第3話:情けは君ではなくて、朝の心地よさの為
LIMEに来ていた廣川さんの住所を地図アプリに入れて検索する。
高校から徒歩十分程度の場所。
『住所了解。高校に行くけど来れる?』
そうメッセージを送ると、ハーフパンツとTシャツという部屋着で自転車に飛び乗った。
飛ばせば十五分と行った所。
初夏の朝はまだほんの少し肌寒い空気を自転車で切り裂いていく。
途中、ポケットに入れた携帯で微かに震えたように思い、信号待ちのときにチラ見する。
「駐輪場に行きます」
そう返信がきていた。
学校の駐輪場に行くと、同じく部屋着の廣川さんが既に立っていて、僕を見るなり近づいてきた。
そして、駐輪場に到達する前に、必死な目に足を止められた。
自転車を放り投げることを強要されている気がして、そのまま近づいた。
「ごめ……ッ!」
謝る間もなく、ノータイムで腕を首に絡められて口を吸われた。
本当に必死で、飢えた人の食事のような、ただ貪っているだけの『キス』なんて甘い言葉にすることを憚られるなにかだった。
そんな切実な彼女の生存活動の傍ら、どうしても男を抑えられないことに向き合わされるのは、ただ苦痛だった。
手ぶらのこの両手をどうしたらいいのだろうか、
腰を支えたほうがいいのか?
セクハラになったり、嫌がられたりしないだろうか?
枕のように、思いっきり抱きしめることができれば、どんなに楽だっただろうか。
やり場のない手を思いっきりグーで握りしめ、ただその時間が過ぎるのを待った。
自転車を全力疾走で飛ばしてきたので、胸のドキドキとした音が耳に響いてとてもうるさくて。
廣川さんの小さな顔に、血中の酸素を求める呼吸の全てを司る鼻息が強くあたってしまうのが、怖かった。
でも、そんなことをしながらも、もっと強く繋がりたいという欲がぶつかりあって、ひどく気持ち悪かった。
「……はぁ……はぁ……」
一度口と口が離れると、お互いの荒い呼吸がどうしても耳につく。
ほんの少し離れて見えた廣川さんの顔は、眠れなくて一晩ずっと泣いていたのか目も瞼も真っ赤だった。
どれだけ苦労をしたのだろうか、辛い思いをしたのだろうか。
「……大丈夫?」
「まだ、もう少し」
もう一度、首に巻かれた腕に力が込められて、口を吸われていく。
今度は少しゆっくり、僕の口の中を味わうように。
そしてまた、グーに力がこもって、やり場のない腕がギシギシと痛んだ。
「……ぷはっ」
また1分ほど続いたキスの後、廣川さんはボロボロ涙を流すと、今度は汗がTシャツに染み込んだ僕の胸に顔を押し付けてきた。
「その、汗まみれだし、臭くて汚いよ」
「動かないで」
「いや、でも……」
「この匂い……やばい……」
すぅーはぁー、と胸に額を当てて、下を向いた廣川さんが鼻で息をしている。
その頭に、自分の汗がポツポツと落ちてしまう。
汚いことをしてしまっている申し訳無さと、自分の汗で女性を汚したという征服感みたいなものが荒々しく喧嘩をしているのが分かる。
もっとスマートに助けてあげられない自分が、酷く惨めだった。
すぅーはぁー…すぅーはぁー…
一生懸命何かを話そうとしたけど、何も良い言葉が浮かばない。
すぅーはぁー…すぅーはぁー…
廣川さんの呼吸の音が、理性的な、言語を司ろうとする思考を止めてくる。
すぅーはぁー…すぅーはぁー…
この拷問の様な時間はいつまで続くのだろうか。
すぅーはぁー…すぅーはぁー…
流石に、我慢できずに、一度廣川さんを無理やり引き剥がした。
「ごめん……これ以上は、その、無理……」
廣川さんは、酷く慌てた様な顔をして、ペコペコと頭を下げた。
「あ……ご、ごめんなさい。調子乗りすぎました、許してください。その、キスだけじゃなくて、匂いとか汗とかも、今の私にとては乾きを癒えるというか、大事なことで…」
やっと働いた頭が、今の状況が結構怖い状況だと告げている。
キスだけで解ける呪いではない、匂いや存在そのものまでも呪いを解くために必要になってくる、その可能性を示唆していた。
「で、その……身体の調子はどう」
「すごく気分が良くなりました。ありがとうございます……その、わざわざ学校まで来てもらって」
「いや、こちらこそ、昨日の夜は気づいて上げられなくてゴメン」
「そうですね……でも、こんな時間でも来てくれて、本当に嬉しかったです。その、先輩からしてみたら、もらい事故ですよね。朝から本当にごめんなさい」
「それを言ったら、廣川さんも、もらい事故みたいなものだと思うし、お互い様だよ」
「先輩って、優しいんですね」
「優しい人間ではいたいと思うかな。まぁ、情けは人の為ならずって言うし」
少しだけ廣川さんの表情が柔らかくなったような気がした。
「その、呪いは解けそう?」
「分かりません。けど、この後帰ったら寝れそうです」
「なら、来てよかったよ」
朝早くから拷問のような時間を過ごした甲斐はあっただろうか。
「えっと、改めて今日は本当にありがとうございました。失礼なメッセージもいっぱい送ってごめんなさい。今は何もお礼もお詫びもできないですけど、後日ちゃんとさせてください」
「情けは人の為ならずなんて言ったせいで、見返りを期待しているように思わせてしまったかな」
「そんなことないですよ。純粋に感謝しています」
「そっか……」
そう言ってもらえただけで、今日は少し来てよかったと、そう思えた。
「それじゃあ、僕はもう帰るけど、また何かあったら連絡して」
「はい。また呼び出してしまうかもしれませんが、その時は許して下さい」
「了解」
「あ、あと、あと、もし今日の放課後、時間があれば、旧図書館でこの魔法を解く方法がないか一緒に調べてもらえると助かります」
「うん、分かった。また放課後」
「はい、また放課後」
来たときとは違い、今度はゆっくりと、また車の少ない通りを一人自転車で駆け抜けていった。
自転車の風で湿ったTシャツが火照った身体を心地よく冷ましてくれて、どこか清々しい朝だった。
最初は理不尽でぶっきらぼうに思えた廣川茜という女の子は、想像以上に礼儀正しい子なのかもしれない。
そう思うと、少しだけ自分も笑みを浮かべてしまった。




