第21話 犯人を用意しろ
王宮が封鎖されてから、最初に増えたのは衛兵だった。
次に増えたのは、質問だった。
誰が麦を運んだ。
誰が袋を開けた。
誰が粉を量った。
誰が薬草を混ぜた。
誰が皿を磨いた。
誰が炉へ火を入れた。
誰が毒と言った。
そして最後に、誰を捕らえるべきか。
原因より先に、名前を入れる空欄が用意されていた。
「厨房職員は全員、壁際へ!」
大広間に続く廊下で、王宮警備隊の士官が叫んだ。
保温室と小厨房にいた者たちが、次々と並ばされる。
粉係。
薬草係。
配膳係。
銀器係。
雑役人。
若い書記。
王宮厨房長アルノルトまで、衛兵に囲まれていた。
ただし、囲まれ方には差がある。
厨房長の左右には、事情を聞くための書記官が立つ。
下働きの左右には、剣を持った衛兵が立つ。
同じ封鎖。
同じ参考人。
実際の扱いは、随分違った。
「錫の塔の者も並べ」
士官が言った。
フランツがエルサの前へ半歩出る。
「王宮から呼ばれた技術職だ」
「だから事情を聞く」
「聞くなら道具箱を返せ」
「検査中だ」
「勝手に開けたら、次に壊れた時は王宮へ請求するぞ」
「黙れ」
「請求額が増えるだけだ」
フランツは平常運転だった。
王宮で剣を向けられても、修理費の話をする。
頼もしいのか、感覚が鈍いのかは判断が難しい。
エルサは記録板を胸へ抱えた。
「その板を渡せ」
士官が言った。
「原本です」
「王宮内で作成した記録だ」
「錫の塔の業務記録です」
「王宮の料理と設備について書かれている」
「だから必要なの」
「検分する」
士官が手を伸ばす。
エルサは一歩下がった。
衛兵の顔が険しくなる。
「拒むのか」
「受領記録を」
「何?」
「誰が、何時に、どの状態で受け取ったかを書いてください。頁数と封の有無も」
「今は非常事態だ」
「非常時ほど必要です」
「証拠を隠すつもりか」
その言葉に、廊下の空気が変わった。
証拠を隠す。
容疑者。
外部の塔。
家名のない女。
顔を隠している。
王宮の道を知りすぎている。
条件が揃い始める。
エルサは記録板を強く抱いた。
以前もそうだった。
証拠を偽造した者は、自分ではない。
しかし、疑われやすい条件は揃えられていた。
西の養女。
密輸帳簿へ触れられる立場。
グライフ家の密使と接触。
部屋から証拠。
署名。
目撃者。
結果が先にあり、必要な事実だけが集められた。
今回も同じことが起きる。
外部から来た正体不明の女が、宴席前に毒の可能性を訴え、王族用の銀皿へ怪しい試験を行い、炉へ細工し、記録を抱えて渡そうとしない。
大変によくできた犯人だった。
本人でなければ、エルサも少し疑ったかもしれない。
「渡せ」
士官が繰り返す。
フランツが横から言った。
「写しを取れ」
「時間がない」
「じゃあ、封をして二人で持て。王宮一人、錫の塔一人」
士官が彼を見る。
「命令する立場か」
「道具の扱いを教えてるだけだ」
「これは道具ではない」
「記録は道具だ」
フランツはエルサを見ずに言った。
「壊したら直せないやつだ」
実用的な擁護だった。
優しい言葉ではない。
だから、信用できる。
士官は苛立った顔をしたが、近くの書記官へ顎を動かした。
「受領票を」
交渉が成立する。
王宮側の書記官が、板の頁数を数える。
封印布。
挟まれた札。
時刻。
署名。
エルサは一本ずつ確認した。
「遅い」
士官が言う。
「後で人を処刑するより早いわ」
口に出してから、廊下が静まった。
フランツが横を向いた。
また言いすぎた。
「どういう意味だ」
士官の声が低くなる。
「記録がなければ、責任を間違えるという意味です」
「処刑という言葉を使う必要があるか」
「王族毒殺未遂でしょう」
「まだ未遂と決まっていない」
「王宮封鎖は何のため?」
士官の顎が強張った。
誰も、毒殺未遂だとは正式に宣言していない。
だが、全員がその前提で動いている。
言葉にすれば責任が生じる。
言葉にしなければ、人だけ捕らえられる。
「エルサ」
フランツが低く呼んだ。
「少し黙れ」
「今日だけで何度目?」
「足りない」
記録板は封をされ、王宮書記官とフランツの連名で保全されることになった。
エルサの手から離れる。
指先が軽くなる。
同時に、不安が増えた。
証拠は一人で持たないほうがよい。
分かっている。
一人で持てば、奪われる。
消される。
持っている本人ごと。
それでも、手元からなくなるのは怖い。
◇
最初に連れていかれたのは、薬草係の女だった。
「なぜ私が?」
女は両腕を掴まれながら叫んだ。
「灯火草と銀葉草を量ったのはお前だな」
「規定どおりです!」
「量を誤った可能性がある」
「帳面を見てください!」
「帳面は調べる」
「では、調べてからにして!」
「拘束ではない。事情聴取だ」
両腕を衛兵に掴ませて言う台詞ではなかった。
「私は逃げません!」
「それを確認するためだ」
女の顔から血の気が引いている。
エルサは彼女の手を見た。
薬草の色が爪へ染み込んでいる。
毎日、葉を刻み、量り、乾燥具合を見ている手。
毒を盛るための手には見えない。
善良だからではない。
毒を入れる必要がないからだ。
規定量の薬草を使っただけで、結果が起きた。
「その人の計量は合っています」
エルサが言った。
士官が振り向く。
「何を根拠に」
「工程表。残量。投入数。調理後の団子数」
「本人の記録だ」
「別の担当者の数も合う」
「共謀なら」
共謀。
便利な言葉だった。
記録が合えば共謀。
合わなければ不正。
どちらでも捕らえられる。
「共謀して、王宮の規定量どおり薬草を入れたの?」
エルサは尋ねた。
「毒を隠すためだ」
「毒はどこから?」
「それを調べる」
「調べる前に捕らえるの?」
「危険人物を自由にしておけない」
「危険人物かどうかを、これから調べるのでしょう」
士官の顔が険しくなる。
薬草係の女がエルサを見る。
助けを求める目。
エルサは視線を逸らしかけた。
自分に助ける義務はない。
この女を知らない。
名前も知らない。
王宮に残る人間だ。
エルサが去った後も、ここで働く。
自分の食事とも寝床とも直接関係はない。
口を出すほど、正体露見の危険が増える。
黙るべきだった。
「連れていけ」
士官が言った。
女が引かれる。
足がもつれ、木靴が片方脱げた。
床へ残る。
誰も拾わない。
エルサの視界へ、別の靴が重なった。
地下牢。
死体の少女。
大きさの合わない靴。
名前のない女。
人間は連れていかれる時、靴まで正しく運んでもらえるとは限らない。
「待って」
口から出た。
士官が止まる。
エルサは床の木靴を拾った。
薬草係へ渡す。
ただそれだけ。
助けたわけではない。
実用上、必要だから。
裸足では事情聴取室まで歩きにくい。
「記録へ残してください」
エルサは言った。
「薬草係は規定量を投入。現時点で意図的混入の証拠なし」
「命令するな」
「お願いです」
「書くかどうかはこちらが決める」
「では、私の記録へ書きます」
「お前の記録は封じた」
「記憶はまだ封じられていません」
士官がエルサを睨んだ。
長くは持たない。
このままでは、自分も連れていかれる。
それでも、薬草係の女は靴を履けた。
それだけだった。
実に小さな成果である。
◇
次に候補へ上がったのは、南の農民だった。
本人は王宮にいない。
だから、捕らえやすかった。
「収穫区画の責任者を拘束しろ」
別室で、王宮調停官が命じた。
封鎖された厨房脇の休憩室が、臨時の聞き取り場所へ変わっている。
丸机の上には、関係者一覧。
麦の流通記録。
王宮厨房の人員表。
錫の塔の外勤札写し。
人間が紙へ変換されて並んでいた。
「農民が王を狙う動機は?」
若い書記官が尋ねた。
「動機はあとで調べる」
「南部の政治不満でしょうか」
「リンデン領の穀物手形問題もある」
「王家への反感を持つ農兵団の可能性は」
言葉が勝手に育っていく。
問題麦を育てた農民。
収穫区画。
南。
リンデン家。
クロエ。
王太子婚約者。
政治。
一枚の麦袋が、数呼吸で陰謀へ変わる。
「その小麦は、同じ区画から出たすべてが危険ではありません」
エルサが言った。
調停官が顔を上げる。
「誰だ」
「錫の塔の記録補助です」
「発言を許可していない」
「誤った前提で拘束命令が出ています」
「何が誤りだ」
「同じ区画の麦でも、十一袋は調理前に止めています。異常は流通と保管、設備条件を通った後に強く出た。農民が王を狙うなら、王宮へ届く一袋だけが七つの検査を通るよう調整する必要がある」
「可能だ」
「どうやって?」
「共犯者がいる」
また共犯。
「農民、製粉所、倉庫、検査所、商人、厨房、銀器係、炉係、毒見役まで?」
「大規模な陰謀かもしれない」
「それだけの人数が共謀して、誰も規定から外れなかったの?」
調停官の目が細くなる。
「規定を利用したのだろう」
「なら犯人は規定では?」
部屋が静まった。
フランツが壁際で額を押さえた。
「エルサ」
「何?」
「口」
「閉じたら進まないでしょう」
「お前の首が先に進みそうだ」
不吉な言い方だった。
否定できない。
調停官は机を指で叩いた。
「この女も候補へ入れろ」
書記官の炭筆が動く。
錫の塔記録補助。
エルサ。
家名なし。
外勤歴なし。
宴席前に潜入。
王宮設備へ不自然に詳しい。
危険反応を事前に把握。
銀皿試験を実施。
炉停止を要求。
記録保有。
見事だった。
犯人欄へ収まりがよい。
「王宮へ来たのは招集によるものです」
フランツが言う。
「招集文はあるか」
「塔にある」
「ここには?」
「ない」
「なら確認できない」
「王宮側から送ったんだろうが」
「誰が送った」
クロエ。
その名が出る前に、部屋の空気が変わった。
「王太子婚約者の私的要請だった可能性がある」
調停官が言う。
「私的?」
エルサは聞き返した。
「厨房停止を求めたのもクロエ様だ」
別の書記官が言った。
「事件前から毒を口にしていた」
「毒の可能性です」
「同じことだ」
「違います」
「結果として発症者が出た」
「だから?」
「事前に知っていた可能性がある」
論理が反転している。
警告した者が、犯人になる。
事故を予測できたなら、起こすこともできた。
起きてから警告すれば遅いと言われる。
起きる前に警告すれば知りすぎていると言われる。
完全だった。
「クロエ様は王族側で監視下に」
調停官が決める。
「侍女との連絡記録を押さえろ。錫の塔への文書も」
エルサの胃が冷えた。
クロエの紙。
工程表。
符丁。
泡は嘘をつかない。
エルサの字。
西の癖。
王宮へ残る。
すべて押さえられれば、正体へ近づく者が出る。
逃げるなら今だった。
王宮は封鎖されている。
だが、エルサは裏通路を知っている。
食材搬入口へ通じる排水管理路。
改修されていなければ、保温室裏の物置から降りられる。
業務札を外す。
頭巾を変える。
厨房の混乱に紛れる。
フランツは置いていくことになる。
記録も。
だが、彼は錫の塔の正式職人だ。
最悪でも事情聴取。
自分とは違う。
エルサは扉の位置を確認した。
右。
細い廊下。
二つ目の角。
階段。
逃げられる。
逃げるべきだった。
自分の生存が最優先。
錫の塔へ戻れば、煙突の免責がある。
王宮衛兵は簡単には入れない。
マルコは怒るだろう。
危険手当を返せと言うかもしれない。
それでも、生きて戻れる。
「錫の塔の関与も調べる」
調停官の声。
エルサの足が止まった。
「問題麦を最初に受け取り、十一袋を回収した。王宮分だけ止められなかったというのは都合がよすぎる」
「正式手続きが遅れたからです」
フランツが言う。
「その遅れを利用した可能性がある」
「何のために」
「王宮へ貸しを作る。監査権限を得る。上位塔へ対抗する」
錫の塔。
マルコ。
リーネ。
グレタ。
ハンス。
薄いアイントプフ。
肉のない朝食。
皿洗い。
カルトッフェル。
一か月の寝床。
全部が、容疑へ変換される。
王宮で事故が起きれば、錫の塔の警告失敗になる。
最初から分かっていた。
だから来た。
ここで逃げれば、錫の塔は警告者ではなく、事故へ関与した塔になる。
エルサを匿っている事実まで出れば、さらに悪い。
「塔長マルコ・ピューターを招致しろ」
調停官が言った。
「塔の自治権があります」
若い書記官が答える。
「王族毒殺未遂だ。共同承認を取る」
煙突の免責も、絶対ではない。
火災。
感染症。
現行犯。
盟約違反。
王家と六塔が認めれば介入できる。
毒殺未遂なら、理由としては十分だった。
逃げても、錫の塔へは帰れない。
帰れば衛兵を連れていく。
外へ逃げる。
霧の運び屋を探す。
また名前を捨てる。
可能ではある。
食事も寝床も失う。
一から。
また。
「行くぞ」
フランツが小声で言った。
エルサは彼を見る。
「どこへ」
「逃げ道を見てただろ」
気づかれていた。
「見ていません」
「目が壁を数えてる」
「設備配置を」
「嘘が下手だな」
「あなたに言われたくない」
「俺は嘘をついてない」
「では、どこへ行くの」
「記録を取り返す」
「封をしたでしょう」
「封を開けるところを見張る」
「拘束されたら?」
「塔へ請求する」
「誰が?」
「お前」
「逃げる予定の人間へ頼まないで」
言ってしまった。
フランツは驚かなかった。
「逃げるのか」
「合理的には」
「そうか」
止めない。
責めない。
それが少し腹立たしかった。
「あなたは?」
「仕事が残ってる」
「王宮に捕まるかもしれない」
「王宮に呼ばれた仕事だ」
「錫の塔まで疑われている」
「だから残る」
単純だった。
フランツは自分の担当を離れない。
それが正しいのか。
止まった橋の日と同じなのか。
違う。
彼は設備だけを見ているのではない。
エルサの記録を守り、王の皿を守り、薬草係の扱いまで見ている。
壁の向こうを見ている。
「お前は逃げろ」
フランツが言った。
「顔を知られたくないんだろ」
「ええ」
「裏道を知ってるなら使え」
「初めての王宮よ」
「まだ言うか」
「煙と排水で」
「地下炉に煙は出ない」
前と同じ指摘。
誤魔化しはもう効いていない。
「俺は聞かない」
フランツが言った。
「マルコも、たぶん聞かん」
「何を」
「何者か」
言葉が止まる。
「戻れるうちに戻れ」
実用的な逃走許可だった。
守るとは言わない。
秘密を信じるとも言わない。
ただ、逃げ道を塞がない。
それが錫の塔のやり方だった。
エルサは廊下を見た。
右へ行けば、排水管理路。
王宮の外。
暗い水路。
自由。
一度通った道に似ている。
あの時は、死体の服を着て逃げた。
今回は、錫の塔の業務札を持っている。
捨てれば逃げられる。
首へかかった札へ手を伸ばした。
紐。
錫色の円。
裏の塔長印。
エルサ。
家名なし。
現在の身分。
紐一本で下がる、脆い身分。
それでも、これは自分で働いて得た。
シシーリアの名前より軽い。
ずっと安い。
だからこそ、捨てにくかった。
部屋の中で調停官が言った。
「下働き一人が自白すれば、厨房の捜査は早い」
エルサの指が止まる。
「誰を?」
書記官が尋ねる。
「薬草係でも、粉係でもいい。王族席へ直接触れた者が望ましい」
誰でもいい。
聞き間違いではなかった。
薬草係でも、粉係でも。
望ましい条件へ合う者。
事件の終了に使える者。
シシーリアでもよかった。
あの時も。
密輸帳簿へ触れられ、家名を切り離せ、処刑しても国が割れない。
誰でもよかったわけではない。
条件へ合う者ならよかった。
「自白しなければ?」
「家族を調べろ。借金、病人、横領、何でもある」
人間には必ず弱みがある。
なければ作ればよい。
エルサは業務札から手を離した。
逃げるべきだった。
それでも、このまま逃げれば、薬草係が自白する。
粉係かもしれない。
南の農民か。
錫の塔。
クロエ。
誰か一人が罪を認めれば、捜査は終わる。
王の皿は毒殺の証拠として封じられ、黒い根は犯人の魔術とされる。
旧穀物庫。
炉。
通信回線。
全部が隠れる。
次も起きる。
錫の塔で。
王宮で。
別の村で。
別の皿で。
その時、また誰かが用意される。
「逃げないのか」
フランツが聞いた。
エルサは首の札を服の中へ戻した。
「まだ」
「まだ?」
「逃げる前に、仕事を終わらせる」
「長くなるぞ」
「知ってる」
「顔も見られる」
「頭巾を深くするわ」
「捕まるかもしれん」
「その時は、拘束時の返還交渉条件を使って」
「覚えてたのか」
「契約は覚えるものよ」
フランツの口元が少し動いた。
笑ったわけではない。
たぶん。
「何をする」
エルサは臨時調査室を見る。
人員表。
工程表。
患者記録。
器。
炉。
時刻。
全部、別々の机へ分けられている。
また、誰も全体を見ていない。
「毒殺犯を探すのをやめさせる」
「どうやって」
「犯人がいないと証明する」
「いないのか?」
「まだ分からない」
「また長い説明か」
「今度は表にするわ」
「もっと嫌だな」
「数字は嘘をつかないもの」
「泡じゃなかったか」
「泡もよ」
「信用するものが多いな」
「人間よりは」
エルサは調査室へ戻った。
調停官が眉を寄せる。
「まだいたのか」
「王宮の記録作業を続けます」
「許可していない」
「錫の塔の外勤業務です」
「容疑者が証拠へ触れることは認められない」
「では、私を容疑者として正式記録してください」」
部屋が静まる。
「何?」
「罪状。根拠。拘束時刻。所持品。記録板の保全先。全部」
調停官の顔が固まる。
正式な容疑者にすれば、手続きが必要になる。
家名のない下働きでも、錫の塔の業務札がある。
塔への通知。
塔長立会い。
自治権。
面倒が増える。
王宮は、人間を犯人にするのは好きだが、手続きを増やすのは嫌いだった。
「生意気な女だ」
「よく言われます」
「誰に雇われた」
「錫の塔です」
「誰の命令で記録を続ける」
「私の仕事だから」
「婚約者様の指示ではないのか」
「違います」
「では、クロエ様との関係は」
「記録を読んだだけです」
「どの記録だ」
「南部小麦における過剰発泡と苦味」
書記官たちが顔を見合わせる。
「六年前の錫の塔内部記録。今回と同じ異常を観察し、原因不明のまま中断されたものです」
「クロエ様が書いた?」
「ええ」
「なら、事前に知っていた」
「王宮へ来る前から、異常は存在したという証拠です」
調停官が黙る。
解釈は二つ。
クロエが前から知り、今回利用した。
あるいは、前から同じ事故が起きていた。
どちらを選ぶかで、事件の形が変わる。
「その記録はどこだ」
「錫の塔」
「押収する」
「塔長の許可が必要です」
「王命を取る」
「取ってください。その間に、こちらの工程を整理します」
「勝手に――」
扉の外から、侍女の声がした。
「王太子婚約者クロエ・フォン・リンデン様より、申し上げます」
全員が振り向く。
エルサは顔を伏せた。
クロエ本人ではない。
先ほどから紙を運んでいる若い侍女。
彼女は扉の前で頭を下げた。
「錫の塔の記録補助エルサによる作業は、王族席停止判断の基礎となった正式な安全確認です」
調停官の顔が険しくなる。
「婚約者様に調査権はない」
「承知しております」
侍女は落ち着いて答えた。
「そのため、作業の継続を命令されてはおりません」
「では何だ」
「王太子殿下へ、同人の記録作業を保証する旨を申し上げられました」
調停官の指が止まる。
「殿下の返答は」
「調査を妨げるな、と」
短い。
また、クロエが言葉を通した。
直接命令できない。
だから、命令できる者へ事実を渡す。
「なお」
侍女は続けた。
「エルサが記録へ触れることを拒む場合、拒否した者の氏名、役職、時刻、理由をすべて残すようにとのことです」
エルサは顔を上げかけ、止めた。
嫌な女だった。
本当に。
こちらが最も使いやすい形で、権限を用意する。
調停官はしばらく黙っていた。
やがて、机の上の人員表を押しやる。
「一刻だ」
「足りません」
エルサは答えた。
「二刻」
「一刻半」
「患者記録と厨房記録を同時に見せて」
「一刻半だ」
「炉記録も」
「欲張るな」
「持っていない人間は、欲張らなければ何も増えないもの」
以前、マルコへ言った言葉だった。
随分遠くまで来た。
調停官は額へ手を当てた。
「一刻半。監視付き。原本持ち出し禁止」
「写しは」
「王宮確認後」
「確認期限」
「明朝」
「遅い。今夜」
「……今夜だ」
成立。
侍女が小さく頭を下げる。
帰ろうとする。
エルサは呼び止めなかった。
クロエへの礼も言わない。
まだ。
礼を言えば、関係ができる。
関係は責任になる。
それでも、侍女が扉を出る直前、エルサは一言だけ伝えた。
「泡の記録は、残っていたと」
侍女は足を止めた。
振り返らない。
「承りました」
それだけ。
二人はまた、顔を合わせなかった。
◇
机が三つ用意された。
患者記録。
厨房工程。
設備と器。
エルサは中央へ座らなかった。
三つの机の間に立った。
座れば、一つの記録しか見えない。
立てば、全部へ手が届く。
「最初に」
エルサは言った。
「食べた量と症状を並べます」
若い書記官が炭筆を持つ。
「次に、皿の材質と保温時間」
別の書記官。
「炉の変動時刻。毒見時刻。配膳時刻。発症時刻」
フランツが設備記録を開く。
「薬草係と粉係は?」
調停官が聞く。
「事情聴取は続けて。拘束ではなく、立会いで」
「お前が決めるな」
「では、決める人が決めて」
調停官は苦い顔をした。
「立会いに変えろ」
衛兵が動く。
薬草係の女が戻される。
目が赤い。
木靴は両方履いている。
「座って」
エルサが言った。
「私は……」
「あなたの量った薬草について聞く。規定どおりなら、それを証明して」
「信じるの?」
「記録と残量が合えば」
慰めない。
無条件に信じない。
女の顔が少しだけ戻る。
「分かりました」
仕事の言葉は、人を立たせる。
少なくとも、泣くなと言うよりは役に立つ。
エルサは紙の上へ線を引いた。
十一人。
食べた物。
量。
器。
席。
保温。
症状。
王の皿。
未摂取。
黒い反応。
全員の名前を並べる。
ただし、犯人欄は作らなかった。
「容疑者欄は?」
若い書記官が尋ねた。
「不要です」
「毒殺事件だぞ」
「だから調べるの」
「犯人を記録しないのか」
エルサは炭筆を置いた。
「犯人は、証拠が出てから書けばいい」
「遅い」
「早く書いた結果を、私は知っています」
声が低くなった。
書記官が顔を上げる。
エルサはすぐに視線を紙へ戻した。
「まず、毒がどこでできたかを見ます」
部屋の外では、まだ衛兵が走っている。
南への拘束命令。
銀器係の尋問。
錫の塔への照会。
クロエの監視。
王宮は犯人を用意し続けている。
エルサは表の最上段へ、六つの項目を書いた。
小麦。
薬草。
銀皿。
保温。
炉。
時間。
一つずつなら、誰も間違えていない。
だから、全部を同じ紙へ載せる。
犯人の名前より先に。
王宮が用意した空欄へ、人間ではなく工程を入れるために。




