3:またお前か
準大手、九鬼総合商社の4代目社長である九鬼与四郎の家は、横浜西区の
丘陵地にある。広い敷地に相応の洋館が建ち、10人程度の使用人を抱えていた。
その誰もが、現れた織部の姿を見て「うわっ」という声を漏らした。
両肩を部下二人に担がれた織部は血だらけだった。
客間に通される途中の廊下では、運悪く父親の正妻とすれ違っている。
正妻は通り過ぎる時、
「この家に汚い血は持ち込まないでちょうだいね」と、誰に言うともなく言った。
確かに床の大理石には血が滴り落ちている。
だが正妻の言い方には、織部の血筋を蔑んでいるような、別の悪意が滲んでいた。
幸い、気を失いかけている織部の耳には届いていないようだった。
僅かに漏れる陽の光で織部は目が覚めた。ブラインドのコードを引くと、どうやら
この部屋が三階にあるらしいことを認識した。
客間に通されたと思っていたが、気を失っている間に別の部屋に移動させられて
いたらしい。そばのスタンドミラーには自分が映っていた。
額や手足には包帯が巻かれ、制服ではなく身綺麗なルームウェアになっていた。
『そう言えば昨夜、使用人達が口々に俺の髪や顔について何か囁く声が耳元で
うるさかったような…………くだらない』
学生服に着替えようとクローゼットを開けると、クリーニング済みの制服が
ハンガーに掛かっている。
それに私服や書物など、自分の持ち物が全て運び込まれていることも分かった。
『やっぱりな』
『これでホントにもう、あのマンションには戻れないんだな……』
母親と暮らした日々を完全に断ち切られてしまったことに、今更ながら
気づくのであった。
横浜市内を見下ろせる部屋からは、自分が通う高校も望むことができた。
「ここから大して遠くないな……」
織部はこの家に連れて来られたことが悔しかったが、すぐに家出するつもりだ。
『とりあえず高校に行ってから策を練るか』
『んっ ? ていうかネットカフェで良くないか?』と急に閃いて、
織部の顔から少し笑みがこぼれた。
ちょうどその時、ドアを叩く音がした。
「はい」織部がつい返事をしてしまうと、ドアがそぅっと開いた。
またしても加藤だ。
『はぁ……』織部はため息をつくと、不機嫌な顔で加藤を睨んだ。
「しょ......食事が下の階に用意されておりますので…」加藤はビクついている。
『しっかりしろよ、いい大人が情けない……』と思いながら
織部はリュックを肩にかけ、加藤の横を通り抜けた。
階段を降りる途中で巻かれていた包帯を全て外し、食事も取らずに外に出た。
家の敷地内には、黒塗りの車が停車している。
車内には、昨日加藤を後ろから小突いた上司が乗っていた。
「輝虎さん、どうしますか」
敷地を出ようとする織部を見ながら、運転席の部下が言った。
「ま、いいでしょう……歩いて歩けない距離じゃなし……」
輝虎は穏やかな声でそう呟くと、サングラスを外し、加藤に携帯で何か
指示を出していた。山内輝虎は社長秘書である。
彼は、織部の父親を公私に渡りサポートする責任者だった。
織部は学校に向かう道すがら、何人もの生徒から声をかけられた。
特に女子達は甲高い声で織部を気遣う言葉を発して近づいてくる。
その度に織部は軽く手を上げ「何でもない」というような仕草で、その場を
やり過ごしていた。
『まいったな』
『切り傷なんか髪の毛で隠せると思ってたが。この分だと教師にも
気づかれるかもしれない。また暴力か、と説教されるのも面倒だ』
織部は一限が終わるとサッサと仮病で早退した。
だがネットカフェへ向かおうと校門前まで来て、ピタッと足を止めた。
『またかよ……』
停車中の黒塗りの車から、こちらを見ている加藤と目が合ってしまったのだ。
今日は、もう見たくない顔だった。
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