エピソード107 歪んだ母の愛
バロンテル牢獄は帝都の外れの川岸に立つ、堅固な石造りの建物だ。
防御壁や濠に囲まれ聳え立つ高い塔には、貴族の罪人が収監されていて、過去に脱獄者は一人もいないという。
労役を課されることはないものの、名誉は著しく失墜し、身柄を拘束され自由を奪われる。
父や継母、イリーナの犯した罪に照らせば、ラヴォイエール侯爵家は財産没収や爵位剥奪処分を受けるのが妥当と言える。
けれど、被害者もまた同じ一族である母とわたしだという点を考慮され、家督はわたしに譲られ、生涯収監処分になるという筋書きがお祖父様の見たてだ。
案内の看守に導かれて、初めてくるバロンテルの塔の長い螺旋状の階段を護衛のミュゲルと共に上がっていく。
「お嬢様、暗いので足元に気をつけて下さいね」
ミュゲルが注意してくれた。
「うん……」
罪人達の元の身分に応じて収監されている階層が違い、高位貴族であるほど上層の房に留められるため、どんどん上へと階段を上がらなければならない。
騎士団員として少しは鍛錬していても、魔術が封じられている塔では息が切れた。
それに時々、気味の悪い呻き声や、罵り声などが壁や天井に反響して聞こえ、その度に心臓が跳ねた。
最初に面会したのは、継母のセザビアだった。
セザビアのいる房は、ベッドや机などの最低限の家具は備え付けられていても手狭で、彼女が満足に過ごせる場所ではなかった。
身につけているものも清潔感はあっても質素で、彼女の基準には全く合わないものだ。
常に結い上げられていたセザビアの髪は、罪人に相応しく無造作に一つに束ねられていた。
生え際は、罪の証拠である緑の色を醸していて、これが母を殺した証だと思うと、殺意が湧き起こった。
収監されたセザビアは一体どんな顔をしているのかと何度も想像した。
けれど実際に目にしたのは、怒りと不満が短期間で鬱積した表情であっても、贖罪や悔恨の色は見当たらなかった。
「——ふふ……こんな所までご苦労なことね。わざわざ笑いに来たの? それとも恨み言でも言いにきたのかしら?」
「いきなり挑発ですか? ——こういう時、普通なら最初は謝罪の言葉を述べるものではないんですか?
謝るとか……反省するとか、そういうお気持ちはないんですか?」
「——笑わせないでよ。あなたに、謝るですって?」
「ええ……。母に悪いことをした、とも思っていないんですか? わたしにも——。
あなたはわたしにとってかけがえのない、たった一人の母親を奪ったんですよ?」
「それじゃあ聞くけど——、謝れば牢から出してくれるの? 今更出してもらっても、社交界で大きな顔はできないけれどね」
開き直るように微笑すら浮かべる彼女の目は、笑っていなかった。
「そんなに社交界で大きな顔がしたかったんですか? 侯爵家に入りたかったんですか? 母を殺しても?」
「——そうよ、悪い? エリタス神は不公平よ!
生まれた時から、財産、容姿、身分、魔力……、どうして持つ者と持たざる者の差は、ここまで大きいの? 運命が分たれているの?」
それは誰もが感じる疑問だとは思う。だけど——。
「多くの者は自分が持つもので生きていくわ。努力していくしかない。あなたより持たない者がどれだけいると思うの? 現に今だって貴族だから——人を殺したのに生かされている」
不公平だ。母は命を奪われたのに、この人は生きている。
「私はね、子爵家とは名ばかりの家に生まれた。
兄弟姉妹もうんざりするほど多くて、そのなかで最も魔力が少なかった私は見下されて生きてきたのよ。
自分の手で幸せを掴もうとして、何が悪いの?」
わたしだって昔は魔力も乏しく、聖力だって発現していなかった。
「悪いに決まっているでしょう? 人を殺して全てを奪ったんだから」
「そんな人は——他にもいるじゃないの!」
だからといって、ほとんどの人は犯罪に手を染めたり、少なくとも人を殺したりしない。
彼女の叫びには——まるで誰かを思い浮かべているような響きがあった。
「——バレるはずなんて、なかったのよ。刃物で刺したわけでもない。ただちょっと髪をくすねてもらって、呪っただけなのに……」
「禁術でしょ? ——それに呪っただけじゃないわ。あなたは禁術で人を殺した。歴とした殺人よ」
そう厳しい口調で責めたけれど、彼女は肩を竦めた。
「殺人だなんて、バレないはずだったのに……。
十年も侯爵夫人として華々しく生きてきたのよ?
それなのに……、あなたが娘の——イリーナの婚約者を誘惑なんてするからよ。
あなたのせいで、古い……忘れられた罪までが暴かれたのよ!」
「わたしは誘惑なんてしていない。逆恨みはやめて」
わたしの否定は一考する価値もないらしい。彼女は続けた。
「あなたも母親と同じ。シェスタビアの血筋……のお陰で聖力があるだけなのに——なんの苦労もなく、男達が寄ってくる。
私が無力な実の娘に力を貸して、幸せになってほしいと願うのは当然でしょう?」
セザビアの言い分は利己的で身勝手なものだ。
「聖力に恵まれたからといって、それだけで幸せになれるわけじゃないわ」
「あなたが死ねば、なにもかもうまくいっていた。
昔の罪なんて暴かれることもなかった……。
あの子はこの帝国の皇后になれるはずだったのに」
現実の寒さから身を守るように、セザビアは自分の肩を抱きしめた。
「それなら、またあなたが代わりに毒の禁術を使っていれば——イリーナは罪を免れたかしらね?
あ、でも人を使ってわたしを殺そうとしたり、剥奪の禁術も使ったから……罪を言い逃れることはできなかったわね」
彼女が見ようとしない現実を思い知らせたいと思った。
「同じ禁術は生涯に一度しか使えないわ。できるなら、代わりに私が全ての罪を引き受けていたわよ」
悔しげに反論するセザビアの口元は歪んでいた。
「イリーナのためなら自分を犠牲にすることも厭わないのにね」
「そうよ。イリーナには輝かしい未来が待っているはずだった……。誰もが羨む——」
憧憬の籠ったセザビアの眼差しからは、娘の未来に自身の願望を投影していたことが伝わった。
その粉々になったものに、いまだに執着していることも。
「そんな未来がくることはもうないわ。どうしてだかわかる?」
「だからあなたのせいでしょう?」
憎々しげに言い捨てたセザビアに、首を振った。
「違う。あなたが——イリーナを自分の考え方に染めたから」
セザビアはわたしの言いたいことが全くわからないと言いたげに首を傾げた。
「自分が人のためにできること——を考えるのをやめて、自分のために人を利用して犠牲にする。
それが全てだと考えるようになった時から、こうなることは決まっていたのよ」
「言いたいことはそれだけ? そんなの詭弁だわ。
それに今更、反省したところで私が得るものはなにもない」
彼女はもう失うものなどないと思っていて、だから開き直っているのだ。
いくら話そうと後悔や反省の念を示すこともないだろう。
「せめて、イリーナに自分の利己的な考え方を植え付けていなければ、今みたいに彼女までが罪に問われることはなかったでしょうに」
残念に思う気持ちを込めてそう伝えると、膝の上で布地を掴んだセザビアの手に力が入り、スカートに多くの襞が寄った。
「違う……。あの子は美人だし、私と違って侯爵家の娘で魔力だって持っていた。あなたさえあの子の劣等感を刺激しなければ……」
無念そうにこちらを見る顔には、歪んではいても母としての想いが垣間見えた。
「やっぱり最後まで人のせいにするのね。
母を殺したことを悔めないのなら、せめて娘の育て方を誤ったことだけでも後悔するといいわ」
彼女は受け入れがたい現実を拒むように、頑なな言動を変える気はないようだった。
「うるさいわね。私は間違っていない……間違ってなんていなかった」
「何もかも、エリタス神のせい、人のせい。
自分のためなら平気で人を陥れる。そんなあなたの考え方を、そのまま受け継がせてしまったから、今のイリーナがいるのよ」
彼女の表情に動揺が走り、呼吸が乱れた。
目は泳ぎ、言葉に詰まるように黙り込み、膝の上を指で何度も掻きむしった。
どんな形からでも、彼女の歪んだ信念にひびが入り、過去を悔恨の気持ちを持って見つめ直してほしいと思った。
——そうすれば……。
ほんの少しだけ、慰められる気がした……。




