第23話 嘘をついた者
嘘をついた者は、呼び出される。
王宮では、そういうことになっている。
嘘の内容。
理由。
結果。
救われた人数。
失われた時間。
そうしたものは、呼び出した後に考える。
先に、誰が嘘をついたかを確定する。
順序としては分かりやすい。
大抵、間違える。
「王太子婚約者クロエ・フォン・リンデン様は、王宮調停院の確認を受けられます」
伝令が読み上げた。
「発言内容は、宴席前における『毒の可能性あり』との警告。現時点の調査では、規定毒物の意図的混入は確認されていません」
調停官が報告書を見る。
エルサが書いた結論。
意図的な毒物混入を示す証拠なし。
複合条件による変性反応。
毒殺犯はいない。
その結論が、今度はクロエを追い詰めている。
「クロエ様は、どちらに?」
厨房長が尋ねた。
「王族控えの北室です」
「こちらへ来られるのか」
「いいえ」
伝令は答えた。
「王族席の封鎖が続いているため、聞き取りは扉越しに行います」
扉越し。
エルサの背中が少し緩んだ。
クロエと顔を合わせずに済む。
喜ぶべきことだった。
ここまで来て、顔を見たいとは思わない。
どのような表情をしているかも。
王太子の隣で。
自分のいた場所で。
それでも、胸の奥へ小さな不快感が残った。
見えない方が安全。
見えないままの方が、好きなように嫌える。
「調査関係者は、必要な者のみ北室前へ」
調停官が言った。
視線がエルサへ向く。
「お前も来い」
「私は必要ありません」
「警告の原文を書いた者だ」
「危険条件を報告しただけです。毒と言ったのはクロエ様」
「だから確認する」
「顔を見せる必要は?」
調停官の眉が動く。
「何を恐れている」
正体。
過去。
元婚約者。
国王。
王宮。
全部。
「王族の前へ出られる身分ではありません」
エルサは答えた。
便利な真実だった。
「扉の外にいればよい」
「聞き取り内容だけ、記録へ回してください」
「命令だ」
「錫の塔の外勤者へ、王宮調停官が直接命令できるの?」
調停官の顔が硬くなる。
煙突の免責。
塔の自治権。
王宮内では完全に守られない。
それでも、多少の抵抗には使える。
フランツが横から言った。
「俺も行く」
「呼んでいない」
「こいつだけ連れていくなら、立会いがいる」
「容疑者ではない」
「さっきまで候補だった」
「状況が変わった」
「また変わるかもしれん」
調停官は額へ指を当てた。
「二人とも来い。発言は求められた時だけ」
「無理だな」
フランツが言った。
「何が」
「こいつが黙るのは」
「努力します」
エルサが答える。
「信用できん」
「あなたも少しは信用して」
「実績がない」
最近、正しい人間が多すぎる。
◇
北室へ続く廊下は、宴席前より静かだった。
静かというより、音を止めている。
厚い絨毯。
閉じた扉。
壁際へ並ぶ衛兵。
侍女たちは歩幅を小さくし、衣擦れすら抑えている。
大広間で十一人が倒れた。
第二王子はまだ治療中。
王族の食事は全面停止。
料理は封印。
炉は停止。
その混乱が、表向きには廊下へ漏れない。
王宮は、見せる場所と隠す場所の境目だけは美しい。
エルサは頭巾を深く下げた。
前を歩く調停官の背中だけを見る。
右手の扉。
左手の柱。
天井の飾り。
知っている。
王太子妃教育の途中、何度も通った。
北室は、円卓会議の前に王族が衣服と資料を整える部屋だった。
以前、シシーリアは鏡の前で髪飾りの角度を直された。
レオンハルトはそこで、用意された蜂蜜菓子を勝手に食べた。
侍従に、会議前に指を汚さないでくださいと叱られていた。
その記憶を切る。
現在。
エルサ。
錫の塔。
記録補助。
床を見ろ。
「顔が白いぞ」
フランツが小声で言った。
「元から」
「煤が足りないんじゃないか」
「塗る?」
「今やったら怪しい」
「では黙って」
「努力する」
先ほどの意趣返しらしい。
くだらない。
助かる。
北室の前には、衝立が置かれていた。
扉は閉じたまま。
王族側。
調停側。
完全に部屋を分けている。
エルサとフランツは、さらに廊下の曲がり角へ立たされた。
扉からは見えない位置。
声だけが届く。
望んだ形だった。
望んだはずなのに、心臓が速い。
「開始します」
調停官の声。
「王太子婚約者クロエ・フォン・リンデン様。宴席前、王族席の料理について『毒の可能性がある』と発言されたことに相違ありませんか」
扉の向こうから、クロエの声がした。
「相違ありません」
柔らかい。
落ち着いている。
記憶より少し低く聞こえた。
王宮へ来てから変わったのか。
扉の厚みのせいか。
判断できない。
「その時点で、規定毒物の検出報告はありませんでしたね」
「はい」
「毒見役の異常報告も」
「ありません」
「明確な発症者も」
「いませんでした」
「では、根拠なく毒と述べた」
短い沈黙。
「根拠はありました」
クロエが答える。
「南部小麦の過去記録。今回の苦味と発泡。銀皿の反応。保温時間。炉の出力変動。錫の塔からの警告です」
「それらは危険の可能性であって、毒の証明ではない」
「はい」
「毒と呼ぶのは不正確だった」
「はい」
エルサの指が、業務札へ触れた。
認める。
最初から。
言い訳しない。
クロエらしい。
嫌な女だ。
「なぜ、不正確な言葉を使った」
調停官が問う。
「正確な説明では、宴席を止められなかったからです」
廊下の空気が少し動く。
厨房長がいる。
あの時、確証を求めた。
彼の判断も間違いではない。
だからこそ、クロエは別の言葉を選んだ。
「王宮儀礼を混乱させる意図があった?」
「ありません」
「王族席の停止により、六盟家との会談は中断。料理は廃棄。王宮の信用にも損害が出ています」
「承知しています」
「自身の発言が、その損害を生じさせる可能性は理解していた?」
「理解していました」
「それでも言った」
「はい」
「責任を認めるか」
「認めます」
早い。
あまりにも。
エルサの胃が冷えた。
クロエは、自分から犯人欄へ入ろうとしている。
止めるために嘘をついた者。
結果として事故は起きた。
ただし王は食べなかった。
被害は十一人で止まった。
もっと増えた可能性は証明できない。
止めた利益は、起きなかったため数字にしにくい。
混乱の損害は、現実に残っている。
罰するには十分だった。
「処分については」
クロエが続ける。
「婚約者としての権限を越えたと判断されるなら、王族厨房への関与を今後すべて禁じてください」
扉の向こうで、誰かが息を呑んだ。
侍女か。
「また、リンデン家へ政治的責任が及ばぬよう、私個人の判断として記録を」
「クロエ」
別の声がした。
レオンハルト。
エルサの呼吸が止まりかけた。
一度、目を閉じる。
声だけ。
会ってはいない。
「殿下」
クロエの声。
「聞き取り中です」
「分かっている」
以前と同じ声ではない。
当然だった。
最後に地下牢で聞いた時、彼の声は傷つき、震えていた。
いまは低い。
疲れている。
それでも、はっきりしている。
「王太子殿下」
調停官が言う。
「これはクロエ様の発言責任についての確認です」
「だから来た」
「事前の通知がありません」
「自分の判断について話すのに、誰の通知がいる」
調停官が黙る。
王太子は、命令できる。
その事実をエルサは知っていた。
以前、使ってほしかった。
使われなかった。
「停止を命じたのは私だ」
レオンハルトが言った。
「クロエは危険情報を報告した。厨房長からも、錫の塔からも、確証がないと聞いた。その上で、私が止めた」
「しかし『毒』という表現はクロエ様が」
「言葉を選んだのはクロエだ」
エルサの指へ力が入る。
逃がさない。
全部を奪わない。
正確に分ける。
「その言葉を採用したのは私だ」
レオンハルトは続けた。
「私は王太子として、王族席と宴席を止める権限を使った。クロエに命じられたのではない」
「ですが、殿下が誤認された原因は」
「誤認ではない」
「規定毒物は検出されていません」
「食べた者が倒れた」
「複合事故です」
「だから何だ」
声が強くなった。
廊下の衛兵が姿勢を正す。
「毒物が瓶で運ばれたか、皿の上で生じたかは、停止命令の時点では分からなかった。食べれば害が出る可能性がある料理を、私は毒と呼ぶ判断を認めた」
「用語として不正確です」
調停官が言う。
「なら、今後の規程で正せ」
「殿下」
「その時、ほかに何と呼べば止まった」
沈黙。
危険反応。
未知の変性。
複合条件。
どれも、宴席を止められなかった。
「クロエは、言葉を短くした」
レオンハルトが言った。
「私は、その短い言葉で判断した。結果が誤報なら、責任は停止を命じた私にある」
「殿下へ責任を移す意図はありません」
クロエが言う。
「移すのではない。戻すんだ」
その一言が、扉を越えた。
エルサの喉が狭くなる。
戻す。
本来あるべき場所へ。
判断した者へ。
命令した者へ。
以前は違った。
証拠を持ってきた者。
署名した者。
疑われやすい者。
シシーリア。
責任は、最も処理しやすい場所へ移された。
レオンハルトも、それを信じた。
今回は。
「停止命令へ署名したのは私だ」
彼は言った。
「私の名を消し、クロエだけを処分するなら、記録を偽ることになる」
嘘のつけない男。
政治には向かない。
あまりにも。
だが、嘘をつかないからこそ、今回は役に立つ。
「殿下は、婚約者様を庇っておられる」
調停官の声は慎重だった。
「そう見られる可能性があります」
「庇っている」
レオンハルトは答えた。
あっさりと。
エルサは目を開けた。
「ただし、婚約者だからではない。報告した者を処罰すれば、次に危険を見つけた者は黙る」
調停官が何か言おうとする。
レオンハルトは続ける。
「今回は命令が遅れた。あと少し遅ければ、父上の皿も出ていた」
「それは仮定です」
「だから、次の者はもっと早く言わなければならない」
「誤報が増えます」
「なら、誤報を検証する制度を作れ」
「すべての警告で宴席を止めることはできません」
「すべてを止めろとは言っていない」
声が落ち着く。
感情だけではない。
考えている。
「警告者と、判断者を分けろ。危険を報告した者に、停止の全責任まで負わせるな。そうしなければ、権限のない者は何も言えない」
クロエが、扉の向こうで黙っている。
エルサも。
調停官も。
厨房で分かれた四つ。
正確性。
緊急性。
権限。
責任。
レオンハルトは、ようやくその違いを言葉にしている。
遅い。
あまりにも。
地下牢の前で、そうしてほしかった。
証拠を持ってきた者。
判断した者。
命令した者。
誰がどこまで知っていたか。
分けてほしかった。
一度でも。
「殿下」
クロエが静かに言った。
「私は、毒と断定しました」
「可能性がある、と言った」
「聞いた者には、毒と同じです」
「私も同じ意味で受け取った」
「不正確でした」
「次から正せ」
「次が許されると?」
「許すかどうかを、今決める」
レオンハルトの声が少し柔らかくなった。
「君は間違えた。だが、間違えたことで宴席が止まった」
「間に合いませんでした」
「全員には」
短い沈黙。
「十一人が倒れた」
彼の声が低くなる。
「ユリウスも」
王太子ではなく、兄の声だった。
「それでも、父上は食べなかった。もっと多くの者が食べる前に止まった。完全ではない。だが、無意味でもない」
エルサは壁へ肩を預けた。
足から少し力が抜けている。
疲労。
空腹。
王宮。
声。
理由は多い。
「今回の記録には」
レオンハルトが言う。
「クロエの発言を、不正確な緊急警告として残す。処分は行わない。代わりに、王宮厨房の緊急停止規程を改める」
「王太子殿下だけでは、調停院の決定を覆せません」
「覆していない。私の判断責任を追記しろと言っている」
「最終決裁は陛下です」
「なら父上へ上げろ」
「承知しました」
調停官の声には、不満と安堵が混じっていた。
自分が決めなくてよくなる。
王へ渡す。
王宮では、責任が上へ戻る時より、下へ落ちる時の方が速い。
今回は少しだけ逆だった。
「クロエ」
レオンハルトが呼ぶ。
「はい」
「次に同じことがあれば」
「正確な言葉を探します」
「間に合わないなら?」
長い沈黙。
クロエが答える。
「また、毒と言います」
廊下の端で、フランツが小さく息を漏らした。
笑ったのか。
呆れたのか。
エルサにも少しだけ分かった。
嫌な女だ。
本当に。
「その時は、先に私へ言え」
レオンハルトが答えた。
「私が止める」
甘い言葉ではない。
永遠を誓う言葉でも。
守ると言うより、仕事の分担を決めている。
クロエには、それが合っているのだろう。
シシーリアには。
分からない。
考える必要もない。
「聞き取りを終了します」
調停官が言った。
椅子が動く音。
紙を集める音。
人の気配が扉から離れる。
エルサは息を吐いた。
「行くぞ」
フランツが小声で言う。
「ええ」
「顔が」
「元から白い」
「今回は何も言ってない」
「言う前に答えたの」
二人は廊下の曲がり角から離れようとした。
その時。
「待ってください」
扉の向こうから、クロエの声がした。
エルサの足が止まる。
「錫の塔の記録補助の方は、まだ近くに?」
調停官がこちらを見る。
エルサは首を振った。
いないと言え。
そう目で伝える。
彼は迷う。
「おります」
裏切った。
王宮の人間は信用できない。
最初から知っていた。
「少しだけ、お伝えしたいことがあります」
扉は開かない。
衝立もある。
顔は見えない。
逃げることもできる。
「聞く義務はありません」
エルサは小さく言った。
「聞こえるぞ」
フランツが言う。
「黙って」
「努力する」
また。
「警告を書いた方へ」
クロエの声。
名前を知らないふりをしている。
本当に知らない可能性もある。
エルサ。
家名なし。
錫の塔の正体不明の記録補助。
「ありがとうございました」
簡単な言葉だった。
エルサは返事をしなかった。
礼を言われる筋合いはない。
王宮を救いたかったわけではない。
クロエを助けたかったわけでも。
自分の食事と寝床。
錫の塔。
記録。
原因を残すこと。
それだけ。
「あなたの説明は、長かったです」
続いた。
エルサの眉が動く。
フランツが横を向く。
笑う準備をしている。
「ですが、必要でした」
クロエは言った。
「短い言葉だけでは、事故の後を直せません」
エルサの指が業務札へ触れる。
正確に書く者。
短く言う者。
両方必要。
厨房での伝言。
今度は、扉越しに本人の声で届く。
「泡の記録を見つけてくださったことも」
クロエの声が少し変わる。
初めて、職人見習いだった頃の気配が混じったように聞こえた。
「残しておいてよかった」
エルサは答えなかった。
残しただけでは足りない。
読まれなければ。
つながらなければ。
それでも、残っていたからここまで来た。
「王宮の記録へ、今回の工程を残します」
クロエが言う。
「錫の塔へ戻った後も、どうか――」
「礼は不要です」
エルサは言った。
口が先に動いた。
扉の向こうが静まる。
「私たちは、王宮のために来たのではありません」
声を変える。
低く。
西の響きを消す。
丁寧すぎない標準語。
「錫の塔の警告が無視されたことにされないため。原因を一人へ押しつけられないため。次に同じ損失を出さないためです」
「はい」
クロエは答えた。
「それでも、ありがとうございました」
しつこい。
「……記録は、数字を揃えて」
エルサは言った。
「温度。時間。皿。食材。担当者。感想は最後に」
「承知しました」
「訂正箇所は消さず、一本線で」
「はい」
「保管場所を一つにしない」
「写しを作ります」
「三つ」
一つは消える。
二つは示し合わせられる。
三つあれば、少し面倒になる。
ゼーヴェル式。
「王宮。錫の塔。第三者」
クロエは少し考えた。
「白金の塔か、歴史院へ」
「歴史院はやめて」
反射的に言った。
都合よく整える場所。
公式記録。
余白を消す。
「では白金の塔へ」
「それで」
会話が続いている。
顔を合わせていない。
それでも、仕事の話になると止め時が分からない。
「エルサ」
フランツが呼んだ。
名前。
扉の向こうへ届いた。
しまった。
静寂。
クロエは何も言わない。
エルサも。
名は、すでに調停官から聞いている。
問題はない。
そう考える。
「行くぞ」
フランツが言った。
「ええ」
エルサは扉へ背を向けた。
礼は言わない。
顔も見ない。
クロエが、自分の正体へ気づいた様子もない。
それでよい。
廊下を歩く。
数歩進んだ時、扉の向こうから最後の声がした。
「エルサさん」
呼ばれた。
一拍も遅れず、体が反応しかけた。
振り向かなかった。
足だけが、ほんの少し止まる。
「次は、もう少し早く止めます」
クロエが言った。
エルサは答えない。
再び歩き出す。
その言葉を信用する必要はない。
次がない可能性もある。
クロエが王太子妃になるか。
自分が錫の塔に残るか。
国が次の事故まで形を保つか。
何も分からない。
それでも、数字をごまかさない女だということだけは知っている。
職人としては、信用できる。
それ以上は不要だった。
◇
北室から離れた廊下で、王太子の声がまだ耳へ残っていた。
責任を戻す。
警告者と判断者を分ける。
自分の名で止める。
エルサは何度も切ろうとした。
過去と現在は別。
今回の判断が正しくても、シシーリアの判決は消えない。
彼が地下牢で信じなかった事実も。
白い手袋。
黒い鉄。
「どうした」
フランツが聞く。
「何でもない」
「王太子の声を聞いてから変だぞ」
エルサの足が止まる。
「なぜ、そう思うの」
「顔」
「見えないでしょう」
「歩き方」
また。
体は隠しにくい。
「王宮の人間の話し方が嫌いなの」
「それだけか」
「それ以上、何があるの」
フランツは答えない。
聞かないという約束を守っている。
「以前と同じではない」
エルサは小さく言った。
「何が」
「王太子」
言ってしまった。
「知ってるのか」
「王都にいれば、評判くらい聞くわ」
「どんな評判だ」
「真っ直ぐ。正義感が強い。騙されやすい」
「最後は悪口じゃないか」
「事実よ」
フランツは少し考える。
「今日は騙されたのか」
エルサは、北室の方角を見なかった。
「クロエ様の言葉に乗った」
「じゃあ同じだろ」
「違うわ」
以前は、見せられた証拠へ乗った。
今回は、証拠が足りないと知りながら判断した。
その結果を、自分の名へ戻した。
「遅いけれど」
エルサは言った。
声が自分でも驚くほど静かだった。
「以前と同じではない」
許したわけではない。
評価を一項目、訂正しただけ。
帳簿で言えば、損失の横に小さな回収額を書いた程度。
到底、残高は戻らない。
それでもゼロではない。
フランツが彼女を見る。
「以前?」
エルサは歩き出した。
「言葉の綾よ」
「下手だな」
「何が」
「嘘」
胸の奥へ、針が入る。
「あなたに言われたくない」
「俺は嘘をついてない」
「聞いていないだけでしょう」
「そうだな」
それ以上、追ってこない。
助かった。
「報告書を仕上げるぞ」
フランツが言った。
「王へ上げるんだろ」
「ええ」
「腹減った」
「王宮の料理は全部封印中よ」
「持ってきたヴルストは?」
荷車の中。
油紙。
冷えた脂。
食べかけ。
「残っているはず」
「帰るまで持つか」
「この気温なら」
「俺にも分けろ」
「私の危険手当の一部よ」
「半分」
「三分の一」
「俺が運んだ」
「グレタが私へ渡した」
「道具箱に入れたのは俺だ」
「では保管料として一口」
「ケチだな」
「持っていない人間は、欲張らなければ何も増えないもの」
「それ、聞き飽きた」
いつもの会話。
王宮の廊下には似合わない。
だからよかった。
臨時調査室へ戻る。
机の上には、工程報告書が残っていた。
王宮。
厨房。
銀の塔。
錫の塔。
複数の署名。
誰か一人を犯人にしない紙。
エルサは椅子へ座り、炭筆を取った。
最終行を整える。
責任の範囲。
改善期限。
検体の保管先。
王の皿。
第二王子の匿名条件表。
クロエの緊急警告。
王太子の停止判断。
全部を別々に書く。
混ぜれば、また一人の罪になる。
「王へ出す前に、写しを三つ」
エルサが言った。
「紙代は?」
フランツが聞く。
「王宮」
「通るか?」
「通すわ」
「誰が」
「調停官」
「嫌がるぞ」
「拒否した氏名と理由を記録する」
フランツが笑った。
今度は、はっきり。
「お前とクロエ様、似てるな」
炭筆の先が折れた。
「どこが」
「嫌なところ」
「全面的に否定します」
「数字にうるさい」
「必要です」
「人の逃げ道を塞ぐ」
「手続きを整えているだけ」
「言葉が長い」
「それは彼女ではなく私でしょう」
「向こうは短すぎる」
「なら似ていない」
「二人でちょうどいい」
エルサは折れた炭筆を置いた。
新しい一本を取る。
否定する材料を探した。
多い。
いくらでもある。
生まれ。
身分。
性格。
王太子への関係。
王宮での立場。
それでも、仕事の仕方だけは。
長い説明と短い警告。
記録と判断。
壁の両側。
つながってしまった。
「嫌な話ね」
エルサは言った。
「褒めてる」
「褒め言葉としては受け取れないわ」
報告書の最後へ署名する。
正式な責任者ではない。
作成者。
> 記録整理補助 エルサ
家名なし。
錫の塔。
それだけ。
調停官が紙を受け取りに来る。
封を確認。
署名を確認。
最初の頁から読む。
彼の視線が、途中で一度止まった。
責任範囲を左右へ分け、工程ごとに損失と改善期限を置いた箇所。
「変わった書き方だな」
エルサの指が冷える。
「読みづらい?」
「いや」
調停官は紙を目へ近づけた。
「責任者と費用負担者を分けている。保証範囲と管轄外も。西の商会文書に似ている」
フランツがこちらを見る。
エルサは顔を動かさなかった。
「記録は、読んだ者が行動できなければ意味がないので」
「誰に習った」
「錫の塔です」
嘘。
半分。
現在、この形にした理由は錫の塔で学んだ。
書き方そのものは西。
ゼーヴェル。
シシーリア。
調停官はそれ以上聞かなかった。
報告書を封筒へ入れる。
黒い王家蝋を落とす。
「国王陛下へ上げる」
封が押される。
王冠印。
エルサの書いた紙が、国王ギルベルトの手へ渡る。
首の後ろが冷えた。
「作成者名も、そのまま?」
エルサが尋ねる。
「なぜ消す」
「下働きの名など、陛下は気にされないでしょう」
「なら、残っていても同じだ」
正しい。
嫌な正しさ。
調停官は封書を伝令へ渡した。
紙が運ばれていく。
王宮の奥へ。
かつてシシーリアを犯人にした男のもとへ。
エルサは、追うことも取り戻すこともできなかった。




