11:なんか、いいな
織部は首にタオルをかけたまま、机に本を広げて読んでいた。一瞬うしろを向き、
ちゃぶ台に置いた二つの弁当箱を見ていた。
『やっぱり冷蔵庫に入れたほうがいいか、もう夏だし』
そう思って弁当箱を持ち上げると冷蔵庫にしまいながら、
「いや、自分だけ先に食うかな…」とつぶやいて、
弁当箱を一つだけ手に持って突っ立っていた。
そこへ人夫姿の輝虎が帰ってきた。
昼間は道安と一緒だったから、カバンにはスーツが入っている。
今日はさすがに心労でへとへとだったが、汗もかかずに帰ると織部に怪しまれる
と思い、少し現場で汗を流してきたのだ。
「あ、どうも…」
織部は帰ってきた輝虎にお疲れ様とはまだ言えない。職場で当たり前の挨拶が、
まだスラッと口から出てこないのだ。
「あれ、メシはこれからですか? 腹減ったでしょ、先に食べててよかったのに」
靴をぬぎながら輝虎は言った。
「あ、はい…」
織部はそう言いながら冷蔵庫からペットボトルを一本出すと、輝虎に差し出した。
「おっ どうも」と言って部屋に上がり、すぐに水を飲み始めた。
織部と並んで立っていた輝虎は、思わず織部を見て
「君は、また背が伸びましたか?」と言った。
「さぁ…わかりません」
「ちょっと、あそこに立ってみてください」
輝虎は隣の部屋との境にある柱に織部を誘導した。
織部は輝虎がさし示す柱に沿って素直に立つと、輝虎はすかさず本を織部の頭上に
ポンっと乗せた。そして胸ポケットからペンを出し、本の角に沿って横線を引く。
さらに腰のベルトホルダーからコンベックスを取り出して、
畳から線を引いたところまでを測り始めた。
「183cm ってところですかね。もうすぐ私も抜かれちゃいますね」
輝虎は目を細めてそう言った。
やがて、弁当の置かれたちゃぶ台のところに静かに腰をおろし、食事を始めた。
織部は自分の背丈をこんなふうにして人に測ってもらったことは無かったので、
なんか照れ臭い気持ちになった。いたたまれず、しばらく輝虎の背中を見下ろ
していたが、その様子は外に面したガラス窓に映っている。
輝虎はそのガラスに目をやりながら、
「カーテンとかがあると、ここももう少し部屋らしくなるかもしれませんねぇ」
「今度どこかで買っておきましょう」と言った。
織部は黙って畳に座ると、弁当の蓋を開けながら、「俺が買ってきます」と
小さい声で言った。
「いいですよ」
輝虎は気遣いを見せる織部がかわいくて、微笑みながらそう言った。
「いえ」
「いいですよ」
「いえ……」
こんな、少しだけ距離感のあるやりとりが、最近の二人の定番である。
やがて冬になると、砂埃の舞っていた現場も様変わりし始めた。
ビルの基礎工事はもう終わり、今は2階の床にコンクリートを流し込むところまで
工事が進んでいる。
輝虎は10代の頃、作業主任者に必要な中級程度までの資格は取っていたため、
現場ではかなり重宝がられた。特に所属先の会社は4次請けで、外国籍の人も
多かったため、語学にも長けた輝虎は一目置かれる存在だった。
しかし輝虎は、外国籍の人とは敢えて英語よりも日本語で、彼らがうまくこの国で
生活していけるようなコミュニケーションを心がけている風だった。そんな輝虎の
働きぶりを仕事中に見かけると、織部はいつも襟を正す気持ちになった。
しかし輝虎とは違って織部は、
いつも周りとは衝突しかねない空気の中で作業をしていた。
ある時など、手戻りが発生したのは「水無瀬がミスったからだ」と
責め立てる者が現れた。やってもいないミスで手戻りの責任をなすりつけられては
たまらない。織部は速攻で口より早く手が出てしまった。
殴られた作業員は倒れた場所が悪く腕を骨折した。会社にとっては損害の出る結果
となったのだ。輝虎がうまく収めたのは言うまでもないが、その労苦を織部はまだ
十分には理解できていないらしい。
でなければ、さほど反省するでもなく、宿舎に帰ってから受験勉強に没頭し、
平然としていられるわけがなかった。
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