38:お嬢さん
道安は思わず立ち上がったが、織部を追いかけて行くことができなかった。
輝虎は初めから追いかけるつもりはなく、
自分の車で寮まで送ろうと思う気持ちも無かった。織部が拒絶していることが
明らかとなった今、輝虎に出来ることは何もない。
できることがあるとすれば、織部がどうか、保とうとしているその冷静さを
保ち続けてくれ、と願うだけだ、織部自身のために。
残された道安と輝虎は黙ったままだ。どのくらいの沈黙が続いただろうか。
この重苦しい空気を破ったのはミナコだった。
「手術、終わったそうです」このあとミナコは事情聴取のため警察署へ移動。
輝虎は保護者代理として医師に呼ばれ、術後説明を聞いていた。
やがて輝虎の靴音が響いてきて、道安の前で止まった。
「刃物の傷はさほど深くなく、内臓の損傷は軽微だったそうです。
主に筋肉の損傷で全治3週間、との診断でした。
まだ集中治療室ですが、目は覚めてないそうです」
「じゃぁ会うのは明日にしよう」
「それじゃ、道安くんは先に帰っててください」
「どこへ」
「どこへ って、ご自分のホテルへ」
「いいよ、輝虎さん家で」
「何言ってるんですか、あなたは先週からホテルをとってるじゃないですか」
「でも」
「ウチで酔っ払うつもりでしょ。ダメです。
道安くんは司法試験のために帰国したんですから、
そちらにどうぞ集中してください」
「できると思いますか?」
「できなくても集中するんです」
「輝虎さんはどうするの」
「この病院の院長、英和学院の理事長、養護施設の施設長、
あとマスコミ関係か…早く手を回さないと」
「ご苦労さまです」
「なんか……ひとごとのようで ちょっと今風に言うと、ムカつきますね」
道安はちょっとだけ笑った。
道安がタクシーでホテルに帰ったのを見送ったあと、
輝虎は集中治療室にもう一度戻った。丹生は麻酔から目覚めていると言う。
集中治療室には丹生以外、誰もいなかった。
ドアを開けると丹生はすぐドアのほうを見た。
「5分だけ、面会が許されました」
輝虎は丹生のそばにやってくると、ゆっくり屈んだ。
「…」丹生は静かに頷いた。よく見ると、丹生は目に涙をためている。
輝虎はそっと丹生の手をとり、やさしく握った。
「織部くんに再会してしまいました」
輝虎は優しい目でそう告げた。内心は辛かった。
だが、そんな素振りを丹生に見せるわけにはいかない。
丹生は泣かないつもりで頑張っていたのだが、
涙が流れてきてしまった。
「……お嬢さん、今日はよく頑張りましたね」
輝虎はそれだけ言うと、体を起こして手を離そうとした。
だが丹生は精一杯の力で輝虎の手を離さなかった。
輝虎はもう一度 丹生のそばにかがむと、丹生の手をそっと離し、
自由になった手で今度は丹生の頬に優しく触れた。
「ゆっくり寝てください」
そう言うと、静かに出て行った。
集中治療室のドアを閉めたあと、
輝虎は天井を見上げて深くため息をついた。
闘わねばならない現実がある。輝虎は前に向き直ると、
仕事モードに切り替えた。
全ては丹生の将来と、丹生の尊厳を守るために。
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