第4話「同じ匂い」
ほとんど眠れなかった。
カーテンの隙間から朝日が差し込んだ時、仁はまだベッドの上で目を開けていた。
天井を見上げたまま、何度も同じ言葉を思い出す。
――現在生存者数。
――百二十七名。
頭の中に響いた、あの無機質な声。
あれは夢ではない。
眠りかけていたわけでもない。
確かに聞こえた。
百二十七名。
それが何を意味するのか、考えなくても分かってしまう。
神の力を持った人間が、まだ百人以上いる。
あの男のような奴が。
自分を殺そうとする奴が。
それだけの数、この世界のどこかにいる。
「……最悪だ」
小さく呟く。
声は思ったよりも掠れていた。
昨日の戦いのせいだろう。
首を絞められた感覚が、まだ喉に残っている気がした。
起き上がると、身体中が痛んだ。
肩。
腕。
脇腹。
膝。
昨日の傷は消えていなかった。
当たり前だ。
傷まで元に戻るわけではないらしい。
商店街も、壊れた建物も、あの男の痕跡も全部消えたのに、自分の身体だけは昨日の出来事を覚えている。
仁は鏡の前に立った。
頬の傷は、絆創膏で隠せば何とかなる程度だった。肩の痣は制服を着れば見えない。脇腹の痛みも、我慢すれば普通に歩ける。
普通に見える。
それが逆に気持ち悪かった。
こんなにも自分の中身は変わってしまったのに、鏡の中の自分は昨日までとほとんど変わらない。
ただの高校生。
少し寝不足で、少し顔色が悪いだけの神山仁。
「学校……行くのか」
行きたくなかった。
正直、布団に潜って一日中震えていたかった。
でも、休めば母親に心配される。
理由を聞かれる。
昨日の怪我だって、もう十分怪しまれている。
それに、家にいたところで安全なのかどうかも分からない。
神ごっこがいつ始まるのか。
誰が襲ってくるのか。
何一つ分からない。
だったら、せめて普通にしていた方がいい。
そう思った。
思うしかなかった。
「仁ー、起きてる?」
母親の声が扉の向こうから聞こえた。
「起きてる」
「ご飯できてるよ」
「今行く」
いつもの朝。
母親の声。
味噌汁の匂い。
食器の音。
昨日までなら何も考えずに受け入れていた日常が、今は一つ一つ胸に刺さる。
仁は制服に着替え、鞄を持って一階へ下りた。
食卓には、いつもの朝食が並んでいた。
白いご飯。
味噌汁。
焼き魚。
卵焼き。
何も変わらない。
「顔色悪いけど、本当に大丈夫?」
母親が心配そうに言う。
「大丈夫。寝不足なだけ」
「昨日、怪我もしてたし。無理しないでよ」
「分かってる」
仁は箸を取った。
味噌汁を口に運ぶ。
温かい。
それだけで少しだけ泣きそうになった。
昨日、死んでいたかもしれない。
もしあの男に負けていたら、この朝食を食べることもなかった。
母親の小言を聞くこともなかった。
高橋にからかわれることもなかった。
そんな当たり前のことが、急に重くなる。
「仁?」
「……何?」
「本当に大丈夫?」
母親が眉を下げる。
仁は慌てて笑った。
「だから大丈夫だって。昨日、ちょっと寝るの遅かっただけ」
「なら今日は早く寝なさい」
「はいはい」
「はいは一回」
「はい」
母親は満足そうに頷いた。
昨日と同じような会話。
それが嬉しかった。
けれど同時に、自分だけが嘘をついていることが苦しかった。
学校へ向かう道は、いつも通りだった。
通勤する会社員。
自転車に乗る学生。
犬の散歩をする老人。
どこにでもある朝の風景。
仁はその中を歩きながら、何度も周囲を見渡した。
誰かに見られていないか。
変な気配はないか。
神の力を持つ者が近くにいないか。
自分でも馬鹿みたいだと思った。
けれど、警戒せずにはいられなかった。
昨日までなら、学校へ向かう道で考えることなんてせいぜい小テストのことか、昼飯を何にするかくらいだった。
今は違う。
どこから誰が襲ってくるか分からない。
世界そのものが、急に信用できなくなっていた。
「神山!」
背後から声がした。
仁の身体が反射的に強張る。
振り返ると、高橋が小走りで近づいてきていた。
「お前、反応怖っ。そんなビクつく?」
「あ……悪い」
「何、昨日の怪我まだ痛む?」
高橋は仁の頬の絆創膏を見た。
「まあ、ちょっとな」
「階段で転んだんだっけ?」
「ああ」
「どんだけ派手に転んだんだよ。漫画か」
高橋は笑った。
仁もつられて笑おうとした。
だが、うまく笑えなかった。
漫画。
確かに、昨日の出来事は漫画みたいだった。
神の力。
デスゲーム。
能力バトル。
けれど、実際に巻き込まれると笑えない。
痛みも恐怖も本物だった。
「で、牛乳買った?」
「買ったよ」
「えらいじゃん」
「お前まで言うな」
「いや、母ちゃんに頼まれたことちゃんとできる高校生、偉いだろ」
「馬鹿にしてるだろ」
「してないしてない」
高橋は笑う。
いつものやり取りだった。
そのはずなのに、仁はどこか遠くから見ているような気分になった。
高橋は何も知らない。
昨日、自分がどんな目に遭ったのかも。
百二十七名という数字のことも。
神ごっこのことも。
何も知らない。
それでいい。
知らないままでいてほしい。
そう思った。
教室へ入ると、いつもの騒がしさがあった。
誰かが朝からスマホゲームのガチャで騒ぎ、誰かが宿題を写している。女子たちは昨日のドラマの話をしていて、窓際の席では眠そうな男子が机に突っ伏していた。
何も変わっていない。
いつもの教室。
いつもの朝。
仁は自分の席に座った。
机の上に鞄を置く。
それだけの動作で、昨日までの自分に戻れたような気がした。
だが、それは錯覚だった。
授業が始まっても、先生の声が頭に入ってこない。
黒板に書かれる数式を目で追っているのに、意味が全く理解できない。
考えているのは神ごっこのことばかりだった。
なぜ自分が選ばれたのか。
自分の力は何なのか。
あの男の力を拒否したことは正しかったのか。
神の力を一つまでしか持てないなら、拒否した自分は馬鹿だったのか。
いや、そもそも本当に一つまでなのか。
分からない。
分からないことが多すぎる。
「神山」
先生の声で我に返った。
「この問題、解いてみろ」
「え?」
教室中の視線が仁に集まる。
高橋が隣で小さく笑っていた。
「聞いてなかったろ」
「うるせぇ……」
仁は立ち上がる。
黒板を見る。
何も分からない。
普段なら何となくでも解ける問題だったかもしれない。
だが今は、頭が全く働かなかった。
「すみません、分かりません」
「珍しいな。ちゃんと聞いておけよ」
「はい」
席に座る。
高橋が小声で言った。
「マジで大丈夫か?」
「大丈夫だって」
「いや、お前今日ずっと変だぞ」
仁は返事に詰まった。
変。
その通りだった。
自分でも分かる。
もう昨日までの自分と同じではいられない。
「寝不足なだけ」
また嘘をついた。
高橋は納得していない顔をしていたが、それ以上は聞いてこなかった。
昼休み。
仁は購買で適当にパンを買い、教室の後ろで高橋たちと食べていた。
「でさ、昨日の動画見た?」
「見た見た。あれマジで笑った」
「神山は?」
「……悪い、見てない」
「珍し。お前ああいうの好きじゃん」
「昨日ちょっと忙しくて」
「牛乳で?」
「牛乳で忙しいわけあるか」
高橋たちが笑う。
仁も少しだけ笑った。
少しだけ、本当に。
この時間だけは昨日のことを忘れられそうだった。
馬鹿みたいな話。
どうでもいい話。
誰が誰を好きだとか。
新作ゲームがどうだとか。
小テストが終わったらカラオケに行こうとか。
そんな会話の中にいると、神ごっこなんて存在しないように思えた。
けれど。
ドクン。
胸の奥が脈打った。
仁はパンを持つ手を止めた。
「……?」
昨日の夜と同じ感覚。
いや、昨日あの男と出会った時と同じ感覚。
何かが近い。
自分と同じものを持つ誰かが──。




