第3話「戻らない日常」
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世界が揺れた。
まるで水面に石を投げ込んだ時のように、目の前の景色が波打つ。
歪んだ商店街。
崩れた建物。
散らばった金属片。
男が消えた場所。
その全てが、薄い膜の向こう側へ押し流されていくように見えた。
仁は思わず息を止めた。
何が起きているのか分からない。
ただ一つだけ分かる。
また、世界が変わろうとしている。
次の瞬間だった。
「いらっしゃいませー!」
耳に飛び込んできたのは、明るい店員の声だった。
「今日、卵安いじゃない」
「お母さん、あれ買って!」
「だめ、昨日も買ったでしょ」
人の声。
足音。
自転車のベル。
車が走る音。
どこかの店から流れる古い歌謡曲。
ついさっきまで静まり返っていた世界が嘘みたいに、商店街には日常の音が溢れていた。
仁はその場に立ち尽くした。
「……は?」
声が漏れた。
目の前にはいつもの商店街がある。
八百屋には野菜が並び、魚屋の前では客と店主が世間話をしている。子供が母親の手を引っ張り、学生服の男子が二人で笑いながら歩いていく。
何も壊れていない。
街灯は真っ直ぐ立っている。
シャッターも歪んでいない。
道路に穴もない。
さっきまで飛び交っていた金属片も、男が叩きつけられた建物の破片も、何一つ残っていなかった。
「なんだよ……これ」
仁は乾いた声で呟いた。
夢だったのか。
一瞬、そんな考えが頭をよぎる。
けれど、それはすぐに否定された。
「っ……!」
肩が痛んだ。
頬も痛む。
制服は破れ、血が滲んでいる。膝には擦り傷があり、手のひらはアスファルトに叩きつけたせいで赤くなっていた。
全部、本物だ。
痛みも。
傷も。
恐怖も。
夢なんかじゃない。
あの男は確かにいた。
自分は確かに戦った。
そして、勝った。
そう思った瞬間、胃の奥が重く沈んだ。
勝った。
その言葉が、あまりにも気持ち悪かった。
勝ったということは、相手が負けたということだ。
あの男は消えた。
死んだのか。
それとも、別の何かになったのか。
分からない。
だが、もうここにはいない。
仁は無意識に男が倒れていた場所へ視線を向けた。
そこには、買い物袋を提げた老人が立っていた。
老人は何事もなかったように財布の中を確認している。
その足元に、男がいた痕跡はない。
血もない。
瓦礫もない。
何もない。
仁だけが覚えている。
仁だけが傷を負っている。
仁だけが、あの戦いを持ち帰ってしまった。
「お兄ちゃん」
不意に声を掛けられた。
振り返ると、小学生くらいの女の子が立っていた。手には小さな菓子袋を持っている。女の子は不安そうな顔で仁を見上げていた。
「顔、怪我してるよ?」
「あ……」
仁は何か言おうとした。
大丈夫だと言えばいい。
転んだだけだと笑えばいい。
そう思うのに、喉がうまく動かなかった。
女の子の目は、ただ純粋に仁を心配していた。
何も知らない目だった。
神ごっこのことも。
殺し合いのことも。
人が目の前で消えたことも。
何も知らない。
だからこそ、その視線が痛かった。
「こら、知らない人に勝手に話しかけないの」
女の子の母親らしい女性が慌ててやってくる。
「すみません。大丈夫ですか?」
「あ、はい……大丈夫です」
仁はようやくそう答えた。
自分でも驚くほど弱い声だった。
「本当に? 救急車呼びましょうか?」
「いえ、大丈夫です。転んだだけなんで」
嘘だった。
けれど、それ以外に言いようがなかった。
神の力を持った男と戦いました。
商店街が壊れました。
相手は消えました。
そんなことを言えるわけがない。
女性は心配そうに仁を見ていたが、やがて女の子の手を引いた。
「ほら、行くよ」
「お兄ちゃん、痛かったら病院行ってね」
女の子はそう言って、小さく手を振った。
仁は何も言えず、ただ頷いた。
女の子が人混みに紛れていく。
その背中を見ながら、仁は拳を握った。
あの子も巻き込まれる可能性があったのか。
男は言っていた。
稀に普通の人間も巻き込まれる、と。
もしあの子が、あの場にいたら。
もし神同士の戦いに巻き込まれていたら。
仁の背筋に冷たいものが走る。
自分だけの問題じゃない。
これは、自分が死ぬかもしれないという話だけではない。
関係ない人間まで巻き込む。
普通に買い物をして、普通に家へ帰るだけの人間まで。
「ふざけんなよ……」
小さく呟く。
怒りが湧いた。
恐怖よりも先に、怒りが胸の奥で熱を持った。
どうしてこんなことが許される。
誰がこんなものを始めた。
何のために。
答えは出ない。
仁はポケットからスマホを取り出した。
画面は普通に点いた。
圏外だった表示も消えている。
時刻は十七時四十二分。
通知がいくつか溜まっていた。
クラスのグループチャット。
動画アプリ。
ゲームのログイン通知。
そして、高橋からのメッセージ。
『牛乳忘れるなよ』
仁は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
昼休みの会話が蘇る。
『神山ー! 明日の数学、小テストらしいぞ』
『マジかよ』
『お前どうせノー勉だろ』
『うるせぇ。お前もだろ』
『俺はノー勉でもなんとかなるタイプだから』
『一番なんとかならない奴のセリフだな、それ』
くだらない会話だった。
本当に、くだらない。
でも、そんな会話ができていた自分が、今は別人のように遠い。
高橋は何も知らない。
きっと今も家でゲームでもしている。
明日の小テストが嫌だとか、晩飯が何だったとか、そんなことを考えている。
それが普通だ。
それでいい。
それなのに、自分だけが別の場所へ連れて行かれた気がした。
仁はスマホを握り締める。
返信欄を開いた。
『買うよ』
たった三文字打つのに、妙に時間がかかった。
送信する。
すぐに既読が付いた。
『えらい』
「母親かよ……」
仁は小さく笑った。
笑えたことに、自分で少し驚いた。
まだ笑える。
まだ自分は、完全に壊れてはいない。
そう思いたかった。
仁はコンビニへ向かった。
母親に頼まれていた牛乳を買うために。
正直、今それどころではない。
身体は痛いし、頭の中は混乱している。
神ごっこ。
神の力。
権能。
生き残るための殺し合い。
分からないことだらけだった。
それでも牛乳を買わなければと思った。
帰る理由が欲しかった。
自分がまだ日常の中にいると確認したかった。
コンビニに入ると、冷房の風が肌に当たった。
「いらっしゃいませ」
店員の声。
雑誌を立ち読みする会社員。
お菓子売り場で悩む小学生。
レジ横の揚げ物の匂い。
全部、いつも通りだった。
仁は牛乳売り場へ向かう。
棚に映った自分の姿が目に入った。
「……ひでぇ顔」
頬には血が滲み、制服は汚れている。
目の下には疲労が浮かび、髪も乱れていた。
少なくとも、ただ転んだだけには見えない。
仁は慌てて手で頬の血を拭った。
痛みが走る。
「っ……」
傷は本物だ。
何度確認しても、本物だった。
牛乳を一本取り、レジへ向かう。
「三百二十円です」
「あ、はい」
財布から小銭を出す手が震えていた。
店員が一瞬だけ仁の手元を見る。
怪しまれたかもしれない。
そう思っただけで、心臓が跳ねた。
別に悪いことをしたわけではない。
いや。
自分は人を殺したのかもしれない。
その考えが頭を過ぎった瞬間、指先が冷たくなった。
「袋、いりますか?」
「あ……お願いします」
声が上擦った。
店員は気にした様子もなく袋に牛乳を入れる。
その普通さが怖かった。
世界は何も知らない。
何もなかったことにして進んでいく。
自分だけを置き去りにして。
コンビニを出ると、空は少し暗くなっていた。
夕方の匂いがする。
どこかの家から夕飯の匂いが漂ってくる。
仁は袋を握り締め、家へ向かって歩いた。
一歩進むたびに身体が痛む。
それでも歩いた。
帰らなければ。
母親がいる家へ。
自分の日常が残っている場所へ。
玄関を開ける。
「ただいま」
「おかえりー」
奥から母親の声が聞こえた。
その声を聞いた瞬間、胸の奥が緩んだ。
生きて帰ってきた。
そう思った。
「牛乳買ってきた?」
「買ってきた」
「偉い」
「子供扱いすんなよ」
「買ってこない時あるじゃない」
「……それはまあ」
反論できなかった。
母親はキッチンから顔を出し、仁を見た。
その瞬間、表情が変わる。
「ちょっと、どうしたのその顔」
「あー……転んだ」
「転んだって、そんな派手に?」
「階段で」
嘘が口から出た。
驚くほど自然に。
母親は眉をひそめた。
「本当に? 病院行く?」
「大丈夫。ちょっと擦っただけ」
「ちょっとじゃないでしょ」
母親は近づいてきて、仁の頬を覗き込む。
仁は思わず視線を逸らした。
見られたくなかった。
傷そのものよりも、その奥にあるものを知られる気がして怖かった。
「消毒しなさいよ」
「分かってる」
「あと制服、洗濯出して。血ついてるじゃない」
「ああ」
いつもの小言。
いつもの母親。
うるさいと思うはずなのに、今はその声がありがたかった。
夕飯はカレーだった。
仁は食卓に座り、スプーンを手に取る。
テレビではバラエティ番組が流れている。
芸人が大げさに驚き、スタジオが笑っている。
母親はそれを見ながら笑っていた。
「この人、最近よく出てるね」
「そうだな」
「仁、明日小テストとかないの?」
「……ある」
「勉強した?」
「してない」
「でしょうね」
母親は呆れたように笑う。
仁も少しだけ笑った。
いつもの会話。
何でもない夕飯。
それなのに、胸が苦しかった。
この時間を失うかもしれないと思ったから。
明日また襲われるかもしれない。
次は帰ってこられないかもしれない。
そう思うと、カレーの味が分からなくなった。
「仁?」
「え?」
「本当に大丈夫?」
母親が心配そうにこちらを見る。
仁は慌てて笑った。
「大丈夫。ちょっと疲れただけ」
「無理しないでよ」
「分かってる」
本当は何も分かっていない。
どうすればいいのか分からない。
誰に相談すればいいのかも分からない。
神の力を宿しました。
殺し合いに巻き込まれました。
そう言える相手なんていない。
夕飯を終え、風呂に入る。
服を脱いだ時、鏡に映った身体を見て息を呑んだ。
肩には青痣。
脇腹には擦り傷。
腕にも赤い線がいくつも走っている。
自分の身体なのに、自分のものではないように見えた。
湯をかけると傷に沁みた。
「っ……!」
歯を食いしばる。
痛みがある。
だから生きている。
けれど、その痛みは同時に思い出させる。
あの男の顔を。
血の匂いを。
赤黒い光を。
仁は風呂場の壁に手をついた。
「俺、どうなるんだよ……」
呟いても答えはない。
神ごっこは終わっていない。
それだけは分かっている。
あの男は言った。
次はもっと強い奴が来る、と。
次。
またあるのだ。
また誰かが自分を殺しに来る。
仁は湯船の中で膝を抱えた。
震えが止まらなかった。
風呂から上がり、自室に戻る。
机の上には教科書が置かれていた。
数学のプリント。
明日の小テスト範囲。
数時間前までなら、これを見て面倒だと思っていたはずだ。
今は違う。
その面倒さすら羨ましかった。
小テストが嫌だ。
宿題が面倒だ。
朝起きるのがだるい。
そんなことを考えていられた自分が、どれだけ幸せだったのか。
仁はベッドに倒れ込んだ。
眠りたい。
何も考えたくない。
けれど目を閉じると、男の顔が浮かんだ。
『人を殺すことにも、人が死ぬことにも慣れる』
耳の奥で声が蘇る。
慣れたくない。
絶対に慣れたくない。
でも、もしまた襲われたら。
もし次も殺さなければ生き残れないなら。
自分はどうする。
答えは出なかった。
時計を見る。
二十三時。
零時。
一時。
時間だけが過ぎていく。
その時だった。
ドクン。
胸の奥が脈打った。
「……?」
仁は目を開ける。
嫌な感覚だった。
あの男と出会った時と同じ。
自分の中にある何かが、強く反応している。
ドクン。
ドクン。
心臓の音が大きくなる。
何かが近い。
そう思った瞬間。
頭の中に、無機質な声が響いた。
――現在生存者数。
――百二十七名。
「は……?」
仁は飛び起きた。
誰の声だ。
どこから聞こえた。
部屋には誰もいない。
窓の外も静かだ。
だが、確かに聞こえた。
頭の中に直接響いた。
百二十七名。
その数字の意味を理解した瞬間、背筋を冷たいものが走った。
終わっていない。
あの男だけじゃない。
まだいる。
神の力を持った人間が。
百人以上。
そしてその全員が、自分と同じように戦っているのかもしれない。
殺しているのかもしれない。
殺されているのかもしれない。
仁は震える手を握り締めた。
日常は戻った。
商店街も。
コンビニも。
家も。
母親も。
高橋も。
全部、いつも通りだった。
でも、自分だけは戻れない。
もう、何も知らなかった神山仁には戻れない。
神ごっこは続いている。
今この瞬間も、どこかで。
そしていつか必ず、その戦いは再び自分の前に現れる。
仁は窓の外を見た。
夜の住宅街は静かだった。
いつもと同じ景色。
けれど、もう同じには見えなかった。
この平凡な世界のどこかに、神の力を宿した人間がいる。
自分を殺すかもしれない誰かがいる。
そして自分もまた、その一人なのだ。
眠れない夜だった。
神山仁の日常は戻った。
けれど。
仁自身だけは、もう戻れなかった。
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