王女様の昔話は、だいたい王子の失敗談
「昔話を一つ、お願いします」
セドリックはそう言って、白紙を俺の前に置いた。
「……なんで白紙なんだ?」
「殿下がお考えになるためです」
「お前が一つくらい用意してくれてもいいだろ」
「では、『勇敢な王子様が、愛する王女様を救うお話』など」
「却下」
「早いですね」
「王子と王女を同じ場面に出すな。今の俺には縁起が悪い」
今夜、エレノアとして救護院を訪問する。
婚約協議とは切り離された、王女候補としての最初の仕事だ。
しかも子供たちからのお願いは、昔話を聞かせてほしい、というものだった。
「王女様の昔話って、何だろうな」
「殿下の幼少期のお話では?」
「兄上に木剣で負けて泣いた話か?」
「親しみやすいかと」
「王女が兄上と剣の稽古をしていたことになるだろ」
「では、登場人物を変えましょう」
「嘘を重ねるな!」
結局、白紙のまま日没を迎えた。
◇
救護院は、神殿から歩いて少しの場所にあった。
小さな庭と、明かりのともる食堂。廊下には、煮込んだ野菜の匂いが漂っている。
「エレノア様、ようこそお越しくださいました」
院長の女性が頭を下げた。
「お招きいただき、ありがとうございます」
俺はエレノアらしく微笑んだ。
その瞬間、食堂の扉が勢いよく開いた。
「王女様だ!」
「本物?」
「髪、光ってる!」
子供が四人、こちらへ駆けてくる。
最後の一人だけ、扉の陰から顔を出していた。
「王女様って、剣を持ってないの?」
先頭の少年が尋ねた。
「……持っていませんよ」
「じゃあ、悪いやつが来たらどうするの?」
いい質問だ。
俺もそこは不安だ。
「そのときは、まず皆さんを安全なところへ逃がします」
「王女様は?」
「私も逃げます」
少年は目を丸くした。
「戦わないの?」
「逃げられるなら、戦わないほうがいいでしょう?」
俺が答えると、院長が小さく笑った。
「さあ、皆。お話の時間ですよ」
◇
子供たちは長椅子に並んだ。
俺はその前に座り、覚悟を決めた。
「昔々、ある国に、剣の稽古が大好きな……少年がいました」
「王子様?」
「ええと、普通の少年です」
普通の少年。
身分を隠しただけで、だいぶ気が楽になった。
「その少年は、自分が誰よりも強いと思っていました。ところが、年上の子に挑んで、あっさり負けてしまいました」
「弱い!」
「そうですね」
昔の俺、今の子供にも容赦なく負ける。
「悔しくて、もう一度挑みました。また負けました。次の日も、その次の日も」
「何回負けたの?」
「……数えきれないほどです」
院長が笑いをこらえている。
実話だから笑わないでほしい。
「それで、強くなった?」
「少しずつ。でも、ある日、その少年は気づきました。年上の子は、少年が転んだとき、必ず剣を下ろして手を貸してくれたんです」
「優しいね」
「ええ。強い人は、勝つことばかり考えているわけではないのだと、少年は知りました」
追放されてから思い出す兄上の顔は、なぜかいつも、俺を立たせてくれたときの顔だった。
「それで、その少年は王様になったの?」
別の子が尋ねた。
「……いいえ」
俺は少し間を置いた。
「遠くの町へ行くことになりました」
「かわいそう」
「そうかもしれませんね」
「でも、強くなったんでしょ?」
「ええ」
「じゃあ、遠くでも大丈夫だよ」
小さな女の子が、当然のことのように言った。
大丈夫。
追放されてから、誰かにそんなふうに言われたのは初めてかもしれない。
「……そうですね」
俺は笑った。
「きっと、大丈夫です」
◇
「王女様、質問!」
最初の少年が勢いよく手を上げた。
「はい、どうぞ」
「王女様は、剣が使えるの?」
俺は固まった。どうしてそこへ戻る。
「少しだけ、習ったことがあります」
「見せて!」
「今日は剣を持っていませんから」
「ほうきならあるよ!」
少年が立ち上がり、食堂の隅から一本のほうきを持ってきた。
院長が慌てる。
「こら、王女様にそんなものを!」
「構いませんよ」
俺はつい言ってしまった。
少年の目が輝く。
しまった。
でも、今さら引けない。
俺はほうきを受け取り、少しだけ握りを直した。
剣よりずっと軽い。
身体の重心も違う。
それでも、覚えた動きは残っていた。
片足を引き、ほうきの先を静かに持ち上げる。
「わあ……!」
子供たちが息をのんだ。
俺は軽く一歩踏み出し、空を切った。
……その瞬間。
ぱさっ。
穂先から、乾いた藁が数本飛んだ。
「王女様、ほうき壊した!」
「壊してません!」
俺は慌てて穂先を確認した。
「ちょっと抜けただけです」
「剣の達人だ!」
「ほうきの敵だ!」
褒められているのか、責められているのか。
院長は声を上げて笑った。
俺もつられて笑った。
◇
帰り際、扉の陰にいた子が、そっと俺の袖を引いた。
「……王女様」
「どうしました?」
「さっきの少年、遠くの町に行って、ひとりぼっちになったの?」
俺は膝を折り、その子と目を合わせた。
「いいえ。そばにいてくれる人がいました」
「お友達?」
「……そうですね。少し口うるさい人ですけれど」
「よかった」
その子は安心したように笑った。
俺も頷いた。
そうだ。
少なくとも、セドリックはいる。
今夜の俺には、笑って話を聞いてくれる子供たちもいた。
◇
翌朝、セドリックが救護院からの礼状を持ってきた。
「殿下。昨夜は大変好評だったそうです」
「そうか。よかった」
「特に、ほうきの演武が」
「そこを報告するな!」
「院長から、子供たちが朝からほうきを振り回して困っている、と」
「……悪いことをしたな」
「ですので、次回は木剣をご用意いただきたいそうです」
「次回!?」
「神殿も、王女候補が地域の人々と親しまれることを歓迎しております」
「まあ、子供たちが喜ぶなら、また行ってもいいな」
「承知しました。なお、もう一件」
「何だ?」
「昨夜のお話に出てきた『遠くの町へ行った少年』について、子供たちが続きを聞きたがっているそうです」
「……続き?」
「少年は、なぜ故郷を離れたのか、と」
俺の笑顔が止まった。
剣の稽古の話は、ただの昔話で済む。
でも、その先には、宝冠を盗んだという濡れ衣がある。
俺は礼状を見つめた。
「……そこから先は、まだ話せないな」
セドリックは静かに頷いた。
「では、いつかお話しできるようにいたしましょう」
いつか。
その言葉が、今日は少しだけ頼もしく聞こえた。




