は外で食べる」
「二重支出よ」
「塔の分は夕方に食べれば?」
「昼食を夕方に回したら夕食と重なるでしょう」
「少なめに食べればいい」
「食べられる物を意図的に減らす理由がないわ」
「屋台に行きたいから」
「あなたの希望でしょう」
「エルサは行きたくない?」
行きたいかどうか。
考えたことがなかった。
市場へ行く理由はある。
櫛。
石鹸。
靴の価格確認。
冬用外套の相場。
契約満了後に必要な物の見積もり。
だが、それは休暇というより調査だった。
「市場価格の確認なら、業務に近いわね」
「違うよ」
「生活用品の調達」
「休み」
「契約満了後の支出計画」
「休み」
「屋台料理の衛生状態の確認」
「それはやめて」
リーネは即座に言った。
「何も食べられなくなる」
エルサが反論しようとした時、扉が開いた。
グレタが、畳んだ服を抱えて立っていた。
「行くなら着替えな」
エルサは服を見た。
灰色のスカート。
薄茶色の長袖。
短い外套。
古い頭巾。
どれも作業着ほど煤けてはいない。
だが新品でもない。
「誰の?」
「塔の予備」
「外出用?」
「葬式にも使える」
「縁起が悪いわね」
「何にでも使えるって意味だよ」
グレタは服を寝台へ置いた。
外套の内側には、小さな内袋が縫いつけられている。
縫い目は新しい。
エルサが指で触れる。
「これは?」
「小銭を落とすな」
「私のためにつけたの?」
「返す時に外套までなくされると困るからね」
グレタはそれだけ言って出ていった。
優しさとして受け取るには、理由が実務的すぎた。
エルサにはその方が助かった。
◇
着替えを終えると、エルサは煤を指へ取った。
炉場の近くに置かれている、細かな灰と炭の混じったもの。
頬へ伸ばそうとしたところで、リーネに手首を掴まれた。
「休みの日まで汚れなくていいよ」
「汚れではなく変装よ」
「いつも本気の煤だったの?」
エルサは手首を引いた。
「顔立ちをぼかすのに有効でしょう」
「でも今日は市場だけだよ」
「市場には人がいるわ」
「塔にもいる」
「種類が違う」
「人に種類があるの?」
「あるでしょう」
貴族。
商人。
職人。
下働き。
衛兵。
王宮関係者。
シシーリアを知っている人間。
知らない人間。
エルサを知らない人間。
エルサを覚えている人間。
口に出す必要はなかった。
リーネはエルサの指から煤を拭い取った。
「頭巾とフードで十分」
「判断するのは私よ」
「いつもより人に見えるから大丈夫」
「普段から人間よ」
「普段は煤」
「煤は種族ではないわ」
結局、頬に元から残っていた薄い汚れだけで出ることになった。
エルサは短い外套の襟を直す。
仕事着ではない。
錫の塔の所属が、外見からは分からない。
家名もない。
正式な身分札もない。
ただの、地味な若い女。
それが落ち着かなかった。
エルサは私物箱から業務札を取り出した。
表には錫の塔の円形印。
名前はエルサ。
職務は厨房下働き兼記録補助。
裏には有効期限。
三か月後まで。
服の内側へ入れる。
位置を直す。
市場で見せる予定はない。
それでも、あるだけで違った。
「仕事じゃないのに持っていくの?」
リーネが聞いた。
「市場で何かあった場合、所属を示せるでしょう」
「何かって?」
「衛兵の呼び止め。盗難。怪我。身元確認。死体発見」
「休みの日に死体を見つけないで」
「私が決められることではないわ」
エルサはもう一度、札の裏を見た。
有効期限は、昨日と同じだった。
当然だ。
紙や革に刻まれた日付は、一晩で勝手に減らない。
それでも、確認しなければ気が済まなかった。
「見ても延びないよ」
リーネが言った。
「勝手に短くなっていないことには意味があるわ」
「勝手には短くならないよ」
「そう思っている人間から損をするの」
リーネは何も言わず、扉を開けた。
◇
錫の塔を出ると、エルサは最初に戻る道を見た。
古い石階段。
洗濯物の下を通る細い道。
醸造区画の裏。
豊穣の酒場の看板。
どこへ曲がれば厨房裏口へ戻れるか。
知っている。
当然だった。
毎日通る道だ。
それでも確認した。
下水区は朝の仕事が一段落し、昼の仕事へ移る時間だった。
空樽を転がす音。
炉煙。
濡れた布。
薬草の匂い。
魚の塩気。
薄い麦酒を運ぶ桶。
灰咳の老人が炉端へ座り、その横を子供が走る。
リーネは迷わず階段を上がった。
エルサも続く。
仕事ではない外出。
荷札もない。
仕入れ表もない。
王宮へ警告を届ける必要もない。
誰かの命がかかっているわけでもない。
歩く速度を決める理由すらなかった。
「遅い」
リーネが振り返る。
「周囲を確認しているの」
「何を?」
「人と道」
「道は動かないよ」
「人が塞ぐでしょう」
「今日は誰も追ってこないよ」
その保証はない。
だが、少なくとも今のところ、エルサを見ている者はいなかった。
荷運び人は荷車を見る。
商人は客を見る。
洗濯女は雲を見る。
衛兵は路地で言い争っている男たちを見る。
誰も、短い栗色の髪を頭巾へ押し込んだ下働きの女を見ていない。
王都は、エルサが思うほど彼女へ関心がなかった。
その事実は安堵になった。
同時に、ほんの少しだけ腹立たしかった。
シシーリア・フォン・ゼーヴェルが死んだ時、王都中が自分の名を叫んでいた。
エルサが市場へ出ても、誰も振り向かない。
当然だった。
望んだ結果でもある。
だから腹を立てる理由はない。
地上へ近づくにつれ、空気が変わった。
炉煙より、焼いた肉の匂いが強くなる。
香辛料。
熱い油。
焼きカルトッフェル。
甘い菓子。
石段を上り切ると、広い通りへ人が流れていた。
職人。
買い物客。
学生。
商人。
荷車。
子供。
リーネが人の隙間へ入っていく。
エルサは一拍遅れた。
貴族の馬車が通る大通りなら知っている。
王宮から七家の屋敷へ向かう道も。
だが、庶民市場の流れ方は知らない。
立ち止まれば邪魔になる。
端へ寄れば屋台の客とぶつかる。
荷車は鐘を鳴らさず、声で人を避けさせる。
「こっち」
リーネが袖を引いた。
細い路地へ入る。
人通りが少し減った。
「近道?」
「安い道」
「道に値段があるの?」
「高い店の前を通らない」
なるほど。
王宮では、どの店の前を通るかにも意味があった。
庶民市場では、財布へ意味があるらしい。
通りの端に、木製の櫛が並んでいた。
目の細かい物。
粗い物。
装飾のある物。
エルサは一つ手に取り、値札を見る。
自分の給金なら買えない額ではない。
だが、欠けた櫛もまだ使える。
「それにする?」
リーネが聞いた。
「木目が悪いわ。水へ濡れたら反る」
「櫛を水に入れないでしょ」
「髪が濡れている時に使うでしょう」
「乾いてから使えば?」
「朝は時間がないの」
「休みの日ならあるよ」
「休みの日だけ髪を梳くために買うの?」
リーネは別の櫛を手に取った。
エルサが値札へ目を向けた時、近くで子供の声が上がった。
「処刑!」
乾いた音がした。
小さな物が、桶の中へ落ちる。
エルサは反射的に振り向いた。
玩具屋台の前で、男の子が赤い服の人形を掲げていた。
人形の胴体だけを。
首は、足元の木桶へ落ちている。
「悪女を処刑!」
もう一人の子供が笑った。
桶から首を拾う。
濃い赤の髪。
吊り上がった眉。
黒いドレス。
片手に金袋。
もう片方に毒瓶。
顔はまったく似ていなかった。
似ていないことだけが、唯一まともだった。
子供は、人形の首を胴体へ差し戻した。
かちり、と安い木の音がした。
元どおり。
「欲しいの?」
リーネが聞いた。
「要らないわ」
「ずっと見てる」
「作りが雑なのよ」
エルサは屋台を睨んだ。
首は差込み式。
胴体の中へ細い紐が通り、背中の金袋を引くと首が落ちる仕組みらしい。
処刑台。
毒瓶。
金袋。
悪女シシーリアについて、市場の玩具職人が必要だと判断した要素は、その三つだった。
「似てる?」
リーネが人形とエルサを見比べた。
「どこが?」
「髪」
「色が近いだけでしょう」
「顔も少し」
「目が左右で違う高さよ」
「エルサも怒ってる時は片方だけ上がるよ」
「上がらないわ」
「今、上がってる」
エルサは眉へ触れた。
屋台の主人が笑った。
「お嬢ちゃん、ひとつどうだい。王都名物、首落ち悪女。金袋を引けば何度でも処刑できるよ」
「一度死んだ人間を、何度も処刑する必要があるの?」
「壊れないからお得だろ」
商売としては正しい。
人形は死なない。
首を戻せば、また売り物になる。
また遊べる。
また処刑できる。
シシーリア本人より、ずいぶん扱いやすい。
子供がもう一度、背中の金袋を引いた。
人形の首が落ちた。
今度は石畳を転がった。
子供は笑いながら追いかけ、拾い上げ、また胴体へ差し込んだ。
シシーリアの名は、ずいぶん簡単に外して、また使えるらしい。
通りの先から、甲高い鐘が鳴った。
続いて、芝居がかった男の声。
「悪女シシーリア、王太子を毒殺す! 聖女クロエ、愛と奇跡で王国を救う! 本日昼公演!」
エルサの口から、考えるより先に言葉が出た。
「していないわ」
リーネが振り向いた。
「何が?」
エルサは一拍置いた。
「題目が長すぎると言ったのよ」
「毒殺のところじゃなくて?」
「歴史考証が雑なの」
人波の向こうで、赤い衣装を着た悪女の幟が揺れていた。
その隣には、白いドレスを着たクロエらしき女。
頭上には、不必要なほど大きな光輪まで描かれている。
エルサは目を細めた。
「聖女でもないわ」
「今度は何が?」
「何でもない」
休暇は、始まったばかりだった。




