4:傷跡
『今朝はあの連中にまんまと一本取られたが、今度こそ』
午前2時をまわると、織部は3階の右端にある空き部屋に音を立てぬよう侵入。
バルコニーから外に出ると、伸びたプラタナスの太い枝に手を伸ばして
枝をつたって降りて行く。
庭に難なく着地した後は、塀に沿って小走りに裏口へ回った。
裏口付近の煉瓦塀だけ忍び返しが一部外れていることは、日中 確認済みだった。
織部はレンガ塀の笠木に手を伸ばし、軽々とよじ登って外へと飛び降りた。
『一般道に出られれば、もうこっちのものだ』
織部は一目散に埠頭へと全速力で駆け出した。
爺さんのボートに、爺さんはいなかった。
『やっぱりあいつらが言ってたように、爺さんは死んじゃったのか……』
船内は暗くてよく見えず、何かがつま先に当たった。
『グローブか……。良かった、まだ有った』
織部はグローブを片手で抱きしめながら、静かにベンチシートに座った。
わずかに漏れる岸壁の街灯で、グローブは鈍く光っている。
その仄かな光を見ている内に、織部はうとうとし始めた。
「だめだ、いててて」
道安は包帯の巻かれた右手でボールを握ってみせたが
「今日はちょっとキャッチボールは無理そうだ」と言って痛いのを堪えながらも
織部に微笑みかけている。
だが「どうしたの、その手」と尋ねると、道安は不注意で火傷しただけだと言う。
これ以上は聞いてくれるな、とでも言いたげな、面倒臭さが語気から感じられた。
道安にしては珍しい言い方だったので、織部はそれ以上はもう聞かなかった。
そういえばミッチャンはあの日...
「そろそろお前とは会えなくなっちゃうけど、元気でいてくれよ。
師匠のこともよろしくな」って言ったんだ。
織部が小学6年生になると、道安は本当に来なくなってしまった。
いつもいたはずの人が現れない。あの時の寂しさを味わうくらいなら、
初めから人と関わらなければいい...。
織部は嫌な気分で目を覚ました。辺りは静かで、まだ夜は明けてないらしい。
『師匠をよろしく』って頼まれてたのにな…
俺は何もできなかったよ…ミッチャン.........
自分のふがいなさに右腕を天井に突き上げ、織部は拳を強く握りしめた。
そして静脈が通る辺りを手首から肘に向かって、左手でゆっくりとした速度で
掻き始めた。力いっぱい。
3本の爪痕が右腕に細く刻まれていく。やがて線は赤く腫れあがり、
血が滴り落ちていく。
この時、ボートが揺れて誰かが入ってくる気配がした。
『えっ ミッチャン!?』
織部は見えた人影を道安だと思った。
とうの昔に会えなくなった人なのに、道安のことを考えていたから、つい
そう思ってしまったのだろう。だが侵入者の顔が光に浮かび上がると、
やはりそれは道安だった。
道安は屈みながら無言で織部の腕をとり、そぅっと自分の膝に置いた。
膝に織部の血がみるみる滲んでいく。だが彼は織部に優しい笑顔を向けたままだ。
あれから4年は経っている。体つきは少しがっしり見えたけど、笑顔はあの頃と
ちっとも変わらない。
「……ミッチャン」
と織部は小さな声で呼びかけ、道安の手を握った。その右手には、
あの時と同じ火傷の跡があった。『ほんとにミッチャンだ………』
道安は持っていたハンカチで織部の腕を縛っている。叱るでも窘めるでもなく
静かに縛ってくれていたが、
「師匠が亡くなったことをネットのニュースで知ったよ」と、
道安はようやく口を開いた。
「ごめんな、俺、師匠を助けられなかった…」
『師匠だけじゃない、お前のことも、ちゃんと守れてない……』
道安は爺さんのことをいつも師匠と呼んでいた。
『やっぱり、本当にミッチャンだ……』
織部は道安の声を聞いていて、涙があふれてきてしまった。
そして次第に、彼の腕の中で安心して眠ってしまった。
織部はクラクションの音で目が覚めた。外には多数の人影が見える。
そして九鬼家の洋館が眼前に広がった。
『まじか……』
織部はまだ半分寝ぼけていたが、ドアを開けた人に促されて車外に出た。
『はぁ...............またこの家か。あれ? ミッチャンは!? .........』
顔を上げると、道安は囲まれた人々に「ただいま」と言って、
ずかずかと家の中に入っている。
「えっ !?」
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