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第30話 黒鷲は地下へ降りる

《黒鷲衣装店》の看板は、近くで見ても鷲には見えなかった。


翼を広げた黒い鳥。


頭は小さい。


嘴は長い。


脚には、獲物ではなく布巻きを掴んでいる。


「鴉じゃない?」


リーネが言った。


「鷲と書いてあるでしょう」


「字を読まない人には鴉だね」


「看板として失敗しているわ」


「でも、黒鴉衣装店より強そう」


「鷲に見えなければ意味がないでしょう」


店は市場の表通りから二つ曲がった先にあった。


道幅は狭い。


軒先から軒先へ布が渡され、染め上がったばかりの赤や青が秋風へ揺れている。


仕立屋。


靴屋。


染料屋。


古着屋。


洗濯場から戻った荷車。


道の端には、糸屑と布切れが溜まっていた。


排水溝を流れる水は、薄く紫色をしている。


黒鷲衣装店の入口には、焦げた布の匂いがあった。


ヘレーネの衣装は、すでに届いているらしい。


エルサは扉へ手を掛ける前に、店の窓を見た。


曇った硝子。


正面からは店の奥まで見えない。


左右の建物との隙間は、人一人が横向きに通れる程度。


裏口は、おそらく通りの反対側。


店内に動く影は二つ。


少なくとも、客が大勢いる様子はない。


「服を買うだけで、逃げ道を見るの?」


リーネが聞いた。


「買わないわ」


「じゃあ、もっと怪しいね」


それは否定しづらかった。


扉を開ける。


小さな鈴が鳴った。


店内は、外から見たより奥行きがあった。


壁には色ごとに布が積まれている。


赤。


藍。


黒。


灰。


生成り。


天井からは、未完成の袖や裏地が吊られていた。


木製の衣装台。


採寸用の丸台。


糸巻き。


鋏。


針箱。


香油。


糊。


布と薬草防虫剤の匂い。


その中央で、一人の女が赤い衣装を持ち上げていた。


四十前後。


暗い髪を、後頭部で固く結んでいる。


首には巻尺。


腰には大鋏。


濃灰色の服の胸元には、赤と黒の糸巻きが三つ差してあった。


女はエルサたちの顔より先に、服と靴を見た。


借り物の外套。


新しく縫い直された内袋。


削れた木靴。


リーネの普段着。


二人の手。


「修理?」


女が聞いた。


「古着? 役者の取り置き?」


「確認です」


エルサは答えた。


女の眉が少し上がる。


「確認だけの客は、だいたい何も買わない」


「当たってる」


リーネが言った。


「まだ何も聞いていないでしょう」


「買わないって言ってたよ」


女は赤い衣装を台へ置いた。


「イルマ。店主よ」


「エルサ」


「リーネ」


イルマは二人の名へ興味を示さなかった。


再び衣装を見る。


左裾が焦げている。


ヘレーネが縫った応急処置も残っていた。


「それは、昼公演の?」


エルサが聞く。


「ほかに今日、燃えた悪女衣装があるなら知らないね」


イルマは裾を裏返した。


焦げた表布。


縮んだ糸。


内側へ折られた縫い代。


濡れ布で押さえられた部分だけ、色が少し暗くなっている。


「表だけね」


イルマが言う。


「裏布までは焼けてない。糸が縮んで、左が半指上がってる」


「夜公演へ出せる?」


リーネが聞いた。


「出すだけなら」


「安全に」


エルサが言い直す。


イルマはエルサを見る。


「表へ仮布を当てる。裏から補強。焦げたところは切らない。火鉢を遠ざける。次も燃えなければ夜は保つ」


「本修理は?」


「明日以降」


「費用は?」


「それを聞きに来たの?」


「それも」


イルマは鼻で息を吐いた。


「劇団からは、役者負担になるかもしれないと聞いた」


「事故記録は原因未確定へ修正されています」


「誰が修正したの」


「目撃者と関係者が、事実を追加しただけです」


「その言い方をする人は、自分が書いたのね」


エルサは答えなかった。


イルマは衣装を台へ広げる。


「なら、今ヘレーネへ請求はしない。仮補修は劇団預かり。本修理は負担者が決まってから」


「無料ではないの?」


リーネが聞いた。


イルマが真顔になる。


「針も糸も布も、地面から生えない」


「聞いただけ」


「手仕事を無料だと思う人間は多いから、先に言うの」


エルサは頷いた。


「正しいわ」


「あなた、服を作る人?」


「違う」


「なら、珍しい客ね」


イルマはヘレーネの返し縫いへ指を当てた。


「これは本人が縫った」


「分かるの?」


「急いだ時ほど細かくなる。あの子は怖いと縫い目が増えるの」


楽屋で、ヘレーネの指は震えていた。


針へ糸を通せず。


それでも舞台上では、悪女のまま笑っていた。


恐怖が消えたのではない。


縫い目へ移っただけだったらしい。


イルマは焦げた部分の裏へ、深い赤の布を当てる。


色は完全には合わない。


だが舞台の灯りなら目立たない。


「夜までには間に合わせる」


「ヘレーネへ伝える」


リーネが言った。


「伝えるなら、走って戻らなくていい。劇団の小僧が取りに来る」


イルマは針を取り、仕事へ戻ろうとした。


エルサは動かなかった。


「もう一つ確認があります」


「やっぱり買わない客は長い」


「シシーリアを名乗る女が、ここで礼装を注文したと聞きました」


イルマの手が止まった。


ほんの一瞬。


それから何事もなかったように、針を布へ入れる。


「客の名前は話さない」


「本人だと主張している女です」


「うちは名前より寸法で服を作るの」


「その女は、劇団へシシーリア役をやめろと要求した。損害請求の可能性も示している」


「だから?」


「その衣装が本人証明へ使われる可能性があります」


「服は身分札じゃない」


「正しいわ。でも、服を着れば信じる人間はいる」


イルマは針を抜いた。


「あなたは、何の関係?」


「昼公演事故の目撃者」


「それだけ?」


「錫の塔の厨房下働き兼記録補助」


服の内側にある業務札へ手を触れかけた。


見せる必要はない。


休暇中。


正式な外勤でもない。


錫の塔を巻き込む理由もない。


エルサは手を下ろした。


「顔を隠した女が、本人だと名乗り、役者へ請求を戻そうとしている。注文票と受取先が不自然なら、店にも責任が戻るでしょう」


イルマの目が細くなった。


顧客を守る顔ではない。


自分の店を守る顔。


「何を知ってるの」


「まだ何も。だから確認しています」


「便利な言葉ね」


今日二度目だった。


イルマはしばらくエルサを見た。


次にリーネを見る。


リーネは何も言わない。


最後に、店の奥へ視線を向けた。


「見せるだけよ」


「十分です」


「触らない」


「必要なら許可を取るわ」


「買わない」


「買わないわ」


イルマは立ち上がり、店の奥へ歩いた。


布の垂れ幕を一枚めくる。


その先に、木製の衣装台があった。


白い布を被せてある。


イルマが布を外す。


深紅が現れた。



それは舞台衣装ではなかった。


少なくとも、ヘレーネの衣装よりは本物へ近づこうとしている。


深紅の外衣。


白い下衣。


黒い外套。


金糸の腰帯。


長い手袋。


赤い靴。


薄い面布。


小さな香油入れ。


胸元へ形をつける布。


縫製は細かい。


布も悪くない。


金糸はすべて本物ではないが、遠目なら分からない。


下級貴族の夜会。


裕福な商人の祝宴。


役者の特別公演。


その程度なら十分通る。


王太子妃候補の正式礼装には足りない。


まず、職人の数が足りない。


本物の礼装なら、仕立屋だけでは終わらない。


刺繍。


靴。


手袋。


宝飾。


髪飾り。


王家側の衣装係。


西の随行侍女。


それぞれが寸法と用途を確認する。


一人の衣装店へ、全部まとめて注文することはない。


「派手だね」


リーネが言った。


「悪女だから?」


「悪女用ではない」


イルマが答える。


「注文は、王太子妃候補として宮廷へ戻る時の礼装」


エルサは眉を寄せた。


「戻れないわ」


「注文主へ言って」


「言えるなら言っているでしょう」


エルサは衣装へ近づいた。


触らない。


まず色を見る。


深すぎる赤。


芝居や瓦版では、シシーリアの色としてよく使われる。


血。


毒。


炎。


誰にでも分かる悪女の赤。


だが、シシーリアが王太子の隣へ立つ時に選んでいたのは、もう少し暗い海紅だった。


王家の青と並んでも争わない。


光の下では赤。


影では黒に近くなる。


この衣装は、どこから見ても赤かった。


「色が違う」


エルサは言った。


イルマが見る。


「注文どおりよ」


「本人なら選ばない」


言ったあと、少し早すぎたと思った。


リーネが横を見る。


イルマは眉を上げる。


「本人を知ってるの?」


「瓦版の絵姿と違うでしょう」


「瓦版はもっと明るい赤よ」


逃げ道を塞がれた。


エルサは衣装の下衣へ目を移した。


「季節も違う」


「何が?」


リーネが聞く。


「外衣は秋の夕方。下衣は春。外套は冬寄り」


「全部着たら暖かいんじゃない?」


「そういう問題ではないわ」


「じゃあ、いつ着るの?」


「着ない」


イルマが言った。


「注文主は、全部を一式だと思ってた」


エルサは手袋を見る。


肘近くまである長手袋。


夜会用。


一方、腰帯の結び方は午後の公式訪問に近い。


黒外套は夕方の謁見。


赤い靴は、瓦版の挿絵そのもの。


「午後の腰帯に、夜会の手袋。夕方の外套。下衣は暖かい時期」


エルサは数えた。


「一日で三度着替えるつもり?」


リーネが聞く。


「それなら一式に縫い合わせないでしょう」


イルマが腰帯を持ち上げる。


「でも、ここは合ってる」


留め位置。


腰骨より僅かに上。


外套の重みを逃がし、長く立っていても背へ負担がかかりにくい場所。


シシーリアが好んでいた位置だった。


「誰かが教えた」


エルサは呟いた。


「何を?」


「腰紐の位置」


袖幅も一部は正しい。


杯を受ける時、手首へ布が溜まりすぎない。


王太子の右側へ立った場合、裾を持ち上げる手の位置も計算されている。


だが、その上へ、芝居と瓦版の悪女像が貼りつけられている。


正しい情報へ、知らない者が見栄えを足した。


あるいは、複数の資料を一着へまとめた。


「採寸票は?」


エルサが聞いた。


イルマはすぐには答えなかった。


「見るだけ」


「持ち出さない」


「写しは?」


「駄目」


「記憶します」


「それは止められないね」


イルマは小机の引き出しを開けた。


帳面ではない。


薄い注文票。


布見本。


寸法紐。


炭筆の修正跡。


原本はイルマの手元から離れない。


名前欄には、


> シシーリア・フォン・ゼーヴェル


と書かれていた。


文字を見ただけで、喉の奥が乾く。


自分の名。


自分では使えない名。


公的には死者の名。


それが衣装店の注文票で、買い物をしている。


エルサは下へ目を移した。


肩。


腕。


腰。


裾。


首。


数字が並ぶ。


肩幅は、本人より広い。


袖は長い。


裾丈も長い。


この衣装をエルサが着れば、肩線は外へ落ち、袖は手を隠し、裾を踏む。


注文主は、エルサより背が高い。


腕も長い。


腰回りは近い。


腰紐位置だけは、不自然なほど合っている。


「本人ではない」


エルサは言った。


イルマが腕を組む。


「寸法が違うから?」


「肩も袖も裾も違う。私――」


言葉が止まる。


「絵姿に比べて」


言い直した。


「絵姿で肩幅まで分かる?」


リーネが聞く。


「王宮衣装の規格から推測できるわ」


「元下働きって、宮廷衣装の規格も知ってるの?」


「西の商家で働いていたと言ったでしょう」


「商家の下働きが王太子妃候補の服を?」


「商家には服もあるわ」


弱い。


自分でも分かる。


イルマは追及しなかった。


ただ、エルサの顔ではなく手を見た。


衣装台へ触れていない手。


数字を追う指。


首寸法の欄で止まった視線。


首回りだけ、ほかの数字より丸かった。


半端がない。


きれいに揃っている。


実際に測った数字ではない。


推測。


あるいは公開情報。


「首は、ここで測ったの?」


エルサは聞いた。


「測らせなかった」


「では、この数字は?」


「向こうが持ってきた紙」


「ほかも?」


「肩と腕は紙。腰と裾だけ、外套の上から合わせた」


顔を隠し。


手袋をつけ。


自分の寸法を書いた紙を渡した。


首まで見せなかった。


エルサは喉へ手を当てそうになり、止めた。


細い革紐。


喉仏の下。


うなじで交差。


炭の印。


飲み込めない唾。


「細いな」


処刑人助手の声。


地下牢の冷気。


指先が冷たくなる。


「エルサ?」


リーネが呼んだ。


「何でもない」


声が少し硬い。


首寸法は、本人の値ではない。


それでも、処刑準備で首を測られた話は、瓦版や噂に残っている可能性がある。


細い首。


悪女の縄。


商品へ使いやすい話だ。


「この数字だけ、きれいすぎる」


エルサは言った。


「測った値ではないわ。誰かが、シシーリアの首はこのくらいだと決めた」


イルマが注文票を見る。


「ほかは書き直してる」


腰。


裾。


袖。


何度か修正。


首だけ一度。


本人を測ったのではない。


本人像を作っている。


「名前だけが先にあって、身体を後から合わせたのね」


エルサは呟いた。


「服なんて、だいたいそうだよ」


イルマが言う。


「名乗りたい者の身体へ作る」


「本人の身体ではなくても?」


「うちは身分を縫わない。布を縫う」


職人としては正しい。


腹立たしいほど。


「注文した女は、どんな人?」


「客のことは話さないと言った」


「残金は払われていないのでしょう」


イルマの表情が変わった。


エルサは続ける。


「最終仮縫いにも来ていない。地上住所もない。受取先も不自然。その衣装が詐欺や脅迫に使われれば、店の仕事として記録へ戻る」


「脅し?」


「確認です」


「便利ね、その言葉」


イルマは注文票を机へ置いた。


「顔は見てない。面布。頭巾。手袋。地味な外套」


「声は?」


「若い女。たぶん」


「訛りは?」


「丁寧だった。王都の言葉。時々、西の単語」


「どの単語?」


「裾の返しを、海側へ逃がすって言った」


西の港で使う言い方。


ただし、西の人間なら誰でも使うわけではない。


衣装や帆布、荷覆いを扱う者。


「採寸は?」


「紙を渡された。顔と首は測らせない。傷がある、追われているって」


「腰と裾だけ?」


「最終丈だけは、その場で見た」


「本人だと信じたの?」


イルマはエルサを見た。


「支払える客だと思った」


「同じではないわ」


「服屋には違う話よ」


それも正しい。


名乗りの真偽ではなく、代金。


布。


期限。


仕立て。


商売は本人確認所ではない。


「頭金は?」


イルマは小さな鍵箱を開けた。


布に包まれた銀貨を一枚出す。


机へ置く。


重い音。


アルト銀貨とは違う。


白い銀。


縁の細かな刻印。


西の海波。


ゼーヴェル家の旧鋳造印。


本物のゼー銀貨。


エルサは触れなかった。


見るだけで分かる。


地下牢の看守が欲しがった金。


価値の落ちたアルト金貨より、信用された銀貨。


霧の運び屋が衛兵へ渡した通貨。


「本物?」


リーネが聞く。


「本物よ」


答えが早かった。


イルマが目を細める。


「詳しいね」


「西では普通に見るわ」


「頭金に一枚」


イルマは銀貨を包み直した。


「残りは受取り時」


「服って、銀貨一枚で作れるの?」


リーネが聞く。


「頭金」


「残りは?」


イルマが金額を言った。


リーネは黙った。


エルサも黙った。


三か月分の給金へ換算する。


届かない。


食事と寝床を除いても。


ヘレーネの黒パンと薄いチーズが、頭に浮かぶ。


同じシシーリアの名で働く女。


一人は胸へ古布を詰め、焦げた衣装を自分で縫う。


もう一人は、本物のゼー銀貨で高価な礼装を作る。


名前の価値は、持つ者の資金によって違う形になる。


「銀貨一枚だけでは、出所は分からないわ」


エルサは自分へ言い聞かせるように言った。


「王都でも動く。西の人間とは限らない」


「誰も西の人って言ってないよ」


リーネが言う。


「可能性を消しただけ」


「増やしてから消したよね」


エルサは注文票へ目を戻した。


「受取先は?」


イルマの指が、票の下へ移る。


地上住所ではなかった。


> 南区地下受渡し十二番

> 黒い扉

> 夕鐘後


三行。


「地下受渡し?」


リーネが読む。


「何それ」


「古い荷受け場所」


イルマが答える。


「この店の地下に入口がある」


エルサの背筋が冷えた。


地下。


荷受け。


顔を合わせない受渡し。


霧の運び屋。


王都地下水路。


荷車。


麻袋。


考えるな。


同じ王都に地下経路は多い。


衣装店の荷受けと、自分の脱出を結びつける根拠はない。


「見せて」


「地下まで?」


「十二番の入口だけ」


「危険かもしれないんでしょ」


「だから見るの」


「休みだったよね」


リーネが言った。


「確認は勤務ではないわ」


「さっきから、ずっと確認してる」


「休暇の使い方は自由でしょう」


イルマは大きく息を吐いた。


「地下は布埃が多い。火を近づけない。扉は開けない。勝手に物へ触らない」


「分かりました」


「返事だけは素直ね」



地下へ降りる階段は狭かった。


石段。


壁へ擦れた布の跡。


染料の染み。


糸屑。


一段だけ湿っている。


上から聞こえていた鋏の音が、数段降りるだけで遠くなった。


イルマが先頭。


手には小さな燭台。


次にリーネ。


最後がエルサ。


後ろを取られるのが嫌だった。


だが、自分が最後なら、上から何か来ても分かる。


下から来た場合は、イルマが先に気づく。


合理的。


そう考えなければ、狭い地下階段は落ち着かなかった。


地下倉庫には、衣装箱が積まれていた。


古い木型。


洗濯籠。


防虫薬草。


空の香油壺。


糊。


布包み。


使わなくなった舞台幕。


地上より空気は冷たい。


だが、倉庫全体が冷えているわけではない。


奥の壁際だけ。


そこに、黒く塗られた小さな扉があった。


人が普通に通る高さではない。


腰を曲げれば入れるかもしれない。


基本は荷物用だろう。


古い鉄環。


上には滑車跡。


扉の脇に、札を差し込む細い溝。


石へ刻まれた数字。


十二。


「これが地下受渡し十二番?」


エルサが聞く。


「店側はね」


「向こうは?」


「知らない」


「誰が管理しているの?」


「知らない」


「鍵は?」


「うちにはない」


「扉があるのに?」


「こちら側は留め具だけ。荷物を入れて閉じる。向こう側が取る」


「顔を合わせないの?」


「昔は洗濯物や衣装箱を渡してた。夜会の服を表通りへ運ぶと目立つから」


「今も?」


「ほとんど使わない」


「ほとんど、ということは使う?」


「たまに」


イルマの答えは短い。


知らないのか。


知っていて話さないのか。


エルサは扉へ近づいた。


冷気が足首へ触れる。


秋の地下としては冷たい。


だが一定ではない。


一度、強く流れる。


すぐ弱くなる。


「地下だから冷えるの?」


イルマが言う。


リーネは首を振った。


「下水区の地下は、もっと生ぬるいよ」


正しい。


水路。


炉。


人。


配管。


王都の地下は、地上より湿っていても、均一に冷たいわけではない。


エルサは燭台を見る。


炎が真上へ立っていた。


次の瞬間、横へ伸びる。


黒い扉へ向かって。


細く。


長く。


舞台左の火鉢と同じように。


エルサの呼吸が止まる。


炎は戻った。


また揺れる。


「今の」


リーネが言った。


「見たわ」


「昼の舞台と同じ?」


「似ているだけ」


断定しない。


位置も距離も分からない。


劇場と衣装店の地下がつながっている証拠もない。


それでも、炎は上へ燃えなかった。


扉へ引かれた。


エルサは石壁を見る。


古い石と、新しい漆喰。


補修された鉄環。


継ぎ目。


そこへ、細い黒い筋が走っていた。


黴。


染料。


煤。


あるいは。


床下で見た、根のような黒い結晶。


指を伸ばさない。


触れれば、何か分かるかもしれない。


同時に、何かを付着させるかもしれない。


「それ、前から?」


エルサが聞く。


イルマが燭台を近づける。


「黒いの?」


「そう」


「染料じゃない?」


「ここで黒を流した?」


「地下まで持ってくることはある」


説明はつく。


黒い根と決める理由はない。


採取道具もない。


正式な調査でもない。


エルサは覚えるだけにした。


十二番。


黒い扉。


横風。


黒い筋。


「向こうから、何の匂いがする?」


リーネが聞いた。


エルサも気づいていた。


湿った石。


古い布。


煤。


その奥に、薄い酸味。


乳。


「何か置いてある?」


イルマが倉庫の隅を見る。


「夕方の分」


そこには、小さな陶器壺が二つあった。


白い釉薬。


口を布で縛ってある。


側面へ青い印。


円の中に雪片と匙。


リーネがすぐ近づいた。


「これ、共同冷蔵庫の壺だよ」


「朝、受け取ってきた乳」


イルマが言う。


「針子の夕食。今日は遅くなるから、地下へ置いた」


「冷蔵庫から、いつ出したの?」


エルサが聞く。


「少し前。昼公演の騒ぎが終わってから」


「誰が?」


「見習い」


「時刻は?」


「知らないよ。鐘の前」


正確ではない。


リーネが壺へ手を当てた。


上の方。


「冷たい」


次に、底へ手を滑らせる。


表情が変わった。


「……下、ぬるい」


エルサも触れた。


上部の陶器は確かに冷たい。


底近くは、生温い。


同じ壺なのに。


均一に冷えていない。


持ち運びで上だけ冷えることはあるだろうか。


逆なら分かる。


底へ冷気が溜まる。


だが、上が冷たく、下がぬるい。


冷蔵庫内で、壺の上部だけが冷気へ触れていた可能性。


あるいは、運び出した後に底から温められた。


地下床は冷たい。


熱源はない。


「開けないで」


エルサは言った。


リーネが布紐から手を離す。


「匂いだけでも?」


「開ければ条件が変わる。飲まない。時刻も分からない」


イルマが眉を寄せる。


「夕食用よ」


「だから確認が必要なの」


その時、上階から大きな音がした。


店の扉。


続いて、足音。


誰かが走り込んでくる。


「イルマ!」


子供の声。


「リーネいる!?」


リーネが階段を振り返る。


「いるよ!」


「冷蔵庫が変!」


息を切らした声。


階段の上へ、小柄な少年が顔を出した。


髪が汗で額へ張りついている。


片手には、共同冷蔵庫の木札。


「針は青いのに、乳がぬるい!」


エルサとリーネが顔を見合わせた。


「どこの乳?」


エルサが聞く。


「入口の棚! 病人食も! みんな自分の物を出そうとしてる!」


「扉を開けた人の数は?」


「分からない!」


「管理人は?」


「開けるなって言ってる! でも、魚屋が鍵をよこせって!」


「奥は?」


「寒い! 霜がすごいって!」


入口はぬるい。


奥は霜。


外の温度針は青い。


同じ冷蔵庫の中で、温度が分かれている。


エルサは黒い扉を見た。


十二番。


夕鐘後。


顔のない女が、礼装を受け取る予定。


待てば、姿を確認できるかもしれない。


処刑されたのが別人だと知る理由。


正しい所作を知る理由。


旧財産へ触れようとする根拠。


自分の過去を、どこまで知っているか。


確認したいことは多い。


だが、乳は待たない。


魚も。


肉も。


酵母も。


病人食も。


人間の正体より、腐る方が早い。


「注文票を捨てないで」


エルサはイルマへ言った。


「礼装を渡すなら、受取時刻と特徴を残して。銀貨も使わない。地下扉は開けない」


「命令?」


「お願いです」


「ずいぶん命令に近いお願いね」


「事故へ巻き込まれたくなければ、記録を残して」


イルマは一瞬考え、注文票を畳んだ。


鍵箱へ入れる。


「記録は残す。服も、残金を受け取るまで渡さない」


「ヘレーネの衣装は?」


リーネが聞く。


「夜までに直す」


「ありがとう」


「代金は取るよ」


「分かってる」


エルサは階段へ向かった。


「半休は?」


リーネが後ろから聞く。


「まだ終わっていないわ」


「走ったら仕事だよ」


「移動よ」


「冷蔵庫を見たら?」


「確認」


「中へ入ったら?」


「状況確認」


「記録したら?」


エルサは答えなかった。


もう階段を上がっている。


市場裏通りへ出る。


少年が先に走る。


リーネが続く。


エルサも外套の裾を持ち上げた。


本来の買い物は、針と石鹸と櫛。


櫛はまだ買っていない。


顔のない女にも会っていない。


休めてもいない。


それでも、乳がぬるいなら行くしかなかった。


休暇は、共同冷蔵庫の前で終わった。


給金になるかどうかは、まだ分からなかった。

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