第19話 勝負をしましょう
婚約披露パーティの二日後。
ミレイユは昼休みに、学院の敷地内に設けられた図書館を訪れた。
書架と書架の合間を縫い歩き、ピンときたタイトルの書物をテーブルに積み上げて、ミレイユは、ふう、と息を吐き出す。
「ひとまず、こんなところかしら」
「ミレイユ。それ、全部借りるつもり?」
テーブルに着いて読書をしながら、ミレイユの一連の作業をちらちらと見ていた友人クララが訝しげに言う。
「もちろん。そのために来たのだもの」
「……『領地の治め方。入門編』『領主に必要な心得』『街道整備の手順』。どれもミレイユには必要なさそうだけど。領地運営の基礎ばっかりじゃない」
山と積まれた本の中からいくつかのタイトルを読み上げ、クララが眉を顰めた。冊子の表紙を撫で、ミレイユは微笑で応える。
「初心に返って、一度基礎からしっかり学び直してみようと思うの」
先日ミレイユは、お互いに高め合って侯爵家を継ぐに相応しい人間になりましょうね、とアルヴィンに誓った。
そのために何をすべきか考えた末に、まずは知識面を強化しようと思い立ったのである。
こういった基礎的な内容の書物は実家の書庫には置かれてないので、図書館で借りられるのは非常に助かる。
「二週間後には夏季試験なのに、他ごとに熱中していて大丈夫なの?」
「心配ご無用よ。きちんと両立させるから。それじゃあ、貸し出しの手続きをしてくるわね」
計五冊の本を抱えて、ミレイユは受付へと向かう。館内に生徒の姿はまばらで、遠目に見える受付のカウンターは空いていた。
胸元までの高さに積み上がった本を落とさないよう、慎重に歩いていたミレイユは――不意に、カーペットの繋ぎ目に足を取られ、つんのめった。幸い転ぶことはなかったが、よろけた拍子に本が数冊、床に滑り落ちてしまった。ドサドサッと、鈍い音が静かな館内に響き渡る。
「やってしまったわ……」
何事かと寄越される視線に羞恥心を感じつつ、ミレイユはその場に膝を折る。本を拾い上げようとすると、ふっと背後から影が落ちた。
「大丈夫ですか? ……って、ミレイユ様?」
降ってきた声に後ろを振り仰ぐと、澄んだ翡翠の双眸と視線がかち合った。前かがみの体勢で立っていたのは、アルヴィンである。
「まあ、アルヴィン様。奇遇ですね」
「本当に。お手伝いしますよ」
その場で膝をつき、アルヴィンが胸に抱えていた二冊の本を床にそっと置く。なんとはなしに一連の仕草を目で追うと、本の背表紙が視界に入った。『領地経営の心得』、『経済の仕組み』。
ぱちり、とミレイユは目を瞬かせた。なんだか既視感のあるタイトルだ。
「その本は……アルヴィン様には、今更な内容ではありませんか?」
疑問がふっと口を衝いて出てしまった。
ミレイユが落とした本を拾い集めてくれていたアルヴィンが、手を止める。
「ええと。そっくりそのまま、同じ言葉をお返ししますよ?」
拾った本の一冊を、アルヴィンがひらりと掲げてみせた。
「ミレイユ様なら、とっくに心得ている内容ばかりです」
そう言って、アルヴィンは集めた本をミレイユに渡してくれた。お礼を告げて受け取り、二人は立ち上がる。
「先日の一件もあって、侯爵家を支えるのに必要なことを一から学び直してみようと思い立ちまして」
虚を突かれたように、アルヴィンが目を瞠った。
次いで、彼はくすくすと笑い出す。
「同じこと考えてる」
ミレイユは再び目を瞬かせた。ちょっぴり砕けた物言いは、非常に珍しかった。
無邪気に笑みをこぼすアルヴィンを、思わず凝視してしまう。
「どうされました?」
きょとん、とアルヴィンが首を傾けた。なんだか小鳥みたいだ。
「いえ、珍しいなあ、と」
「珍しい?」
何を言われているのかわからない、という顔。どうやらアルヴィンは無自覚らしい。
「口調が普段と違いましたよ?」
「……あ。すみません、うっかり」
やらかした、という表情でアルヴィンが口元を手のひらで覆う。
「『うっかり』ということは、気を抜くとアルヴィン様は先ほどのような口調になるのですか?」
意外な事実が発覚して、ミレイユはびっくりする。アルヴィンの丁寧な物腰は、素だとばかり思っていたから。
「かなり意識して話しているのは事実、ですね」
「まあ」
ちっとも気づかなかった。
「でしたら、婚約者の私に無理に口調を畏まる必要などありません。どうぞ、アルヴィン様の話しやすい口調でお話しくださいませ」
「あ、いや、それはちょっと……」
物凄く困った顔になる。予想していなかった反応に、ミレイユは大いに戸惑った。
「これから長い付き合いになるのですから、なるべくなら気を張っていただきたくないのですけれど……アルヴィン様は、どうしても敬語をお望みですか?」
「……すみません。ミレイユ様相手に砕けた口調は、できれば遠慮したいなあ、と……」
アルヴィンの中では譲れない何かがあるらしい。真面目な性分だから、年上のミレイユ相手に砕けた物言いは気が引ける、とかだろうか。
あの一瞬の話し方は、なんだか気を許してもらえたみたいで、ミレイユは嬉しかったのだけれど。
「先ほどの話し方の方が、可愛らしくて私は好きなのですが……」
なんとか説得できないかな、とミレイユは言葉を付け加えてみる。途端に、アルヴィンがじっとりとした眼差しになる。
「あの、ミレイユ様? 深い意味はない言葉だと理解しているので素直に返しますけど、『可愛い』は嬉しくないです」
「では……あ、微笑ましい?」
「それも、複雑ですね」
端正な顔に、はっきりと苦笑が滲む。
「これも、いけませんか……? では――」
「どんな言葉に言い換えられても、説得はされません。それより、そろそろ貸し出しの手続きに行きませんか?」
アルヴィンの申し出に、ミレイユは待ったを掛ける。
「いいえ。ここでアルヴィン様を説得できないようでは、領地の運営など務まりません。是が非でも説得してみせます。といいますか、してみせたいですっ」
「……もしかして、ミレイユ様の向上心に火がついてしまいました?」
「しまいました」
こくん、と頷く。
どうすればアルヴィンを説得できるか。それを考えたくて仕方がなくなってしまった。
上目遣いに、じっとアルヴィンを見つめる。
「駄目ですか……?」
ミレイユの意地に、アルヴィンが付き合う義理などない。
アルヴィンはちらりと柱時計に視線を動かした。
「あと五分ほどなら、授業に間に合いそうですね。それまでお付き合いしますよ」
ミレイユはパッと瞳を輝かせる。
「ありがとうございます。残り五分、精一杯考えてみますね」
「第三者の視点で聞いたら、間抜けな会話なんだろうな。大真面目に話す内容じゃありませんし」
クスクスと声を立てて笑うアルヴィンは、ミレイユの謎の意地にも嫌な顔一つせずに付き合ってくれる。
(……本当に、大らかな方)
アルヴィンはミレイユが何をしても不快感を見せないから、内心で不満を溜めこんではいないかと、逆に心配になってくるくらいだ。
そんな彼がここまで拒むのだから、口調を変えたくないのには相応の理由があるのだろう。どう説得すべきか。
黙々と考えこんでいたミレイユは、ふと顔を上げた。アルヴィンの視線がやたらと熱心にミレイユに注がれていたからだ。
「なぜ……私を見るのでしょう? 退屈ではありませんか?」
せっかく本があるのだから、そちらを読んでいた方が遥かに有意義だろうに。
ミレイユはそう思ったが、アルヴィンは緩やかにかぶりを振った。
「ミレイユ様の真剣に悩んでいるお顔を眺めているのは、楽しいですよ」
不思議な感性である。
そうは言っても、顔をずっと見られているのは正直、ちょっと恥ずかしい。
なので、ミレイユは思考を中断してアルヴィンの端正な顔を食い入るように見つめてみた。宝石のような翡翠の瞳に、ふっと怪訝な色が滲んだ。
「あの、ミレイユ様? どうして僕を見るんです?」
待ってましたとばかりに、ミレイユはにっこりと微笑む。
「綺麗なお顔なので、思わず見入ってしまいました」
「……それは流石に、照れるんですけど」
わずかに赤らんだ顔には、反応に心底困る、と書かれていた。
(ふふっ、可愛い)
微笑ましい反応に自然と口角があがりつつ、ミレイユはアルヴィンの手にある本に視線を落とした。
「同じ言葉をそのままお返ししますので、どうぞ、見るのは私ではなく、お手元の本にしておいてくださいな」
「……ミレイユ様には敵わないですね」
微苦笑したアルヴィンが、本を紐解き始めた。
これで集中できる。
再びミレイユは思考に没頭する。だが、いくら考えてもアルヴィンを説得できる材料は思い浮かばなかった。
(まあ、思い付かないからといって、特に困ることもないのだけれど)
正直なところ、思い付いても思い付かなくても、どちらでも構わないのだ。
ミレイユはちらりとアルヴィンを見た。書架に寄り掛かり、本に目を落とすアルヴィンは、ミレイユからの視線に気づく気配はない。男性にしては長い睫毛が影を作っていて、絵になる光景になっていた。
(なかなかどうして、私はアルヴィン様と中身のない会話をするのが好きなのかもしれないわ)
そういうことなのかも。他愛ない会話を続けたくて、アルヴィンを引きとめてしまった部分もあるのかもしれなかった。
アルヴィンはどうなのだろう。同じように楽しんでくれていたらいいのだけれど。
政略結婚に愛など期待する気は毛頭ないが、共にいて居心地の良い関係は築きたいものである。
「ミレイユ」
急に名前を呼ばれて、ミレイユはびくり、と肩を揺らした。声でクララだとわかって、ハッとする。友人のことをすっかり失念していた。
振り返ると、やはり友人の姿があった。
「ごめんなさい、クララ。私ったら……」
「なかなか戻ってこないから何かあったのかと思ったけど、心配の必要はなかったみたいね」
ホッとしたようにそう言ってから、クララはひらりと手を振った。
「私は先に教室へ戻るとするわ。授業に遅れないよう、気を付けて」
頷いたミレイユは、あっと思い付く。
「そうです……っ」
先ほど交わしたクララとの会話を思い出したのだ。
「アルヴィン様、私と勝負をしませんか?」
「勝負?」
柔らかそうな亜麻色の髪を揺らして、アルヴィンが首を捻る。
「さ来週から、夏季試験が始まります。学年こそ違いますが、総合得点で競うことは可能でしょう? 私が勝ったら、アルヴィン様に口調を変えていただきます」
アルヴィンの成績は学年でトップクラス。勝負として成り立つはず。
「僕が勝ったらこのままで、ということでしょうか?」
「うーん……それではアルヴィン様が勝負に乗るメリットがありませんし、アルヴィン様が勝った場合はなんでも言うことを聞きますので、何か考えておいてくださいな」
「なんでも……」
ミレイユは大きく頷く。
「はい、なんでも、です。もちろん、私にできる範疇にはなってしまいますけれど」
すると、アルヴィンが滅多になく厳しい顔つきになった。
「ミレイユ様、あんまり迂闊なことは言わない方が……。僕がとんでもないお願いをしたら、どうするんです?」
「そこについては、アルヴィン様への信頼で成り立っております」
アルヴィンなら妙なことは頼んでこないだろうという考えは、ちゃんとある。
ミレイユは胸を張ったが、アルヴィンはなぜか頭痛でも堪えるように額に手を充てた。
「ミレイユ様、わかっているようで、たぶんわかっていないと思うんですよね。警戒心は強いのに、肝心なところで無防備だから」
「私は警戒心の塊だと思いますよ……?」
我ながら可愛げに欠けるが、その一点の自認は強くあった。
「…………」
「その長い沈黙は、なんでしょう?」
「……いえ、わかりました。その勝負、乗りましょう。後で迂闊なことを言ってしまったと後悔しても、遅いですからね?」
見下ろしてくる瞳が、なんだか挑戦的に煌めいている。
アルヴィンが口にする迂闊の意味がやっぱりピンとこなくて、ミレイユは大きく首を捻るのだった。




