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第10話 誰も間違えていない

帳簿を五冊並べると、丸机は丸くなくなった。


農地からの出荷簿。


製粉所の受入簿。


王都検査所の検査控え。


カウフマン商会の売買帳。


錫の塔の仕入れ帳。


それぞれ大きさが違う。


紙の質も違う。


字も、印も、単位も違った。


同じ小麦について書かれているとは思えない。


「一つに揃えればいいのに」


リーネが言った。


「誰が揃えるの?」


エルサは聞き返した。


「王都?」


「南の農民が、王都の帳簿規則に従う理由は?」


「売るため」


「王都の商人は、南の農地一枚ごとの収穫事情まで知りたがる?」


「知らない」


「製粉所は?」


「粉にできればいい」


「検査所は?」


「検査に通ればいい」


「商会は?」


「売れればいい」


「錫の塔は?」


リーネは少し考えた。


「安く買えればいい」


「よくできました」


「馬鹿にしてる?」


「少し」


長机の端で、ルッツが鼻を鳴らした。


倉庫番は帳簿を貸し出す代わりに、見張りとして居座っている。


持ち逃げを警戒しているらしい。


エルサには逃げる先がないと、昨日伝えたばかりなのだが。


人は一度信用しないと決めた相手を、事実によって信用することを嫌う。


信用を変えるには、判断を誤ったと認めなければならないからだ。


「農地の記録から」


エルサは一冊目を開いた。


南部リンデン領。


バウム村共同耕作地。


耕作者は七戸。


収穫日。


天候。


麦の総重量。


一部に小粒あり。


虫害なし。


水濡れなし。


黒穂なし。


地租として引かれた量。


穀物手形による引渡量。


農民の手元へ残った量。


数字は合っていた。


少なくとも、表面上は。


「農民が悪いんじゃないの?」


リーネが言った。


「苦い麦を混ぜたとか」


「この記録では、小粒の麦を分けている」


「記録だけでしょ」


「農民が嘘をついた可能性はあるわ」


「じゃあ――」


「でも、嘘をつく動機が弱い」


エルサは収穫量を指した。


今年の納入量は、平年より一割少ない。


豊作だと聞いていた割には減っている。


ただし、農民が隠したわけではない。


穀物手形の回収量が増えていた。


収穫前に金を借り、その返済として麦を渡す。


農民の手元には、来春の種麦と冬を越す食料が辛うじて残る程度。


ここで粗悪な麦を混ぜ、発覚して買い取りを拒否されれば、家族が飢える。


不正をする理由がないとは言わない。


しかし、不正が露見した時の損失が大きすぎる。


「穀物手形って何?」


リーネが聞いた。


「未来の麦を、先に売る約束」


「まだ採れてないのに?」


「採れる予定を売るの」


「採れなかったら?」


「借金が残る」


「ひどい」


「便利でもあるわ。種や農具を買う金がない時、春に借りて秋に麦で返せる」


「でも今年みたいに少なかったら?」


「来年の麦も売る」


「来年も少なかったら?」


「その次」


リーネは顔をしかめた。


「いつ終わるの」


「終わらないから、商売になるのよ」


言ってから、エルサは口を閉じた。


ルッツがこちらを見ている。


クルトも。


説明しすぎた。


港の商家で働いていただけの娘が、南部の穀物手形の仕組みを、ここまで即座に読める必要はない。


「商家にいた時、似たものを見たの?」


リーネが聞く。


「海産物の先渡しよ」


嘘ではない。


漁船へ出港費を貸し、帰港後の魚で返済させる取引は西にもある。


ただし、シシーリアが知っているのはそれだけではない。


誰に貸すか。


どの座士が保証するか。


不作時に何年まで繰り越すか。


利息を銀で取るか、麦で取るか。


手形を別の商人へ売るか。


農民が知らない間に、債権だけが王国の反対側へ移る仕組み。


それらを設計する側にいた。


「農民の記録に異常なし」


エルサは話を戻した。


「収穫量は少ない。でも品質上の申告は正しい。小粒も隠していない」


「小粒が原因じゃない?」


クルトが尋ねた。


「六年前の記録では粒の大きさは標準だった」


クロエの帳面を横へ置く。


同じ苦味。


同じ過剰発泡。


粒の等級は違う。


ならば小粒そのものは原因ではない。


次は製粉所。


受入時の重量。


乾燥度。


石や殻の混入率。


粉にした後の歩留まり。


すべて基準内。


「粉にした人は、苦味に気づかなかったの?」


リーネが聞く。


「粉を毎回舐めると思う?」


「パン屋なら舐めるかも」


「製粉所は、粉にするところ。味を保証するところではない」


「食べ物なのに?」


「食べ物になる前の材料として扱うのよ」


クルトが帳面を覗く。


「匂いは見てる」


「黴と腐敗の確認でしょう。苦味は検査項目にない」


「じゃあ製粉所も悪くない?」


「担当範囲では」


リーネが不満そうに口を曲げる。


悪い者が決まらない話は、聞いていて落ち着かない。


人間は原因より、責任者を先に欲しがる。


原因は理解しなければならないが、責任者なら指をさせばよい。


三冊目。


王都検査所。


検査項目はさらに明確だった。


重量不足なし。


水濡れなし。


害虫なし。


毒草種子なし。


異臭なし。


規定量を超える鉱粉なし。


印は七つ。


一つずつ正しい。


「鉱粉を調べてるなら、金属っぽい苦味も分かるんじゃない?」


リーネが言った。


「目に見える粉だけ」


「見えないなら安全なの?」


「安全とは書いていないわ」


「検査済みって印がある」


「その印が保証しているのは、書かれた項目だけ」


「普通は全部大丈夫って思うでしょ」


「普通はそう思うでしょうね」


そこが問題だった。


検査所は嘘をついていない。


買う側が、検査済みという一語へ、書かれていない安全まで勝手に足している。


印は正しい。


正しすぎる。


「七つも印があるのに」


リーネが呟く。


「七つあるからよ」


エルサは言った。


「一つの印が全部を見るなら、押した人間は全体の責任を負う。でも七つに分かれれば、一人ずつの責任は軽くなる」


「安全になるために分けたんじゃないの?」


「そのはずよ」


けれど、分けるほど境界が増える。


重量を見る者は毒草を見ない。


毒草を見る者は保管温度を見ない。


保管を見る者は地脈の異常を見ない。


全員が、自分の項目だけは正しく確認する。


その間を通るものだけが、誰にも見られない。


四冊目。


カウフマン商会の帳簿。


ここから文字が変わった。


整っている。


数字は縦へ揃えられ、余白が少ない。


品名、重量、買値、運送費、保管費、貸倒引当、売値。


利益は明確。


損失も明確。


人間の生活だけが不明確だった。


「嫌な字」


リーネが言った。


「字に罪はないわ」


「でも嫌」


エルサは少しだけ笑いそうになった。


その感覚は理解できる。


カウフマン商会の帳簿は、正確であることによって人を不安にさせる。


麦が何袋。


いくらで買われ。


いくらで売られ。


誰が借金を負ったか。


すべて分かる。


ただし、その麦を育てた者が冬に何を食べるかは、どこにもない。


「値引きの理由がある」


エルサは行を指した。


小粒。


早期倉庫明渡し。


豊作による市況調整。


前にリーネが挙げた三つ。


そのまま帳簿へ記されている。


「全部本当だったんだ」


リーネが言った。


「全部、部分的には」


「じゃあ安かった理由は?」


「三つを合わせたから」


「それで二割も?」


「ならない」


エルサは指先で計算した。


小粒による等級差。


三分。


倉庫明渡し値引き。


二分。


豊作調整。


せいぜい四分。


合計しても一割に届かない。


だが実際は二割安い。


残りの差額が、帳簿の別の場所へ移されている。


運送費。


保管費。


手形割引。


廃棄見込み。


返品不能条項。


いずれか。


「商会へ行く」


エルサは言った。


マルコが長机の向こうから顔を上げた。


いつからいたのか分からない。


この男は、必要な時だけ厨房の湯気から現れる。


「行ってどうする」


「元帳を見る」


「見せると思うか?」


「見せたくなる理由を作る」


「脅すの?」


リーネが尋ねる。


「交渉よ」


「似たようなものじゃない?」


「交渉は、相手にも断る権利がある脅迫」


マルコが笑った。


「お前、時々すごく嫌なことを言うな」


「事実を述べています」


「王宮じゃ嫌われただろう」


エルサの指が止まった。


マルコは何でもない顔をしている。


探っているのか。


偶然か。


この男の場合、偶然を期待するほうが危険だった。


「港でも嫌われました」


エルサは答えた。


「でしょうね」


リーネが言う。


そちらは純粋な感想だった。



カウフマン商会王都東支店は、錫の塔より静かだった。


静かだが、落ち着く場所ではない。


磨かれた床。


油を染み込ませた木の窓枠。


壁へ並ぶ秤。


封蝋。


契約箱。


客へ出す薄い香草茶。


金を扱う場所には、食べ物の匂いがない。


エルサはそのことを、昔から不自然だと思っていた。


人が金を欲しがる理由の大半は、食べるためなのに。


同行したのはマルコとリーネだった。


クルトは問題麦の隔離。


ルッツは倉庫。


ハンスは床回路。


役割がある。


エルサには、帳簿があった。


受付の男は、錫の塔の印章を見ると、わずかに嫌な顔をした。


「返品のご相談でしたら、契約書の第十二項により――」


「返品ではありません」


エルサは言った。


「流通停止と補償額の確定です」


男の口が止まる。


「停止?」


「同一荷の一部で異常発酵。過去にも同じ中継印を持つ麦で類似事例があります」


「品質検査は通過しています」


「承知しています」


「では、当商会に責任は――」


「まだ責任の話はしていません」


責任という言葉を出すと、人は守りに入る。


先に損失を見せる。


「このまま流通が続き、王都内で被害が出た場合、商会は問題を知った時刻以降の販売について説明を求められます」


「脅迫ですか」


「時刻の確認です」


エルサは卓上の水時計を見る。


「今、商会へ通知しました。ここから先に出荷された分については、知らなかったとは言えません」


受付の男の顔が硬くなる。


マルコは何も言わない。


横で、店内の高価そうな椅子へ体重を預けている。


壊せば弁償するのはこちらなのだから、もう少し丁寧に座ってほしい。


「支配人を呼びます」


男は奥へ消えた。


リーネが小声で言う。


「断る権利、あった?」


「あるわ。支配人を呼ばない権利が」


「その場合は?」


「通知した証人を連れて、王都検査所へ行く」


「それを断る権利は?」


「あるわ」


「その次は?」


「商会名入りの記録を七塔へ回す」


リーネは黙った。


「やっぱり脅してる」


「選択肢を提示しているの」


「全部嫌な選択肢」


「交渉とは、相手がいちばんましな損失を選べるようにすることよ」


程なく、支配人が現れた。


痩せた中年男。


髭は短く整えられ、指へ三つの指輪。


一つは商会。


一つは王都商人組合。


もう一つはゼーヴェル家の交易許可を示す青石。


エルサは無意識に、その指輪の順番を見た。


商会を外側。


組合を中央。


ゼーヴェルを内側。


本家との関係を誇示しすぎず、隠しもしない配置。


「支配人のヘルマンです」


男は座った。


「錫の塔から、穀物について申し立てがあると」


「申し立てではなく、照合です」


エルサは五冊の写しを並べた。


「六年前と現在、異なる農地、異なる製粉所、異なる検査所を通った小麦に、同一の異常が出ています」


「六年前の件を、当支店へ?」


「当時は南部第二支店。現在は王都東支店。支店は違います」


「ならば当方とは無関係でしょう」


「中継印は同じです」


欠けた二重円の印を示す。


ヘルマンの目がわずかに動いた。


知っている。


「古い印章です。複数の倉庫で共有されていました」


「どの倉庫で?」


「記録が残っていれば確認します」


「元帳を」


「外部へは見せられません」


当然の返答。


ここからが交渉だった。


「では、商会内部で確認してください」


エルサは紙を一枚差し出した。


必要な項目だけを列記してある。


荷受け日。


元の農地。


製粉所。


検査所。


共同穀物庫への入庫。


出庫。


再保管。


分割販売。


販売先。


返品。


廃棄。


「照合結果に商会印を。元帳そのものは不要です」


ヘルマンは紙を見る。


「なぜ、ここまで項目を?」


「流通経路を確定するため」


「錫の塔の下働きが?」


その声で、リーネがエルサを見る。


やはり来た。


「記録補助です」


「青潮勘定の並べ方に見えますが」


空気が冷えた。


青潮勘定。


西の海運と交易に使われる、ゼーヴェル家独自の複式整理。


荷物の流れと金の流れを左右へ置き、途中の保管、損耗、手形、関税を青い線で結ぶ。


西の大商会でも、扱える者は限られる。


エルサは紙を見た。


無意識だった。


入荷を左。


出荷を右。


保管を中央。


借方と貸方ではなく、上流と下流で並べる。


シシーリアが長年使ってきた書式。


「港で荷役帳を見ました」


「荷役人が青潮勘定を?」


「似た並べ方です」


「似ている、ね」


ヘルマンの目が細くなる。


彼はエルサの顔を見た。


髪。


手。


姿勢。


発音。


どこまで気づいたか。


悪女シシーリアは死んだ。


死んだ者に似た下働きが、ゼーヴェル式の帳簿を使う。


普通なら、結びつけない。


普通であることを祈るしかない。


「この書式が問題なら、書き直します」


エルサは紙へ手を伸ばした。


ヘルマンが先に押さえた。


「いいえ。分かりやすい」


取られた。


証拠が一枚、相手の手へ渡った。


迂闊だった。


だが、ここで奪い返せば、さらに不自然になる。


「照合には時間がかかります」


「本日中に」


「無理です」


「問題麦がまだ商会の倉庫にある可能性があります」


「可能性だけで全業務を止めろと?」


「止める必要はありません。該当荷だけです」


「荷番号は?」


エルサは錫の塔へ届いた札番号を告げた。


ヘルマンは奥の帳場へ視線を向ける。


「十二袋の小口ですね」


「十二?」


リーネが反応した。


錫の塔へ届いたのは十二袋。


だが支配人は、札を見ずに総数を知っていた。


「小口とは?」


エルサが聞く。


ヘルマンは一瞬遅れた。


「当支店で分割した数量です」


「分割前は?」


「一荷です」


「総量」


「十二袋」


「十二袋すべてが錫の塔へ?」


「いいえ」


答えた直後、ヘルマンの顔が固まる。


エルサは追う。


「では、錫の塔の十二袋は一荷の全量ではない」


「言葉の綾です」


「帳簿を見れば分かる」


「見せられません」


「なら、照合結果を」


ヘルマンは黙った。


マルコが初めて口を開く。


「ヘルマンさん」


声は穏やかだった。


「うちも商会を潰したいわけじゃない。酒場でまた人が倒れりゃ、今度は肉どころか塔がなくなる。そっちも、苦い麦を売った商会として名前が出るのは困るだろ」


「原因はまだ確定していない」


「だから一緒に確認しようって話だ」


マルコは笑った。


人のよい料理人の顔。


だが、逃げ道を一つずつ塞いだ後に見せる笑顔ほど、信用できないものはない。


ヘルマンは指輪を回した。


ゼーヴェルの青石。


「帳場を確認します」


立ち上がる。


「ただし、原本は出しません」


「写しで結構です」


エルサが答える。


ヘルマンはまた彼女を見た。


「あなた、本当に何者です?」


リーネが息を止めた。


マルコは笑顔のまま。


エルサは背筋を崩さなかった。


堂々とする。


はったりは、迷った瞬間に破れる。


「錫の塔の記録補助です」


「それ以前は?」


「失業者」


マルコが吹き出した。


緊張が少しだけ崩れる。


「間違っちゃいないな」


「笑うところではありません」


「いや、今のはよかった」


ヘルマンは笑わなかった。


奥へ消える。


リーネがエルサの袖を引いた。


「青潮って何」


「あとで」


「知ってるんでしょ」


「あとで」


「港の商家で覚えた?」


「リーネ」


「何」


「今それを聞いて、あなたに得がある?」


少女は黙った。


エルサ自身が教えたやり方だった。


利害を先に考えさせる。


今、素性を知れば、リーネは秘密を持つ。


秘密は荷物になる。


ジャックに言われたことを、別の人間へ使っている。


随分と嫌な成長だった。



帳場から戻ったヘルマンは、先ほどより一枚多く紙を持っていた。


「確認しました」


卓へ置く。


問題麦の分割記録。


南部から王都へ届いた一荷を、王都東支店で十二の小口へ分けている。


一小口につき十二袋。


合計百四十四袋。


エルサは数字を見た。


「多い」


リーネが言う。


「錫の塔へ来たのは、このうち一小口」


ヘルマンが説明する。


「残りはすでに販売済みです」


「販売先を」


「商業上の秘密です」


「流通停止に必要です」


「異常が確定していない」


「錫の塔で二つの用途に異常が出た。六年前の記録とも一致した」


「それでも、当商会だけの判断では顧客情報を――」


「では、商会自身で回収通知を」


「百三十二袋を?」


「安全が確認できるまでの使用停止」


「廃棄ではなく?」


「まだ廃棄とは言っていません」


そこは重要だった。


麦百三十二袋。


それを一律に捨てれば、食べる物を失う者が出る。


安全確保にも費用がかかる。


費用を無視した正義は、別の場所で人を殺す。


「販売先一覧だけ見せて」


エルサは言った。


「持ち出しません。名称と数量をこの場で確認するだけ」


ヘルマンは迷った。


「支配人」


マルコが言う。


「今止めれば、商会は安全確認に協力したことになる。明日止めれば、知ってて売ったことになる」


長い沈黙。


ヘルマンは紙を裏返した。


販売先が並んでいる。


王都北区パン工房。


フォルクナー兵舎第三炊事場。


銀の塔慈善炊き出し所。


白金の塔学生食堂。


民間菓子工房。


複数の酒場。


複数の倉庫。


十二の小口。


そのうち一つが錫の塔。


エルサは上から数えた。


十一。


十二。


全量が一致する。


「一袋ではなく、一小口十二袋ずつなのね」


リーネが言った。


「ええ」


制作帳で予想していたより、問題は大きい。


錫の塔の十二袋だけではない。


同じ一荷から分けられた百四十四袋。


ただし、すべてが同じ異常を持つとは限らない。


一荷の中でも混ざり方が違う可能性はある。


今は断定できない。


「王宮小厨房」


リーネが紙の下を指した。


最後の販売先。


王宮外宴用小厨房。


数量、一袋。


ほかの十一袋は、王宮直属の備蓄庫へ。


「なぜ王宮だけ、一袋?」


エルサは尋ねた。


ヘルマンが答える。


「試験購入です。来週の小宴席で使用し、品質がよければ追加契約を結ぶ予定でした」


「いつ納入したの」


「今朝」


「使用予定は?」


「そこまでは商会では分かりません」


王宮。


小厨房。


小宴席。


一袋。


エルサの口の中に、金属の苦味が戻った気がした。


実際には、何も食べていない。


「止めるべきだ」


リーネが言う。


「今すぐ」


エルサは紙を見た。


王宮へ警告する。


誰の名で。


どの権限で。


何を根拠に。


死んだ女が、生きていると最も知られてはならない場所。


自分が避け続けたい場所。


「まず、旧共同穀物庫を見る」


エルサは言った。


リーネが振り返る。


「王宮が先じゃないの?」


「原因も危険範囲も分からないままでは、王宮は止めない」


「でも一袋ある」


「だから急ぐのよ」


ヘルマンが紙を引き寄せようとする。


エルサは販売先をすべて記憶した。


一度見た数字と配置は、まだ頭に残っている。


昔はそれが価値だった。


今は命を縮める癖かもしれない。


マルコが立ち上がった。


「支配人。該当荷の追加販売を止めてくれ」


「確認が済むまでです」


「それでいい」


ヘルマンは頷いた。


完全な協力ではない。


責任回避としての停止。


それでも、止まるなら使える。


商会を出る時、ヘルマンがエルサを呼び止めた。


「記録補助さん」


エルサは振り返る。


「青潮勘定は、港の荷役帳を眺めただけで身につくものではありませんよ」


「そうかもしれません」


「いずれ、どこで覚えたか思い出したら教えてください」


穏やかな言い方だった。


脅しではない。


確認でもない。


記憶されたという通告。


エルサは頭を下げた。


「思い出したくないこともありますので」


商会の外へ出る。


王都の空気は、塔の中より乾いていた。


荷車の音。


呼び売り。


焼き栗。


馬糞。


人の汗。


いつもの街の臭い。


リーネが隣を歩きながら、しばらく黙っていた。


やがて言う。


「あなた、ただの商家の下働きじゃないでしょ」


「ただの下働きよ」


「今は、でしょ」


答えなかった。


正確な指摘だった。


否定すれば嘘になる。


認めれば危険になる。


マルコが前を歩いている。


聞こえているはずだが、振り返らない。


王宮へ一袋。


市内へ十一小口。


旧共同穀物庫。


六年前と同じ欠けた印。


そして、こちらの素性を疑う商人が一人。


小麦の流れを追った結果、エルサ自身の過去まで流れ出し始めている。


誰も間違えていなかった。


農民は申告した。


製粉所は基準どおり挽いた。


検査所は項目どおり検査した。


商会は契約どおり売った。


倉庫は札どおり保管した。


錫の塔は安い麦を買った。


一人ずつ見れば、誰も間違えていない。


それでも、苦い小麦は王宮まで届いた。

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