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第11話 灰は最後に土へ返す

旧共同穀物庫は、閉鎖された施設というより、忘れられた施設に見えた。


王都南外郭。


城壁の内側ぎりぎりに残る、低く横長の石造り。


窓は小さく、ほとんどが板で塞がれている。壁には何度も塗り直した跡があり、その上へ蔦と煤と古い荷札が同じように貼りついていた。


入口の上には、かつて何かを掲げていた四角い窪みがある。


文字も紋章もない。


取り外された跡だけが残っている。


人間の名前も施設の役目も、消す時は大抵、板一枚で足りるらしい。


「本当に使われてないの?」


リーネが尋ねた。


エルサは建物の前へ積まれた麻袋を見た。


空袋。


新しい縄。


乾いた車輪跡。


「使われているわね」


「でも閉鎖って」


「表向きは」


何度目かの言葉だった。


表向き。


便利で、信用できない。


マルコは入口の錠前を見た。


錆びている。


ただし、錠前そのものではなく、鎖の一部だけが新しかった。


「鍵は?」


クルトが尋ねる。


「ない」


ハンスが答えた。


「じゃあ壊すか」


「閉鎖施設を?」


リーネが驚く。


「閉鎖してるなら誰も困らん」


マルコが言った。


「使ってる奴がいるなら出てくる」


実に簡潔な理屈だった。


鍵を壊せば、不法侵入になる。


ただし、誰かが抗議すれば、その人物がこの施設を現在も使っていると判明する。


交渉としては乱暴だが、効率はよい。


「壊した錠前の修理代は?」


エルサが尋ねた。


「閉鎖施設の管理者へ請求する」


「誰?」


「分からん」


「では、払うのは錫の塔ね」


「そうなるな」


また肉が遠ざかる。


エルサは溜息をついた。


マルコはハンスへ顎を向ける。


ハンスが太い鉄梃を鎖の輪へ差し込んだ。


一度。


二度。


三度目で、古い鎖が甲高く鳴った。


錠前ではなく、壁側の金具が抜けた。


石粉が落ちる。


「錠前は壊れてない」


ハンスが言った。


「壁が負けた」


「修理代は壁の方が高いわ」


エルサは言った。


誰も答えなかった。


聞こえなかったことにしたらしい。


扉を押す。


動かない。


内側に何かが噛んでいる。


ハンスとクルトが肩を入れる。


木が軋み、床の内側で乾いたものが擦れる音がした。


少しずつ開く。


暗い隙間から、冷えた穀物と土と古い灰の臭いが流れ出した。


その奥に、わずかな甘さがある。


麦の甘さ。


ただし、新しい麦の匂いではない。


長く閉じ込められ、乾ききれなかった穀粒の臭いだった。


「灯り」


マルコが言う。


ハンスが錫灯へ火を入れる。


細い刻印が青白く光った。


入口近くでは弱い。


奥へ向かうほど、光が揺れる。


「回路、生きてる」


ハンスが眉を寄せた。


「閉鎖施設でしょう」


リーネが言う。


「切られてない」


「誰が使ってるの?」


「それを見る」


中へ入る。


穀物庫は、外から見たより広かった。


石柱が何列も並び、その間へ木の仕切りが組まれている。


以前は大量の麦袋を積んでいたのだろう。


床には古い穀粒。


割れた木札。


錆びた秤。


荷車の轍。


天井近くに、太い送風管。


壁際には、用途の分からない細い溝が何本も走っていた。


「排水?」


リーネが指す。


「水を流す場所じゃない」


クルトが屈み込む。


溝は床より僅かに低い。


石の内側へ、灰色の焼き物がはめ込まれている。


ところどころに細かな穴。


「空気抜きか?」


ハンスが言う。


「穀物の湿気を逃がすなら上へ抜く」


「じゃあ何だ」


「知らん」


専門家二人が同時に知らないと言う。


その事実は、エルサを少し不安にした。


知らないこと自体は問題ではない。


知らない者が、自分の専門だと思って近づく時が危険なのだ。


「踏まないで」


エルサは言った。


「なぜ?」


リーネが尋ねる。


「用途が分からないものは、壊れていないと確認するまで踏まない方がいい」


「さっき扉は壊したのに」


「入口は用途が分かっていたでしょう」


「壁は?」


「壁は負けたのよ」


理屈になっているようで、なっていない。


しかしリーネはそれ以上言わなかった。


マルコが床の穀粒を拾う。


指で潰す。


中は乾いている。


「新しい」


クルトが言った。


「いつの?」


「半月以内」


「閉鎖施設に?」


マルコは穀粒を嗅いだ。


口へ入れようとする。


エルサは手首を掴んだ。


「食べないで」


「一粒だぞ」


「一粒で済む人間は、毎回そう言うの」


「お前、最近俺の食事へ厳しくないか?」


「塔長が倒れると、食卓から何が消えるか分からないもの」


「肉はもうない」


「次は塩よ」


マルコは穀粒を戻した。


その時だった。


さら。


どこかで、小さな音がした。


乾いた砂を指の間から落としたような音。


全員が止まる。


「今の何?」


リーネが囁く。


さら、さら。


音は右側の仕切りの奥から聞こえた。


鼠。


虫。


風。


穀物庫なら珍しくない。


ただし、風はない。


空気は淀んでいる。


さらさら。


今度は音の間に、別のものが混じった。


息。


あるいは、声。


「……かえ……」


リーネがエルサの腕を掴んだ。


爪が食い込む。


「何か言った?」


「言ってないわ」


「今、返せって」


「聞こえた」


ハンスも言った。


クルトは仕切りの向こうを見る。


マルコの顔から笑みが消えていた。


「全員、灯りから離れるな」


幽霊。


呪い。


死者の声。


そう考えるのが最も早い。


そして最も役に立たない。


エルサは音の方向を見た。


さら。


さらさら。


古い穀粒が石床を転がっている。


一粒ずつ。


誰かに押されているように。


「床が傾いてる?」


リーネが言った。


「傾斜だけなら、今まで止まっていた理由がない」


エルサは屈み込んだ。


穀粒は細い溝へ集まっていく。


溝の穴へ落ちる。


落ちた後、下から空気が吹き上がる。


その風で別の粒が動く。


さら。


穴。


空気。


穀粒。


音。


「声じゃない」


エルサは言った。


「穴を通る空気が、穀粒を揺らしている」


「返せって聞こえた」


リーネはまだ腕を離さない。


「人間は、知っている言葉を雑音から拾うのよ」


「じゃあ何でみんな同じ言葉を聞いたの?」


「同じ音を聞いたからでしょう」


説明はつく。


完全ではない。


リーネの指が少し緩む。


さら。


「……かえせ……」


今度は、はっきりしていた。


エルサの背筋へ冷たいものが走る。


音が言葉に似ているのではない。


言葉が、音へ寄ってきたように聞こえた。


マルコが錫灯を高く掲げる。


「奥だ」


仕切りの向こうに、古い木箱が積まれている。


一つだけ新しい。


カウフマン商会の縄。


欠けた二重円の中継印。


「誰かが今も使ってる」


ハンスが言った。


「袋じゃない」


クルトが箱へ近づく。


蓋には釘。


ただし完全には打ち込まれていない。


再び開ける前提だ。


「開けるぞ」


マルコが頷く。


クルトが釘抜きを差し込む。


一本。


二本。


蓋が持ち上がる。


中には小麦。


袋へ入れず、直接詰められている。


表面は普通だった。


黄色い粒。


乾燥。


異臭なし。


クルトが手を入れようとする。


「待って」


エルサは錫灯を寄せた。


粒の間。


黒いものが見える。


髪の毛より細い。


植物の根のような線。


一粒から別の粒へ。


麦そのものを縫い合わせるように伸びている。


「黒い根」


リーネの声が掠れた。


前に見たものより細い。


床下回路へ絡んでいた結晶とは違い、こちらはまだ柔らかく見える。


生きている根。


あるいは、生きているように見える結晶。


錫灯の光が強まる。


黒い線が僅かに縮んだ。


麦粒が揺れる。


さらさら。


「……かえせ……」


声は箱の中から聞こえた。


リーネが一歩下がる。


ハンスは鉄鉤を構えた。


クルトは蓋を閉じようとする。


「閉めないで」


エルサが言った。


「何でだ」


「動きを見たい」


「また爆発させる気か?」


「前回は爆発させていないわ」


「爆発する前に止めたからだ」


「では今回も止めればいいでしょう」


「お前は毎回、先に危ないところへ近づくな」


「後ろから見て分かるならそうするわ」


マルコが二人の間へ手を出した。


「喧嘩はあとだ。ハンス、灯りを弱めろ」


錫灯の出力を下げる。


黒い根の動きが止まる。


穀粒も静かになる。


音が消えた。


「灯りへ反応してる」


ハンスが言った。


「樽の泡と同じ」


リーネが答える。


「違う」


エルサは箱の縁を見る。


根は麦へまとわりついているが、発生源は箱ではない。


木箱の底から、細い線が伸びている。


床の溝。


その穴の一つ。


「下から来ている」


ハンスが灯りを床へ向ける。


穴の奥に、黒い塊。


石とも煤とも違う。


根状結晶が、排出溝の内部を塞いでいた。


そこへ麦から出た細い根がつながっている。


「排出溝」


エルサは言った。


「何を排出するの?」


リーネが聞く。


誰も答えない。


壁の送風管。


床の溝。


穀物の保管。


回路。


古い共同穀物庫。


ただの乾燥設備ではない。


麦の中へ残った何かを、床下へ逃がしていた。


エルサは周囲を見る。


石柱。


送風管。


床刻印。


古い秤。


壁の一部に、削られた文字がある。


煤と埃へ埋もれている。


「ここ」


指で擦る。


白い粉が落ちる。


古い文字が現れた。


現代の塔文字と少し違う。


だが読める。


> 風は銅へ。

> 熱は錫へ。

> 灰は土へ。


「塔の名前?」


リーネが聞く。


「金属の役割よ」


ハンスが言った。


「風を送る回路は銅。熱の調整は錫」


「じゃあ土は?」


クルトが床を見る。


「土へ逃がす」


壁の続きは、柱の裏へ回っている。


マルコが灯りを寄せる。


さらに文字。


削れ、途中で読めない。


> 穂が抱えすぎた時は――

> 根を開き――

> 余りを――


「穂が抱えすぎる?」


リーネが呟く。


南の植物は地脈の魔力を吸って育つ。


それ自体は普通のことだ。


だが、吸いすぎる時がある。


初穂を土へ返す古い禁忌。


過剰な作物。


マナ酔い。


「これ、穀物の余剰魔力を抜く設備だったんじゃない?」


エルサは言った。


「麦から魔力を抜く?」


クルトが眉を寄せる。


「抜くというより、逃がす。貯蔵中に穀粒へ残った過剰分を、空気と熱と床刻印で土へ戻す」


「そんな設備、聞いたことない」


「七塔が分かれる前のものなら?」


ハンスが壁の文字を見る。


風は銅。


熱は錫。


土へ返す。


一つの設備に、複数の技術が組み込まれている。


今なら、それぞれ別の塔へ申請しなければ触れない。


銅の塔が送風。


錫の塔が温度。


金の塔が地脈。


青銅の塔が建物。


南の農業はリンデン家。


誰が全体を管理するか。


誰もいない。


「昔は一つの工房だった」


マルコが言った。


声が低い。


「設備も一つだった」


「分けた後は?」


リーネが聞く。


「分けられないものだけ残った」


ハンスが答える。


「誰も自分の担当じゃないから、放置された」


閉鎖。


用途不明。


記録散逸。


設備は残る。


使い方だけが消える。


それでも流通拠点として便利だから、誰かが倉庫部分だけを使い続けた。


排出溝が詰まっていることも知らずに。


「黒い根が、余剰を逃がす溝を塞いだ」


エルサは箱の麦を見る。


「だから、麦が抱えたまま外へ出た」


「この箱だけ?」


クルトが尋ねる。


「分からない。けれど、六年前も同じ中継印を通った麦で起きた」


「じゃあ、六年前から詰まってる?」


「一部だけかもしれない。詰まりが増えているのかも」


黒い根は一箇所ではない。


錫の塔の床下。


地下牢の壁。


ジャックの腕。


今度は穀物庫。


同じものかは断定できない。


断定できないが、偶然で片づけるには多すぎる。


「下を開ける」


ハンスが言った。


「待て」


マルコが止める。


「ここは錫の塔じゃない。設備の全体も分からん」


「でも詰まりを取らないと」


「触って広がったらどうする」


「放っておけば麦へ入る」


「だから、まず隔離だ」


マルコの判断は慎重だった。


いつもの彼なら、動きながら考える。


今回は違う。


黒い根を知っているからか。


あるいは、知らなすぎるからか。


エルサは壁の文字をさらに探した。


煤を払う。


柱の裏。


低い位置。


現場の人間が立ったまま読むためではない。


床へ屈み、溝を開ける者の目線に合わせてある。


最後の一文が見つかった。


浅く削られた文字。


正式な設計文ではない。


後から誰かが書き足したような、強い筆圧。


> 灰は最後に土へ返すこと。器へ残せば、人が食う。


全員が黙った。


説明書というより、警告だった。


灰。


燃えた後に残るもの。


使い終えた魔力。


穀物が抱えた余剰。


それを土へ戻さず、器へ残せば、人が食う。


苦いパン。


泡立つ麦酒。


酒場の保温鍋。


器。


食べ物。


回路。


人の体。


「知っていた人がいた」


リーネが言った。


「昔はね」


エルサは文字へ触れなかった。


「でも、次の人へ伝わらなかった」


知ったことは次の者へ残せ。


建国期の古い盟約。


紙へ残っていても、読まれなければ存在しないのと同じ。


壁へ刻んでも、施設ごと閉じられれば届かない。


「誰が書いたんだろう」


リーネが尋ねる。


「名前はない」


マルコが答える。


「現場の人間は、名前より作業を残す」


エルサは彼を見た。


言葉が少しだけ重かった。


彼はこの文章を知っていたのか。


似たものを見たことがあるのか。


問い詰めたい。


だが今は、また荷物が増えるだけかもしれない。


さら。


箱の中で穀粒が動いた。


灯りは弱いまま。


黒い根もほとんど動いていない。


それでも、一粒だけが箱の縁へ転がった。


落ちる。


石床へ当たる。


ころ、と乾いた音。


そのあと、どこからともなく声がした。


「……返せ……」


今度は誰も説明しなかった。


空気。


穴。


穀粒。


音。


理屈はある。


あるはずだった。


マルコが布を箱へかける。


「今日はここまでだ」


「排出溝は?」


ハンスが聞く。


「封鎖する。触るのは準備してから」


「誰を呼ぶ?」


「まず錫の塔だけで見る」


「金や銅は?」


「試料と記録を送る。人は呼ばない」


即日で集まるような関係ではない。


そして、集めればそれぞれが自分の担当だけを持ち帰る。


また全体が消える。


「穀物は?」


クルトが尋ねる。


「ここの分は封鎖。錫の塔の十二袋も正式に使用停止」


「百四十四袋の可能性がある」


エルサは言った。


「全部を止める根拠はまだ弱い」


「だが止めなきゃ、食う奴が出る」


「一律廃棄はできない」


「廃棄とは言ってない」


「止めれば食卓から消えるわ」


「食わせれば人が消えるかもしれん」


二人とも黙る。


安全。


飢え。


どちらも人を殺す。


だから、正しい選択だけでは足りない。


費用と時間と代替食を同時に考えなければならない。


「十二の小口ごとに止める」


エルサは言った。


「錫の塔分は全袋隔離。ほかは販売先へ、使用前なら停止。使用後なら残品と料理を分けて保管。症状があれば記録。捨てるのは最後」


マルコが頷く。


「王宮分も」


「ええ」


口にすると、胃が重くなる。


王宮。


戻りたくない場所。


それでも一袋ある。


「正式な通知を出す」


マルコが言った。


「間に合う?」


リーネが尋ねる。


誰も答えなかった。


旧共同穀物庫を出る。


外の夕方の空気は、内部より温かかった。


それでもエルサの指先は冷えている。


建物の扉へ、新しい封鎖札を掛ける。


錫の塔。


調査中。


無断立入禁止。


閉鎖施設へ、さらに閉鎖の札を貼る。


人間は、分からないものへ札を貼るのが好きだ。


名前をつければ、扱える気がするから。


馬車へ戻る前、エルサは一度だけ振り返った。


塞がれた窓。


外れた壁金具。


古い石。


誰もいない入口。


風はなかった。


それでも、板張りの向こうから穀粒の擦れる音がした。


さらさら。


耳を澄ます。


声は聞こえない。


聞こえないはずだった。


エルサは歩き出す。


錫の塔へ戻れば、十二袋を止めなければならない。


市内へ出た十一の小口を追う。


王宮へ届いた一袋も。


灰は最後に土へ返すこと。


器へ残せば、人が食う。


警告は残っていた。


届くのが、六年遅かっただけである。

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