29:水滴
その日の夕方、丹生は輝虎にメールした。
だが輝虎からは一向に返事が来ないまま、数日が過ぎた。
土曜日の朝、ようやく丹生の携帯に電話が入った。
丹生は慌てて支度し寮を出ると、以前降ろしてもらった辺りで藍色の車が
停車しているのを見つけた。それだけでパッと気持ちが明るくなった。
織部はまた横浜に行ってしまったので目撃される心配もない。
丹生は手を振りながら車に近づいた。
運転席に映るのは、輝虎の真っ直ぐ通った鼻筋だ。
でもサングラスをかけているので表情は今ひとつ読めない。
『変なメールを出したから、怒られるのかもしれない』
丹生は助手席に座る時にはもう明るい気持ちが消えていた。
『別に怒られてもいいや。自分の考えだけはちゃんと伝えないと先に進めないし』
ビルが林立する繁華街を横目に見ながら、丹生は説教覚悟で車に乗っていた。
「この屋上庭園、今のところ穴場のようですね」
「そうですね、下見ると豆粒みたいな人がいっぱい動いてる。
都会のど真ん中にこんな所があるなんて、びっくりです」
360度ビルに囲まれた中に、まるで空中庭園のように緑が一面に広がっている。
ちょっと見上げれば真っ青な空で、日差しはかなり強かった。
二人はすぐに庭園を見渡せるインナーテラスのカフェに入った。
「ところでお嬢さん、あなたは就学支援金制度を利用してますので、
卒業までの学費や寮の費用は、ほぼ無償です」
「は?」
「この間もらったメールに、自分にかかった費用は卒業後に稼いで返さなくちゃ、
とかなんとか書いてありましたから。
施設長から何も聞いていないのか、聞き逃しているのか……
どちらかだと思いまして」
「施設長から? あ、じゃぁ……聞き逃していたかもしれません」
「織部くんは特待生ですから大学進学に向けた優遇措置も用意されてます。
あなたとの違いは、そのくらいです」
「そうだったんですか……。
将来は借金返済に追われる毎日かと思ってましたので、急に気が抜けました」
輝虎はやさしい表情をしていた。
丹生はいつ怒られるのか、まだ警戒を解いていない。
「それから…」
輝虎はレザーのラウンジチェアを少しだけ丹生のほうに向けて足を組み直した。
「私と道安くんが依頼した仕事に、これからは無償で応えたい、とのことですが」
「はい」
『来た来た、怒られるっ』
「相手が織部くんだから、そう思うようになったってことですよね」
「へ!?」
丹生は予想外の質問に戸惑ってしまった。「えっとぉ……どうですかね」
「面接で初めてお会いした頃のあなたと今のあなたとでは、
だいぶ違って見えますから。何か心境の変化でもあったのかと思いまして」
「そう…なの? かもしれません……なんか色々なことがあっという間で。
でも…間違いなくメールに書いたのは今の気持ちです」
「その気持ちは、よく分かります。私も同じような思いを抱きましたから」
「えっ 輝虎さんも!? …………どういうことですか?」
「織部くんとは8ヶ月程度、身分を隠して一緒に工事現場で働きましたから」
「えぇ〜〜〜〜っ!????」丹生はびっくりして椅子から滑り落ちそうになった。
一緒に働いた経緯は簡単に済ませ、
あの時の自分は利害を抜きにして、織部のためになることなら尽力しよう、
と思うようになっていたことを輝虎は伝えた。
「織部くんが知る山内輝虎は、一緒に働いた同僚としての山内輝虎です。
織部くんのお父さんの会社で働く従業員ではない」
丹生はハッとした。
「え、ちょっと待って!? ってことは輝虎さんは、
どっかで織部と出会っても本当の身分は明かせない…ってこと?」
「仮にこの場で織部くんに会ってしまったら、正直に話しますよ。
彼の心が引き裂かれてしまっても、私がどんな目に遭おうとも。
それ以外なら、もう会うことは無いでしょうし、
私が自分から明かす必要もないんでしょうね」
「そんな………………」丹生はなんだか悲しくなってきた。
「道安くんは初めから悟ってました。
情にほだされず、公私の境界線が明確で、極端に言えば
金の切れ目が縁の切れ目だ、という感覚を持ち合わせていそうな人間。
彼はそうした人物が織部くんを見守ってくれることを望んでたんです。
でも………」
輝虎は思い出したように「やっぱり道安くんは抜けてますね。ハハッ」
笑いながら話を続けた。
「織部くんと過ごせばやがては魅了され、こちらは良心に責め苛まれる
ことになるんです。この点は想定外なんですから…」
そして飲みかけのグラスに付いた水滴を指で触りながら、
少し寂しそうに言った。
「人との関係は理論や理想では測れない……ってことです」
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