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第17話 婚約者に厨房命令権はない

王太子の婚約者には、厨房命令権がない。


当然だった。


婚約しただけで王宮の鍋へ命令できるのなら、貴族令嬢は全員、最初に厨房を押さえるだろう。


毒を入れるためではない。


自分の好物を増やすためである。


「白パンを一つ増やして」


「魚は嫌いだから肉へ替えて」


「隣家の令嬢より大きな砂糖菓子を」


王宮の権力闘争は、大抵もう少し上品な言葉を使うが、要求の中身はさほど変わらない。


したがって、婚約者が厨房へ口を出せない規則自体は正しい。


今回ばかりは、その正しさが邪魔だった。


「焼き上がったパンは?」


エルサが聞いた。


小厨房の粉係は、窯の方角を指した。


「第二焼窯。もう冷まし台へ出てる」


「何個」


「宴席用が三十六。予備が十二」


「運ばれた?」


「配膳前室へ半分」


「残りは?」


「ここ」


「誰も食べないで」


粉係が露骨に顔をしかめた。


「またそれ?」


「またよ」


「毒見局は陰性だと言ったでしょう」


「常温の粉では」


「パンも同じ麦よ」


「火を通せば、同じものとは限らない」


「普通は火を通した方が安全でしょう」


「普通なら」


その言葉が、最近のエルサは嫌いだった。


普通の小麦。


普通の発酵。


普通の保管。


普通の検査。


普通の王宮。


普通という言葉は、異常が起きた後に責任を逃がすためにも使われる。


普通なら起きない。


だから、誰かが悪い。


誰か一人が。


「パンを一つ、比較用にください」


エルサが言う。


「宴席用よ」


「予備が十二あるでしょう」


「厨房長の許可がいる」


「切れ端でもいい」


「切れ端は試食へ回す」


「なら試食の前に見せて」


「あなた、本当に何様なの?」


粉係の苛立ちはもっともだった。


エルサは家名もない。


服は煤けている。


髪は頭巾へ押し込んでいる。


胸には錫の塔の小さな業務札。


肩書は記録補助。


命令権はない。


責任を取る財産もない。


「何様でもないわ」


エルサは答えた。


「だから、お願いしているの」


粉係は少しだけ面食らった顔をした。


エルサ自身も、口に出してから違和感を覚えた。


お願い。


シシーリアだった頃には、あまり使わなかった言葉である。


使っていたとしても、断られないことを前提にした形だけのお願いだった。


「一つだけよ」


粉係は言った。


「それ以上は無理」


「十分です」


「異常がなかったら、もう止めろと言わないで」


「異常がなければ」


約束はしなかった。


粉係も気づいたが、もう言い返さなかった。


白パンが一つ運ばれてくる。


ふくらみはよい。


表面は淡い金色。


割れ目から、香ばしい小麦とバターの匂いが立っている。


錫の塔で焼いた試験パンより、ずっと上等だった。


きめ細かな粉。


新しい酵母。


温度の安定した窯。


職人の技術。


材料に問題があるようには見えない。


見た目ほど信用できないものもない。


エルサはナイフを入れた。


薄い皮が割れる。


中は白い。


柔らかい湯気が上がる。


一切れを指で押す。


弾力は正常。


色むらなし。


焦げ臭もない。


「食べるなよ」


フランツが言った。


いつの間にか横へ来ていた。


「誰が食べると言ったの」


「お前」


「言っていないわ」


「顔に書いてある」


「どこに」


「舌のあたり」


失礼な観察だった。


だが、エルサは実際、味を見るべきか考えていた。


味覚は有効な検査方法である。


同時に、検査員を一人減らす方法でもある。


「錫の塔の試験パンと比べます」


エルサは持参した布包みを開いた。


前に焼いた苦いパンの欠片。


時間が経ち、硬くなっている。


王宮の白パンと並べると、貧富の差があまりにも明確だった。


一方は白く柔らかい。


一方は灰色がかり、乾いている。


同じ問題麦から作られたとは思えない。


「匂いは?」


フランツが聞く。


エルサは順に嗅いだ。


古いパンには、硬い金属臭が残っている。


王宮の白パンは、バターと酵母の香りが強い。


その奥に、わずかな刺激。


弱い。


香りへ隠れている。


知らなければ気づかない。


「ある」


「何が」


「同じ匂い」


粉係が近づいた。


「そんなはずない」


「薄いけれど」


「味は?」


「まだ見ない」


「見れば早いだろ」


フランツが言った。


「さっき食べるなと言ったでしょう」


「俺が食う」


「駄目」


即答した。


フランツが眉を上げる。


「何でだ」


「設備を見られる人があなたしかいないから」


「お前よりは丈夫だ」


「丈夫さと毒への耐性は別です」


「俺が倒れたら、お前が運べ」


「重いから嫌よ」


「そこか」


実際には違った。


フランツが倒れれば、王宮へ入るための正式技術職がいなくなる。


エルサ一人では、炉も回路も触れない。


それだけ。


合理的な理由だった。


合理的な理由しかないはずだった。


「毒見局へ回して」


エルサは粉係へ言った。


「また?」


「加熱後の比較として」


「毒見局の人はもう戻ったわ」


「なら持って行く」


「勝手に?」


「正式な追加試料です」


「誰の正式?」


「これから正式にするの」


粉係は頭を抱えた。


「錫の塔って、全員こうなの?」


「こいつだけだ」


フランツが言った。


「私は特別らしいわ」


「褒めてない」


「知ってる」


以前と同じ会話だった。


それだけで少し息がしやすくなった。


王宮の中にいることを、一瞬だけ忘れられる。


忘れた方が危険だった。



クロエから最初の返答が来たのは、献立表の余白だった。


紙を持ってきたのは、若い侍女だった。


表向きには、厨房へ宴席献立の確認を戻しに来ただけ。


侍女は雑役長へ紙を渡し、頭を下げる。


「クロエ様より、料理内容の確認です」


雑役長が受け取った。


「変更か?」


「いいえ。確認のみと」


婚約者に厨房命令権はない。


だから、変更ではない。


確認。


実に正しい。


雑役長は紙を開き、目を走らせた。


「何だ、これ」


献立表の右端へ、細かな文字が増えている。


料理名。


使用材料。


仕込み場所。


配膳順。


その横に、小さな丸と線。


一見、厨房職員の補足記号に見えた。


エルサは雑役長の肩越しに見た。


二重輪。


折れた麦穂。


泡は嘘をつかない。


その文自体はない。


代わりに、白パン、薬草団子、肉料理のとろみ、温製麦粥の四品へ二重輪がついている。


余白には短い質問。


> 使用麦の受領印を再確認されたし。

> 粉の移動時刻と、各料理への投入時刻を記入されたし。


クロエは、錫の塔から送った紙を読んだ。


意味を理解した。


そして、命令ではなく質問の形で返してきた。


賢いやり方だった。


腹立たしいほど。


「これは、あんたが送った符丁か」


フランツが小声で聞く。


「錫の塔の古い記録にあったものよ」


「質問へ答えてない」


「答える必要がある?」


「あるから聞いてる」


「仕事中よ」


「いつもそう言うな」


「いつも仕事があるからです」


フランツは不満そうだったが、追及は止めた。


エルサは献立表を受け取ろうとした。


雑役長が高く持ち上げる。


「外部の下働きが触るものじゃない」


「質問へ答えるには工程記録が必要です」


「厨房側で書く」


「誰が?」


雑役長は周囲を見た。


誰も目を合わせない。


粉係はパン。


肉料理区はとろみ。


薬草係は団子。


配膳係は麦粥。


一枚の献立表へ全員の工程を書く者はいない。


「私が聞いて回る」


エルサが言った。


「それを、あなたが確認して」


雑役長は迷った末、紙を渡した。


命令ではない。


だからこそ、渡せたのだろう。


エルサは最初の欄を埋める。


白パン。


問題麦の粉、朝一刻半に投入。


生地こね開始。


一次発酵。


二次発酵。


焼成。


配膳前室へ移動。


次に肉料理区。


とろみ粉の投入時刻。


鍋の種類。


加熱時間。


使用した薬草。


器。


保温の有無。


薬草団子。


銀葉草。


灯火草。


粉の割合。


蒸し時間。


麦粥。


まだ未着手。


予定時刻のみ。


「こんなに書く必要がある?」


粉係が尋ねた。


「クロエ様の質問です」


エルサは答えた。


「あなたのじゃなくて?」


「両方」


粉係は嫌そうな顔をした。


だが、婚約者の名が出ると完全には拒めない。


命令権はない。


影響力はある。


王宮では、その二つの差を全員が理解している。


エルサは各担当へ質問を続けた。


「薬草は誰が量ったの?」


「私」


薬草係の女が答える。


「規定量?」


「当然」


「銀葉草と灯火草を同じ容器で?」


「別々」


「粉へ混ぜたのは?」


「団子係」


「混ぜた後に味見は?」


「蒸す前にはしない」


「蒸した後は?」


「毒見前の試食で」


「器は?」


「配膳時に銀皿」


「保温は?」


「団子は保温棚へ」


「どの棚?」


「上段」


「炉系統は?」


薬草係が眉を寄せる。


「知らない」


「誰なら?」


「設備係」


フランツを見る。


彼は献立表へ顔を近づけた。


「上段保温棚は西炉の補助線だ」


「出力記録は?」


「まだ許可待ち」


書記が遠くから叫んだ。


「設備記録は管理部です!」


「聞こえてる」


エルサは返した。


「なら勝手に書くな!」


「未確認と書いています」


「それが嫌なんだ!」


厨房中に笑いが起きた。


書記だけは笑わなかった。


少しずつ、空気が変わっていた。


最初、王宮側の人間はエルサを外部の生意気な下働きとして見ていた。


今も生意気だとは思っているだろう。


ただし、質問の目的は伝わり始めている。


誰かを責めるためではない。


料理が何を通ったかを、一枚へ集めるため。


「次」


エルサは肉料理区へ行った。


大鍋では、仔牛肉が白ワインと香草で煮込まれている。


表面へ脂が浮き、甘い肉と酸味のある酒の匂いが混ざっていた。


王宮らしい豊かな料理だった。


錫の塔なら、この鍋一つで何十人分の夕食になる。


ここでは、宴席の一皿に過ぎない。


料理人が長柄の匙で鍋を混ぜている。


「とろみ粉は、いつ入れました?」


「さっきだ」


「量は?」


「規定どおり」


「問題麦だけ?」


「通常粉と半々」


エルサの手が止まった。


「なぜ混ぜたの?」


「残りが足りなかったからだ」


「誰の判断?」


「俺だ」


料理人は悪びれない。


「同じ等級の小麦だ。混ぜて何が悪い」


悪くない。


現場では普通の調整だ。


不足分を同等品で補う。


帳簿にも、まとめて小麦粉としか残らない可能性がある。


「投入前の粉は残っていますか」


「もうない」


「容器は?」


「洗った」


「洗い水は?」


「排水へ」


証拠が一つ消えた。


誰かが隠したのではない。


料理を作るために、普通に洗った。


「鍋から試料を取ります」


「客へ出す料理だぞ」


「一匙で足ります」


「味が変わる」


「一匙で変わる料理なら、人数分へ分けた時点で変わるでしょう」


料理人の顔が険しくなる。


「俺の料理へ口を出すな」


職人の誇り。


それ自体は悪くない。


だが、誇りは時々、蓋になる。


「味へは口を出していません」


エルサは鍋を見た。


「安全へ口を出しています」


「毒見局が見る」


「毒見局は、複合条件を見ていない」


「錫の塔の下働きが、王宮の料理を疑うのか」


「ええ」


静かに答えた。


料理人の顔が赤くなる。


フランツが一歩前へ出た。


「試料は取る」


「設備屋が何を」


「王宮から呼ばれた錫の塔の技術職だ。記録補助の判断は、俺の署名で通す」


エルサが彼を見る。


フランツは目を合わせない。


「責任を取れるの?」


小声で聞く。


「取れない」


「では、なぜ」


「お前一人に書かせると、あとで全部押しつけられる」


声は低かった。


実用的な配慮。


優しい言葉ではない。


それで十分だった。


エルサは小瓶を出した。


料理人は不満そうにしながらも、鍋から一匙取った。


封をする。


時刻。


鍋番号。


投入粉。


料理人名。


すべて記録。


「一匙分は錫の塔へ請求する」


料理人が言った。


「仔牛肉入りよ」


「だから高い」


「では、試料を食べたら払わなくていい?」


「食うな!」


少しだけ笑いが起きた。


料理人本人も、口元を動かしかけた。


完全な敵ではない。


自分の仕事を疑われて怒っているだけ。


人は、生活を持っている。


誇りも、給金も、失敗した時の処罰もある。


全員が、他者のために動いているわけではない。


そのことを、エルサは錫の塔で学び始めていた。



二枚目の紙が来た。


今度は献立表ではない。


工程表だった。


クロエの侍女は、廊下の入口で雑役長へ渡す。


「ご返答です」


「返答?」


「先ほどの記載について、追加確認を」


紙には、エルサが書いた工程の写しがあった。


短時間で転記されている。


正確だった。


誤記もない。


右端へ、クロエの字で質問が並ぶ。


> 白パン――毒見前に保温されるか。

> 肉料理――銀皿へ盛られた後、何刻保温されるか。

> 薬草団子――灯火草は昨年規程か、本年規程か。

> 麦粥――王族席と一般席で同じ鍋か。


エルサは目を細めた。


クロエは料理そのものではなく、配膳後を見ている。


錫の塔で醸造を学んだ女らしい。


仕込みが終わっても、反応は終わらない。


「嫌な女」


小さく呟く。


フランツが聞いた。


「またか」


「質問が正確すぎるのよ」


「いいことだろ」


「嫌いな相手が有能だと、こちらが困るでしょう」


「知らん」


健全な反応だった。


エルサは工程表へ回答を書き始める。


白パン。


焼成後、通常は保温なし。


ただし王族席用は配膳前室で温め直す場合あり。


肉料理。


銀皿へ盛った後、王族席のみ保温台。


時間は席順と到着による。


薬草団子。


灯火草は本年規程。


ただし乾燥葉の等級確認が必要。


麦粥。


同じ鍋から分ける予定。


王族席は銀器。


一般席は陶器または錫器。


書き終えたところで、エルサは手を止めた。


「王族席だけ?」


「何が」


雑役長が聞く。


「銀器と保温」


「当然だ。王族へ冷めた料理を出せるか」


「一般席は?」


「盛りつけたらすぐ出す」


「王族席は?」


「全員の皿が揃うまで待つ」


「誰の皿が一番長く待つ?」


雑役長は答えなかった。


代わりに、近くの配膳係が言った。


「王の皿だ」


王家の作法。


王は最後に食べる。


全員へ料理が行き渡り、招待客と六盟家の代表が一口目を食べるまで、王は手をつけない。


美徳。


責任。


調停者の象徴。


同時に、王の料理だけが最も長く放置される仕組み。


エルサの背中へ冷たいものが走った。


「王の皿は、どこで待つの」


「大広間の保温台」


「厨房ではなく?」


「配膳後だ」


「毒見は?」


「厨房で済ませる」


「保温前に?」


「そうだ」


「保温後は?」


「同じ料理だ」


違う。


時間が違う。


器が違う。


熱が違う。


魔導回路へ置かれる。


同じ材料でも、同じ状態ではない。


「工程表を返して」


エルサが言った。


侍女がまだ入口にいる。


彼女は紙を差し出した。


エルサは余白へ大きく書いた。


> 毒見後、王の皿のみ条件が変わる。

> 銀皿。長時間保温。王家後食作法。

> 保温台の炉系統確認が必要。


書き終えた瞬間、廊下の向こうから別の一団が来た。


侍女。


給仕。


銀盆を持つ者。


中央には、黒髪の若い女。


距離はある。


顔は見えない。


深い青のドレス。


細い腰。


歩幅は小さいが、遅くない。


クロエ。


エルサの体が先に理解した。


胸の奥が強く縮む。


顔を見たくない。


見れば、何を思うか分からない。


憎むのか。


比べるのか。


レオンハルトの隣へ立つ女として見るのか。


錫の塔の前任者として見るのか。


「こっちへ来るぞ」


フランツが言った。


エルサは工程表を侍女へ押しつけた。


「裏へ」


「どこへ」


「どこでもいい」


「初めての王宮なのに?」


「煙と排水で分かるわ」


自分で以前使った嘘を繰り返す。


フランツが何か言う前に、エルサは脇の通路へ入った。


保温室へ続く細い廊下。


壁際には布籠と空の銀皿箱。


人一人が隠れるほどの場所はない。


足音が近づく。


エルサは空箱を持ち上げ、顔の前へ抱えた。


下働きが荷物を運んでいるように見せる。


実に雑な変装だった。


だが、ここで急に走れば目立つ。


歩く。


普通に。


クロエの一団と、角を挟んだ反対側。


声が聞こえた。


「この工程表を書いた方は、まだ厨房に?」


クロエの声だった。


記憶より低い。


落ち着いている。


王宮の令嬢らしい柔らかさを保っている。


けれど、質問の内容は職人のものだった。


侍女が答える。


「錫の塔の記録補助と聞いております」


「お名前は?」


エルサの足が止まりかけた。


止まるな。


歩け。


「エルサと」


クロエは少し黙った。


その名に意味はない。


彼女は知らない。


濡れた酵母札から拾われた名だ。


シシーリアとは何の関係もない。


「そう」


短い返事。


足音がさらに近づく。


角を曲がれば、正面から会う。


エルサは脇の保温室へ入った。


扉を閉める。


完全には閉じない。


隙間を残す。


中は暖かかった。


いや、熱い。


壁へ埋め込まれた保温棚。


床下から上がる低い振動。


空気には、金属と乾いた香草の臭いがある。


エルサは銀皿箱を抱えたまま、扉の陰へ立った。


外をクロエたちが通る。


布擦れ。


靴音。


香水。


以前、王宮で使われていた花の香りとは違う。


麦芽石鹸と、薄いハーブ。


錫の塔にいた頃の癖を、まだ残しているのかもしれない。


「エルサという方へ、これを」


クロエの声。


「直接お渡しにならないのですか?」


侍女が尋ねた。


「厨房のお仕事中でしょう。邪魔をしてはいけません」


嘘だ。


あるいは配慮。


クロエも、会うことを避けているのかもしれない。


相手が何者か分からない。


錫の塔で自分の古い記録を読んだ正体不明の女。


警戒して当然だ。


足音が遠ざかる。


エルサは息を吐いた。


胸が痛い。


知らないうちに、息を止めていた。


フランツが扉の隙間から顔を出した。


「何してる」


「設備確認」


「銀皿箱を抱えて?」


「重量も確認しているの」


「顔が白いぞ」


「元からよ」


「煤まで白い」


「それは前も聞いたわ」


「何の話だ」


危うく、変なことを言った。


疲れている。


王宮へ戻ったことで、頭の内側の時間が混ざり始めている。


「何でもない」


エルサは銀皿箱を下ろした。


その時、箱の底へ微かな振動が伝わった。


規則的ではない。


一度。


止まる。


もう一度。


床下の炉。


フランツも気づいた。


屈み込み、床へ手を置く。


「出力が揺れてる」


「平均は正常では?」


「平均はな」


「どれくらい」


「まだ分からん」


「記録計を」


「管理部の許可待ちだ」


「待っている間に料理が乗る」


「分かってる」


フランツは保温棚を見る。


棚の上段には、王族席用を示す王冠印。


銀皿が並べられる場所。


まだ空だ。


やがて、ここへ王の皿が置かれる。


毒見を終えた後。


銀皿へ盛られ。


長い時間。


揺れる炉の上で。


エルサは工程表の写しを見た。


小麦。


薬草。


銀。


保温。


点が並び始めている。


まだ線にはならない。


線にするには、条件と時間が必要だ。


「クロエから何が来たの?」


フランツが聞く。


廊下の侍女が残した小さな紙を、エルサはまだ開いていなかった。


封はない。


外部文書ではなく、厨房内の伝言だからだ。


開く。


書かれていたのは一行。


> 泡の次は、皿を見ること。


エルサは紙を見つめた。


クロエも気づいている。


発酵だけではない。


料理へ移った後。


器。


保温。


自分と同じ場所を見ている。


顔を合わせていない。


声も交わしていない。


それでも、作業は噛み合う。


嫌な女だった。


本当に。


「何て?」


フランツが覗こうとする。


エルサは紙を折った。


「前任者からの指示よ」


「婚約者様だろ」


「記録の字に身分はつかないわ」


ルッツの言葉を借りた。


自分の言葉のように出た。


「返事を書く」


エルサは紙の裏へ記した。


> 皿だけでは足りない。

> 毒見後から口へ入るまでの時間を知りたい。

> 王の皿は、何刻待つのか。


侍女へ渡す。


今度は、すぐに返事が来なかった。


厨房の鐘が鳴る。


配膳準備。


人が走り始める。


パン。


肉料理。


団子。


銀皿。


料理が次々と、別々の担当から集まってくる。


エルサとフランツは保温室の隅へ退いた。


銀皿が棚へ置かれる。


一枚。


二枚。


三枚。


上段は王族。


中段は六盟家。


下段はその他の賓客。


同じ料理でも、置かれる場所が違う。


熱の強さも違う。


「上段が一番熱い」


フランツが言った。


「なぜ?」


「高い位置だからじゃない。王族用に補助線が一本多い」


「誰が決めたの」


「設計者」


「何年前?」


「改修札を見る」


棚の側面。


小さな銅板。


盟約暦七百九十八年改修。


十四年前。


「新しい」


「王族席の料理が冷めると苦情が出たんだろ」


「誰が苦情を?」


「王族じゃないか」


「王は最後に食べるもの」


「だから余計に冷める」


正しい改修。


料理を温かく出すため。


礼を失わないため。


誰も間違えていない。


エルサは上段へ置かれた銀皿を見た。


まだ王の皿ではない。


第二王子か、王太子のものかもしれない。


配膳係が札を差し込む。


レオンハルト。


名前が見えた。


心臓が強く打つ。


顔を見なくても、文字だけで体は反応する。


エルサは視線を逸らした。


今は関係ない。


皿は皿。


名前は荷札と同じ。


中身の移動先を示す記号。


そう考える。


考えなければならない。


侍女が戻ってきた。


息を切らしている。


小さな紙をエルサへ渡した。


クロエからの返答。


> 通常、王の皿は半刻。

> 六盟家の挨拶が長引けば、一刻以上。

> 本日は西と北の議題あり。遅延の可能性大。


一刻以上。


毒見を通った後、王の皿だけが揺れる炉の上へ残る。


銀。


薬草。


問題麦。


長時間保温。


エルサは紙を握りしめた。


「王の皿だけが長く残る」


フランツが言った。


「ええ」


「まずいか」


「まだ分からない」


「顔は分かってる顔だぞ」


「分からないものを分かったとは言えないわ」


「でも止めたい」


「ええ」


正確な説明には、まだ足りない。


しかし、時間は減っている。


厨房の外から、宴席開始を告げる一つ目の鐘が鳴った。


エルサは保温棚の振動へ指を当てた。


弱い。


止まる。


少し強くなる。


また弱まる。


平均なら正常。


瞬間ごとは不安定。


「次は炉と皿を調べる」


エルサは言った。


「間に合うか?」


「間に合わせるのよ」


「権限は?」


「ない」


「責任は?」


「取れない」


「確証は?」


「足りない」


フランツは深く息を吐いた。


「何もないな」


「時間だけはあるわ」


二つ目の鐘が鳴った。


エルサは訂正した。


「少しだけ」

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