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第32話

もちろん、ヨハン王子が駆け落ちのためにエリーザを攫ったのは事実だ。

けれども、こんなにも瀟洒なバルコニーで、こんなにも美しい横顔や艶やかな肢体を見せつけられてしまうと、ヨハン王子がこのアネットよりも自分が好きだなんてエリーザには信じられなくなってしまう。


あの駆け落ちすらも大きな茶番で、それですらアネットの気を引くためにやったことで、本当に計画外だったのはマキシミリアン皇子の求婚だけ、なんて邪推してしまう。


アネットは深く大きくため息をついた。吐息が風に巻かれて夜の空気に溶けていく。


「こんな話を聞いたのは結婚が決まってからよ」

「ここ三週間くらいの話?」

「その通り。国王夫妻と父上がヨハン王子を塔に軟禁して、あの手この手で説得して結婚を決意させて、ようやく結婚の準備が始まるわって浮かれてたのに、王子はつまらない話ばかりするの」


アネットは身体を反転させて、エリーザと同じように柵に背中を預けた。


「『王国には危機感がなさすぎる。自分たちが衰退の道を進んでいることに気づいていない。父上は何もしないし、貴族の大半は遊び惚けるか権力欲を満たすための役職争いばかりしている。俺が摂政をやると申し出たとき、高級貴族の多くは反対した。自分たちの利権に手を突っ込まれるかもしれないと思ったからだ。でも、反発は次第に引いて行った。それは、俺が利権に手をつけなかったから。面倒ごとだけをやってくれる都合の良い人間を演じたからだよ。そすれば、高級貴族の連中は、やる気のあるやつに勝手にやらせとけってなる。そういうやつに任せておけば、自分たちは汚職に手を染めて泡銭を儲けながら遊び惚けてられるってな。もちろん、シュタイン卿のような心ある貴族もいるけど、その数はあまりにも少なすぎる』」


アネットの長台詞を、エリーザは目を閉じて聞いていた。

そうすると、脳裡には熱心に語るヨハン王子の姿が浮かんでくる。

それくらい、このときのアネットの話し方は、声の高さも、抑揚も、身振り手振りまで、何もかもがヨハン王子そっくりだった。アネットも結構本気でヨハン王子が好きなのかもしれないな、とエリーザは思う。


アネットは手で口元を抑え、くふふと笑った。


自分の物真似が自分のツボに嵌ったとでも言いたげに、アネットはしばらくのあいだ笑い続けていた。一緒に笑ったほうが彼女の気が解れるのか、それとも、自分にはそれを笑う権利なんてないのか、エリーザには分からなかった。

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