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第18話 王が食べるまで冷めない皿

王の皿は、冷めてはならない。


それは料理人の意地であり、王宮の礼儀であり、王家の威信だった。


同時に、いま目の前にある問題の大半を、ひどく悪い方向へまとめる条件でもあった。


「上段を止めて」


エルサが言った。


フランツは保温棚の側面へ手を伸ばしかけ、止めた。


「止めたら、王族席が全部冷めるぞ」


「王族は冷めた料理を食べると死ぬの?」


「たぶん文句で厨房長が死ぬ」


「人命ではなく職歴の問題ね」


「王宮じゃ同じようなもんだろ」


否定しにくかった。


保温室には、次々と銀皿が運び込まれていた。


白パン。


仔牛肉の白ワイン煮。


薬草団子。


根菜の蜜煮。


魚の冷製は保温棚へ入らない。


温かい料理だけが、王冠印のついた上段へ並べられる。


銀皿の縁には、配膳先を示す小さな札。


国王。


王太子。


第二王子。


第三王子。


クロエ。


六盟家の代表。


席ごとに位置が決められている。


王の皿は中央。


最も熱が安定する場所。


最も長く温められる場所。


最も手厚く扱われる場所だった。


「止められないなら、温度を下げて」


エルサが言う。


「設定は厨房側から変えられん」


「では、どこから?」


「地下炉室」


「行きましょう」


「許可がいる」


「また?」


「王宮の地下炉だぞ。誰でも入れたら、王宮ごと煮える」


「いま煮えかけているのは料理だけでは?」


「たぶんな」


フランツは棚の振動へ手を当てる。


弱い震え。


その後、ほんの一瞬だけ強くなる。


規則的ではない。


人間の脈より遅く、波より鋭い。


「いつから?」


エルサが聞く。


「俺が触った時にはもう」


「厨房の人間は気づかなかった?」


「棚は振動するもんだ」


近くにいた配膳係が答えた。


「皿を温めるんだから」


「いつもと同じ?」


「たぶん」


たぶん。


また、その言葉。


「手を当てて」


エルサは配膳係へ言った。


「私が?」


「毎日使っているのでしょう」


配膳係は嫌そうな顔をしたが、棚の側面へ掌を置いた。


一度。


二度。


振動が強くなる。


女の眉が動いた。


「少し、変かも」


「どう変?」


「……跳ねる」


「いつもは?」


「ずっと、低く鳴ってるだけ」


フランツが頷いた。


「出力が一瞬だけ上がる。平均値じゃ見えない種類だ」


「記録計には?」


「平均しか残さない旧式なら、正常になる」


「王宮の設備なのに?」


「王宮の設備だからだ。異常記録が多い機械は、管理官に嫌われる」


「機械のせいにするの?」


「記録方法を決めるのは人間だ」


実に正しい指摘だった。


機械は嘘をつかない。


ただし、人間が何を記録させるかまでは決められない。


「銀皿を一枚借りる」


エルサが言った。


配膳係が首を振る。


「無理です」


「空の予備皿」


「王族用よ」


「使わないの?」


「欠けた時の交換用」


「なら、欠ける前に使えます」


「そういう用途ではありません」


「異常があれば、全部欠けるより高くつくでしょう」


「欠ける話ではないでしょ」


「まだ分からないわ」


配膳係は困った顔でフランツを見た。


フランツは視線を逸らした。


盾としては働くが、銀皿の交渉まで担当する気はないらしい。


「管理官の許可を」


配膳係が言った。


「管理官はどこ?」


「大広間前」


「呼んで」


「宴席中よ」


「だから呼ぶの」


「王宮の宴席を、皿一枚で止めるつもり?」


エルサは銀皿を見た。


一枚。


ただの銀。


磨かれ、紋章を刻まれ、王族席へ出される高価な器。


それだけなら危険ではない。


問題麦も、常温なら規定毒物反応なし。


薬草も、規定量。


炉も、平均出力は正常。


後食作法も、八百年続く美徳。


一つずつなら、正しい。


「皿一枚では止めないわ」


エルサは言った。


「皿と麦と薬草と炉と時間が、同じ場所に揃っているから止めたいの」


配膳係は、さらに困った顔をした。


長い。


説明が長い。


聞く側へ知識と時間を要求する。


これでは、宴席は止まらない。


エルサ自身にも分かっていた。


だからといって、まだ「毒」とは言えない。


毒がある証拠はない。


あるのは、危険な組み合わせだけ。


それを毒と呼べば、虚偽になる。


虚偽は信用を削る。


信用が削れれば、次の警告が届かない。


「空皿は貸せません」


配膳係は結局そう答えた。


正しい判断だった。


権限のない外部者へ、王族用銀器を渡すべきではない。


「なら、こちらで用意する」


フランツが道具箱を開けた。


中から、小さな錫皿を出す。


錫の塔で試料を置くための皿。


縁は歪み、表面には細かな傷がある。


「銀ではないでしょう」


エルサが言う。


「比較用だ」


「銀が必要なの」


「銀を盗めって?」


「借りるのよ」


「許可なしで持ち出したら盗みだ」


「持ち出さなければ?」


エルサは配膳係を見る。


女が一歩下がった。


「触らないでください」


「料理が乗っていない予備皿を、この部屋の中で使うだけ」


「駄目です」


「では、あなたが置いて」


「何を?」


エルサは試料瓶を出した。


問題麦の粉。


薬草団子の試料。


肉料理のとろみ。


毒見局へ回す予定の白パン。


「全部ではないわ。まず、粉と薬草」


「料理を銀皿へ置くだけ?」


「保温棚には入れず、常温で」


「それで何が分かるの」


「銀に触れただけで変わるか」


「変わらなかったら?」


「次へ進む」


「次?」


「保温する」


配膳係の顔に、明確な拒絶が浮かんだ。


「王族用の棚で、怪しい食材を試すの?」


「怪しい食材は、すでに王族用の棚へ入っています」


上段を見る。


沈黙。


薬草団子。


肉料理。


白パン。


問題麦を使った料理は、すでに並んでいる。


試験を拒んでも、実際の宴席が試験を続けている。


しかも、王族全員を被験者にして。


「……一枚だけ」


配膳係が言った。


「私が扱います」


「ありがとう」


「感謝されても困ります」


「では、記録へ協力者として名前を――」


「書かないで!」


協力はしたい。


責任は負いたくない。


自然な感情だった。


エルサは名前を書かなかった。


代わりに、配膳担当者立会いとだけ記す。



予備の銀皿は、見た目だけなら鏡に近かった。


磨き上げられた表面へ、エルサの煤けた顔が歪んで映る。


シシーリアだった頃、自分の顔を銀器へ映して確認したことがある。


口紅。


髪。


首飾り。


笑み。


王宮の銀は、人間の身なりを映すためにあった。


今は、粉と薬草を映す。


随分と実用的な使い方になった。


皿の中央へ、問題麦の粉を少量置く。


隣へ、灯火草の乾燥粉。


もう一方へ、銀葉草。


混ぜない。


まず単体。


しばらく待つ。


変化なし。


匂い。


問題麦の金属臭。


薬草の青臭さ。


銀そのものの冷たい匂い。


色も変わらない。


「何もないな」


フランツが言った。


「時間を書いて」


「お前が書け」


「私は見ているの」


「俺も見てる」


「では、どちらかが書かないと記録が残らないでしょう」


「面倒だな」


言いながら、フランツは炭筆を取った。


時間。


常温。


銀皿。


単体。


変化なし。


「混ぜます」


エルサが言った。


配膳係が匙を使い、三つを寄せる。


粉が薬草の緑を薄く包む。


変化なし。


次に、水を一滴。


王宮の飲用水。


粉が湿る。


灯火草の匂いが強くなる。


銀皿の表面へ、薄い膜。


「色が」


配膳係が言った。


「何色?」


「灰色?」


「銀が濡れただけだ」


フランツが顔を近づける。


エルサも見る。


確かに、ただの湿りに見える。


光の角度を変える。


灰色の中へ、ごく細い青。


すぐ消える。


「もう一度、水を」


一滴。


二滴。


粉を匙で混ぜる。


青い筋。


今度は少し長い。


「銀葉草の色では?」


配膳係が言う。


「銀葉草は水で青くならない」


エルサが答える。


「灯火草?」


「黄色みが出る」


「では何?」


「まだ分からない」


分からない。


けれど、変化はある。


「錫皿でも」


フランツが錫皿へ同じ量を置く。


問題麦。


灯火草。


銀葉草。


水。


混ぜる。


灰色になる。


青い筋は出ない。


「銀だけ」


エルサは言った。


「あるいは、銀皿の研磨剤」


フランツが指摘する。


「研磨剤は何を?」


配膳係へ尋ねる。


「白灰と酢。最後に清水で洗います」


「今日も?」


「銀器係が朝に」


「残留は?」


「あるはずありません」


「確認方法は?」


「見て、臭いを」


「銀器係を呼んで」


配膳係が頭を抱えた。


「また人を増やすの?」


「皿が増えたから」


「意味が分かりません」


エルサには分かっていた。


条件が一つ増えるたび、担当者も増える。


小麦。


薬草。


銀器。


炉。


配膳。


毒見。


時間。


一つの料理が、多くの職人を横切っている。


誰も全体を見ない。


だから、全員を集めるしかない。


それが間に合わない。



銀器係は、呼ばれてすぐには来なかった。


代わりに、保温棚から大広間へ料理が運び出され始めた。


六盟家の席から。


上段の端。


皿が一枚ずつ減る。


配膳係が札を読み上げる。


ローゼンベルク。


グライフ。


アイゼン。


ゼーヴェル。


フォルクナー。


リンデン。


王家以外の六家。


それぞれの代表へ料理が出る。


同じ円卓へ。


同じ献立。


ただし、皿の待ち時間は同じではない。


北の代表は早く席についている。


西の代表は挨拶が長い。


南は厨房への確認を何度も入れる。


東は銀器の紋章を気にする。


料理は政治より先に並び、政治が終わるのを待つ。


「六盟家の皿は、何刻保温した?」


エルサが聞く。


配膳係が札を見る。


「短いもので四分の一刻。長いもので半刻」


「王族は?」


「これから」


王の皿は、まだ棚の中央にある。


熱を受け続けている。


エルサは銀皿の試料を見る。


青い筋は消えた。


代わりに、粉の一部が黒ずんでいる。


ごく小さい。


焦げではない。


常温だ。


「フランツ」


「見えてる」


「触らないで」


「触らん」


フランツは皿の裏を見る。


王族用銀器には、縁の内側へ薄い魔導刻印がある。


保温効率を高める補助紋。


銀皿自体が、棚から熱だけでなく微弱な魔力を受け取る構造。


「普通の銀皿ではない?」


エルサが尋ねる。


「高級品は大抵そうだ。冷めにくくする」


「単体で?」


「棚へ置いた時だけ回路が通る」


「この予備皿にも?」


「刻印はある」


「棚へ入れていないのに、なぜ変化したの」


「銀そのものか、研磨剤か、薬草か」


「小麦か」


「全部かもしれん」


やっと、同じ場所へ来た。


全部。


一つではない。


「棚へ入れる」


エルサが言った。


配膳係が強く首を振る。


「駄目です」


「変化を確認しないと」


「王族用の保温棚です」


「だから確認するのよ」


「そこで変なものが出たらどうするの!」


「出るかもしれないものを、すでに王の皿へ載せているでしょう!」


声が大きくなった。


保温室が静まる。


運び手たちが一瞬だけ足を止める。


エルサは息を整えた。


目立つな。


顔を見られるな。


声を覚えられるな。


王宮では、それが生存条件だった。


けれど、小さな声で説明している時間がない。


「棚へ入れなくてもいい」


フランツが言った。


道具箱から細い銅線と小さな魔石片を出す。


「皿の刻印へ、弱い出力だけ流す」


「王宮の銀器を改造するの?」


配膳係が叫ぶ。


「改造じゃない。点検だ」


「同じでしょう!」


「壊さない」


「壊したら?」


「錫の塔へ請求しろ」


「マルコに殺されるわ」


エルサが言った。


「お前の給金から引く」


「三か月働いても足りないでしょう」


「なら壊さない」


フランツは気にせず、銀皿の裏へ銅線を当てた。


直接固定はしない。


刻印の起点と終点へ触れさせる。


魔石片を小さな錫留めへ挟む。


「出力は?」


エルサが聞く。


「棚の十分の一以下」


「変動させられる?」


「一瞬だけなら」


「平均ではなく、跳ねるように」


「注文が多い」


「危険な料理は、条件が多いのよ」


フランツが魔石へ指を当てる。


微かな光。


銀皿の紋が淡く浮かぶ。


一度。


変化なし。


二度。


湿った粉の青が戻る。


三度目。


ぱち、と小さな音がした。


薬草と粉の表面へ、黒い点が生まれた。


一つ。


細い枝。


根のように広がる。


エルサの喉が冷えた。


酒場の鍋の下。


旧穀物庫の排出溝。


ジャックの腕。


同じ形。


ただし、すぐに消えた。


黒い筋は粉の中へ沈み、あとには薄い青灰色だけが残る。


「今のを見た?」


配膳係が掠れた声で言う。


「見た」


フランツの顔から冗談が消えている。


「もう一度」


エルサが言った。


「駄目だ」


フランツが魔石を外した。


「なぜ」


「皿の刻印が熱を持った」


「短時間でしょう」


「短時間で持つはずのない熱だ」


皿の裏へ手を近づける。


触れてはいない。


それでも熱が分かる。


「棚の十分の一で?」


「ああ」


「実際の棚では」


二人とも上段を見る。


王の皿。


一刻近く。


出力変動あり。


「下げる」


エルサは言った。


配膳係が立ちはだかる。


「まだ配膳命令がありません」


「だから下げるの」


「一度、王の皿として用意した料理を、勝手に下げることはできません」


「なぜ?」


「不吉だからです」


思わぬ答えだった。


「不吉?」


「王の前へ出る料理を下げるのは、王の命を下げることになると」


迷信。


儀礼。


オカルト。


王宮では、理屈の通らない規則ほど長く残る。


「まだ王の前へ出ていないでしょう」


「王冠札をつけた時点で、王の皿です」


「毒ができても?」


配膳係の顔が白くなる。


「毒とは決まっていません」


「なら、危険な変化が起きても?」


「厨房長の命令が必要です」


「厨房長は?」


「大広間前」


「呼んで!」


「宴席中です!」


また同じところへ戻る。


宴席中だから呼べない。


宴席中だから急ぐ。


正しさが輪になって、誰も外へ出られない。


「王の皿は、王の命令でも下げられないの?」


エルサが聞く。


「王命なら」


「では王へ伝えて」


配膳係は、今度こそ本当に怯えた顔をした。


「下働きが、宴席中の王へ?」


「あなたでもいい」


「無理です」


「雑役長」


「無理だ」


「管理官」


「厨房長を通す」


「厨房長」


「宴席中」


「クロエ」


「命令権がない」


「王太子」


誰も答えなかった。


王太子。


レオンハルト。


その名を口に出してはいない。


それでも、考えた瞬間に喉が狭くなる。


彼なら、止める権限がある。


だが会いたくない。


声も聞きたくない。


自分の存在を知られたくない。


王宮の人間を救いたいのではない。


自分の寝床と食事を失いたくないだけ。


そのはずだった。


「クロエへ送って」


エルサは試料皿を示した。


「この変化と、王の皿を下げるには王命が必要だと」


「婚約者様に何ができる」


雑役長が言う。


「王太子へ伝えられる」


「確証がない」


「だから見せるのよ」


「この黒い点はもう消えた」


「記録がある」


「下働きと錫の塔職人の記録だけだ」


「配膳係も見た」


女が一歩引いた。


責任から逃げる動き。


責められない。


見たと言えば、宴席を止めなかった責任が生じる。


見なかったと言えば、仕事は続く。


人間は事実より先に、自分の処罰を考える。


エルサも同じだった。


「私は……」


配膳係が言う。


「一瞬でした。黒く見えたかどうかは」


消えた。


証拠は弱い。


「もう一度、再現する」


エルサが言った。


フランツが首を振る。


「皿が壊れる」


「壊して」


「王族用だぞ」


「人間より高いの?」


王宮では場合による。


誰も答えなかった。


その時、棚が強く震えた。


がん。


銀皿が一斉に鳴る。


澄んだ音ではない。


低く、濁った音。


王の皿の縁へ載せられた匙が跳ね、皿へ落ちる。


次の瞬間、棚の上段にある刻印が明るくなった。


熱が押し寄せる。


保温室の空気が一気に乾いた。


薬草の匂いが濃くなる。


「出力が上がった!」


フランツが棚の側面へ手を当て、すぐ離す。


「止められる?」


「ここからは無理だ!」


「地下炉へ」


「許可が――」


「まだ言うの!」


エルサは扉へ向かった。


廊下へ出る。


雑役長が追う。


「どこへ行く!」


「地下炉室」


「道を知っているのか」


足が止まりかけた。


知っている。


王太子妃教育で、避難経路と重要設備を覚えた。


王宮襲撃時、どの炉を落とし、どの回廊を封鎖するか。


王族は知らなければならない。


下働きが知っているはずはない。


「煙と排水で」


「地下炉に煙は出ない」


雑役長の指摘。


まずい。


「案内して」


エルサは言い直した。


「許可がない」


「では、あなたが王の皿を焼いたと報告書へ書きます」


「脅すのか」


「事実の予定を書いているだけよ」


雑役長の顔が歪む。


「管理官を呼ぶ」


「遅い」


「炉室の鍵は管理官しか持っていない!」


鍵。


また扉。


橋は壊れていない。


鍵を持つ者が別の場所にいるだけ。


「合鍵は?」


「炉係」


「どこ?」


「地下」


「なら行けるでしょう」


「炉係を呼び出す管がある」


「呼んで」


雑役長は壁へ設置された音声管へ走った。


蓋を開ける。


中の薄い銅膜を叩く。


「地下炉室! 応答しろ!」


雑音。


低い唸り。


返事はない。


もう一度。


「地下炉室!」


ざ、と音が返る。


その奥に、声のようなもの。


「……は……」


「聞こえるか!」


「……返……」


エルサは顔を上げた。


返せ。


そう聞こえた。


旧穀物庫で、穀粒の囁きに似た声を聞いた。


意味のない魔力雑音。


古い通信の残響。


そう説明できる。


「炉係か?」


雑役長が管へ叫ぶ。


「……橋……」


橋。


エルサの背中へ冷たい汗が浮かんだ。


「何と言った?」


フランツが聞く。


「分からない」


本当に分からない。


声なのか。


雑音なのか。


ただ、王宮の古い回路が、存在しない誰かの言葉を返している。


「通信も出力へ引っ張られてる」


フランツが言った。


「炉の変動が回線へ乗ってるんだ」


説明はつく。


おそらく。


全部ではないかもしれない。


「応答しろ!」


雑役長が叫ぶ。


今度は、はっきりした男の声が返った。


『炉室だ! 第三線の圧が跳ねてる! 上で何をつないだ!』


「何もつないでいない!」


『王族保温系が負荷を食ってる! 切るぞ!』


「待て!」


雑役長が叫ぶ。


「宴席中だ!」


『なら、そっちで落とせ!』


「落とせない!」


『こっちも勝手には落とせん! 王族系だぞ!』


完全だった。


誰も止められない。


上は地下炉の権限を求める。


地下は王族設備の許可を求める。


保温棚は動き続ける。


橋は壊れていない。


両側で、正しい人間が待っている。


「王族系を切って」


エルサは管へ言った。


『誰だ』


「錫の塔の記録補助」


『知らん!』


「王の皿が危険です」


『厨房長の命令を出せ!』


「厨房長は宴席中」


『なら管理官!』


「大広間前」


『呼べ!』


「呼んでいる間に切って!」


『俺が勝手に王族系を落としたら首が飛ぶ!』


「落とさなければ、別の首が飛ぶわ!」


沈黙。


言葉が強すぎた。


シシーリアの処刑。


首。


余計な連想をさせる。


だが、炉係には届いた。


『……確証は』


また、それ。


「ありません」


エルサは答えた。


フランツがこちらを見る。


「問題麦、薬草、銀皿、長時間保温、出力変動。弱い出力で黒い反応を確認。確証はない。危険はある」


長い。


正確。


止めるには弱い。


炉係の返事が来ない。


「切って」


エルサは繰り返した。


『命令がいる』


「私にはない」


『なら無理だ』


通信が切れた。


王宮とは、つくづく正しい場所だった。


誰も権限を越えない。


誰も勝手に王の皿を下げない。


誰も許可なく炉を止めない。


誰も、後から責任を問われる行動をしない。


その結果、誰も安全へ責任を持たない。


保温室から、銀器の鳴る音がした。


エルサは戻った。


王の皿の縁に、黒い模様が浮かび始めていた。


ごく薄い。


銀の紋章へ沿うように。


蔓。


あるいは、根。


料理の下から滲んでいる。


「下げて!」


エルサが叫ぶ。


配膳係が動かない。


「下げたら処罰されます」


声が震えている。


「残せば死ぬかもしれない」


「かもしれないでしょう!」


「そうよ!」


確証はない。


だからこそ、人は動かない。


「私が下げる」


エルサは王の皿へ手を伸ばした。


雑役長が腕を掴む。


「触るな!」


「離して!」


「王の皿だぞ!」


「皿でしょう!」


「王冠札がついている!」


「札で中身が安全になるの?」


「儀礼だ!」


「儀礼は毒を止めない!」


二人の声が重なる。


エルサは腕を振りほどこうとした。


力では勝てない。


フランツが雑役長の手首を掴んだ。


「離せ」


低い声。


雑役長が睨む。


「錫の塔が王宮儀礼を壊すつもりか」


「皿を下げるだけだ」


「王命なしに?」


「壊れた道具は止める」


「料理は道具じゃない!」


「炉につながってるなら同じだ」


フランツの理屈は、錫の塔のものだった。


料理と設備を分けない。


皿と人間を分けない。


生活は全部つながっている。


その乱暴さが、いまは必要だった。


エルサは厚い布を掴んだ。


王の皿へ手をかける。


熱い。


布越しでも熱が伝わる。


普通の保温ではない。


銀皿の底が、火へ直接置いたように熱を持っている。


「持てない」


フランツが反対側を支える。


二人で持ち上げる。


その瞬間、扉が開いた。


「その皿を、元へ戻せ」


男の声。


保温室の入口に、王宮厨房長が立っていた。


白い上着。


胸元の金糸。


火傷一つない手袋。


背後には管理官と衛兵。


ようやく、権限のある人間が来た。


遅すぎる可能性はある。


「厨房長」


雑役長が安堵した声を出す。


「錫の塔の者が、王の皿を勝手に――」


「聞いている」


厨房長はエルサを見た。


知らない顔。


そうでなければ困る。


「下ろしなさい」


「保温台からは下ろしました」


「配膳位置へ戻せと言っている」


「危険です」


「毒見は済んでいる」


「毒見後に条件が変わっています」


「何が」


来た。


説明。


ここで伝えなければならない。


短く。


正確に。


問題麦。


薬草。


銀皿。


長時間保温。


炉出力変動。


複合反応。


黒い模様。


「南部小麦が過剰な魔力を抱えています。常温粉では規定毒物反応が出ませんが、薬草と水分を加え、魔導刻印を持つ銀皿へ置き、変動する熱を通すと黒い変性反応が生じました。王の皿は毒見後に銀皿で一刻近く保温され、現在、皿縁に同様の反応が――」


「長い」


厨房長が切った。


一言だった。


エルサの口が止まる。


「要点を」


「王の皿が危険です」


「毒か?」


「毒とはまだ断定できません」


厨房長の表情が固くなる。


「なら戻せ」


「危険です」


「毒ではないのだろう」


「毒ではないと確認できていません」


「確認できていないことを理由に、王の宴席を止めるのか」


「止めるべきです」


「責任は誰が取る」


また、その問い。


エルサには取れない。


フランツにも。


錫の塔にも、おそらく王宮全体の損失を補償する金はない。


国王の宴席を中断。


六盟家への非礼。


政治交渉の破綻。


食材の廃棄。


厨房職員の処分。


毒殺疑惑。


国中へ広がる噂。


費用は、三か月の給金どころではない。


「錫の塔長か?」


厨房長が尋ねる。


「塔長はここにいません」


「では、あなたか」


「私には財産がありません」


「身分は」


「錫の塔の記録補助」


「家名」


「ありません」


「そんな者の推測で、王の皿を下げろと?」


エルサは皿を持ったまま、厨房長を見た。


正しい。


あまりにも正しい。


何者でもない女の説明より、七つの印と毒見局の検査を信用する。


当然だ。


身分も保証もない人間が、王の宴席を止められる国のほうが危険だった。


「皿を戻しなさい」


厨房長が言った。


エルサは動かなかった。


腕が震えている。


銀皿が重い。


熱い。


長くは持てない。


フランツも苦しそうに顔をしかめている。


それでも戻せない。


戻せば、王の前へ出る。


その前に、誰かが食べる。


王は最後。


六盟家。


王子たち。


クロエ。


レオンハルト。


考えるな。


名前ではなく、条件を見ろ。


誰が食べても同じ。


「正確な説明では、止まらない」


エルサは呟いた。


「何?」


厨房長が聞く。


エルサは答えなかった。


クロエへ送る。


彼女なら理解する。


そして、エルサより短い言葉を選ぶ。


選べる女だ。


嫌になるほど。


「侍女を」


エルサは言った。


「クロエ様へ、今の内容を伝えて」


厨房長が眉を寄せる。


「婚約者様に厨房命令権はない」


「知っています」


「なら無意味だ」


「いいえ」


エルサは黒い模様の浮いた皿を見る。


「彼女は、言葉を短くできる」


厨房長には意味が分からない。


フランツにも、完全には。


けれどエルサには分かっていた。


自分の説明は正しい。


正しいが、遅い。


人を動かすには、別の言葉が必要だった。


保温室の外で、宴席開始を告げる三つ目の鐘が鳴った。


王の皿を載せる銀盆が、すでに扉の前まで来ていた。

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