第7話「逃げるなと言われても」
決闘を終えた中庭で、俺はいつものように、引き分けへ持ち込んだ木剣を下ろした。時間切れ。今週もしのいだ。——そう思った矢先、オスカーが審判の制止も聞かず、こちらへ詰め寄ってきた。
「ミレット。ひとつ、答えろ」
いつになく、低い声だった。青い瞳がまっすぐ俺を射抜いている。
「なぜ、私から逃げる」
直球だった。あまりに直球すぎて、一瞬、言葉に詰まる。周りの見物人が固唾を呑んで耳をそばだてているのがわかった。ごまかすか? いや、この目は、生半可な言い訳を許してくれそうにない。
「……平穏に、生きたいんで」
結局、俺は正直に答えた。「俺はしがない平民です。公爵家のあなたと張り合っても、いいことなんてひとつもない。だから穏便に卒業したい。望みはそれだけなんですよ」
オスカーはしばらく黙っていた。俺の言葉を、一つひとつ噛み砕くみたいに。それからふっと挑むように口の端を上げる。
「なら、勝負で決めろ」
「は?」
「次の決闘。俺が勝ったら、二度と俺から逃げるな。それでどうだ」
また「俺」だ。いつもの気取った「私」じゃない。よほど本気なのか、それとも素が出ているのか。……というか、よく考えろ。俺が勝ったら逃げるな、って。あいつが勝てば、俺は縛られる。じゃあ俺が勝ったら解放されるのかといえば、そうでもなさそうだ。だってこいつは負けたところで「次だ」と、また果たし状を寄越すに決まっている。
どっちに転んでも、逃げ場がないやつじゃないか、これは。
「……断ったら?」
「逃げたと見なす。学院じゅうに、貴様は俺から逃げ回る腰抜けだと触れて回る」
「うわ、最悪だ」
脅迫じゃないか。しかも効果は抜群ときている。腰抜けの噂が立てば、それはそれで平穏から遠のく。俺は頭を抱えたくなった。逃げ道をふさぐのが本当にうまい奴だ。
その晩、俺は寮の天井をにらみながら長いこと考え込んだ。逃げるのはもう通用しない。かといって本気を出せば、これまでの弱いふりが全部ばれる。どちらを選んでも平穏からは遠ざかる。……なら、いっそ。腹の底で小さな覚悟が固まっていくのが自分でもわかった。逃げ回るのは今日で終わりにしよう。
かくして翌週。俺は生まれて初めて、逃げ腰を捨てて木剣を構えた。
勝てば、少なくとも「腰抜け」の汚名は消える。負ければ、二度と逃げられない。どちらにしろ、もう小細工でしのげる状況じゃない。腹をくくるしかなかった。前世でかじった剣術の心得も、この体に染みついた稽古の記憶も、洗いざらい引っ張り出す。
開始の合図。今度は下がらなかった。
踏み込んでくるオスカーの一撃を正面から受ける。手が痺れる。重い。だが受けられないほどじゃない。すぐに切り返し、逆にこちらから踏み込む。目を見開くオスカー。こいつには見せたことのない、俺の本気の太刀筋だ。
見物人がどよめいた。いつも逃げ回るだけの平民が、公爵令息と正面から打ち合っている。その光景に中庭がわっと沸く。だがそんな歓声も今はやけに遠い。俺の意識は目の前の一点に吸い込まれていく。オスカーの剣。その動き。次の一手。全部を読み、全部でぶつかる。頭のどこかが燃えるように冴えていた。
打ち合いは思いのほか長く続いた。木剣がぶつかる乾いた音。跳ねる汗。上がる息。オスカーの剣はやはり正確で鋭くて、そして——楽しそうだった。いや、あいつだけじゃない。俺もだ。
打ち合わせるたび、震えが手首から肩へ駆け上がる。口の中に、うっすら鉄の味がにじんだ。噛みしめた奥歯。ひりつく喉。汗が目に入ってしみても、瞬きする余裕さえ惜しい。全身がこの一瞬に張りつめて、他のことは何ひとつ考えられなかった。
打ち合いながら、気づいてしまった。ああ、くそ。これ、楽しい。
全力でぶつかってくる相手と全力で打ち合う。手加減も逃げも駆け引きもなしで。前世でも今世でも、こんなふうに誰かと本気でぶつかったことなんて、あっただろうか。息が切れて腕が痛くて、それなのに、口の端が勝手に上がってくる。
結局、最後の一合で俺は競り負けた。木剣を弾き飛ばされ、喉元に切っ先。オスカーの、荒い息。汗で額に貼りついた銀の髪。その顔が勝ち誇るでもなく、どこか晴れやかに笑っていた。
「……俺の、勝ちだ」
また「俺」。今度は隠す気もないみたいだった。
息を切らしたまま、俺たちはしばらく、その場で見つめ合っていた。汗だくで髪はぐしゃぐしゃで、たぶん俺も間抜けな顔で笑っている。勝った奴も負けた奴も、こんなに晴れやかな決闘があるだろうか。審判が勝敗を告げる声も、しばらく耳に入らなかった。汗が顎から滴って地面に小さな染みを作る。心臓がうるさいくらいに鳴っている。負けたのに、悔しさより先に、もっと打ち合っていたいと思ってしまった。こんなの、俺の平穏プランには一行だって書いてなかった展開だ。
約束どおり、俺はもう逃げられない。平穏卒業の計画は、これでますます遠のいた。……はずなのに。負けたばかりだというのに。どうして俺はこんなにも清々しい気分なんだろう。今週の決闘がこれまでで一番、楽しかったなんて。
……誤算だ。とんでもない、誤算だった。




