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第22話 毒殺犯はいない

表は、人間より静かだった。


叫ばない。


泣かない。


自分は悪くないとも言わない。


書かれた数字の位置を変えず、ただ並んでいる。


だから、人間が数字の並びを嫌がる時は、大抵、数字が何かを言い始めた時だった。


「もう一度」


エルサは言った。


「白パンを食べた者」


若い書記官が患者記録を読む。


「十一名中、九名」


「発症者」


「七名」


「食べていない者の発症」


「二名」


「肉料理」


「十名が摂取。発症八名」


「薬草団子」


「五名が摂取。発症五名」


調停官が机を指で叩いた。


「薬草団子が毒なのではないか」


「食べていない者も倒れています」


エルサは答えた。


「肉料理にも、同じ薬草を使ったと聞いた」


薬草係が首を振った。


「銀葉草は使っています。灯火草は団子だけです」


「では銀葉草だ」


「規定量です」


「規定量でも毒になった可能性がある」


「薬草だけなら、陶器皿の者も同じ割合で倒れるはずです」


エルサは表の右側を指した。


皿の材質。


銀。


銀縁錫。


錫。


陶器。


木。


同じ料理が出ていても、発症率は違う。


「銀皿と銀縁錫皿で高い」


若い書記官が読み上げる。


「陶器では低い。木皿では発症なし」


「木皿の席は下働きだけでしょう」


調停官が言う。


「料理へ触れていない可能性がある」


「給仕の一人は銀盆へ触れて発症しています」


「食べていないという証言が嘘かもしれない」


「嘘をつく理由は?」


「厨房のつまみ食いを隠すためだ」


給仕が壁際で顔を上げた。


まだ手が震えている。


「食べていません」


「皆そう言う」


「布に黒い染みが残っています」


エルサが言った。


「食べた証拠ではなく、接触した証拠です」


調停官は答えなかった。


エルサは次の線を引いた。


料理。


皿。


保温時間。


炉出力。


症状。


一人ずつ。


一皿ずつ。


紙の上では、身分が消える。


第二王子も。


騎士も。


給仕も。


南の座士も。


同じ一行になる。


王宮なら不敬。


検証なら必要だった。


「最も重症なのは」


エルサが聞く。


銀の塔のエレナが答えた。


「第二王子ユリウス殿下」


部屋の空気が固くなった。


王族の症状を、家名のない下働きの前で話す。


銀の塔にとっては、それだけで規則違反に近い。


「摂取量は」


「白パン半分。肉料理一口。薬草団子は未摂取」


「同じ量か、それ以上食べて無症状の者は?」


エレナは患者表を見る。


「いる」


「何人」


「四人」


「皿は?」


「殿下は銀皿」


「保温時間」


王族席の配膳記録を確認する。


王より短い。


王太子より少し長い。


クロエとほぼ同じ。


「クロエ様は?」


エルサは尋ねた。


調停官が顔を上げる。


「なぜ婚約者様の症状を」


「同じ保温時間だからです」


エレナが答えた。


「未発症。白パンは口へつけず、肉料理を一口。団子は未摂取」


「皿」


「銀」


同じ銀皿。


近い保温時間。


肉料理一口。


一方は重症。


一方は無症状。


「なら、料理が原因ではない」


調停官が言った。


「料理だけでは、です」


エルサは答えた。


「では体質か」


「体質だけなら、料理事故ではありません」


「殿下は以前から病弱であられる」


「それは、今回の料理が安全だった証明になるの?」


調停官が黙る。


エレナの目が冷えた。


「患者情報へ踏み込みすぎよ」


「必要な範囲だけ聞いています」


「必要かどうかは銀の塔が決める」


「では決めて。第二王子殿下の症状が重い理由は、既往症で説明できる?」


エレナは答えなかった。


それが答えだった。


説明できない。


あるいは、説明できるが言えない。


どちらでも、検証上は空欄になる。


「殿下の皿を見せて」


エルサは言った。


「却下する」


調停官が即答した。


「なぜ」


「王族の食器だ」


「王の皿は見せたでしょう」


「王の皿は未摂取で、毒殺未遂の決定的証拠だ」


「第二王子の皿は、重症者の検体です」


「銀の塔が管理する」


エレナが言った。


「なら、銀の塔の記録を」


「治療に必要な分は取っている」


「料理と皿を分けた?」


エレナの指が止まった。


「分けたの?」


「料理は検体瓶へ。皿は銀器係へ返却予定」


「返さないで」


「命令しないで」


「お願い。皿と料理の接触面を分けたら、条件が消える」


「治療のための検体量は確保した」


「毒を探すなら足りる。工程を探すなら足りない」


エレナが眉を寄せる。


「毒ではないと言いたいの?」


「まだ」


「なら何を探している」


「毒ができた場所」


また、部屋が静まる。


毒が入れられた場所ではない。


毒ができた場所。


言葉が少し違うだけで、犯人の位置が消える。


「皿を」


エルサは繰り返した。


エレナは調停官を見る。


調停官は首を振る。


「王族席の検体を、容疑者へ触れさせられない」


「触れません。見るだけ」


「すでに王の銀皿へ細工したと疑われている」


「検証したのよ」


「同じことだ」


「違うわ」


「王宮では違わない」


正しい。


王宮では、許可のない検証は細工になる。


結果が悪ければ犯行。


良ければ越権。


それでも、皿が必要だった。


「エレナ」


エルサは女医を見る。


「あなたは、第二王子殿下を助けたい?」


「質問の意図は」


「責任を守りたいのか、患者を守りたいのか聞いています」


銀の塔の医務官たちが息を呑む。


失礼。


越権。


挑発。


全部正しい。


エレナの顔は変わらない。


「両方よ」


「両立しない時は?」


「両立させる」


「時間がない時は」


「優先順位を決める」


「今回は?」


長い沈黙。


「皿を持ってきて」


エレナが言った。


調停官が立ち上がる。


「銀の塔に、その権限はない」


「患者の治療記録に必要です」


「先ほどは料理だけで足りると」


「足りない可能性が出た」


「誰の判断だ」


「私の判断よ」


責任の名乗り方が、王宮には必要だった。


エレナは侍医長ではない。


銀の塔長でもない。


それでも現場責任者として、自分の名を出した。


「記録へ書いて」


彼女は言った。


「第二王子殿下の皿の再検証は、銀の塔医務官エレナ・ハースの要請」


調停官が苦い顔で書記官を見る。


「書け」


人が動く。



ユリウスの皿は、白い布で包まれて運ばれてきた。


王の皿より小さい。


銀の表面は一度拭われている。


縁に残ったソース。


パン屑。


匙の跡。


そして、料理が載っていた中央へ、薄い黒い筋。


完全には消えていない。


「洗った?」


エルサが聞く。


銀器係が答えた。


「洗っていません。乾いた布で外側だけ」


「なぜ拭いたの」


「王族用の器を汚れたまま運べない」


礼儀。


また、礼儀が証拠へ触れている。


「布は?」


「別に保管」


「見せて」


黒い染み。


王の皿より薄い。


「皿の温度記録は」


「配膳時のみ」


「回収時は?」


「ない」


「保温時間」


「半刻ほど」


王より短い。


それでも反応はある。


「王の皿と並べる」


二枚の銀皿。


未摂取の王。


重症の第二王子。


黒い筋の濃さは、王の皿の方が強い。


料理の変化も大きい。


なのに王は無症状。


食べていないから。


当然。


問題は、ユリウスの皿。


反応は弱い。


摂取量も少ない。


症状だけが重い。


「殿下の黒い筋は」


エルサが言う。


エレナの顔が変わった。


「何のこと」


「腕に出ていたもの」


「患者情報よ」


「料理の黒い筋と似ていました」


「似ているだけ」


「以前から?」


「答えられない」


「今回初めて?」


「答えられない」


「では、料理によるものか判断できない」


「銀の塔が判断する」


「判断結果を」


「まだ出ていない」


「なら、空欄へする」


エルサは表へ書いた。


> 第二王子ユリウス

> 摂取量――少量

> 皿――銀

> 保温――中

> 症状――重

> 既往の黒色変化――確認不能


エレナの手が伸びた。


炭筆を止める。


「その項目は消して」


「なぜ」


「国家機密に触れる」


部屋の空気が変わった。


言った。


国家機密。


エレナ自身も気づいたのだろう。


唇が僅かに固くなる。


調停官が振り返った。


「国家機密?」


「患者情報の一般論よ」


「一般の患者情報を国家機密とは呼ばない」


エレナは黙った。


失敗。


小さな言葉一つ。


そこから政治が入ってくる。


エルサは表を布で隠した。


「今は関係ありません」


調停官がエルサを見る。


「判断するのはこちらだ」


「王族の病を暴くために調べているのではないわ」


「何を知った」


「今回の症状は、食べた量だけで決まらない。それだけです」


「既往症が関係する?」


「可能性はある」


「どの病だ」


「知りません」


本当に知らない。


黒い筋。


ジャックの腕。


酒場の患者。


旧穀物庫。


考えはつながる。


だが、断定できない。


断定すれば、国家機密に触れる可能性がある。


今、それを起こせば検証どころではない。


「第二王子の項目は保留」


エルサは言った。


「銀の塔が別紙で管理。事故原因の結論には、症状を増幅した個人条件が存在する可能性のみ記載」


エレナが彼女を見る。


「なぜ」


「何が」


「追及しないの」


「必要がないから」


「あなたなら、穴を残さないと思った」


「穴の位置が分かれば十分な時もあるわ」


エレナの指が皿から離れる。


「……別紙は銀の塔で作る」


「王宮と錫の塔へ写しを」


「患者名を伏せる」


「条件だけでいい」


交渉成立。


ユリウスの秘密は、完全には守られない。


だが、犯人探しの材料にも使わせない。


現在取れる最も安い妥協だった。



「食べた量と症状は一致しない」


エルサは言った。


一つ目。


「皿の材質と症状には、弱いが偏りがある」


二つ目。


「保温時間が長いほど、皿の黒い反応は強い」


三つ目。


「炉の出力変動後に、同じ料理でも反応が増えている」


四つ目。


「薬草を含む料理で発症率が高いが、薬草を食べていない者も発症している」


五つ目。


「毒見時の試料には反応がなく、配膳後の料理と皿に反応がある」


六つ目。


一つずつ。


「つまり何だ」


調停官が聞いた。


「毒見役が嘘をついた?」


「いいえ」


「毒見後に誰かが毒を入れた?」


「その痕跡はない」


「銀器係が皿へ塗った?」


「同じ研磨をした皿でも、料理と保温条件が違えば反応がない」


「薬草係」


「規定量」


「炉係」


「平均出力は規定内」


「小麦」


「規定毒物なし」


「錫の塔」


「王宮分へ触れたのは宴席前の検証時のみ。異常はそれ以前から」


「クロエ様」


「六年前の異常を記録していただけ」


「では誰だ!」


声が響いた。


調停官の手が机を叩く。


紙が揺れる。


人間は、名前のない原因へ耐えられない。


誰か。


誰が。


顔。


家名。


役職。


捕らえられるもの。


工程は牢へ入らない。


規定は自白しない。


設備は処刑できない。


「毒殺犯を出せ」


調停官が言った。


ついに、命令の形になった。


原因を出せ、ではない。


犯人を出せ。


部屋の全員が黙る。


若い書記官も。


薬草係も。


厨房長も。


エレナも。


フランツだけが、壁へ背を預けたままエルサを見ている。


また長い説明をするのか。


そういう顔だった。


エルサは表を持ち上げた。


六つの項目。


問題麦。


薬草。


銀皿。


長時間保温。


炉の出力変動。


後食作法。


「この六つです」


調停官の顔が歪む。


「人間を聞いている」


「人間一人では起こせません」


「共犯なら」


「全員が規定どおり働いています」


「規定を利用した共犯」


「誰が、王の皿だけ長く保温される作法を作ったの?」


答えは八百年前。


犯人にするには、少し古すぎる。


「誰が、南の小麦へ余分な魔力が残ると知っていた?」


誰も。


「誰が、薬草と銀皿で反応すると知っていた?」


誰も。


「誰が、炉の平均値の中に一瞬の跳ね上がりがあると知っていた?」


炉係は知らない。


記録計も残さない。


「誰が、毒見後の皿で変化が進むと知っていた?」


誰も。


「全部を知っていた者がいるなら、名前を出してください」


調停官は答えない。


「いないから事故が起きたの」


エルサは言った。


「毒を入れた者はいない」


言葉が、静かに落ちた。


王宮が最も受け入れたくない結論。


「毒ができる工程を、誰も見ていなかった」


誰も動かなかった。


廊下の向こうでは、衛兵の靴音が続いている。


まだ犯人を探している。


この部屋だけが、少し遅れて別の場所へ着いた。


「毒殺犯はいない、だと」


調停官が低く言う。


「意図的な毒殺を示す証拠はありません」


「王族を含む十一人が倒れた」


「ええ」


「黒い模様も出た」


「ええ」


「通信回線から声までした」


「設備異常です」


「それを事故で済ませるのか」


「事故は軽い言葉ではないわ」


エルサは表を机へ置いた。


「人が悪意を持って入れた毒なら、その人を捕らえれば同じ方法は止められる。でもこれは、全員が同じ仕事を続ければ、またできる」


南の麦。


王宮の厨房。


別の銀皿。


別の炉。


「犯人がいない方が、悪いのよ」


調停官の表情が止まる。


「誰を処刑しても直らないから」


言ってしまった。


処刑。


喉の奥へ、革紐の感触が戻る。


首の寸法。


冷たい牢。


白い手袋。


エルサは表から目を離さなかった。


「農民を捕らえても、小麦の魔力検査は増えない。薬草係を捕らえても、複合反応は記録されない。銀器係を捕らえても、保温回路は残る。炉係を捕らえても、平均値しか残さない記録計は変わらない。毒見役を捕らえても、毒見後の料理は見ない」


一人ずつ切れば、原因だけが残る。


以前と同じ。


「なら、誰が責任を取る」


調停官が聞いた。


「全員です」


部屋がざわめく。


「全員を処罰しろと?」


「改善責任を分けるの」


エルサは新しい紙を広げた。


「農業側は、異常な苦味と魔力蓄積を報告する基準を作る。倉庫は古い共同穀物庫を経由した荷を分ける。厨房は毒見後の保温条件を記録。薬草係は単独許容量だけでなく、銀器と加熱条件を含めた組み合わせ表を作る」


書記官が炭筆を動かし始める。


「銀器係は、研磨だけでなく魔導刻印の反応検査。炉係は平均出力ではなく、瞬間変動を残す。毒見局は一口時点だけでなく、配膳直前の再検査」


「錫の塔は?」


調停官が聞いた。


エルサは一瞬止まった。


「異常を知りながら、王宮へ届く前に止められなかった」


自分たちも外さない。


「警告経路を正式化する。記録を塔内で埋もれさせない。六年前の中断記録も含め、他塔へ共有する」


「費用は」


厨房長が初めて口を挟んだ。


「誰が払う」


現実的な問い。


改善には金がかかる。


検査。


記録。


人員。


炉の交換。


皿の検証。


食材の廃棄。


「王宮」


エルサは言った。


厨房長の眉が上がる。


「なぜ」


「宴席を開いたから」


「食材は南」


「皿は王宮」


「炉は銅の塔製」


「使っているのは王宮」


「警告は錫の塔」


「止める権限は王宮」


厨房長が黙る。


「全額ではありません」


エルサは続けた。


「農業検査はリンデン領。炉記録は銅の塔。銀器反応は銀と鉄の塔。錫の塔は工程整理。王宮は厨房改修と統括」


「金を分けると責任も薄まる」


調停官が言う。


「一人へ押しつけるよりましです」


「誰も重く受け止めない」


「期限と担当名を入れる」


「失敗したら?」


「次の担当へ残る」


エルサは建国史の書き込みを思い出した。


知ったことは、次の者へ残せ。


紙に残すだけでは足りない。


それでも、紙にしなければ始まらない。


「橋は壊れていなかった」


誰かが呟いた。


若い書記官だった。


「何?」


調停官が聞く。


書記官は顔を上げる。


「建国史です。止まった橋の日。橋も荷車も食料も、それぞれ正常だったのに、つながらなかった」


調停官の顔が険しくなる。


「寓話を持ち込むな」


「寓話ではないかもしれない」


書記官は小さく言った。


エルサは彼を見た。


王宮の書記。


規則を守る側。


それでも、表を見て何かを理解した。


橋は壊れていなかった。


炉も。


皿も。


麦袋も。


毒見も。


壊れていないものが、人を倒した。


正確には、壊れていないと判定されたものが。


「この結論を認めれば」


調停官が言った。


「王宮の検査制度全体に不備があったことになる」


「ええ」


「王家の宴席で」


「ええ」


「六盟家の前で」


「ええ」


「国王陛下へ、犯人はいません、王宮が毒を作りましたと報告しろと?」


言葉が強い。


だが、間違ってはいない。


「王宮だけではありません」


エルサは答えた。


「国全体の分業が、ここで一皿になった」


南が育てた。


西の商会が運んだ。


王都が受け取った。


厨房が料理した。


塔の技術が温めた。


王家の作法が待たせた。


全部が同じ皿へ載った。


アルトハイムそのものだった。


「そんな報告を出せば、六盟家が互いを責める」


「出さなくても責めます」


「王権強化派は、塔の自治権を奪う口実にする」


「隠せば、次の事故でさらに強い口実になる」


「南は麦の責任を拒む」


「責任の範囲を書いて」


「銅の塔は炉の異常を認めない」


「瞬間値を測って」


「銀の塔は患者情報を出さない」


エレナを見る。


彼女は視線を返した。


「条件のみ出す」


エレナが言った。


調停官が驚く。


「銀の塔としてか」


「現場医務官として」


また、自分の名。


小さな責任が一つ増える。


薬草係が手を上げた。


恐る恐る。


「組み合わせ表は、私が作ります」


厨房長が彼女を見る。


「一人で?」


「銀器係と。錫の塔の方にも見てもらえれば」


銀器係が嫌そうな顔をした。


「皿を薬草で汚すのか」


「予備皿で」


「王族用は使わせん」


「刻印のない銀板でも比較はできる」


フランツが言った。


「刻印ありは俺が試験片を作る」


「錫の塔が?」


「請求先が決まれば」


厨房長が額を押さえた。


「結局、金か」


「修理代は食卓から出る」


エルサは言った。


リーネの言葉。


ここにはいない少女の声。


事故の費用は、どこか知らない場所から湧かない。


「王宮の食卓は高いでしょう」


「だから払えると思うな」


「払えないなら、次の宴席を減らして」


厨房長がこちらを見る。


本気かどうか測っている。


本気だった。


一回分の晩餐で、記録計を何台替えられるか。


銀皿を何枚検証できるか。


錫の塔の肉を何日戻せるか。


最後の項目は関係ない。


少しだけ関係ある。


「報告書を作れ」


調停官が言った。


声に疲れが混じっている。


「暫定結論。意図的混入の証拠なし。複合工程による変性反応の可能性。各部門の追加検証を要する」


エルサは首を振った。


「弱い」


「何が」


「可能性だけでは、明日になれば犯人探しへ戻る」


「断定できないのだろう」


「意図的混入の証拠がないことは断定できます」


「犯人が証拠を消した可能性」


「何でも可能性にすれば、誰でも犯人にできるわ」


調停官の顔が強張る。


「では何と書く」


エルサは表の一番上へ題をつけた。


> 王宮宴席発症事故

> 暫定工程報告


毒殺未遂ではない。


事故。


まだ最終ではない。


「結論」


炭筆を置く。


> 現時点で、意図的な毒物混入を示す証拠は確認されない。

> 発症は、問題麦、薬草、銀器、長時間保温、炉出力変動、後食作法が重なった後に生じた変性反応と考えられる。

> 単独の担当者による行為では再現しない。


調停官が読む。


「最後の一文を消せ」


「なぜ」


「犯人不在を断定している」


「単独犯では再現しません」


「共犯は」


「全部を知った共犯の証拠はない」


「可能性は」


「証拠が出たら追記して」


沈黙。


やがて、調停官は紙を引き寄せた。


署名欄を見る。


「誰が責任を持つ」


「調査責任者」


「お前が書いた」


「私は記録補助です」


「逃げるのか」


「権限のない者が署名すれば、報告書が無効になるでしょう」


正しい責任者へ戻す。


逃げではない。


少しは逃げでもある。


調停官は厨房長を見る。


厨房長はエレナを見る。


エレナはフランツを見る。


フランツはエルサを見る。


「俺を見るな」


彼が言った。


「技師でしょう」


「王宮調査の責任者じゃない」


「では、共同署名」


エルサは欄を増やした。


王宮調停官。


王宮厨房長。


銀の塔医務官。


錫の塔技師。


各人が自分の見た範囲へ署名する。


全部へ署名する者はいない。


それでよい。


一人が全部を保証する形を作れば、また一人へ責任が集中する。


「私の欄は」


薬草係が尋ねた。


「工程確認者」


「名前を出していいの?」


「嫌なら役職だけ」


女は少し考えた。


「名前を書きます」


炭筆を受け取る。


震えは残っている。


それでも、自分の名を書く。


犯人としてではない。


見た者として。


銀器係も。


炉係も。


毒見役も。


若い書記官も。


紙の下へ名前が増えていく。


処刑名簿ではない。


改善のための署名。


似た形の紙なのに、用途が違う。


エルサは息を吐いた。


終わってはいない。


黒い根の正体。


通信の声。


ユリウスの病。


旧設備。


何も解決していない。


それでも、少なくとも薬草係一人を捕らえて終わる事件ではなくなった。


「完成したら王太子殿下へ上げる」


調停官が言った。


「国王陛下にも」


エルサが返す。


「お前が決めるな」


「王の皿の報告でしょう」


調停官は嫌そうな顔をした。


「陛下にも上げる」


その時、廊下から足音が近づいた。


王太子直属の伝令。


封書ではない。


口頭命令。


「クロエ・フォン・リンデン様の発言について、王宮調停院より確認要請」


部屋の空気が変わる。


「発言?」


厨房長が聞く。


伝令は答えた。


「宴席前、確証なく『毒の可能性あり』と断言し、王族席の停止を求めた件です」


来た。


エルサは目を閉じなかった。


予想していた。


事故原因が人間一人へ収まらないなら、別の罪が必要になる。


毒を入れた者がいない。


なら、毒と言った者。


「虚偽の警告により、王宮儀礼を混乱させた疑い」


伝令が続ける。


クロエは止めるために嘘をついた。


正確には、まだ毒と確認できない危険を、毒という言葉へ圧縮した。


その結果、停止命令が出た。


遅れたが、被害は十一人で止まった。


言わなければ、王の皿も出ていた。


それでも。


虚偽は虚偽として処理できる。


工程より、人間の方が処罰しやすい。


「クロエ様は何と」


調停官が尋ねる。


「発言の責任を負うと」


予想どおりだった。


嫌な女だ。


必要なところで、自分から犯人欄へ入る。


エルサは完成しかけた報告書を見た。


毒殺犯はいない。


だから、次は嘘をついた者が裁かれる。


王宮は、空欄を嫌う。


どうしても、誰かの名前を入れなければ気が済まないらしい。

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