エピソード106 帰還と置き去りの心
辺境伯や、辺境派遣騎士団員達に別れを惜しまれながら、お祖母様やお祖父様達と共に帝都に戻ってきた。
ただ道中の馬車の中で、二人と話していても時々話を聞き漏らして返答に困ったり、気がつくとぼんやりしていることがあった。
「まるで心をどこかに置き忘れてきてしまったようね……」
お祖母様が苦笑してそうこぼした。
そんな時は、最後に見たクラウス卿の表情が、ふいに脳裏に浮かんできた。
トルエンデ公爵邸に戻り荷を下ろすと、マノンやケンネル夫人が待ち構えていたかのように歓迎してくれて、その日はゆっくり旅の疲れを癒した。
そして翌々日、お祖父様に紹介してもらった財産管理人に付き添われてラヴォイエールの屋敷を訪れた。
風格のある屋敷は、外から見る限り警備の兵が少なくなっている他は、わたしがいた頃とそう変わっていないようだ。
先触れによって屋敷の玄関前に並んだ執事長とメイド長以下、使用人勢揃いでの出迎えを受けた。
「出迎えありがとう。しばらくの間、大変だったでしょうに、ご苦労さまでした」
「ようこそお帰りになりました、お嬢様。使用人一同お待ち申し上げておりました」
執事のホプキンスの挨拶を受けた。
ホプキンスを最後に見たのは、彼が父に鞭を手渡した時だ。その時の感情を映さない、冷え切った目つきを思い出す。
他の頭を下げている使用人達の中にも、懐かしく感じる顔はそうはいない。この屋敷に帰ってきても、我が家に帰ってきたという実感すらあまり感じられない。
タバサは既にここを辞めているし、フレアも暇を出されて久しい。
ただリンデハイムの教会に付き合ってくれていたジェフはまだ残っていて、後ろのほうに姿が見てとれた。
ホプキンスは固い笑みを浮かべ、どことなく気不味げにしているけれど、彼の心中を思えばわからなくもない。父の命令に従ったこととはいえ、わたしには恨まれるようなことをしても感謝されるようなこともしていない。
メイド長のダリアはわたしと目が合うと、作り笑いを浮かべたけれど、目は笑っておらず、口元が引き攣っていた。
彼女はわたしの僅かな小遣いの管理を任されていて、母のお墓に備える花代すら出し渋られたし、よく嫌味を言われた。
横領を見つかっても巧みに逃れ、継母に取り入って地位を守った人だ。
執事長やメイド長は、他の使用人の人事権までも持つ責任が大きい仕事だ。仕事ぶりを再確認して、引き続き残ってもらうかを考えないといけない。
大サロンでのお茶を断って、まっすぐ父の執務室に入ると、資産目録や収支明細、使用人の名簿、鍵束などを持ってこさせることにした。
ソファーに財産管理人と共に腰を下ろし、書類に目を通しながら二人から説明を受ける。
「……それと人事面での大きな改変事としては、護衛対象の当主様がたがいらっしゃらなくなったので、私兵たちのうち、今は見回り要員だけが残っています」
「なるほど。人件費が過剰ですから、使用人の数は見直しが必要ですな。それにしても、ざっと見ただけでも、この家の散財ぶりは酷いものです……」
ホプキンスの報告に、財産管理人が溜め息を吐いた。
彼が資料を突き合わせ始めると、屋敷を見回ってくると言って、わたしは部屋を出た。
この屋敷を誰はばかることもなく、歩くのは初めてだ。
父や継母、イリーナ——彼らのいない、だだっ広い廊下を歩くのは、どれほど爽快だろうと考えていた。
けれど目に入る絵画や置物も、過去に感じたみじめな記憶の片鱗になっているものが多い。
それらは手放して、屋敷を修繕する資金に当てようと思った。
父や継母は外面を取り繕うことにばかり焦点を当てていたから、訪問客の目につかない部分の手入れが必要だ。
こうして屋敷を見回っていると、廊下ですれ違う使用人のなかには、わたしへの気まずさから目を逸らして俯く者や、他の使用人の陰に隠れる者もいた。
そうした者のなかには、仕事を人に押し付けてサボる使用人や、盗みを働いておいて、わたしの虚言だと言い張るような人もいた。
陰口を言っていたことくらいは、今更どうこうしようとも思わないけど……。
財産管理人の言う通り、父達のいない屋敷に大勢の使用人は不必要だ。
どうせ暇を出すなら、そういう人たちにしたい。
彼らのリストを作っておこうと頭に書き留めた。
それに、わたしのせいで解雇されたフレアの消息がずっと気になっていたから手紙を送ろう。
希望してくれるなら、またメイドとして身の回りの世話をしてもらいたい。
彼女は継母たちの前では寡黙に徹していたけど、唯一話し相手にもなってくれた。
母が亡くなってから、移されたわたしの部屋は、日の当たらない北向きの小部屋だった。
その部屋に入ってみると、急いで掃除されたのか埃っぽくはなかった。
メイドが、自分でやれとばかりに部屋の片隅に置きっぱなしにしていた掃除道具は片付けられ、少ない家具と持ち物が整然と残されている。
手元に残っていた僅かな母の形見の品は、あの日トルエンデ公爵邸に持ち出した。
だけど荷物になるからと置いて出た熊のミーシャは、あの頃と同じくベッドにぽつんと置かれたままだった。
この部屋にいると、かつてのここでの生活が思い出されて胸が重くなり、涙が頬をつたい落ちた。
この暗く狭い部屋で、一人冷たくなった料理を食べ、繕いものをしていた……。
ともすれば容易に壊されるものでも、ちっぽけな平穏が感じられる唯一の居場所だった。
母が亡くなってから、この部屋で会話らしい会話をしたのはフレアとタバサ、今は他家に務める当時のガヴァネスくらいだ。
お祖父様もお祖母様も、ラヴォイエール家では落ち着かないだろうし、ずっとトルエンデ邸にいたらどうかと言ってくれていて、今日もあちらに戻ることになっている。
今のわたしにとって、トルエンデ邸の方がこの屋敷よりもよほど自分の居場所だと感じられる。
明日は元城塞だったのを改築したバロンテル牢獄内の独房に収監されている父と継母、イリーナに会いに行く。
彼らと話すことを思い、憂鬱な気分で溜め息を吐いた。
でも——いい加減に、彼らとの決着をつけなければ……。




