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第12話 十一袋と、ひとつ

小麦十二袋を止めるには、十二袋より多くの人間を止めなければならない。


袋は歩かない。


自分で窯へ入らない。


パンにも、粥にも、麦酒にもならない。


運ぶ者がいる。


受け取る者がいる。


挽く者。


捏ねる者。


焼く者。


煮る者。


配る者。


そして、それを今日の食事として待っている者がいる。


問題麦を止めるということは、その全員の手を途中で止めるということだった。


「一覧」


マルコが言った。


錫の塔へ戻るなり、エルサはカウフマン商会で記憶した販売先を書き出した。


丸机。


炭筆。


十二の小口。


一小口は十二袋。


そのうち、錫の塔分は隔離済み。


残り十一。


王都北区パン工房。


フォルクナー兵舎第三炊事場。


銀の塔慈善炊き出し所。


白金の塔学生食堂。


菓子工房。


酒場。


共同倉庫。


そして王宮。


「全部回るの?」


リーネが尋ねた。


「回らなければ、誰かが食べる」


「食べないよう通知すればいいでしょ」


「通知を読んで、信用して、作業を止める人間ばかりなら楽ね」


「錫の塔の印がある」


「だからこそ信用しない人間もいるわ」


七塔には序列がある。


公式にはない。


実際にはある。


白金。


金。


銀。


鉄。


銅。


青銅。


錫。


下へ行くほど、研究ではなく雑用に近いと思われる。


食べ物の異常について、食べ物を扱う錫の塔が警告する。


本来なら自然な話だ。


ただし、上位の塔ほど、自分たちが錫の塔に止められることを嫌う。


人間は危険より、誰に命令されたかを気にする。


「人を分ける」


マルコは卓上の紙を指で叩いた。


「クルトはパン屋と菓子工房。グレタは酒場。ハンスは共同倉庫。俺は兵舎」


「私は?」


エルサが聞いた。


「銀と白金」


「なぜ私が一番面倒なところを?」


「話が長いからだ」


「理由になっていないわ」


「長い話を嫌がる奴には、長く話せる人間を当てる」


「嫌がらせ?」


「交渉だ」


リーネが小さく笑った。


エルサは聞こえなかったことにした。


「王宮は?」


尋ねると、部屋の空気が少しだけ重くなった。


マルコは一覧の最後を見る。


「正式通知を出す」


「誰の名で?」


「錫の塔長」


「届くまでに?」


「早ければ今日」


「遅ければ?」


「明日」


「宴席は?」


「今夜かもしれん」


エルサは炭筆を置いた。


正式な通知。


塔長印。


王宮外務受付。


厨房管理局。


食材検査局。


宮廷侍従局。


王家食卓局。


どこを通るかは、内容より宛名で変わる。


緊急。


食品事故。


使用停止。


そのどれを書いても、王宮では最初に書式を確認される。


人が死ぬかもしれない紙でも、余白が規定より狭ければ戻される。


「直接持っていくべきよ」


「誰が?」


マルコが聞いた。


「あなた」


「塔長が王宮へ押しかけりゃ、話が大きくなる」


「すでに大きいわ」


「まだ倒れた奴はいない」


「倒れてからなら、話は早いでしょうね」


マルコの目が細くなる。


エルサは続けた。


「死人は報告を簡単にする。被害者、症状、時刻、死因。すべて揃うから」


「分かってる」


「なら」


「分かってるから、今は市内を止める」


声は低かった。


怒っているのではない。


優先順位を切っている。


王宮の一袋。


市内の十一小口。


どちらも危険。


ただし、王宮へ全員で押しかければ、市内へ散った分が止まらない。


人手は増えない。


正しさも、同時には届かない。


「正式通知は俺が出す」


マルコは言った。


「お前は目の前の袋を止めろ」


不満はある。


しかし、代案がない。


代案のない反論は、ただの時間の消費だった。


「分かったわ」


エルサは一覧を二つに分けた。


未使用なら封鎖。


粉にしていたら粉ごと隔離。


生地なら焼かずに保存。


焼いた後なら販売停止。


食べた者がいれば、量と時刻と症状を記録。


一律廃棄はしない。


廃棄すれば証拠も食料も同時に消える。


「リーネ」


「何」


「一緒に来て」


「どうして?」


「あなたは錫の塔の人間に見える」


リーネは自分の前掛けを見下ろした。


麦粉。


煤。


醸造所の染み。


確かに、誰が見ても錫の塔だった。


「エルサもでしょ」


「私は交渉相手に見えるらしいわ」


「嫌な意味で?」


「ほぼ確実に」



銀の塔の慈善炊き出し所では、すでに鍋へ火が入っていた。


薬草。


カブ。


タマネギ。


薄い肉汁。


大鍋の横には、小麦粉を練った団子が並んでいる。


白く、柔らかい。


問題麦は粉にされ、生地になっていた。


「止めてください」


エルサが言うと、炊き出し責任者の女は匙を置かなかった。


四十代ほど。


銀灰色の上着。


口元へ白い布。


薬草の汁で指先が黄ばんでいる。


「理由を」


「同一荷の小麦で、金属的苦味と過剰発泡。旧共同穀物庫の排出設備に異常を確認しました」


「毒物は?」


「未確認」


「病原菌」


「未確認」


「黴毒」


「見た限りなし」


「では何を根拠に止めろと?」


「異常が確認されたからです」


女は鍋を混ぜる。


「ここへ来る者は、今日食べなければ明日まで持たない者たちです」


炊き出し所の外には、すでに列ができていた。


灰咳患者。


痩せた老人。


子供を抱いた女。


片脚を引きずる男。


誰も騒いではいない。


鍋から上がる湯気を見ている。


食事を待つ人間の列は静かだ。


騒ぐ力を残していないから。


「これを止めれば、代わりは?」


女が尋ねる。


エルサは答えられなかった。


銀の塔の炊き出しは、善意だけで動いているわけではない。


予算。


寄付。


余剰食材。


患者数。


一食の栄養。


すべてぎりぎりに組まれている。


問題麦を抜けば、団子が消える。


汁だけでは腹に溜まらない。


「カルトッフェル」


リーネが言った。


女とエルサが同時に見る。


「錫の塔に、予備がある」


「予備ではないわ」


エルサは言った。


「今夜の分よ」


「でもある」


「塔の百人分」


「ここの人は?」


リーネが列を見る。


「何人?」


責任者が答える。


「八十七。増える可能性あり」


錫の塔のカルトッフェルを出せば、塔の夕食が減る。


また薄い汁になる。


働く人間の食事を削れば、明日の作業が落ちる。


しかし、炊き出しを止めれば、今日食べられない者が出る。


安全確保には代替食が必要。


代替食は、どこかの食卓から出る。


「半分」


エルサは言った。


「錫の塔からカルトッフェルを四十人分。銀の塔の備蓄から黒パンか粥を残りへ」


「黒パンは患者食用です」


責任者が言う。


「全員が患者でしょう」


「病床用です」


「ここで倒れれば病床へ入るわ」


女の目が細くなる。


言い方が悪かった。


ただし、時間はない。


「問題の生地は廃棄しません」


エルサは続けた。


「封をして保管。団子は作らない。鍋の汁は麦を入れる前なら使用可能。入れた?」


「まだです」


「なら汁は残せる。カルトッフェルを足す。量が足りなければ、水と塩を増やす」


「栄養が落ちます」


「倒れる可能性よりはましです」


「可能性だけで?」


「可能性がなければ来ていません」


女はしばらくエルサを見た。


「あなた、銀の塔の人間ではありませんね」


「錫です」


「見れば分かります」


前掛けではなく、態度のことかもしれない。


「責任は誰が取るの」


「錫の塔長」


「代替食の費用は?」


「錫の塔と銀の塔で分担」


勝手に決めた。


マルコは怒るだろう。


肉はもうない。


塩も減る。


次は何が消えるか。


それでも、責任の名がなければ鍋は止まらない。


「書いて」


責任者が紙を出した。


「使用停止の理由。代替食の数量。費用分担。署名」


「私に塔の支出権限はありません」


「なら止められません」


正しい。


大変に腹立たしい。


エルサは炭筆を取った。


使用停止は錫の塔調査記録に基づく暫定措置。


代替食はカルトッフェル四十人分。


残りは銀の塔備蓄。


費用は後日協議。


責任者欄。


エルサ。


偽名を書く。


この名前で責任を持つ回数が増えている。


三日だけ生きるための名前だったはずなのに。


「塔長ではない」


女が言う。


「記録補助です」


「責任者ではない」


「私が提案しました」


「なら、あなたの責任です」


紙を受け取られる。


軽い署名だった。


負担は軽くない。


「リーネ」


エルサは言った。


「走って塔へ。グレタにカルトッフェル四十人分。皮は薄く。芽は全部取る。大鍋で先に茹でて」


「エルサは?」


「白金へ行く」


「一人で?」


「交渉相手に見えるから大丈夫よ」


「嫌な意味で?」


「ほぼ確実に」


リーネは一瞬迷い、それから走り出した。


炊き出し責任者が背後から呼ぶ。


「待ちなさい」


リーネが止まる。


女は紙包みを一つ投げた。


乾燥した薬草。


「錫の塔の鍋へ入れて。働く者まで倒れたら困る」


言葉は冷たい。


渡したものは実用的だった。


錫の塔では、そういう行為を親切と呼ぶのかもしれない。



白金の塔の学生食堂は、止めるのがさらに難しかった。


理由は単純。


彼らは自分たちが最も賢いと思っている。


「食品の異常を、錫の塔が?」


若い研究員が言った。


白い上着。


白い手袋。


銀縁の眼鏡。


机の上には、問題麦で焼かれた小さな白パンが積まれている。


すでに半分は配膳済み。


学生たちは食べながら、壁の黒板へ術式を書いていた。


食事へ興味がない。


だからこそ危険だった。


味がおかしくても、計算しながら飲み込む。


「過剰な魔力反応を確認しています」


エルサは言った。


「測定値は?」


「錫灯への同期。異常発泡。床回路付近で発光」


「数値ではない」


「現場観察です」


「測定器を使わずに?」


「樽が膨らみ、泡が光れば、測定器がなくても異常でしょう」


研究員は眉を寄せた。


「光る食品は存在する」


「通常麦の対照樽は光らなかった」


「条件を完全に統制しましたか」


「同じ水、同じ酵母、同じ樽型、同じ室温」


「樽そのものは別だ」


「では、パンの苦味は?」


「窯の差」


「同じ窯で同時に焼いた」


「粉砕時の混入」


「粉の段階で苦い」


「主観だ」


人間は、結論を認めたくない時、必要な証拠の精度を上げる。


十分な証拠が出れば、さらに上げる。


最後には、事故が起きるまで認めない。


「このパンを止めて」


エルサは言った。


「正式な白金の塔内検査を待つ」


「何刻かかるの」


「最短で二日」


「二日かけて食べるつもり?」


「危険だと確定していない」


「安全とも確定していない」


「未知のものをすべて止めれば、研究は進まない」


「これは研究試料ではなく昼食よ」


近くの学生が、パンを一口齧った。


エルサは手を伸ばし、取り上げた。


学生はようやく顔を上げる。


「何をするんです」


「死ぬ可能性がある食事を止めています」


「まだ半分残っている」


「だから何?」


「食べ物を粗末にしている」


錫の塔なら正しい言葉だった。


ここで言われると腹立たしい。


「粗末にしないために保管するの。食べて消すなと言っているのよ」


研究員が白パンへ手を伸ばす。


エルサは皿ごと引いた。


「触らないで」


「塔内の物品です」


「問題荷の追跡対象です」


「錫の塔に差押権はない」


「白金の塔に食中毒を起こす権利もないでしょう」


周囲の学生たちが、ようやくこちらを見始めた。


注目はまずい。


顔を覚えられる。


だが、引くわけにもいかない。


その時、食堂の奥で椅子が倒れた。


一人の学生が立ち上がり、口元を押さえる。


全員が固まる。


学生は二歩歩き、窓を開け、外へ向かって吐いた。


「症状?」


エルサが駆け寄る。


「違う」


本人が顔を上げる。


「三日前から胃が悪い」


「今言うこと?」


「聞かれたので」


白金の塔らしい。


研究員は学生の顔色を見た。


完全には関係ない。


しかし、偶然は交渉材料になる。


「配膳停止」


彼は言った。


「検査が済むまで」


「二日?」


「今から優先検査へ回す」


「残品は封鎖。食べた者の名前と量を記録して」


「錫の塔の指示は受けない」


「では白金の塔の判断として同じことをして」


研究員は黙った。


「あなたの功績になるわ」


エルサは付け加えた。


効いた。


「当然です」


彼は姿勢を正した。


「我々が独自に異常の可能性を認め、予防的措置を取ります」


「ええ。大変に独自ね」


皮肉は通じなかった。


あるいは無視された。


どちらでもよい。


パンは止まった。



夕方までに、報告が戻り始めた。


北区パン工房。


生地の段階で停止。


焼成前。


粉と生地を分けて封鎖。


菓子工房。


半袋使用済み。


砂糖とバターを加えた生地を保管。


店主は損失補償がなければ従わないと抵抗。


クルトが、異常が出れば店名入りで報告すると告げて止めた。


酒場二軒。


一軒は未使用。


一軒は薄麦酒の仕込みへ使用。


グレタが樽を隔離。


店主は泣いた。


客ではなく、仕込み代のために。


共同倉庫。


七袋を確認。


別荷と混ざる前に封鎖。


ハンスが袋を持ち上げ、倉庫番が札を書いた。


フォルクナー兵舎第三炊事場。


マルコが戻ってこない。


「兵舎って、そんなに遠い?」


リーネが尋ねた。


「遠くはない」


エルサは一覧へ印をつける。


十一の販売先。


停止。


隔離。


使用済み。


残量。


一つずつ。


王宮だけは空白。


「カルトッフェル、届けた」


リーネが言う。


「炊き出しは?」


「汁を薄めて、薬草とカルトッフェル。黒パンは子供と咳のひどい人だけ」


「足りた?」


「足りないけど、配った」


足りないが、配った。


現場では、それが答えになることがある。


完全な量を待てば、誰も食べられない。


少ないものを分ける。


不公平を残したまま、今日を越える。


「錫の塔の夕食は?」


リーネが目を逸らした。


「カブ」


「それだけ?」


「タマネギも」


「主食は?」


「カブ」


「二度言っても増えないわ」


「見つめても増えないよ」


前と同じ言葉だった。


肉が消え。


塩が薄くなり。


今度はカルトッフェルまで減った。


安全確保の費用は、また食卓から出る。


それでも、炊き出しの列へ食事は出た。


エルサはその事実を、損失欄ではなく成果欄へ書いた。


「エルサ」


グレタが呼ぶ。


「兵舎から戻ったよ」


マルコが食堂へ入ってきた。


肩へ小麦粉。


前掛けに汁の染み。


左の袖が焦げている。


「何があったの」


エルサが尋ねる。


「兵士が食った」


「何人?」


「百二十」


「症状は?」


「なし」


「何を作った?」


「団子。半袋分」


「残りは?」


「止めた」


マルコは椅子へ腰を下ろした。


珍しく疲れた顔をしている。


「炊事長が止めなかった。明日の行軍訓練用で、別の主食がない」


「どうやって止めたの?」


「食った」


エルサは黙った。


「何を?」


リーネが聞く。


「問題麦の団子」


「なぜ?」


「兵士がもう食べてるのに、自分だけ食わずに危険だと言っても聞かん」


「それで?」


「苦かった」


「当たり前でしょう!」


エルサの声が響いた。


周囲がこちらを見る。


マルコは腹を押さえていない。


顔色も普通。


黒い筋もない。


今のところは。


「何個食べたの」


「一つ」


「一つ?」


「大きかった」


「大きさの問題ではないわ!」


「止まったからいいだろ」


「塔長が検体になるなと何度言えば分かるの?」


「初めて聞いた」


「今言ったわ」


リーネが小さく笑う。


エルサは睨んだ。


「症状が出たら銀の塔へ送ります」


「塔長を?」


「検体として」


「扱いが悪くないか?」


「死者は感想を残せません」


この前クルトへ言った言葉だった。


最近、錫の塔の職人は全員、自分の舌を測定器だと思っている。


大変に性能が悪い。


「兵舎の残りは隔離した」


マルコは紙束を出す。


「食べた者の名簿。量。配膳時刻。団子の残品。鍋も封鎖」


エルサは受け取った。


仕事はしている。


腹立たしいほど、必要なことを全部。


「今後、勝手に食べないで」


「努力する」


「約束して」


「それは難しい」


「なぜ?」


「料理人だからな」


理由になっている気がするのが、さらに腹立たしい。


「王宮は?」


エルサは尋ねた。


マルコの表情が変わった。


「通知は出した」


「返答は」


「受領」


「使用停止は?」


「確認中」


「確認中?」


「食材管理局から厨房管理局へ回った」


「厨房は?」


「宴席準備中」


胃の奥が冷える。


「一袋は、まだ保管庫に?」


マルコは答えなかった。


代わりに、折り畳まれた紙を出した。


王宮の受領控え。


カウフマン商会から王宮外宴用小厨房へ。


南部小麦。


一袋。


受領済み。


払い出し済み。


用途。


宴席用焼き菓子および白ソース。


「いつ?」


「今朝」


「仕込みは?」


「昼前に開始」


「残りは?」


「確認できてない」


「止められないの?」


「正式な使用停止には、王宮食材検査官か厨房長の承認がいる」


「塔長の警告では?」


「参考意見」


エルサは紙を握った。


参考。


人が食べる前に止めるための警告が、参考。


各検査所は正しい。


商会も正しい。


厨房も受領手続きどおり。


誰も規則を破っていない。


規則どおりに、危険な小麦が料理になっていく。


「宴席は何時?」


「日没後、二刻」


外はすでに暗くなり始めている。


「正式手続きは間に合わない」


リーネが言った。


誰も否定しなかった。


十一の小口は、止まった。


未使用。


生地。


パン。


団子。


麦酒。


すべて完全ではないが、隔離した。


食べた者もいる。


代替食を出した場所もある。


損失も出た。


怒鳴られた。


署名も残した。


それでも、市内の十一は追えた。


王宮の一つだけが、最も多くの印と、最も多くの規則に守られ、誰の手も届かない場所へ入っている。


「マルコ」


エルサは言った。


「王宮へ、直接警告を送る」


「誰に?」


厨房長では止まらない。


検査官も間に合わない。


侍従局は書式を戻す。


王族へ直接届き、厨房の異常を理解できる人間。


一人いる。


認めたくないが、いる。


エルサはクロエの記録を思い出した。


二重輪。


折れた麦穂。


最後の一文。


「クロエへ」


名前を口にすると、胸の内側に細い棘が刺さった。


以前なら、痛みだけだった。


今は、ほかのものが混じる。


信用。


限定的な。


非常に不愉快な信用。


「どうやって本人だと分からせる?」


マルコが尋ねる。


エルサは紙を引き寄せた。


文章を短くする。


説明しすぎれば止まる。


商人的な脅しに見えれば、警戒される。


錫の塔の記録を読んだ者だけが意味を取れる言葉。


> 二重輪。折れた麦穂。

> 南部小麦一袋。

> 泡は嘘をつかない。

> 宴席使用を止めよ。


署名はしない。


錫の塔の印も押さない。


「これで通じる?」


リーネが聞く。


「通じなければ、あの女の記録は信用できない」


「信用してるんだ」


「数字だけよ」


「字も?」


「少し」


「人は?」


エルサは紙を折った。


「まだ嫌い」


嘘ではない。


ただし、以前と同じ嫌い方ではなくなっている。


マルコは紙を受け取った。


「王宮の厨房へ入れる奴を探す」


「正式便では遅い」


「正式じゃない便なら早い」


霧の運び屋。


草の根。


錫の塔の酒場網。


どの道を使うか、マルコは説明しなかった。


説明されれば、持ち歩く荷物が増える。


今は、紙が届けばよい。


「十一袋は止めた」


リーネが一覧を見た。


「ひとつだけ止まらない」


エルサは王宮の受領控えを見る。


たった一袋。


錫の塔へ来た十二袋のうち、一袋という意味ではない。


市内へ分けられた十二の小口のうち、王宮へ渡った一小口。


そこから試験用に出された一袋。


数字が小さいほど、人は安心する。


一袋。


一皿。


一口。


事件はいつも、数えやすい大きさから始まる。


窓の外で、王都の夕鐘が鳴った。


日没まで、あと僅か。


エルサの警告文を持った使いが、錫の塔の裏口から走り出す。


王宮では今頃、白い小麦粉が篩にかけられている。


バター。


乳。


薬草。


銀の器。


高価な食材。


正しい手順。


美しい料理。


十一袋は止まった。


ひとつは、すでに宴席の皿へ向かっていた。

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