第6話「古い公園」
放課後のチャイムが鳴った瞬間、教室の空気が一気に緩んだ。
椅子を引く音。
鞄を閉める音。
誰かが「今日カラオケ行かね?」と言い、別の誰かが「金ない」と返す。
いつも通りの放課後だった。
昨日までなら、仁もその中にいた。
高橋に誘われれば適当に返事をして、コンビニに寄るかどうかを考えながら鞄を背負っていた。
だが今日は違った。
仁は机の上に置いた手を見つめていた。
指先が少し震えている。
理由は分かっていた。
白峰雫。
神の力を持つ少女。
神ごっこ歴、三年。
放課後、学校裏の古い公園へ来い。
そう言った彼女の声が、何度も頭の中で繰り返されていた。
行くべきなのか。
行かないべきなのか。
考えても答えは出ない。
罠かもしれない。
昨日の男のように、自分を殺すつもりかもしれない。
けれど、行かなければ何も分からない。
神ごっこのことも。
自分の力のことも。
どうすれば生き残れるのかも。
「神山」
声を掛けられて顔を上げる。
高橋が鞄を肩に掛けながら、仁を覗き込んでいた。
「今日どうする? 小テスト爆死したし、気分転換にどっか寄ってかね?」
「悪い。今日は用事ある」
「用事?」
「ああ」
「珍しいな。お前が用事って」
「たまにはあるだろ」
「まあ、あるか」
高橋はあまり深く聞かなかった。
それがありがたかった。
今、細かく聞かれても答えられない。
誰かと会う。
神ごっこについて教えてもらう。
そんなことを言えるわけがない。
「昨日からマジで変だからさ」
高橋がふと真面目な声で言った。
「何かあったなら言えよ」
仁は一瞬、何も言えなくなった。
高橋の顔を見る。
いつもの軽い雰囲気は少しだけ消えていた。
本当に心配している顔だった。
昨日までなら、適当に「大丈夫」と言って終わらせていた。
今もそうするしかない。
だが、その言葉が喉に引っかかった。
言いたかった。
本当は。
自分が何に巻き込まれたのか。
昨日、死にかけたこと。
神の力が覚醒したこと。
百二十七名という数字が頭に響いたこと。
全部話してしまえたら、どれだけ楽だろう。
でも、それはできない。
高橋を巻き込みたくなかった。
普通のままでいてほしかった。
「大丈夫だよ」
仁は笑った。
上手く笑えていたかは分からない。
「ちょっと寝不足なだけ」
「それ昨日も言ってなかった?」
「今日も寝不足なんだよ」
「生活終わってんな」
「うるせぇ」
高橋は呆れたように笑った。
「じゃあ、無理すんなよ」
「ああ」
高橋が教室を出ていく。
その背中を見送りながら、仁は小さく息を吐いた。
嘘をつくことに、少しずつ慣れていく。
その事実が嫌だった。
昨日、男は言っていた。
人を殺すことにも、人が死ぬことにも慣れる。
仁はそこまで行きたくないと思った。
だが、こうして一つずつ、普通ではないことに慣れていくのかもしれない。
嘘をつくこと。
怯えること。
誰かを疑うこと。
そして、いつか戦うことにも。
「……行くしかないか」
仁は鞄を持って立ち上がった。
学校裏の古い公園は、通学路から少し外れた場所にある。
小学生の頃はよく遊んだ記憶があった。
錆びたブランコ。
色の剥げた滑り台。
ベンチの隅に彫られた誰かの落書き。
昔はもっと広く感じたはずなのに、高校生になった今見ると、妙に小さく見える公園だった。
公園へ向かう道中、仁は何度も周囲を確認した。
神の力を持つ者は近くにいないか。
あの胸の奥が脈打つような感覚はないか。
白峰雫以外に、誰かが待ち伏せしていないか。
自分でも神経質すぎると思う。
けれど、仕方がなかった。
昨日、仁は知ってしまった。
世界は突然、殺し合いの舞台に変わる。
普通の帰り道が、普通の商店街が、命を奪い合う場所になる。
だからもう、何も考えずに歩くことができなかった。
公園の入口に着いた。
古びた看板に、町内児童公園と書かれている。
中に人影はなかった。
いや。
ベンチに一人、少女が座っていた。
白いパーカー。
長い黒髪。
白峰雫だった。
彼女は缶コーヒーを両手で包むように持ち、こちらに気付くと静かに顔を上げた。
「来たんだ」
「来なきゃ死ぬって言ったのはそっちだろ」
「うん。言った」
雫は悪びれた様子もなく頷いた。
仁は一定の距離を保ったまま立ち止まった。
近づきすぎるのが怖かった。
昨日の男は、触れた瞬間に仁の力を覚醒させた。
神持ち同士の接触が何を起こすのか、まだ分からない。
雫はそんな仁の警戒に気付いているようだった。
「そこに立ったままでいいよ。無理に近づかなくていい」
「助かる」
「警戒するのは悪いことじゃない。むしろ、昨日覚醒したばかりで警戒しない方が危ない」
雫の声は落ち着いていた。
昨日の男とはまるで違う。
狂気も、殺意も感じない。
だからこそ余計に分からなかった。
本当に味方なのか。
それとも、味方のふりをしているだけなのか。
「それで」
仁は口を開く。
「何を教えてくれるんだ」
「神ごっこの基本」
雫は缶コーヒーをベンチに置いた。
「まず、あなたは昨日から正式な参加者になった」
「正式な参加者?」
「神の力が覚醒した時点で、神ごっこの参加者として扱われる。覚醒前でも宿している時点で狙われることはあるけど、本格的に巻き込まれるのは覚醒してから」
仁は昨日の男を思い出す。
まだ起きてない。
なら俺が起こしてやる。
そう言っていた。
「じゃあ、あいつは俺を覚醒させるために襲ったのか」
「たぶんね。覚醒前の神持ちを倒しても、権能を奪えるかどうかは不安定だから。確実に奪うなら覚醒させてから倒す方がいい」
「……最低だな」
「そういう人は多いよ」
雫は淡々と言った。
「神ごっこに慣れた人ほど、効率を考える」
効率。
その言葉に吐き気がした。
人を殺すかどうかの話を、効率なんて言葉で語る。
それが、この世界では当たり前なのか。
「次に、神持ち同士は互いを感知できる」
「胸の奥が脈打つみたいなやつか」
「そう。それが近くに神持ちがいる合図。距離が近いほど強くなる。相手が強い場合や、敵意を向けている場合も反応は強くなる」
「じゃあ昨日の夜、お前が家の外にいた時も」
「気付いてたんだ」
「そりゃ気付く」
「ごめん。脅かすつもりはなかった」
「充分怖かったけどな」
仁がそう言うと、雫は少しだけ目を伏せた。
「それは、本当にごめん」
素直に謝られて、仁は言葉に詰まった。
昨日の男なら笑っていただろう。
怖がる仁を見て楽しんでいたはずだ。
だが雫は違う。
少なくとも今のところは。
「神持ち同士が近づくと、一定条件で舞台が作られる」
「昨日の商店街みたいな?」
「そう。周囲から切り離された空間。私は舞台って呼んでる。音が消えて、外部との連絡も取れなくなる」
「スマホが圏外になった」
「それも舞台化の特徴。基本的には、神持ち同士が敵対した時に発生する」
「敵対しなければ?」
「すぐには発生しない。でも長く一緒にいると不安定になる。だから今も、私たちはあまり近づかない方がいい」
仁は無意識に一歩下がった。
雫は苦笑する。
「そこまで怖がらなくてもいいけど」
「怖いに決まってるだろ」
「うん。それが普通」
普通。
その言葉に、仁は少しだけ救われた気がした。
怖がるのは普通。
逃げたいと思うのは普通。
自分はまだ、普通の感覚を失っていない。
「それから、勝った場合」
雫の声が少し硬くなった。
「勝者は敗者の権能を得る機会を与えられる」
「昨日、頭の中で声がした」
「取得するか、拒否するかを選べたでしょ」
「ああ」
「神の力は一人一つまで。だから既に権能を持っている者が別の権能を得るには、今の権能を捨てる必要がある」
「じゃあ俺があいつの力を取ってたら」
「あなたの“弾く力”を捨てて、“引き寄せる神”を得ることになっていたと思う」
仁は自分の手を見た。
弾く力。
拒絶する力。
まだ使い方も分かっていない。
けれど、それは昨日自分を生かした力だ。
もし捨てていたら。
今の自分は別の力を持っていたのか。
そう考えると、奇妙な気持ちになった。
「拒否した権能はどうなる」
「世界のどこかへ散らばる。そして、まだ神を宿していない誰かに宿る」
「つまり、俺が拒否したせいで、また誰かが巻き込まれるってことか」
仁の声が低くなる。
雫はすぐには答えなかった。
少しだけ間を置いてから言う。
「そうとも言える」
「……」
「でも、あなたが悪いわけじゃない」
「何で言い切れる」
「あなたが受け取っていたとしても、神ごっこは続くから。誰かが巻き込まれることに変わりはない」
「でも、俺が拒否した力が誰かに宿るんだろ」
「そう」
「だったら同じじゃないか」
仁は拳を握った。
昨日の赤黒い光を思い出す。
空へ昇って消えたあの光。
あれが今、どこかの誰かに宿っているかもしれない。
その誰かも、ある日突然襲われるのかもしれない。
自分のように。
何も知らないまま。
「神ごっこに、完全に正しい選択はないよ」
雫が言った。
「どれを選んでも、誰かが傷つく。誰かが巻き込まれる。だからこそ、みんな少しずつ壊れていく」
仁は黙った。
壊れていく。
その言葉が重かった。
昨日の男も、最初からああだったわけではないのかもしれない。
最初は吐いたと言っていた。
震えたと言っていた。
なら、あの男も最初は仁と同じだったのか。
普通の人間だったのか。
そう考えてしまって、仁はすぐに首を振った。
同情したいわけじゃない。
あの男は自分を殺そうとした。
人が死ぬことを楽しんでいた。
それは許せない。
けれど。
自分もいつか、そうなる可能性があるのか。
その恐怖が消えなかった。
「敗者はどうなる」
仁は聞いた。
「昨日、お前は言ったよな。普通の意味では死んでないって」
「うん」
「詳しく教えてくれ」
雫は視線を落とした。
「神持ちが敗北した場合、その人は神の力を宿す前の状態に戻される。身体も、記憶も、基本的にはその時点まで巻き戻る」
「巻き戻る……」
「だから、神ごっこで殺された人間は、現実では死体として残らない。昨日の相手も、おそらくどこかで普通に目を覚ましている」
「覚えてないのか」
「覚えてない。自分が神の力を持っていたことも、誰かを殺そうとしたことも、あなたと戦ったことも」
仁はベンチの端を見つめた。
力が抜けそうになる。
あの男は生きているかもしれない。
それは救いのはずだった。
自分は人を殺していない。
そう思えるはずだった。
でも、胸の奥は軽くならなかった。
「じゃあ、昨日の戦いは何だったんだよ」
仁は呟く。
「全部無かったことになるなら、俺が味わった恐怖は何なんだよ。あいつが笑いながら俺を殺そうとしたことは、何だったんだよ」
「無かったことにはならない」
雫の声は静かだった。
「あなたは覚えている。傷も残っている。恐怖も残っている。負けた側だけが、戦う前に戻される」
「勝った側は?」
「全部覚えてる」
「……最悪だな」
「うん。最悪だよ」
雫は否定しなかった。
そのせいで、言葉が余計に重く感じた。
敗者は忘れる。
勝者は覚えている。
勝てば勝つほど記憶が積み重なる。
傷も、恐怖も、罪悪感も。
それを抱えたまま、次の戦いへ進む。
生き残るということは、そういうことなのか。
「白峰は」
仁は雫を見る。
「お前は、何人と戦ったんだ」
雫は答えなかった。
風が公園を抜ける。
ブランコが小さく揺れた。
キィ、と錆びた音がする。
「数えるのはやめた」
やがて雫はそう言った。
仁は何も言えなかった。
その一言だけで十分だった。
三年。
この少女は三年間、この狂った鬼ごっこの中にいた。
その間に何を見たのか。
何を失ったのか。
仁には想像もできない。
「でも、できるだけ戦わないようにはしてる」
雫は続けた。
「逃げられるなら逃げる。話が通じる相手なら話す。舞台化する前なら、戦いを避けられる可能性はある」
「話が通じない相手なら?」
「戦うしかない」
迷いのない答えだった。
仁は唇を噛む。
戦うしかない。
それはつまり、昨日と同じことを繰り返すということだ。
「俺は……人を殺すことに慣れたくない」
「慣れなくていい」
雫はすぐに言った。
「慣れたら終わりだと思う」
「でも、慣れなきゃ生き残れないんじゃないのか」
「違う」
雫の声が少し強くなる。
「慣れることと、覚悟することは違う」
「覚悟……」
「怖いままでいい。嫌なままでいい。震えたままでいい。それでも、守りたいものがあるなら動く。私はそれでいいと思ってる」
仁は雫を見た。
彼女の表情は静かだった。
だがその言葉には、三年間生き残ってきた重みがあった。
仁は母親の顔を思い出す。
高橋の顔を思い出す。
昨日、商店街で声を掛けてきた女の子の顔を思い出す。
守りたいもの。
そんな大げさな言葉を、自分が口にする日が来るとは思わなかった。
けれど、失いたくないものならある。
家。
学校。
友人。
母親。
牛乳を買って帰るだけの、くだらない日常。
あれを失いたくない。
それだけは、はっきりしていた。
「俺の力は何なんだ」
仁は自分の手を見た。
「弾く力だってのは分かる。でも、名前とか、正体とか、そういうのは分からない」
「神の名前は、本人が理解した時に分かることが多い」
「理解?」
「権能の本質に触れた時。自分の力が何を司るのか分かった時に、頭の中に名前が浮かぶ」
「白峰は分かってるのか」
「うん」
雫は立ち上がった。
仁は反射的に身構える。
雫は苦笑した。
「大丈夫。攻撃しない」
そう言って、彼女は足元に落ちていた小石を拾った。
そして軽く空へ投げる。
小石が落ちてくる。
雫が指先を伸ばした。
次の瞬間、小石の動きがゆっくりになった。
「……え?」
仁は目を疑った。
小石が空中で止まっているわけではない。
動いている。
だが、異常なほど遅い。
まるでその部分だけ時間が引き伸ばされたようだった。
雫が指を下ろす。
小石は普通の速度に戻り、地面に落ちた。
「私の権能は“遅らせる神”」
「遅らせる……」
「対象の動きや変化を一時的に遅くする。人間にも物にも使える。でも、完全に止めることはできない」
仁は息を呑む。
単純な攻撃力ではない。
だが、使い方次第では恐ろしい力だ。
相手の攻撃を遅らせる。
逃げる時間を作る。
もしかしたら、相手の身体そのものの動きも鈍らせられる。
「だから白峰は逃げられるのか」
「そう。戦わずに済むことが多い」
「強いな」
「強くはないよ。殺す力じゃないから」
「殺さないための力なら、強いだろ」
仁がそう言うと、雫は少し驚いたような顔をした。
そして、小さく笑った。
「そう言われたのは初めて」
「そうなのか」
「神ごっこでは、相手を倒せる力が強いって言われるから」
「嫌な世界だな」
「うん」
雫は頷く。
「嫌な世界だよ」
その時だった。
ドクン。
仁の胸の奥が脈打った。
雫の表情も変わる。
さっきまでの穏やかな空気が、一瞬で消えた。
「……来た」
雫が呟く。
「神持ちか」
「うん」
仁は周囲を見渡した。
公園には誰もいない。
夕方の空。
錆びたブランコ。
滑り台。
ベンチ。
どこにも人影は見えない。
だが、胸の奥の鼓動は強くなっていく。
近づいている。
確実に。
「まずい」
雫が低い声で言った。
「ここで三人目は危ない」
「三人目?」
「神持ちが三人以上近距離に集まると、舞台化しやすくなる。しかも不安定になる」
「不安定って何だよ」
「普通の人間が巻き込まれやすくなる」
仁の身体が強張った。
普通の人間。
公園の外を歩く通行人。
近くの住宅。
子供。
老人。
この場所が舞台になれば、誰かが巻き込まれるかもしれない。
「どうする」
「離れる。今すぐ」
雫は鞄を持つ。
だが、その瞬間。
公園の入口に、一人の少年が立っていた。
制服姿。
仁たちと同じくらいの年齢。
整った顔立ちに、薄い笑み。
その目だけが、妙に冷たかった。
「へぇ」
少年は楽しそうに笑った。
「神持ちが二人。しかも片方は覚醒したてか」
仁の胸の奥が強く脈打つ。
間違いない。
神持ちだ。
少年は仁を見て、次に雫を見る。
「運がいいな、今日は」
雫が仁の前に一歩出た。
「神山くん、下がって」
「白峰」
「この人、話が通じるタイプじゃない」
少年は笑った。
「正解」
空気が変わる。
音が遠ざかる。
世界が、再び切り離されようとしていた。
仁は拳を握る。
昨日の恐怖が蘇る。
だが、今度は一人ではない。
隣には、神ごっこを三年生き延びた少女がいる。
そして目の前には、新たな神持ち。
逃げられない。
また始まる。
仁は震える息を吐いた。
怖い。
けれど。
もう何も知らないまま殺されるつもりはなかった。




