17:バカ兄貴
道安がフロントで滞在費用の支払いやチェックアウトの手続きをしている間、
織部はロビーのティーラウンジでコーヒーを飲んでいた。寮に入るための荷物は
通学用のリュックだけである。スーツケース二つは先に寮に送られていた。
「自分でやるからいい」と断っても道安は聞く耳を持たず、
「こんな貴重なサポートは今しかできないんだから俺にやらせろ」
と一歩もひかないのだ。
道安には今後、親権者代理として何かとこちらから依頼せざるを得ないことも
出てくるだろう。だから織部は刃向かわず、大人しくしていた。
「待たせたな、行くか」と言って道安がやってきた。
織部は頷いて立ち上がり、道安と並んで外に出た。
織部は合格発表の日から今日まで一歩も外に出ることなく、部屋の中で本ばかり
読んでいた。外の空気に触れたのは久しぶりだ。
『今日はこの前より空気が柔らかいなぁ』と思い、伸びをしながら空を見上げた。
その間に、黒塗りの車が車寄せスペースに横付けされたことには気づいていない。
織部は『これでしばらくミッチャンともお別れだな』と感慨深くなっていた。
だが「織部、それじゃぁな」と言うミッチャンの声で前に向き直った時、
例の加藤が目に入った。彼は恭しく後部座席のドアを開け、織部を見ている。
それに気づくと、織部は状況をはっきりと認識した。そして、
ブチ切れた。
ここから歩いて駅まで行く。高校の最寄駅で降りたら高校行き送迎バスに乗る。
その手段をさっきティーラウンジで携帯から確認しておいた。
時間もちゃんと頭に入れたので準備は万全だった。なのに、また加藤である。
織部は急に怒りが込み上げてきた。別に加藤は何も悪くないのだが、
織部にしてみれば加藤は父親の会社の象徴だった。
『あんな車に乗って寮に向かうなんて冗談じゃない。
俺は人知れず入寮し、これから静かな学院生活を送るんだ! 』
織部は自分の意思を無視する大人に「なんなんだ、あんた達は」と言ってのけ、
軽く加藤をド突いてしまった。道安が慌てて制止しようと分け入ったため、
織部は走り出し、振り向きざまに「もう付いてくるな!! 」と捨て台詞を吐いた。
織部は走りながら、道安にお礼をちゃんと伝えられなかったことを
ちょっと後悔したが『もういいや、めんどくさいっ』
異母兄弟でも兄弟は兄弟だ。織部は道安に対しては大いに甘えていたのである。
学院専用のバスは春休みの為、午前午後の1日2本と極端に少なかった。
午後便を選んだ織部は一番に乗り込み、
道安から情報を得ていた丹生も数人あとに続いて乗り込んだ。
そしてあと一人となった時、最後に乗り込もうとした少年は、なかなか運賃を
払えずにバスの階段に突っ立ったままだった。
バスの運転手は「定期は?小銭は?」と聞いているようだ。だけど迂闊にも、
その少年は両方とも持っていなかった。
この送迎バスは有料で、先に定期券を見せるか小銭を支払う必要があった。
入学案内の資料を読み飛ばしたのかもしれない。本人も迂闊すぎて、
かなり恐縮している様子だった。だが運転手は容赦ない。民間の会社が学校と
業務提携しているだけの、学校とは縁もゆかりもない一般の運転手だ。
「払えないなら降りてくれ」と冷たく言い放った。
バスに乗らなければ駅までは徒歩で1時間は優に超える。重たそうなスーツケース
を二つも持っていては酷な話だ。衆人環視の下、当人をかなり萎縮させる状況と
なってしまった。張り詰めた空気が車内に充満すると、
丹生も見ていて段々ムカムカしてきたが、その前に織部が即座に立ち上がって
「俺、小銭あります」と言った。
現金投入口まで足早に行って運賃を入れると、少年の荷物を持って
「そこ、空いてるぞ」と後部の空席へ誘導した。
織部自身は元すわっていた席に、何事もなかったかのように座った。
運転手は全員が座ったことを確認すると、無言でバスを発車させた。
英和学院の校門がある区画より3区画前、つまりほとんど学院寮の前がこのバスの
終点だ。生徒達が次々と降りる中、織部は最後に下車するつもりで、
まだ席に座ったままである。さっきの少年と運転手の関わりが、ここで綺麗に
断ち切れるよう、織部は少年より先に降りるわけには行かない気がしたのだ。
やがて少年が下車したのを確認すると、織部はようやく安心してバスから降りた。
途端にさっきの少年が声をかけてきた。
「さっきは、ありがとう」
「いや、別に」
「運賃は、あとでちゃんと返すからね」
「あ、そっか、運賃ね」
「いいよ、別にそんなの」
織部は別にその少年と親しくなりたいと思って助けたわけじゃない。
運転手に腹が立っただけだ。
『今日は腹の立つことが多いな』くらいに思って運賃のことは忘れていた。だから
その少年とは会話を早く終わらせたかった。
なのに、なんだかずっとくっついてきて懐かれている。
『入寮初日からやっかいなことだ……』
そんな二人の後ろ姿を眺めながら、丹生はゆっくりした足取りで、二人のあとから
入寮した。途中、携帯で盗み撮りした織部の顔写真を道安に送った。
「この人が織部さんで間違いないですか? ちょっと横顔しか撮れませんでしたが」
すると道安からすかさず返信があった。
「そうそう! これが織部だよ」
丹生は事前に織部の背格好は聞いていたし、昨日は写真も送信して貰っている。
だが目の前にいる織部の顔は、貰った写真とはちょっと違っていた。
だから道安にもう一度確認したのだった。
昨日、道安から貰っていた写真は、織部が小学生の頃の写真だ。
道安は画像と一緒にメッセージもくれている。
「俺が一番大切にしている写真だ」
『じゃなくて、今の顔がわからなくちゃ、しょうがなくねぇ?』
と丹生はつぶやいた。『でも、もういいや』と思った。
丹生は「ありがとう」とだけ返信した。
『どうせ学校が始まれば、背が高くて顔が綺麗な生徒など、
そうゴロゴロいるわけじゃなし』
『だけど今日、一応織部くんに合わせて入寮時間を同じにしといて良かった』
『顔も分かったし、どんな人かも少しだけ分かったし』丹生は微笑んでいた。
『にしても道安さん……勉強はできるんだろうけど、どっか抜けてないか……!?』
織部より、道安のほうが心配になる丹生だった。
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