03 変身
ペリグリン家の人間の悪いところは、集中しすぎると時間を忘れてしまうことだった。
「お兄様! あれから何時間経ってますの? ファルコはとっくに戻っていてもおかしくないはずです!」
アロエットは慌てたようにそう言って、前足で地面をガツガツと叩いた。
コルヴスもハッと太陽を見上げて慌てふためいた。
「もう昼前くらいだね。急いでファルコを探しに行ってくるよ!」
「お兄様! 出発前に、その水かきを引っ込めてください!」
コルヴスの両手の指には、鴨の足にあるような立派な膜が作られていた。
「わかった! ……? うまく戻らないっ! アロはどう!?」
「……わたくしも戻りません!」
アロエットはほんの出来心で、頭髪から馬の耳をにょきっと覗かせた状態だった。
「いや待て、落ち着こう。先ほどまで普通に変形と解除ができていたんだ。何が違う?」
コルヴスは水かきを顎に当て、その場で行ったり来たりしはじめる。
アロエットは、不安な様子でパタパタと耳を動かして、元に戻すことに集中しようとしていたが、やはりうまくいかなかった。
そのとき、アロエットの肩に乗っていたハヤブサが、羽を広げて飛び立った。
「兄さーん! 姉さーん! 遅くなりましたー!」
遠くからファルコの声が聞こえた。その途端、二人の焦りや緊張が解けて、水かきも耳もゆっくりと引っ込んでいった。
「精神の安定か……なるほどね」
両手を開いては閉じて、状態を確認しながらコルヴスは呟いた。
「ファルコを乗せていつでも走り出せる状態を、わたくし自身が望んでいたのですね……」
アロエットも、そう言うが早いか目を閉じて深呼吸をし、するすると人間のサイズに縮んでいった。
「ただいま……わ! アロ姉さんが姉さんに戻ってる! すごい!」
肩に紺色のハヤブサを乗せ、背中にパンパンに膨らんだ袋を背負って、ファルコは帰ってきた。
「ファルコ、大声を出してはだめよ。追手が近くにいたらどうするの?」
アロエットは小声でピシャリと叱ったが、その表情は安心したように緩んでいた。
「ごめんなさい。でも、さすがだね! もう元に戻る方法を見つけたなんて」
ファルコは目を輝かせながら、笑顔で二人の顔を見た。
コルヴスは、弟の持ち帰った大荷物に何事かと驚きつつ、その荷を下ろすのを手伝った。
「これはまた……すごい量ね」
行商人のごとく、袋から果物、パン、ジャーキー、古着の服、陶製の瓶入りの水を地面に敷かれた毛布の上に並べていくファルコに、アロエットはあきれたように笑った。
「一体どうやって、これだけの物資を? お金はそんなに持たせなかったはずだけど」
コルヴスが感心しながらファルコに問うと、
「水を分けてくださいって訪ねて行ったら、井戸の手動ポンプが壊れてて、たまたま僕が修理できる程度だったから直しました。そしたら、お礼にって……」
と、弟は何でもないことのように、あっさりとそう言った。さらには、
「お金は古着を買うのに使いました」
と、しっかり兄と姉の分の服まで入手していた。
寝巻やレインコート姿のままだった二人は、ファルコの機転に舌を巻いた。
「本当にありがとう、ファルコ。これで、出発の条件は整った……けど、まずは食事からだね」
途中で、ファルコのお腹が切なげに長く鳴いたので、コルヴスはにっこり笑ってファルコの頭をなでた。
「わたくし、先に隠れ家で着替えさせていただいても?」
アロエットは控えめに手を挙げて、二人に相談した。
「もちろん! それじゃあ、僕たちはここで着替えてから、食料を持ってゆっくり隠れ家に向かうね」
コルヴスの言葉に頷くと、アロエットは着替えと水の入った瓶を持って、足早に隠れ家へ出発した。
兄弟は、その場でさっと着替えを済ませ、互いに見た目のチェックをした。
コルヴスは、大人用の古ぼけたジャケットとトラウザーズを詰め直したものを着て、ベレー帽と黒色のクラバットを合わせて「少し背伸びした町の少年」風にまとめた。
ファルコはショート丈のジャケットに丈の短いトラウザーズと地味な色のベストを合わせ、キャスケット帽を被った「やんちゃな弟」風に仕上げていた。
ファルコは脱いだレインコートのポケットから、父からの手紙と持ち帰った地図を取り出すと、新しいジャケットの内ポケットにしまい込み、確認するように上からポンポンと叩いた。
コルヴスは、ファルコと目を合わせて笑うと、眠たそうな目で待っていたハヤブサをファルコの肩に乗せてやり、荷物をまとめて隠れ家へと向かった。
隠れ家でドアを開けて待っていたのは、身支度を終えたアロエットだった。
体にフィットするパフスリーブのトップスに、花柄のロングスカートの上からエプロンを付け、ライトグレーの髪をざっくり編んだおさげにして、「町娘」風を目指したのだろう。
しかし、服装が地味になったことで、彼女自身のちょっとした所作や立ち振る舞い、自信に満ちた表情が、ただ者ではないことを雄弁に語ってしまっていた。
(……これはもう、致し方ないな)
コルヴスは眉毛をハの字にして、アロエットに微笑んだ。
アロエットからは、「うまくやれてるでしょ?」とでも言いたげな笑顔が返ってきた。
ファルコが調達してきた食料を、隠れ家の小さなテーブルに広げて三人で囲む。ようやく迎えた、ありがたい食事の時間だった。
ファルコが、大きくて丸いブールを、手でちぎっては幸せそうに頬張っている向かいで、アロエットはそっと青紫色の小粒のぶどうを一つつまんで口に運んでいた。真ん丸で少し硬いそれは、思いのほか甘く、芳醇な香りがした。
コルヴスは自分の分のブールを少しファルコに分けてやりながら、向かいの椅子の背で毛繕いをする夜空色のハヤブサに目をやった。
「この子は、ファルコによく懐いているよね。はじめからこうだったの?」
コルヴスの問いに、口が塞がっている二人は同時に頷いた。
ハンカチ代わりにしたスカーフで指と口元を拭ってから、アロエットは口を開いた。
「夜の森を相当なスピードで追いかけられたので、かなり肝を冷やしましたわ」
アロエットは、ため息をつくようにそう言った。よほど恐ろしい思いをしたのだろう。
彼女の斜め向かいの席にいるハヤブサは、くるりと首を動かして大きな瞳でアロエットを見ていた。
「あなたにも、名前が必要ですわよね?」
アロエットは目を合わせると、そう言って微笑んだ。
ファルコは、パッと手を挙げたが、口にはパンを頬張ったままだった。
パタパタと水を求めるように手を振ると、笑いながらコルヴスが瓶を差し出した。
水とともにパンを飲み込んでから、ファルコが言った。
「名前は、『ノクティス』がいいよ!」
「ノクティス?」
コルヴスは聞いたことがあるその名前を、繰り返すように聞き返した。
「ライラの持っていた、ぬいぐるみ——絵本の主人公の名前ですわ。ぴったりではありませんこと?」
アロエットの補足の説明によって、コルヴスは思い出した。確か、夜のあいだに空を飛んで、夜明けを連れてくるハヤブサの物語だ。
「確かにぴったりだ! じゃあ、これからよろしく頼むよ。ノクティス」
コルヴスは手を伸ばし、ノクティスの眉間の辺りをなでた。
ノクティスは、甘えるようにその手に頭を擦りつけた。
続きは、また明日。10時頃に。




