エピソード102 赦しを乞う口付け
なぜか彼の指に嵌められたわたしの指輪……。
彼の意志で嵌めたのだろうか……?
——それとも……?
この指に、手に——温もりが戻り、力強くわたしの手を握り返してほしい……。
揶揄うように微笑んでほしい。
瞼が熱く、涙がとめどなく頬を伝った。
彼の胸に手を当ててみると——、微かではあるけど、確かに波打っていた。
彼は死んだわけじゃない。
そう考えて、悲しんでいる場合じゃないと自分を鼓舞するように、両手で強く頬を叩いた。
頬を濡らしていた涙も袖で拭った。
気を取り直して彼の胸に耳を押し当て、目を閉じ、体内を巡っているマナの気配を探ってみた。
——澱んだマナが彼の体内を燻るように巡っていた。
「あの……」
不意に声をかけられて、ビクッと身体が震えた。
「すみません……。驚かせるつもりはなかったんです。あなたが団長の身を案じて下さる様子はわかったんですが、あなたの身元を存じあげないので……」
言い淀む付き添いの騎士の存在をすっかり忘れていた。今の自分はジュディリスの姿をしているし、起き抜けにローブを羽織っただけの格好をしている。
不審がられて当たり前だ。
「わたしは……今はこんな姿ですが、ジェマです。トルエンデ騎士団の——。後でトルエンデ公爵閣下か、大聖女様に確認してもらえますか?
——今から治癒を試してみます」
彼は半信半疑の顔をしながらも、頷いた。
わたしのただならぬ様子を見て、見守ることにしてくれたようだ。
彼の胸に手を当て、祈りを捧げた。
「慈愛の光よ、痛みを取り去り、安らぎを与えたまえ」
けれど、彼にこれといった変化は起きなかった……。
「大聖女様に、何度も祈りを捧げてもらったんですけど、駄目なんです。団長はもう何日も目を開けません……」
団員の哀しげな顔を見て、胸を締め付けられた。
息を整え両手を組むと、心の底からの願いを込め、祈るような気持ちを声にして歌う。
「———光よ、降りそそげ。傷を癒し、心を満たせ……。風よ、吹き渡れ。木々を揺らし、希望で満たせ……。水よ、流れゆけ。澱みを払い、求めを満たせ……。炎よ、照らし出せ。闇を払え、母の祈りよ。惜しみなく、この手に宿れ……」
歌い終わっても、クラウス卿の様子は変わらない。
顔色は……そのままだ。
やっぱり駄目なの……?
——いいえ、諦めない。
何度でも歌う……。
——彼が目を覚ますまで。
聖力は想像することで、その力を発現する。
——元気だった時のクラウス卿を思い出すの。
いつも頼もしくて、勇敢で、優しくて、不器用なところもあって……。
彼と過ごした日々を思い返し、繰り返し、歌う。
歌うたび、声は掠れていく。
聖力が削られていくのが、はっきりとわかる——。
それでも、やめるわけにはいかない。
決して諦めたりしない……。
——かなり時間が経った頃。
気のせい……?
顔色が少し……変わったような……?
呼吸も——心なしか……。
わたしの願望がそう見せているのかもしれない。
それでも、また続けて何度も歌った——。
その日は喉が嗄れて、聖力が尽きるまで歌い、クラウス卿の手を握ったまま、気を失うように寝ていた。
明け方、目を覚ますと、いつの間にか団員の代わりにお祖母様が部屋にいた。
「起きたの?」
「お祖母……ざば、いづ?」
咽喉が痛い……。聖力を使い果たしたからか頭もズキズキと痛み、吐き気もあった。
「まあ、酷い声ね……。癒してあげるわ」
そう言うと、お祖母様はわたしの喉元に手を翳して、癒しの言葉を呟いてくれた。
「ありがとう……」
「声がそんなに嗄れるまで……歌い続けたのね」
「クラウス卿に早く目覚めてほしくて。でもその甲斐があったみたいで、少し顔色も良くなったし、きっとすぐに目覚めるわ」
お祖母様は目を細めて優しい顔で微笑んだ。
「そうね、クラウス卿は身体もだけど、精神も強い人だから、きっと大丈夫ね」
「お祖母様はクラウス卿のこと、あまり知らないでしょう? それなのに、よく知っている人みたいに言うのね」
「えっ? ああ、なんとなく……ね、そんな気がして」
クラウス卿は今は安らかな寝息を立てていて、まるで普通の眠りについているかのようだ。
「日頃、働き過ぎだから、ゆっくり眠って力を養っているのかもね……」
彼の顔に残っている病の陰を指でなぞってみた。
「——ジュディー、そうね……。きっと彼は今、良い夢を見ているはずよ。寝顔がとても穏やかだもの……」
「きっと、彼の言っていた通り、毒の耐性がついていたのよ」
「そうね……。私もそう思うわ」
「明日……聖力が戻ったら、また何度でも歌うわ。それはそうと、彼はどうやってわたしの中の毒化したマナを排出できたの?」
お祖母様は不意を突かれたように、少し狼狽えた。
「えっ……、それは、その……。口を使っていたわ、——口からマナを取り込んで、それを空気中に逃す。彼はそれを繰り返していたようだったわ……」
「つ、……つまりキスってこと……!?」
顔が熱を持ち、真っ赤になっていく。
どうしよう……ロイという存在がありながら、他の人とこんな形で触れてしまったなんて。
「……そうだけれど、でも——それはマナを吸収するためだから、ただの……医療行為よ」
「そ、そうよね。彼だって仕方なくそうしてくれただけだしね……」
とは言ったものの、わたしが彼に特別な好意を感じていることをお祖母様に見抜かれたような気がして、居心地が悪い……。
「あ、お花の水を替えてくるわね。ついでにちょっと外の空気も吸ってくるわ」
お祖母様はわたしが気不味く思っているのを気付いたのかもしれない。部屋を出て、一人にしてくれたようだ。
クラウス卿の寝顔をじっと見守る。
形のいい唇は薄く開き、そこから微かに息が漏れている。
この唇がわたしの息を吸うところを想像してみたら、トクン……と胸が跳ねた。
マナを……排出させて空気中に逃す。
わたしも彼に——それを試してみるのはどうだろう?
ただの……医療行為として。
——わたしにも毒の耐性がついたはずだし。
駄目もとでも——やらないよりやってみるべきでは?
今なら誰にも見られていないし……。
あくまで医療行為だし。
エリタス神様——そういうわけで、これは医療行為なのです。お赦し下さい……。
神に赦しまで乞うたのに、それでもほんの一瞬、ためらった——。
眠る彼に頬を傾けゆっくり口付ける。
——呼吸が重なった。
彼の唇はカサついているものの、思ったよりも温かく感じられた。
重なった唇から温もりがお互いの体内に広がっていく気がする。
彼の体内の毒化したマナは浄化されて、最初に感じた時よりも少なくなっているようだ。
彼がやれたのなら、わたしにも同じことができるはずだ。
毒化したマナを選別して、それを口から取り入れるようにイメージしてみる。
「んっ……ふうぅ———」
胸の中がもやもやとする、胸焼けのような重怠さ。 ——これが毒の残滓……。
——毒化したマナ。
それを空気中に吐き出すように深く息を吐いた。
だけどわたしの体内にも微量の毒が残っていた。
残った毒を浄化していく想像を頭に描く。
わたしと、彼の——お母様の命を奪った毒……。
こんな毒……浄化してやる——。
何度かそうして同じことを繰り返した。
——クラウス卿はまだ目覚めなかった。
だけど、そのうち——彼の体内から毒化したマナの気配が消えた……。
よかった——。
唇を離して、ほっと息を吐いた。
——その瞬間、クラウス卿の長い睫毛がわずかに震え、瞬いた後でゆっくりと翠色の瞳が開いた。
湧き上がる喜びに自然と口角が上がり、口が開く。
クラウス卿が——、彼が目覚めた。
何度も望んだように、彼の瞳は今またわたしを見つめてくれていた。
口元が綻んで——微笑みかけてくれた……。
嬉しさと安堵で眩暈がするような気分だ。
よかった……。
——本当に、よかった……。
だけど喜びと同時に、この言い訳しづらい状況に思い至った。
どうしよう……。
彼は——わたしが口付けていたことに気付いただろうか……?
羞恥で頭が混乱し、結果——飛び退るように彼から離れた。
クラウス卿から見れば……唇を奪われていた——のよね?
「ク、クク、クラウス卿……!」
「…………ああ」
どうしよう……心臓がバクバクしている。
「よ、よかった……です。目が覚めて」
「……それを言うなら……君もだ。——目覚めてくれて、よかった」
「あの、あのあの……く、口付けはその……医療行為なんです。マナを排出するために……」
「……そうなんだな」
ほんのわずかに息を吐いてから、彼は続けた。
「——ありがとう」
「ええ、無断で申し訳ないとも思ったんですけど、あなたもわたしの——いえ、その……医療行為だし。
仕方ないことで、怒ってはいないんですけど……。
無断だったし、お互いさまってことで……」
「……そうだな、お互いさまだ」
クラウス卿が目を細めて微笑んだ。
——彼は怒ったりはしていないようだ。
よかった……。
胸を撫で下ろす。
だけどお互いが口付けをしたことで、なぜか秘密を共有する共犯者になったかのような気分だ。
ただの医療行為なのに……。
どうしてこの心臓は聞き分けもなくバクバクするんだろう……。
大事な戦友が目覚めて、嬉しいだけ。
——ただの安堵。
それだけのはず。
ただこの気持ちが——どうしても、恋に似ている気がして……困る。
わたしには——ロイという恋人がいる。
他の男性にもふらふらするような真似はしたくない。
だけど考えてみれば、別にわたし、クラウス卿から告白されたこともない。
クラウス卿だって、わたしのことを戦友か、妹のように思ってくれているのだろう。
そう自分に言い聞かせて、心の平安を保つことにした直後——。
クラウス卿がわたしを引き寄せた。
——時間が止まった気がした。
彼がわたしを強く抱きしめていたから。
「——好きだ。君が倒れて……どんどんか細くなっていく息、冷たい頬。目の前が真っ暗になるようだった……。
あんな思い——頼むから、二度とさせないでくれ」
胸がざわざわした。
——彼にとって、わたしは……?
戦友や妹ではない……?
わたしにとっての彼は……?
再び訪れた混乱と——罪悪感、焦燥……色んな感情の渦に飲み込まれていく。
だけど彼に好きだと言われて、わたしの胸を突き抜けた感情は喜び……。
わたしは……やっぱり背徳の令嬢なのかもしれない……。
窓から朝の光が差し込んでくる。
力強く抱きしめる腕を振り払えない。
失いかけた、かけがえのないものを取り戻したかのような喜び。
——この気持ちを分かち合いたいと強く思う。
彼はわたしを、失いかけたと思い——命懸けでわたしを救ってくれた。
わたしは彼を失ったかと思ったけど——なんとか彼を救うことができた。
わたしたち二人の気持ちは同じなのだろうか——?
気持ちを共感している——。
だから……胸の奥が揺れるのだろうか?
この感じって……なんなのだろう?
共鳴するようなこの気持ちを——名付けてはいけない気がした……。




