第25話 冷えたヴルスト
王宮から出る時、エルサは食材ではなかった。
一応、人間として門を通された。
ただし、入った時より扱いが良くなったわけではない。
「業務札」
門番が言った。
エルサは首から外す。
裏返される。
塔長印。
外勤番号。
名前。
エルサ。
家名なし。
王宮へ入る際と同じ確認だった。
違うのは、門番の後ろに衛兵が二人増えていることと、彼らがエルサの顔より手元の書類を長く見たことだった。
「持ち出し品は」
「作業着。筆記具。私物の黒パンとヴルスト。錫の塔の工具箱」
エルサは答えた。
「記録類」
「王宮側で封印した写し一部。受領票あり」
「検体」
「王宮と錫の塔の二重管理。私たちは持っていません」
「私物の食料を見せろ」
面倒だった。
エルサは道具箱の隅から油紙包みを出した。
朝、グレタに持たされた黒パン。
食べかけのヴルスト。
一度開いた油紙は、脂が染みて半透明になっている。
門番が包みを見た。
「これを王宮へ持ち込んだのか」
「ええ」
「なぜ」
「食べるためです」
「王宮内で?」
「食事を出してもらえなかったので」
門番の顔に、わずかな不快感が出た。
王宮は客へ食事を出す。
王族へ。
貴族へ。
招待された職人長へ。
ただし、緊急招集された家名のない記録補助へ、必ずしも食事が出るわけではない。
宴席料理は封じられた。
使用人食も混乱で止まった。
エルサは一日近く、ほとんど何も食べていない。
「毒物検査を」
門番が隣の衛兵へ言う。
「私物のヴルストに?」
エルサは聞き返した。
「王宮毒殺未遂の直後だ」
「事故です」
「公式発表前だ」
「なら、まだ毒殺未遂とも決まっていないでしょう」
「口を閉じろ」
入る時にも、似たことを言われた。
王宮の門は、外から来た者の口を閉じるためにあるらしい。
衛兵が細い銀針をヴルストへ刺した。
反応なし。
黒パンも割られた。
中に何も入っていない。
当然だった。
貴重な携帯食を検査のために余計に崩され、エルサの機嫌だけが悪くなる。
「通れ」
門番が札を返した。
「王宮内で見聞きしたことを口外するな」
「何を秘密とするか、一覧を」
「全部だ」
「全部では範囲が不明確です」
「エルサ」
フランツが横から呼んだ。
「今は通れ」
「でも」
「門の外で言え」
少なくとも、外へ出ることを優先すべきだった。
エルサは札を受け取り、首へ戻した。
石門をくぐる。
厚い壁の下。
音が反響する。
入った時は、王宮へ戻った。
今は、王宮から出る。
同じ暗い通路。
逆方向。
途中で足を止めそうになる。
何かを忘れている気がした。
記録。
検体。
署名。
業務札。
全部ある。
忘れたのは物ではない。
シシーリア。
王宮へ残していくべき名。
一度死んだ。
それでも体の一部が、まだこの壁の内側へ引っかかっている。
昔歩いた廊下。
王太子の声。
国王の視線。
クロエの短い言葉。
エルサは首の札へ指をかけた。
錫色の円。
現在の名前。
門の先に、夕方の空が見える。
薄い灰色。
冷たい風。
雨の匂い。
一歩。
外へ出る。
後ろで門が閉じた。
石と鉄の音。
今回は、牢の扉ではなかった。
「戻ったな」
フランツが言った。
エルサは王宮を振り返らなかった。
「まだです」
「外へ出たぞ」
「錫の塔へ着くまでが外勤でしょう」
「真面目だな」
「拘束時の返還条件が失効する場所を確認しているの」
「そういうところだけな」
馬車は用意されていなかった。
王宮から錫の塔までは、徒歩でも行ける。
ただし道具箱を抱え、ほぼ徹夜で歩くには少し遠い。
「荷車は?」
エルサが尋ねた。
「帰り便は先に出た」
「私たちを置いて?」
「宴席が止まったから、空箱だけ運んで帰った」
「待たせなかったの」
「いつ終わるか分からなかった」
正しい。
人間二人のために馬と御者を一晩待たせれば、その分の餌代と給金がかかる。
「王宮は馬車を出さないの?」
「家名のない下働きに?」
「事故を解決したのよ」
「王宮は、事故を解決した奴より、事故を起こさなかったことにしたい奴へ馬車を出す」
フランツにしては長い説明だった。
内容も正しい。
「歩くか」
彼は道具箱を持ち直した。
「途中で倒れたら?」
「置いていく」
「錫の塔へ請求するわよ」
「何代として」
「運搬費」
「自分を荷物扱いするのか」
「王宮へ入る時からそうでしょう」
二人は歩き始めた。
◇
王都は、王宮で十一人が倒れても普通に動いていた。
市場では店仕舞いの声。
石畳を掃く音。
夕食用の薪を抱える子供。
屋台の鉄板から上がる煙。
遠くで麦酒樽を転がす音。
王宮の封鎖は、まだ街へ正式には伝わっていない。
それでも噂は早い。
「王宮で毒だってよ」
通りの向こうで、男が言った。
エルサの足が僅かに止まる。
「誰が盛った?」
「南の婚約者だと」
「いや、死んだ悪女の呪いだって」
「シシーリアか?」
「厨房に逆さ人形を吊るしたのに効かなかったらしい」
もう話が育っている。
事故発生から、まだ半日も経っていない。
犯人。
婚約者。
悪女。
呪い。
王宮調停院より、市場の酔客の方が結論を出すのが速い。
精度は低い。
速度だけは優秀だった。
「止まるな」
フランツが言った。
「聞いていません」
「耳がそっち向いてる」
「耳は動かせないわ」
「顔ごと向いてた」
エルサはフードを深く被った。
露天の端に、小さな木彫り人形が並んでいる。
首の外れるシシーリア。
酒場で見たものより、少し出来がよい。
顔へ赤い塗料。
手には銀匙。
新作らしい。
王宮毒殺未遂版。
仕事が速すぎる。
「増えてるな」
フランツも見た。
「私は季節商品ではありません」
「売れてるぞ」
「腹立たしい」
「金になるなら自分で作ればいい」
「本人が本人の偽物を売るの?」
「原価は安そうだ」
少し考えてしまった。
木材。
塗料。
細工。
販売手数料。
利益率は悪くない。
「考えたな」
「考えていません」
「西の顔してたぞ」
「どんな顔よ」
「人を値札で見る顔」
失礼だった。
だが、否定しにくい。
エルサは人形から目を逸らした。
今は金より食事だった。
腹が空いている。
胃が痛いほどではない。
体の奥が薄く、冷えている。
油紙包みを思い出す。
「休みましょう」
「まだ半分も来てないぞ」
「食事は労働効率を上げます」
「さっきまで食う時間が惜しいって言ってただろ」
「状況が変わったの」
「腹が減っただけだな」
王都の小さな広場。
閉まった仕立屋の軒下。
二人は石段へ座った。
フランツが道具箱を足元へ置く。
エルサは油紙を開いた。
黒パンは門番に割られ、断面から乾いている。
ヴルストは冷え切り、表面の脂が白い。
朝、荷車の中で一口だけ食べた続き。
王宮へ入る前。
まだ誰も倒れていなかった時の食事。
「半分」
フランツが言った。
「三分の一」
「俺が持ってきた」
「私へ渡されたものです」
「道具箱に入れた」
「保管しただけでしょう」
「王宮でお前の前に立った」
「頼んでいません」
「記録板を守った」
「それは業務」
「逃げ道も黙ってた」
エルサの手が止まる。
「……三分の一と、一口」
「半分」
「黒パンを多く取って」
「肉がいい」
「私もよ」
人間は平等ではない。
肉の前では、特に。
エルサはヴルストを折った。
冷えた皮が硬く、指へ脂がつく。
完全な半分ではない。
わずかに自分側を大きくした。
「お前の方が大きい」
「切り口の誤差です」
「折っただけだろ」
「折り方にも技術があるの」
「西の会計か」
「生活技術よ」
フランツは文句を言いながら、小さい方を取った。
黒パンも分ける。
エルサはヴルストへ齧りついた。
皮が弾ける。
冷たい脂。
胡椒。
燻煙。
塩。
温かくはない。
柔らかくもない。
王宮の白パンより硬く、銀皿の料理より粗末。
それでも、安全だった。
少なくとも今のところ。
「うまいか」
フランツが聞いた。
「冷たい」
「味を聞いた」
「冷たさも味の一部よ」
「面倒だな」
「おいしくないとは言っていません」
もう一口。
噛むと、脂が少し体温で溶ける。
黒パンは口の水分を奪う。
ヴルストの塩気と一緒なら食べられる。
王宮へ向かう時、この食事は粗末な携帯食だった。
帰りには、帰れる場所から持たされた食事になっている。
価値が変わった。
食べ物そのものは変わらない。
人間は都合よく意味を増やす。
エルサは以前、その仕組みを弱さだと思っていた。
今は少しだけ便利だと思う。
「王太子の声」
フランツが突然言った。
エルサはパンを噛む動きを止めない。
「何?」
「知ってたんだろ」
「王都の人間なら誰でも知っています」
「声だけで顔色が変わるほどか」
「変わっていません」
「白くなった」
「元から」
「煤が足りなかったか」
また同じ会話。
フランツはヴルストを噛んだ。
それ以上、聞かない。
本当に聞かない。
知りたくないのではない。
知れば、対応しなければならない。
知らないままなら、エルサをエルサとして使える。
彼なりの合理性。
あるいは優しさ。
区別する必要はなかった。
「あなたは」
エルサは言った。
「王宮で私が誰だと思った?」
フランツは少し考えた。
「面倒な奴」
「それは知ってる」
「元貴族」
「なぜ」
「歩き方。言葉。銀皿の扱い。王族の部屋を怖がる割に、道は知ってる」
「ほかは」
「西の商家」
「なぜ」
「金の話ばかりする」
「それだけ?」
「あと、王太子の元恋人」
エルサはパンを喉へ詰まらせた。
咳き込む。
フランツが背中を叩く。
強い。
「痛い」
「詰まらせたのはお前だ」
「どうして、その結論になるの!」
「違うのか」
「違います」
「ならいい」
「よくないわ」
「誰かは聞かない」
「聞いたも同然でしょう」
「答えてない」
「否定しました」
「そうか」
まったく信用していない顔だった。
エルサは残りの黒パンを強く噛んだ。
「今の会話を誰かへ」
「言わん」
「理由は」
「面倒が増える」
「信用できる理由ね」
「褒めてるか?」
「ええ」
「気持ち悪いな」
失礼だった。
だが、エルサも同じ気分だった。
◇
錫の塔の煙突が見えた時、空は暗くなっていた。
塔は王宮の尖塔より低く、煤けている。
周囲へ増築された工房と倉庫が、夜の中へ広がっている。
窓から灯り。
煙突から煙。
厨房の排気口から、煮込みの匂い。
カルトッフェル。
タマネギ。
豚脂。
焦げた麦。
いつもの臭い。
王宮の石門を出た時より、呼吸が深くなった。
エルサはその変化を認めたくなかった。
体が勝手にしただけだ。
帰ってきたなどとは思っていない。
まだ一か月契約の途中。
現在地が戻っただけ。
「エルサ!」
門の内側からリーネの声が飛んだ。
一拍も遅れず、エルサは顔を上げた。
リーネが走ってくる。
前掛けの裾を持ち上げ、泥を跳ねる。
「遅い!」
「王宮の調査へ行った人間に最初に言う言葉?」
「死んだかと思った」
「私はすでに一度死んでいるそうよ」
「そういう冗談やめて」
冗談ではない。
だが、リーネの顔が本気で怒っているので黙った。
「フランツさんも」
「俺はついでか」
「生きてるの見れば分かるでしょ」
「エルサもだろ」
「こっちは細いから、遠目だと幽霊かもしれない」
「失礼ね」
リーネはエルサの腕を掴んだ。
「怪我は?」
「ないわ」
「本当に?」
「門番にパンを割られた」
「人間の怪我を聞いてる」
「空腹」
「夕飯ある」
その一言が、最も効いた。
「何?」
エルサが尋ねる。
「アイントプフ」
「肉は」
「少し」
「どれくらい」
「帰ってきて最初に聞くの、それ?」
「重要でしょう」
「豚の骨と、切れ端」
「切れ端は肉に含まれるわ」
「知ってる」
リーネは笑った。
エルサも、笑いそうになった。
しなかった。
多分。
厨房へ入る。
音。
湯気。
鍋。
怒鳴り声。
グレタが大鍋の前にいる。
ハンスが薪を運び、オットーが灯りの錫管を外している。
ミナは洗濯籠を抱えたまま、こちらを見た。
「帰った!」
大声。
食堂の何人かが顔を上げる。
全員が注目するほどではない。
数人が手を上げる。
一人は匙を持ったまま。
一人は口にパンを入れたまま。
歓迎としては雑だった。
ちょうどよい。
「手を洗ってきな!」
グレタが言った。
「飯の前に王宮の汚れを落とす!」
「王宮は病原体扱い?」
「今日はそうだよ!」
反論できない。
エルサとフランツは洗い場へ向かった。
灰汁。
湯。
布。
王宮で触った紙の匂い。
銀皿の金属臭。
煤。
全部を指から落とす。
完全には落ちない。
爪の間へ黒い筋が残っている。
エルサは一瞬、動きを止めた。
黒い根。
違う。
ただの煤。
布でこすると消えた。
「何だ」
フランツが聞く。
「何でもない」
「今日はそれが多いな」
「一日が長かったの」
手を拭く。
食堂へ戻る。
木椀へアイントプフが注がれる。
カルトッフェル。
カブ。
キャベツ。
タマネギ。
豚骨から出た脂。
本当に小さな肉片。
湯気が顔へ当たる。
エルサは椀を両手で持った。
温かい。
その事実だけで、肩の力が抜けた。
「座りな」
グレタが言う。
丸机。
角はない。
リーネが隣。
フランツは向かい。
ハンスも来る。
マルコの姿はない。
「塔長は?」
エルサが尋ねた。
「事務室」
グレタが答える。
「王宮から使いが来てる」
匙が止まる。
早い。
国王の命令。
監査権。
あるいは拘束。
「何人」
「三人」
「衛兵?」
「書記と伝令。剣は持ってるが、抜いてない」
「煙突の免責は」
「マルコが中へ入れた」
逃げるべきか。
まだ食べていない。
少なくとも一口は。
王宮の伝令が来たからといって、即時拘束とは限らない。
ギルベルトが自分へ気づいた可能性。
報告書。
西式。
署名。
歴史院への反応。
確率は。
「食べろ」
フランツが言った。
「でも」
「逃げるにしても食ってからだ」
正しい。
エルサは匙を取った。
一口。
熱い。
舌を火傷しそうになる。
カルトッフェルが潰れる。
豚脂。
塩。
タマネギの甘み。
帰還。
胃が温まる。
二口。
三口。
少しずつ、思考が整う。
逃げ道。
裏口。
醸造所。
貯蔵庫。
外套。
金貨。
指貫。
荷物は少ない。
いつでも出られる。
いつでも。
そのはずだった。
「エルサ」
事務室の方から、マルコが呼んだ。
一拍も遅れず、エルサは振り向いた。
「食べ終わったら来い」
「今?」
「食べ終わってからだ」
逃げる時間を与えているのか。
単に食事を優先しているのか。
マルコはそれ以上言わず、事務室へ戻った。
「行く?」
リーネが聞く。
「食べてから」
「珍しく素直」
「空腹で交渉すると損をするもの」
椀を空にする。
汁も残さない。
黒パンで底を拭う。
肉片は二つあった。
少ない。
だが朝より増えた。
それで十分だった。
◇
事務室には、王宮からの書類が三通あった。
伝令たちはもう帰っている。
マルコが机の向こうへ座り、封書を並べていた。
一通は王家印。
一通は調停院。
一通は王宮厨房。
「座れ」
エルサは椅子へ座らなかった。
「内容を先に」
「王宮で立ちっぱなしだっただろ」
「逃げる必要があるかもしれないので」
マルコが眉を上げる。
「何をした」
「報告書を書きました」
「それだけで逃げるのか」
「国王が読むのよ」
「読ませるために書いたんだろ」
「読んでほしい部分と、気づいてほしくない部分があるの」
「面倒だな」
「知ってる」
マルコは最初の書類を開いた。
「王宮宴席事故について、意図的毒物混入なし。複合工程事故。非公開項目あり」
「黒い根と通信異常?」
「そうだ」
「第二王子は」
「銀の塔管理。容体安定」
完全には信用できない。
だが今はそれ以上聞けない。
「クロエ様の処分」
「なし。王太子の判断責任併記」
エルサは小さく息を吐いた。
安堵ではない。
予定どおりだったという確認。
「次」
マルコは二通目を開く。
「錫の塔へ、王宮厨房の臨時監査権。三か月」
エルサは動きを止めた。
「監査?」
「食材受領、保温工程、日用回路。王族患者と国家術式は除外」
「誰が行くの」
「錫の塔の職員」
「私を含む?」
「必要なら」
罠。
最初に思った。
王宮へ近づける。
記録へ触れさせる。
出入り名簿へ残す。
監視。
国王は、役立つ人間を近くへ置く。
シシーリアの時もそうだった。
「断る」
「塔としては受ける」
「私は行かない」
「契約内容を見る」
マルコが三通目を開いた。
王宮厨房からの実務要請。
帳簿整理。
工程表。
検体管理。
錫の塔の担当者名は空欄。
「自分で名前を書く形式ね」
エルサが言った。
「嫌な書式だな」
「断った者の名前も残る」
「よく分かるな」
「王宮だから」
マルコは紙を置いた。
「行きたくないなら、行かなくていい」
エルサは彼を見る。
「本当に?」
「塔の監査権だ。お前個人への命令じゃない」
「では誰を」
「フランツ。クルト。必要なら俺」
「記録は」
「お前以外にも書ける」
嘘。
書ける者はいる。
だが、今回のように複数部署をつなぐ形式へできる者は少ない。
「私を試している?」
「逃げたいなら逃げろ」
初日と同じ。
逃げるなら勝手に逃げろ。
追わない。
ただし。
「王宮が私を調べている可能性があります」
エルサは言った。
「あるだろうな」
「驚かないの?」
「お前、王宮で目立ちすぎだ」
「顔は隠していた」
「口は隠してない」
正しい。
「国王が報告書の書式へ気づく可能性」
マルコの目が僅かに変わる。
「何の書式だ」
「西」
「どの程度」
「ゼーヴェル家で使う損失分担と保証範囲の書き方」
「消せなかったのか」
「時間がなかった。ほかの形式では責任が一人へ集まる」
マルコはしばらく黙った。
「なら、残した方がよかったんだろ」
「正体が露見しても?」
「お前はどう思う」
エルサは答えられなかった。
報告書を変えることはできた。
一般的な王宮書式。
曖昧な共同責任。
詳細を別紙へ押し込む。
そうすれば、国王に気づかれにくかった。
だが、薬草係。
南の農民。
クロエ。
錫の塔。
誰か一人へ責任が戻る余地が増えた。
自分の安全と、報告書の強度。
選んだ。
すでに。
「損得が合わないわ」
エルサは言った。
「何が」
「一か月雇用の下働きが、王宮へ正体を疑われる危険まで負うのは」
「そうだな」
マルコは机の下から新しい契約書を出した。
用意していた。
「三か月」
エルサは紙を取らない。
「給金」
「月二百五十ミント」
「安い」
「一か月二百から上がってる」
「王宮監査が増える」
「行かなくていい」
「記録整理は増える」
「それは仕事だ」
「危険手当」
「王宮外勤一回につき二十五ミント」
「五十」
「三十」
「拘束時は」
「塔が返還交渉」
「前と同じでは足りない。国王命令の場合」
「王家と六塔の共同承認がなければ、塔内へは入れない」
煙突の免責。
「塔外で拘束された場合」
「業務中なら正式抗議。私用なら知らん」
「王宮監査に伴う移動は、すべて業務扱い」
「認める」
「変装費」
「何だそれ」
「フード。煤。衣服。身元露見防止に必要」
「塔の作業着で行け」
「王宮へ同じ服で何度も行けば覚えられる」
マルコが顔をしかめる。
「月十ミント」
「二十」
「十五」
「洗濯代は別」
「ミナに洗わせろ」
「仕事が増えるでしょう」
「お前、修理代は食卓から出るって覚えたんじゃないのか」
「だから予算を先に取るの」
マルコは笑った。
「三か月。月二百五十ミント。王宮外勤一回三十ミント。変装費月十五。食事三回。寝床。作業着。業務札」
「記録閲覧権」
「今までの範囲」
「追加」
「何を」
エルサは指を折った。
「今回の王宮宴席事故の全記録。王宮から来る改善報告。銅の塔の炉変動記録。銀器試験。南部小麦の農地報告。旧共同穀物庫と王宮設備の接続図」
「最後はない」
「ないなら探す権利」
「塔内限定」
「他塔へ照会する権利」
「塔長承認」
「緊急時は事後承認」
「お前の緊急は広すぎる」
「人が倒れた場合。設備から黒い根が出た場合。錫の粉化が急増した場合。通信回線から死者の声がした場合」
最後は、言ってから少し変だった。
死者の声。
返せ。
橋は。
返して。
設備故障で説明できる。
多分。
「入れとけ」
マルコが言った。
「いいの?」
「どうせ勝手に見るだろ」
「私は契約を守ります」
「契約へ入れれば見るんだろ」
「ええ」
「同じだ」
違う。
少なくともエルサにとっては。
「外向け発表への異論記録」
「継続」
「私の名前を王宮へ出す場合、事前通知」
マルコの炭筆が止まる。
「急ぎなら」
「事後でも、誰が、いつ、何のために出したか記録」
「分かった」
「私の過去を業務上必要なく調べない」
「前と同じ」
「王宮から照会が来ても?」
「答えるのは、塔の職員エルサ。家名なし。雇用三か月。それだけ」
「本当に?」
「契約へ書け」
エルサは炭筆を取った。
条件を書き加える。
文字。
数字。
責任。
期限。
三日契約。
一か月契約。
今度は三か月。
少しずつ長くなる。
生存猶予が。
「給金の前払い」
マルコが顔を上げた。
「調子に乗るな」
「逃走資金が必要です」
「正直だな」
「三か月残るなら、使わない」
「残らない気か」
「状況によります」
「前払いはなし」
「半月ごと」
「月末」
「王宮監査の危険手当だけ当日」
「終了後」
「出発前に半分」
「全額終了後」
「拘束されたら受け取れないでしょう」
「戻ってくる理由になる」
嫌な男だった。
逃走を前提にしながら、帰還の値段をつける。
「では、出発前十ミント。帰還後二十」
「成立」
契約書が整う。
マルコが署名する。
> 錫の塔長 マルコ・ピューター
エルサへ炭筆を渡す。
一瞬だけ、最初の板を思い出した。
濡れた酵母札。
三日。
十五ミント。
皿洗い。
明日の朝食。
今は。
三か月。
月二百五十ミント。
食事三回。
寝床。
記録閲覧権。
危険手当。
変装費。
王宮からの監視。
随分増えた。
安全も。
危険も。
「嫌なら、書かなくていい」
マルコが言った。
「嫌よ」
「じゃあやめるか」
「条件が足りないという意味ではありません」
エルサは署名した。
> エルサ
一拍も迷わない。
その名は、もう他人行儀ではなかった。
「三か月」
マルコが契約書を乾かす。
「長いわね」
「短いだろ」
「死人には十分よ」
「死ぬな。記録が増える」
「排水溝では?」
「もっと駄目だ。今は詰まりを直す暇がない」
初日と同じ。
少しだけ違う。
排水溝が詰まるからではない。
仕事が増えるから。
実に温かみのない引き止めだった。
信用できる。
◇
翌朝。
エルサはカルトッフェルを剥いていた。
王宮から帰った翌日でも、皮むきは免除されない。
三か月契約でも。
王宮宴席事故を解明しても。
錫の塔では、夕食のアイントプフに必要な量が優先される。
「厚い」
リーネが言った。
「薄いわ」
「昨日より厚い」
「疲れているの」
「国王を助けると皮が厚くなるの?」
「助けていません」
「王宮ではそう言ってるって」
「公式発表前でしょう」
「ミナが聞いた」
「最も信用してはいけない情報源ね」
向こうでミナが抗議した。
「今回は王宮の洗濯女から直接!」
「二段階ね」
「十分近いでしょ!」
十分ではない。
だが噂はすでに塔へ戻っている。
「王様、食べなかったんだって」
リーネが言う。
「最後に食べる作法のおかげで」
「作法のせいで皿の反応は強くなったわ」
「でも助かった」
「偶然よ」
「偶然でも助かったならいいじゃない」
単純。
正しい。
理論上の矛盾を解決しなくても、人は生きている。
それでよい時もある。
エルサは刃を寝かせた。
皮を薄く取る。
芽だけ深く抉る。
食べられる身を残す。
一本。
切れずにつながる。
以前より細い。
「今のは、まあまあ」
リーネが言った。
「褒め言葉として受け取るわ」
「褒めてない」
「知ってる」
皮を桶へ落とす。
次のカルトッフェル。
土。
小さな傷。
芽。
日常。
王宮では、国王が自分を調べ始めているかもしれない。
クロエは扉の向こうで、次は早く止めると言った。
レオンハルトは責任を戻した。
ユリウスの腕には黒い筋。
通信は、返せと声を出した。
旧共同穀物庫の黒い根は、まだ封印されたまま。
何も終わっていない。
むしろ、つながり始めた。
逃げるなら、今のうちだった。
三か月契約を結んだだけ。
破ればよい。
給金はまだ受け取っていない。
荷物も少ない。
価値の落ちたアルト金貨。
十二ミント。
指貫。
着替え。
それだけ。
「エルサ」
グレタが呼んだ。
振り向く。
「昼から記録庫だってさ。王宮から箱が届いたよ」
「何箱?」
「七つ」
多い。
「中身は」
「それを見るのが仕事だろ」
七つの箱。
七つの印。
七つの塔。
七つの家。
嫌な数字だった。
エルサは手元のカルトッフェルを見た。
まだ半分しか剥いていない。
「これを終えてから行きます」
リーネが目を丸くする。
「記録より皮むき優先?」
「途中で置くと変色するでしょう」
「昨日までなら投げて行ったのに」
「昨日までの私は、一か月契約だったの」
「三か月になると芋を最後まで剥くの?」
「職務責任が増えたのよ」
「関係ある?」
「多分」
リーネは笑った。
エルサは残りの皮を剥く。
細く。
切らずに。
最後まで。
一本の皮が、指から下がる。
死んだ女の人生にしては、随分長く続いた。
エルサは皮を桶へ落とし、次の仕事へ立ち上がった。




