第24話 死者の報告書
国王ギルベルト・フォン・ヴァイスハルトは、料理が冷めることを嫌わなかった。
冷めた料理には、冷めた理由がある。
給仕が遅れた。
厨房が混乱した。
客が話しすぎた。
主催者が決断を避けた。
皿の温度は、たいてい人間の失敗を正直に残す。
その夜、王の前には何もなかった。
銀皿も。
白パンも。
薬草団子も。
肉料理も。
代わりに、机の上へ報告書が置かれている。
厚い。
王宮宴席発症事故。
暫定工程報告。
毒殺未遂ではない。
事故。
表題から、すでに喧嘩を売っていた。
「錫の塔が書いたそうです」
侍従長が言った。
ギルベルトは封蝋を指で割った。
「錫の塔長が?」
「いいえ。現場へ派遣された技師と、記録補助です」
「記録補助」
紙を開く。
最初の頁には、結論があった。
> 現時点で、意図的な毒物混入を示す証拠は確認されない。
断定を避けているようで、避けていない。
意図的混入の証拠がない。
犯人不在を宣言しながら、将来の証拠発見余地だけは残している。
「ずるい書き方だ」
ギルベルトは言った。
侍従長が身を固くする。
「内容に問題が?」
「褒めている」
相手が反論しにくい形で、こちらの選択肢だけを減らす。
西の商人が好む文章だった。
紙をめくる。
患者一覧。
料理。
摂取量。
食器。
保温時間。
炉の変動。
症状。
王族名は必要な箇所だけ。
下働きの名も必要な箇所だけ。
身分順ではない。
発症順でもない。
工程順。
人間を、人間のまま並べていない。
条件へ変換している。
冷たい。
だが、政治文書としては優秀だった。
感情へ逃げられない。
「十一人か」
「はい」
「ユリウスの容体は」
「銀の塔によれば、峠は越えたと」
「曖昧だな」
「王族患者の詳細は、別紙封印とのことです」
「銀の塔らしい」
別紙には手を伸ばさなかった。
いま読んでも、病状は変わらない。
先に事故を見る。
問題麦。
薬草。
銀皿。
長時間保温。
炉出力変動。
後食作法。
六つ。
一つずつなら規定内。
重なると危険。
王家の作法まで、原因の一つとして書かれている。
侍従長が恐る恐る言った。
「最後の項目は、削除させますか」
ギルベルトは顔を上げる。
「なぜ」
「王家の伝統を、事故原因として残すのは」
「実際、私の皿だけ長く温められたのだろう」
「しかし」
「削れば、次も同じことをする」
侍従長は黙る。
王家の伝統。
建国の美徳。
最後に座り、最後に食べる。
全員の声を聞き、全員へ食事が行き渡るまで自分は口をつけない。
歴史院はそう教える。
実際には、最初の王が毒を恐れていただけかもしれない。
美徳とは、長く続いた恐怖へ綺麗な名前をつけたものだ。
今回は、その恐怖が役に立った。
王は食べなかった。
皿は残った。
ただし、毒を待つための作法が、毒を作る時間まで与えた。
随分と公平な伝統である。
「王の皿は」
「封印済みです。王宮と錫の塔の二重鍵」
「誰が決めた」
「記録補助の女です」
ギルベルトの指が止まる。
「王宮だけでは、都合が悪い時に消える可能性がある、と」
侍従長は言いにくそうに続けた。
「錫の塔だけでも同じ。ゆえに二重管理を、と」
「王宮内で言ったのか」
「はい」
「名は」
「エルサ。家名なし」
紙の末尾を見る。
> 記録整理補助 エルサ
小さな署名。
整っている。
飾り気はない。
筆圧が一定。
文字の間隔が狭い。
紙を節約する癖。
ただし、重要な箇所だけ余白を取る。
「出自は」
「不明です」
「塔の身元保証は」
「マルコ・ピューターの外勤札」
「雇用期間」
「一か月」
「一か月?」
「現在は、そう記録されています」
一か月雇用の下働きが、王の皿へ二重鍵を要求した。
身の程を知らない。
あるいは、身の程をよく知っている。
家名のない者が王宮で発言するには、内容を正しくし、手続きを塞ぎ、相手が拒否した場合の記録まで用意する必要がある。
生意気だけではできない。
慣れている。
「年齢」
「十代後半か、二十歳前後」
「容姿」
「栗色の短い髪。小柄。顔に煤。頭巾と外套で隠していたと」
ギルベルトは報告書へ目を落とした。
栗色。
年齢。
西式の文書。
偶然なら、珍しくもない。
西には栗色の髪の女が何万人もいる。
帳簿の書ける女も。
生意気な女も。
「王宮へ来たことは」
「本人は初めてと」
「本人は?」
「同行技師が、歩き慣れているようだったと証言しています」
侍従長の声が少し低くなった。
「搬入口から西小厨房まで、案内より先に曲がった。王宮の排気と排水を見れば分かる、と説明」
「錫の塔らしい説明だ」
「納得されますか」
「半分は」
ギルベルトは次の頁をめくる。
保証。
管轄外。
責任者。
費用負担者。
改善期限。
すべてが分けられている。
誰が悪いかではなく、誰が何を保証したか。
誰がどこまで見ていたか。
誰が次に金を出すか。
西の青潮勘定。
ゼーヴェル家で発達した、船荷事故の処理方式に似ている。
嵐で船が沈んだ時、船長一人へ全損を負わせれば、次の船長は危険を隠す。
だから、船体。
積荷。
港。
保険。
護衛。
天候報告。
それぞれへ損失と改善を分ける。
利益のための冷たい知恵。
シシーリアは、それを王宮文書へ持ち込んだ。
何度も。
最初は十五の時だった。
王家の春祭り用ワインが、港で一部腐敗した。
侍従院は輸送人を処罰しようとした。
シシーリアは、輸送人だけでは次も腐ると言った。
樽。
船倉。
温度。
積替時刻。
検査。
そして、誰がどこまで費用を負うか。
あの時の文書も、左右へ分けられていた。
保証と管轄外。
責任者と費用負担者。
ギルベルトは報告書を机へ置いた。
「陛下?」
侍従長が問う。
「この書式を、誰か王宮で教えた可能性は」
「調停院は否定しています。錫の塔にも、この形式はないと」
「マルコは」
「まだ照会しておりません」
「するな」
侍従長が顔を上げる。
「なぜです」
「尋ねれば、隠す」
「何を?」
ギルベルトは答えなかった。
確信はない。
確信がない時に動くと、相手へこちらの疑いを教える。
王とは、最後に食べる者だ。
最後に話す者でもある。
全員の表情を見てから、必要な分だけ口を開く。
「報告書の政治的処理を」
「報告書の政治的処理を」
侍従長が促す。
ギルベルトは紙を再び持ち上げた。
黒い根。
通信異常。
第二王子の症状。
この三つには、目立たぬ印がついている。
非公開推奨。
理由。
民間混乱。
王族患者情報。
設備網への不正接続疑惑。
「黒い模様と通信の声は、公表しない」
「承知しました」
「公式発表は、王宮宴席における食材と保温設備の複合事故。死者なし。王族を含む発症者は快方」
「毒殺未遂ではなく?」
「犯人がいないのだろう」
「六盟家の一部は納得しません」
「納得させる必要はない。責任を分けて渡せ」
報告書の改善項目を見る。
南の農業検査。
王宮倉庫。
厨房。
銀器。
炉。
毒見。
錫の塔。
各家と各塔へ、少しずつ不名誉が配られている。
一つへ集めれば、反発される。
七つへ分ければ、全員が互いを監視する。
悪くない。
「リンデン家には、異常麦の報告基準を作らせる」
「はい」
「銅の塔へ、瞬間出力を残す記録計を」
「予算を求められます」
「王宮分は出す。地方分は、次回円卓で分担させろ」
「銀器の試験は」
「銀と鉄の塔。白金にも写しを渡せ」
「錫の塔は?」
ギルベルトは少し考えた。
最下位の塔。
飯炊き。
醸造。
生活雑務。
王宮では、そう扱ってきた。
今回、最初に異常を見つけた。
市内十一袋を止めた。
王宮へ警告した。
現場へ入り、設備と料理をつないだ。
犯人を作る動きも止めた。
功績を与えなければ、次から黙る。
与えすぎれば、塔の自治権が膨らむ。
「王宮厨房の臨時監査権を与える」
侍従長が瞬きをした。
「錫の塔に?」
「三か月」
「前例がありません」
「作れ」
「他塔が反発します」
「だから臨時だ」
「監査範囲は」
「食材受領、保温工程、日用回路。王族患者と国家術式は除外」
「報告書作成者にも?」
ギルベルトは署名を見る。
エルサ。
「塔へ与える。個人へは与えない」
「功績者名は公表しますか」
「するな」
「理由は」
「家名のない若い女が王宮毒殺を解いた、と広まればどうなる」
侍従長は考えた。
「詐欺師が増えます」
「悪女シシーリアと同じだ」
市場には、すでに首の外れる人形がある。
逆さ護符。
瓦版。
死んだ女の名前は、商品になる。
生きた功績者も同じ。
顔を知られれば、利用される。
本当に保護を考えたわけではない。
名前を隠しておけば、王家が先に調べられる。
それだけだった。
「クロエの処分は」
「なし」
「虚偽警告については」
「不正確な緊急警告として記録。レオンハルトの停止判断を併記」
「殿下のご意向どおりに?」
「理にかなっている」
息子は少し変わった。
以前なら、証拠を示した者の言葉をそのまま正義とした。
今回は、不確かな報告を受け、自分で止めた。
その責任を引き受けた。
遅い。
シシーリアの件では、間に合わなかった。
だが、王になる者は、一度の失敗で捨てられない。
王家には替えが少ない。
ギルベルトは、自分の息子を愛していた。
愛しているからこそ、駒として使う。
それ以外の愛し方を、彼はあまり知らない。
「報告書の原本は王家書庫へ」
「写しは三部との要望です」
「王宮、錫、白金」
「歴史院ではなく?」
「書いた者が嫌がったそうだな」
侍従長が僅かに驚く。
「なぜご存じで」
「聞き取り記録にある」
歴史院はやめて。
反射的な発言。
シシーリアも歴史院を嫌っていた。
記録を整えすぎる。
都合の悪い余白を削る。
公式の形へ直す。
彼女はそう言ったことがある。
ただし、それも西の商人なら誰でも抱く不満だ。
証拠にはならない。
証拠ではないものを、ギルベルトは証拠にしない。
シシーリアを失脚させた時でさえ、表向きの証拠は揃えた。
揃えすぎた。
あの娘なら、気づいていただろう。
だから法廷で争わなかった。
あるいは、争っても無駄だと判断した。
「陛下」
侍従長が声を落とす。
「一つ、報告が」
「言え」
「地下牢の獄死記録を確認しました」
ギルベルトは目を動かさなかった。
「なぜ」
「報告書作成者について、調停院の一人が独断で」
余計なことをする者は、どこにでもいる。
「結果は」
「遺体確認は、王宮医務官一名。銀の塔の正式検死なし。顔面損傷。首部骨折。埋葬は夜明け前」
「知っている」
ギルベルト自身が急がせた。
シシーリアの死を確定し、西との取引を閉じるために。
遺体が本物か。
重要ではなかった。
死んだことにする必要があった。
ゼーヴェル家も望んだ。
王家も望んだ。
全員が望む結論へ、遺体はよく従った。
「エルサの筆跡は」
「シシーリアの公文書と照合を?」
「するな」
侍従長が目を上げる。
「筆跡が一致すれば、確定に近づきます」
「相手にも近づいたと知られる」
「秘密裏に可能です」
「王宮で秘密裏にできることなどない」
ギルベルトは報告書を閉じた。
「それに、筆跡は変えられる」
シシーリアなら変える。
変えた上で、癖だけが残る。
紙の節約。
項目の分け方。
費用と責任の切り離し。
人間を名前ではなく工程へ置き換える冷たさ。
それらは、筆跡より消しにくい。
「生きているとお考えですか」
侍従長が尋ねた。
ギルベルトは窓を見る。
夜。
王宮の中庭。
宴席用の灯りは消されている。
大広間の窓は暗い。
厨房の煙も薄い。
国王が食べなかった夜。
死んだはずの女が、王の皿を守った可能性がある。
面白い。
不愉快だ。
役に立つ。
危険でもある。
「考えてはいない」
ギルベルトは答えた。
「計算している」
シシーリアが生きている確率。
侍女などである確率。
錫の塔にいる確率。
マルコが知っている確率。
霧の運び屋が関与した確率。
彼女が王家へ復讐する確率。
王宮を避け続ける確率。
今回、王を救うためではなく、自分の寝床を守るために動いた確率。
最後の項目が、最も高い気がした。
あの娘は、正義より損得を信じる。
だから扱いやすい。
同時に、盤面を見抜く。
だから危険だ。
「錫の塔を調べますか」
「表からはするな」
「では」
「監査権を与えろ」
侍従長が理解できない顔をする。
「近づけるのですか」
「仕事を与えれば、動く」
「逃げる可能性は」
「逃げれば、それも情報だ」
餌。
権限。
記録。
三か月。
錫の塔は喜ぶ。
エルサという女も、仕事と寝床が増えるなら残る可能性が高い。
シシーリアなら。
「監査に伴う王宮出入り名簿を作れ」
「はい」
「ただし、本人を王宮へ呼ぶな」
「なぜです」
「逃げる」
一度目は、王宮へ来る理由があった。
問題麦。
錫の塔の責任。
次はない。
無理に呼べば、煙突の免責へ閉じこもる。
あるいは、霧へ消える。
「周囲から」
ギルベルトは指を折った。
「錫の塔長マルコ。同行技師フランツ。雇用記録。食事記録。外勤札。王宮へ入った荷車。脱出経路」
「脱出経路?」
「知っていた可能性がある」
「逃げてはいません」
「逃げられる者は、逃げ道を確認する」
シシーリアはそういう女だった。
宴席の最中でも、扉の蝶番を見る。
会話中でも、護衛の立ち位置を数える。
誰かを信用する前に、失った場合の費用を計算する。
「霧の運び屋も」
「追いますか」
「追うな。出入口だけを見ろ」
霧は掴めない。
掴もうとすれば散る。
荷物がどこへ入り、どこから出るかを見るしかない。
「エルサ本人への接触は」
ギルベルトは報告書の署名を見た。
家名なし。
一か月雇用。
錫の塔の業務札。
シシーリアは死んだ。
エルサは生きている。
その二つを、今すぐ一つにする必要はない。
「捕らえるな」
侍従長が静かに頭を下げる。
ギルベルトは最後の頁を閉じた。
「調べろ」




