第2話「初戦」
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「てめぇ……!」
男は膝をつきながらも、血走った目で仁を睨んでいた。
片腕はだらりと垂れ下がり、あり得ない方向へ曲がっている。それでも男は笑っていた。まるで痛みなど感じていないかのように。いや、痛みを楽しんでいるようにさえ見えた。
仁は思わず一歩後ずさる。
全身が痛かった。
肩も、腕も、脚も。呼吸をするだけで胸の奥が軋む。頬を流れる血が、妙に冷たく感じた。
だが、それ以上に怖かった。
あれだけ吹き飛ばしたのだ。
建物に叩きつけた。人間なら立ち上がれるはずがない。少なくとも、仁の知っている普通の人間なら、あんな状態で笑っていられるわけがない。
それなのに、この男はまだ仁を見ていた。
獲物を逃がすまいとする獣の目で。
「なんなんだよ……お前」
震える声でそう言うと、男は口元の血を親指で拭った。
「それはこっちのセリフだ」
男はゆっくりと立ち上がる。足元がふらついているのに、笑みだけは消えない。
「覚醒したばかりのガキがここまでやるとは思わなかったぜ」
仁は答えなかった。
いや、答えられなかった。
頭の中がぐちゃぐちゃだった。
神。
覚醒。
鬼ごっこ。
どっちかが死ぬまで終わらないデスゲーム。
意味が分からない。理解できない。理解したくもない。
それでも、一つだけ分かることがあった。
この男は自分を殺そうとしている。
そして、自分も戦わなければ殺される。
それだけだった。
「俺はな」
男が笑う。
「三人殺してる」
仁の身体が強張った。
三人。
その数字が、妙に現実味を帯びて耳に残った。
ニュースで聞くような遠い数字ではない。目の前の男が、自分の手で、三人の命を奪ったと言っている。
「最初は吐いた。手も震えた。夜も眠れなかった。まあ、俺にもそういう時期があったってわけだ」
男は楽しそうに語った。
まるで昔の失敗談を笑っているみたいに。
「でも慣れる」
「……慣れる?」
「ああ」
男は笑った。
「人を殺すことにも、人が死ぬことにもな」
仁は奥歯を噛み締めた。
聞きたくなかった。
そんな言葉。
そんなものに慣れてたまるかと思った。
「慣れるわけないだろ」
「あ?」
「そんなものに慣れるわけないだろ!」
気付けば叫んでいた。
恐怖をごまかすように。震えそうになる自分を、怒りで無理やり立たせるように。
男は一瞬だけ目を丸くした。
そして、腹の底から笑った。
「みんなそう言うんだよ。最初はな」
男の目が細くなる。
「でも最後には同じだ。生き残るために殺す。殺されないために殺す。そうやって、だんだん普通じゃなくなっていく」
その言葉には妙な重みがあった。
ただの脅しではない。
経験から出た言葉だった。
だからこそ怖かった。
仁は自分の手を見た。
震えていた。
この手で、さっき男を吹き飛ばした。この手で、目の前の相手を傷つけた。
仕方なかった。
殺されそうだった。
生きるためだった。
そう言い聞かせても、胸の奥の気持ち悪さは消えなかった。
その時、不意に昼休みの光景が脳裏をよぎった。
『神山ー! 明日の数学、小テストらしいぞ』
教室の後ろから、親友の高橋が声をかけてくる。
『マジかよ』
『お前どうせノー勉だろ』
『うるせぇ。お前もだろ』
『俺はノー勉でもなんとかなるタイプだから』
『一番なんとかならない奴のセリフだな、それ』
くだらない会話だった。
高橋が笑って、周りの友人たちも笑った。誰かが購買の焼きそばパンが売り切れていたと騒ぎ、誰かがスマホゲームのガチャで爆死したと机に突っ伏していた。
何も特別なことはない。
ありふれた昼休み。
それが当たり前だった。
今日も、明日も、来週も。
ずっと同じような日々が続くのだと思っていた。
今朝だってそうだ。
『仁、帰りに牛乳買ってきて』
母親の声が蘇る。
『えー、めんどくさい』
『じゃあ朝ごはんのシリアル、明日から水で食べる?』
『それは嫌だな……』
『なら買ってきなさい』
『はいはい』
『はいは一回』
『はい』
呆れたような顔。
いつもの朝。
いつもの会話。
その時は何とも思わなかった。
むしろ少し面倒だとさえ思った。
でも今になって、その何でもないやり取りがやけに胸に刺さった。
帰ったら牛乳を買ってきたか聞かれる。
夕飯の匂いがして、母親に「制服ちゃんと掛けなさい」と言われる。
部屋に戻って、スマホを見て、明日の小テストのことを思い出して少しだけ焦る。
そんな普通の日常。
退屈で、平凡で、何の変哲もない毎日。
それが今、たまらなく遠かった。
どうして自分がこんな場所にいる。
どうして命を懸けて戦っている。
どうして殺されそうになっている。
どうして――目の前の男は笑っている。
「ふざけるな……」
仁は拳を握った。
男が眉をひそめる。
「あ?」
「ふざけるなって言ってんだよ!」
腹の底から声が出た。
恐怖も、混乱も、怒りも、全部ぶつけるように。
「俺はただ帰ってただけだ。学校から帰って、コンビニ寄って、牛乳買って帰るだけだったんだよ! それを勝手に巻き込んで、勝手に殺し合えって……そんなの、認められるか!」
男は黙って仁を見ていた。
そして、ゆっくりと口元を歪める。
「いいねぇ」
その笑みは、さっきまでよりも深かった。
「そういう顔が見たかったんだよ」
男が片手を上げる。
次の瞬間、商店街全体が震え始めた。
街灯が軋む。
店先の自転車が浮く。
鉄製の看板がガタガタと音を立てる。
シャッターが歪み、工具店の中からスパナやドライバーが飛び出す。無数のネジや釘までもが、男の周囲に集まっていった。
「俺が得た神の力は“引き寄せる神”」
男は両腕を広げる。
「全部、俺のところへ来る」
空中に浮かぶ大量の金属。
その全てが、ゆっくりと仁へ向きを変えた。
背筋が凍った。
さっきまでとは数が違う。
威力も、殺意も、まるで違う。
「避けられるかな?」
男が笑う。
「死ね」
一斉に放たれた。
弾丸のような速度だった。
仁は咄嗟に両手を突き出す。
「来るな!」
空気が歪む。
飛来した金属が次々と弾かれた。
しかし止まらない。
一つ弾けば二つ。
二つ弾けば十。
数が多すぎる。
「ぐっ……!」
鉄片が肩を掠めた。
釘が頬を切り裂く。
熱い。
痛い。
血が流れる。
それでも仁は手を下ろせなかった。下ろした瞬間、全身を貫かれる。
こんなのゲームじゃない。
本当に死ぬ。
自分が。
ここで。
死にたくない。
まだ帰りたい。
高橋たちがいる教室に。
母親が待っている家に。
牛乳を買って帰るだけの、くだらない日常に。
だから――。
負けられない。
「う、ああああああ!」
仁は力を込めた。
見えない壁が広がる。
金属の雨が弾かれ、周囲の壁や地面に突き刺さる。
だが、男も止まらない。
「粘るなぁ!」
さらに金属が集まる。
仁の腕が痺れ始めた。
限界が近い。
このまま守っているだけでは押し切られる。
逃げても追いつかれる。
なら、どうする。
仁は荒い呼吸を繰り返しながら、足元を見た。
自分の力は弾く力。
触れたものを拒絶する力。
さっきは男を弾いた。
金属も弾けた。
なら。
地面を弾いたらどうなる。
考えるより先に、身体が動いていた。
仁は片膝をつき、右手をアスファルトに叩きつける。
「吹っ飛べ!」
地面を拒絶する。
瞬間、凄まじい反発が生まれた。
「なっ!?」
男の目が見開かれる。
仁の身体が砲弾のように前へ飛んだ。
風が顔を打つ。
景色が流れる。
制御なんてできない。
止まり方も分からない。
だが、それでよかった。
今はただ、前へ進めればよかった。
「終われぇぇぇぇ!」
仁は男の胸へ手を叩き込んだ。
空間が大きく歪む。
男の表情が初めて恐怖に変わった。
「ま、待っ――」
轟音。
男の身体が吹き飛ぶ。
一つ目の建物を貫き、二つ目の壁を砕き、三つ目の建物に激突して止まった。
仁自身も勢いを殺しきれず、地面を転がった。
「がっ……!」
全身を打ちつけ、視界が白く弾ける。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
骨が折れたかもしれない。
そう思うくらいの衝撃だった。
それでも仁は、震える腕で地面を押した。
立たなければ。
まだ終わっていないかもしれない。
あの男は、何度も立ち上がった。
だから確認しなければならない。
仁はふらつきながら立ち上がる。
商店街は静まり返っていた。
先ほどまで宙を舞っていた金属は、地面に散らばっている。
男の声は聞こえない。
笑い声もない。
仁は瓦礫の方へ歩いた。
一歩進むたびに、身体が悲鳴を上げる。
怖かった。
近づくのが怖かった。
もしまた立ち上がったら。
もしまだ笑っていたら。
次こそ自分は殺されるかもしれない。
それでも足を止めなかった。
瓦礫の中。
男は倒れていた。
動かない。
胸も上下していない。
口元から血を流し、目は虚ろに開かれている。
「……勝った、のか」
呟く。
実感はなかった。
達成感もない。
嬉しさもない。
ただ、生きていた。
自分が生きていた。
それだけだった。
もし立場が逆だったら。
今ここに倒れていたのは自分だ。
死んでいたのは、自分だった。
「は……はは……」
笑いが漏れた。
笑いたかったわけじゃない。
頭が追いつかなかった。
死ぬところだった。
本当に。
あと少しで。
そう思った瞬間、胃の奥から何かが込み上げてきた。
仁は口元を押さえ、その場に膝をつく。
吐きそうだった。
怖かったからなのか。
痛かったからなのか。
それとも、自分が人を殺したかもしれないからなのか。
分からなかった。
分かりたくもなかった。
「俺が……やったのか」
声が震える。
殺されそうだった。
仕方なかった。
そう言い聞かせても、目の前の現実は消えない。
自分を殺そうとした相手だ。
それでも人間だった。
喋っていた。
笑っていた。
生きていた。
その男が、今はもう動かない。
勝ったのに。
生き残ったのに。
胸の奥が重かった。
その時だった。
男の胸から赤黒い光が溢れ出した。
「……え?」
光はゆっくりと宙へ浮かぶ。
血のように赤く、影のように黒い。
気味が悪いはずなのに、どこか神々しくも見えた。
仁は動けなかった。
逃げることも、目を逸らすこともできない。
光を見た瞬間、頭の奥で声が響いた。
――勝者を確認。
――神格権能の継承を開始します。
「権能……?」
聞いたことのない言葉だった。
だが、なぜか意味は分かった。
神の力。
目の前の男が持っていた力。
“引き寄せる神”。
それを自分が受け継げる。
そういうことなのだと、本能が理解していた。
仁は赤黒い光を見上げる。
これを手に入れれば、強くなれるのかもしれない。
次に襲われた時、生き残れる可能性が上がるのかもしれない。
だが同時に、あの男の笑顔が脳裏に浮かんだ。
人を殺すことに慣れる。
生き残るために殺す。
その言葉が耳に残っていた。
「……いらない」
仁は小さく呟いた。
声が震えていた。
強くなりたくないわけじゃない。
死にたくない。
生き残りたい。
でも。
あの男と同じになりたくなかった。
「こんなの……いらない」
その瞬間、赤黒い光が揺れた。
――継承を拒否しますか。
また声が響く。
仁は唇を噛む。
拒否したらどうなるのか。
分からない。
分からないが、これだけは受け取ってはいけない気がした。
「ああ……いらない」
――確認しました。
――権能を放棄します。
赤黒い光は仁の体へ入ることなく、空へと昇っていった。
そして、商店街の上空で弾けるように消えた。
まるで、どこか別の誰かを探しに行くみたいに。
その直後。
男の身体が光の粒になって崩れ始めた。
「おい……」
仁は思わず声を出した。
男はもう死んでいるはずだった。
それなのに、最後に唇が微かに動いた。
「次は……もっと強い奴が来るぜ……」
そして、男は消えた。
完全に。
最初から存在しなかったみたいに。
仁はその場に立ち尽くした。
勝った。
生き残った。
だが、何も終わっていない。
むしろ今、始まったばかりなのだと分かってしまった。
神ごっこ。
神の力。
どちらかが死ぬまで終わらない戦い。
そして自分は、その参加者になってしまった。
もう、ただの高校生には戻れないのかもしれない。
そう思った瞬間。
世界が大きく揺れた。
静まり返っていた商店街に、遠くから人の声が戻ってくる。
車の音。
自転車のベル。
どこかの店から流れる音楽。
当たり前の世界の音。
仁はゆっくりと顔を上げた。
戻る。
日常が戻ってくる。
でも。
自分だけは、もう戻れない。
その事実だけが、胸の奥に重く沈んでいた。
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