44:狼は振り向かない
九鬼家の入口には、相変わらず使用人が並んでいた。
これも相変わらずだが、正妻は顔すら見せなかった。今日ここに織部が来る
と知って、もう外出しているのかもしれないが…織部にはどちらでもいいことだ。
使用人の一人が案内する部屋に入った。例の客間である。
与四郎と輝虎が正面に並んで座っていたが、
織部が入ってくると、立ち上がった。
「織部、久しぶりだな
いやぁ〜大きくなったなぁ 山内くんと同じくらいじゃないか? 」
「いえ、私より高いです」
「そうか。いやぁ驚いた。ついこの間まで、こんなだったのになぁ〜」
与四郎は子供の頭を撫でるような手つきで自分の腰のあたりを示した。
まるで昔を懐かしむような言いっぷりだが、
親戚の子供にお世辞を言ってるようだと織部は思っている。
挨拶程度のこのような会話に、普通なら愛想笑いの一つも見せるところだ。
だが相手は織部だ。
実子に向かって言っているとは思えないセリフに、織部は既に心が硬化していた。
笑顔ひとつ作らず、輝虎が手だけで合図した椅子に、無愛想に腰掛けた。
「早速だがな、そろそろお前はここに戻って来なさい。4月からは高校2…」
と言いかけたところで与四郎は輝虎の顔を見る。輝虎は軽く頷いた。
「高校2年生になってからでもいい。転校手続きとかは全てこちらで済ますから、
来年の大学受験に向けた準備を早々に始めたいと考えている」
織部は呆れてものも言えないほどだった。
だが、ここで引き上げるわけにもいかず、一つ溜息をついてから、
ようやく重い口を開いた。
「転校とか…簡単に仰いますが、俺は入学するために1年ダブってまで
希望する学校に入れるよう努力したんです…」
「受験なんだぞ。誰だって努力するだろう。当たり前のことだ。
転校にその努力は不要だ。お前は黙って言うことを聞いていればいいんだ。
何だ、偉そうに。さも自分で何もかも成し遂げたみたいな
……ったく子供のくせに」
「いえ、社長」
輝虎が横から与四郎の話を遮った。
「水無瀬さんは今の高校に入るための資金もご自分でご用意なさってます」
「は?」
「あとで帳簿をお見せします」
織部は「帳簿」という言葉に反応した。
『ミッチャンが言う、この男の金の力なんか借りてないってことを示す事実
………って、いま輝虎さんが言ってる 帳簿のこと……?
だとしたら輝虎さんは、こういう日が来ることを見越してたのか…? 』
「……まさか……」
与四郎は輝虎の言っていることが信じられない様子だった。だが気を取り直して
「に、にしてもだっ
お前は未成年だし、私は親だ。親が家に戻れと言ってるのだ!」
輝虎はまた口を挟んだ。
「例えば社長が親権停止処分を受け、私が水無瀬さんの未成年後見人になれば、
私には水無瀬さんのご意向に沿う対応をとることも可能です」
「は?」
「つまり親だから、という理由だけで、物事はそう簡単には運ばないこともある、
ということです」
与四郎は何故、輝虎が自分の発した言葉に否定的な評価を下すのか
納得がいかなかった。だが今は織部がどうしても必要なのだ。
輝虎への説教は後回しだ。今は織部に集中しなければならない。
織部の表情を見ると、何事もなかったかのように落ち着いて座っているが、
眼光は鋭かった。
そこで与四郎はさらに下手に出て、譲歩する姿勢を取った。
「いや、分かった。転校したくないなら、せめてこの家から通いなさい」
『通いなさい』
この命令口調ひとつとっても、与四郎が何も分かっていないことは明らかだ。
輝虎も織部も、この時点で『処置なしだ』と思っている。
だから織部は与四郎の脳みそに合わせ、この男が使った言葉を利用した。
「大学受験に向けた準備……とは ? 」
「九鬼家の人間は代々、米国のH大学で経済を学んでいる。
お前もその道を歩んで欲しいんだ」
「つまり…創業家の一員としての道を歩め…と ? 」
「そうだ。当然だろう」
「当然 ? 道安さんが継ぐ意思を見せていたら、
俺の存在など一生頭に浮かぶことは無かったでしょうに」
「そ、そんなことは…」
「世界には、生まれながらに自分の将来が決まってる人間っていますよね。
例えば一国の王とか…。
九鬼家はそれくらい、人間よりも家を大事にすべき何か大切なものでも
抱えてるんですか? 例えば跡取りがいなければ社会が崩壊するとか…」
「……!?」
「俺にはそんな大役は果たせそうにないので、
早々に辞退させていただきます」
与四郎は、何も言えなかった。
子供の頃とはまるで違う。血が繋がっているとはとても思えない。
何の親しみも愛情もわいてこなかった。
この子は本当に俺の子か…? と疑うほどだ。
しまいには、痩せ細って自分に縋り付き、狂人のようになった愛人の顔も
思い出されて寒気がした。
織部は立ち上がると一礼し、出て行った。
「お、おいっ こらっ。俺の話はまだ終わってないぞ! 」
これ以上この場所に居たら、
言葉の通じない相手に出る次の手段は、ひとつしかない。
だがそれを思いとどまらせたのは、いまポケットの中で握っている
電子キーだ。織部は最後まで冷静さを失わないように、
輝虎がくれた鍵をぎゅっと握りしめている。
もう与四郎の言葉に耳を貸す必要はない。まだ何か言っているようだったが
振り向くこともなく、流れるような動作で靴を履いて出て行った。
部屋の中では、与四郎が頭を抱えていた。
「君はあの子がいる前で俺を馬鹿にしたんだぞ、俺の立場はどうなるんだ ! 」
「すみませんでした。それで、どういたしますか?
また彼に跡を継ぐよう説き伏せる機会を設けますか」
「……いや、説き伏せるなら道安だ」
「では水無瀬さんのことはどうなさるのです」
「…さっきの織部の顔を見たか? ……獣のような目つきで、
俺を射抜こうとしているようだった…俺を 俺を誰だと思ってるんだ……」
輝虎はひとまず安堵した。これでしばらく与四郎は、
織部の意向を無視してまで強硬な態度に出ることも無いだろう。
道安は成人してるから、もともと親に勝ち目はない。
だが織部の表情を正確に読めるほど、今日の与四郎は何故か冴えている。
だから輝虎は自分の心の動きを悟られぬよう、表情には細心の注意を払った。
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