第6話「雨の日の休戦協定」
朝から、雨だった。
中庭の決闘は天候不良につき中止。掲示板の達筆な貼り紙を見て、俺はささやかな解放感を噛みしめた。今週は木剣を振り回されずに済む。平穏、万歳。
……のはずがどうにも落ち着かない。授業が終わっても妙に手持ち無沙汰で、体が余っている感じがする。週一の決闘なんて、心底めんどくさいと思っていたのに。いざ無いとなると、拍子抜けするものらしい。
(いやいや。喜べ、俺。これが平和ってやつだろ)
自分に言い聞かせつつ、俺は雨宿りがてら、図書塔へ足を向けた。
図書塔は学院のいちばん奥にある古い塔だ。天井まで届く書架が、螺旋を描いてぐるりと壁を埋めている。羊皮紙とインクと古い木の匂い。細長い窓に雨粒が筋を引いて、ページを繰る音だけが、ひそやかに満ちていた。
奥まった書架の陰。何気なく角を曲がった俺はそこで足を止めた。
銀の髪。見慣れた背中。窓際の机に、オスカーが一人で座っている。
げ、と声が出かかった。よりによって、こいつと出くわすとは。決闘の日でもないのに。木剣もなければ、審判もいない。俺たちのあいだにいつもある「勝負」という口実が、今日はどこにもなかった。
「……グランツベルク」
「……ミレット」
名前を呼び合ったきり、会話が続かない。当たり前だ。俺たちは殴り合うか競い合うかでしか、一緒にいる方法を知らないのだから。気まずい沈黙が雨音に混じって流れていく。
本来なら、回れ右して別の書架へ逃げ込むのが正解だ。相手は宿敵、避けたい筆頭。三年間の平穏のためには、関わらないのがいちばんいい。……そのはずなのに、足の裏が床に貼りついたみたいに、ちっとも動いてくれない。
結局のところ俺の足は、あいつの座る机のほうへふらふら近づいていく。オスカーが広げていたのは古びた一冊。見覚えのある構えの挿絵——剣術の指南書だった。
「……そこ、間違ってる」
思わず口を出していた。「その受け、上段には効くけど、突きには弱い。俺なら、こう流す」
「……ほう。逃げ回るしか能のない貴様が、口だけは達者だな」
「逃げるのだって、立派な技術です」
気づけば俺たちは、一冊の指南書を挟んで、肩が触れそうな距離で額を寄せていた。離れて座っていたはずなのに。ページの同じ一点を、二人して覗き込んでいる。雨の音がやけに遠く聞こえた。
「この構えなら、こう来る相手にはどうする」
「……足を止めるな。半歩でいい、左へ回れ」
いつのまにか俺たちは、剣の話に夢中になっていた。決闘のときみたいな棘はない。純粋に、剣が好きな者同士の問答だ。オスカーは思っていたより、よほど素直に人の話を聞く。的を射た指摘には悔しそうに、それでも小さくうなずく。その横顔は教室で見る完璧な仮面より、いくらか幼く見えた。こんな顔で笑う奴だったのか。俺は指南書そっちのけで、つい見入ってしまった。
ふと思い出して、俺は鞄からくるみパンを取り出した。雨で購買に行けず、実家の荷から失敬してきた一斤だ。半分に割り、片方を無言でオスカーの前に置く。
「……なんのつもりだ」
「休戦協定です。今日は決闘の日じゃないんで、これは賭けの景品じゃない。まあ、おすそ分けってやつです」
オスカーはしばらくパンをにらんでいた。毒でも仕込まれていないか、検分するみたいに。それから意を決したように口へ運ぶ。ひとくち。もうひとくち。あっという間に、割った半分が消えていった。
「……どうです。うまいでしょ」
「……」
返事はない。だがその沈黙こそが答えだった。まずいものを、こんな勢いで平らげる奴はいない。俺はこみ上げる笑いをかろうじて堪える。
「……こんなもの」
オスカーがぼそりと呟いた。「こんなもの、認めん。俺は——」
言いかけて、あいつははっと口をつぐむ。気まずさをごまかすように、視線が雨の窓へ逃げていく。今、「俺」って言ったか、こいつ。いつも気取って「私」なのに。
「……私は、断じて認めんからな」
言い直した声は妙にうわずっていた。パンくずひとつ残っていない皿を、必死で見ないふりしながら。
こんなオスカーは知らなかった。教室で誰も寄せつけない、あの完璧な令息。全校の前で堂々と決闘を叩きつける、あの高慢な宿敵。そのどれとも違う。パンひとつで子どもみたいにむきになって、負けを認めまいと意地を張る。ひどく不器用な、年相応の少年。雨に閉じ込められた午後が、あいつの分厚い鎧を、少しだけ脱がせてしまったのかもしれない。そう思うと、なぜだか胸のあたりが、むずむずと落ち着かなくなった。
……いや。深く考えるのはよそう。雨宿りついでの気まぐれ。それ以上でも以下でもない。そう自分に言い聞かせて、俺は手元に残った半分のパンを口へ放り込んだ。
完食しておいて認めないもないだろ、と心の中で盛大に突っ込む。雨はまだ、やまない。決闘のない静止した午後に、宿敵とパンを分け合う羽目になるなんて。入学式のあの日には、想像すらしなかった展開だ。




