第30話「宿敵の定義を書き換える」
創立祭のあの喧騒が、もう遠い昔のように思える。木々はあらかた葉を落とし、朝夕の風には冬の匂いが混じり始めた。あの断罪の一件からこちら数週間、俺の学院生活はようやく本来の穏やかさを取り戻しつつある。逃げ回る必要も証人の席に怯える必要ももうどこにもない。
その週末、俺は辻馬車を乗り継いで、これまで縁のなかった街の高台に立っていた。招かれたのだ。よりによって、グランツベルク公爵家の屋敷に。門番に名を告げるだけで、あの厳めしい鉄門が音もなく内へ開いていく。下町のパン屋の倅には、いささか荷が勝ちすぎる話だった。
出迎えたのはテオだった。果たし状の配達で毎週顔を合わせてきた従者が、屋敷ではまた別人みたいに折り目正しい。屋敷の客を迎える顔と、俺への気安さのあいだで、どうにも収まりがつかないらしい。けれどその口元は、隠しきれずにどこか誇らしげに緩んでいる。
「ようこそおいでくださいました、ルカ様」
様付けで呼ばれるのにはいまだに慣れない。俺は「どうも」と間の抜けた返事をして、案内されるまま長い廊下を進んだ。
通された食堂の卓に、ひどく見慣れた包みが一つ紛れていた。ミレット堂のくるみパンだ。うちの母が「公爵様にご挨拶を」と強引に持たせた一斤が、磨き抜かれた銀器のあいだで素朴な焼き色をのんきに放っている。この物々しい屋敷に、あまりに場違いで、俺はうっかり笑いそうになった。
卓についていたのは、旅装を解いたエリアスと公爵アルブレヒト、そしてオスカーだ。国境から戻った兄は、あの日の張り詰めた面差しをすっかりほどいて、弟に何やら話しかけては目尻を下げている。廃嫡の汚名を雪ぐ手続きは、王家の裁可のもとで着々と進んでいるらしい。一度は欠けたこの家が、少しずつ元の形へ帰ろうとしているのだ。
公爵アルブレヒトは、ほとんど口をきかなかった。息子たちのやりとりを、深く刻まれた眉間の皺の奥から見つめている。やがて食事も終わりかけた頃、その人はエリアスへ、ぼそりと短く言った。
「お前を一度でも要らぬと切り捨てた。……あれは、私が間違っていた」
それきりだった。長い弁解も湿っぽい涙もない。ただ一言、二位に値打ちなどないと信じて疑わなかった男が、己の秤の壊れていたことを認めた。エリアスは何も言い返さず、ちいさく頷いてみせる。
オスカーは黙って、卓の下でこぶしを固めていた。俺の位置からは見えないつもりだろうが、膝に置いた手の甲に、筋がうっすら浮いている。父のあの一言を誰より待っていたのは、たぶん兄本人より、隣で育ったこいつのほうだったのだろう。俺はくるみパンをひとかけらちぎって、あいつの皿へそっと押しやった。慰めの言葉を探すより、そのほうがずっと早い気がして。
学院に戻ると、日常はあっけないほど元どおりだった。週が明けた月曜、俺の机の上にはまた、あの白い便箋が一通のっている。木曜まで待てなかったらしい。割って開けば、達筆で「木剣にて再戦を申し込む」と、しれっと書いてあった。あれだけの大立ち回りを演じておいて、こいつの果たし状の様式だけは、何ひとつ変わらないらしい。
中庭に人だかりができる、あの見慣れた光景まで戻ってきた。木剣を構えたオスカーは相変わらず一分の隙もなく、俺は俺で相変わらず腰が引けている。何もかも元どおりのようでいて、たった一つだけ、はっきり違っているものがあった。
「そこ、逃げるな。ルカ」
「逃げてない。作戦だ、オスカー」
名前で呼び合うのが、どうにもまだ据わりが悪い。半年以上ものあいだ「ミレット」「グランツベルク」でやってきた仲だ。不意に名を呼ばれるたび、握った剣先がわずかに鈍る。向こうも似たようなもので、俺の名を口にした直後だけ、打ち込みの拍子がほんの少し乱れるのだ。おかげで今週の勝負も、締まらない引き分けに終わった。
「……また引き分けか。俺はいつになったら、お前から一本取れるんだ」
「さあね。こっちは端から、取らせてやる気がないもんで」
悔しげにぼやく声にも、以前のような刺々しさはもうない。公式の場では今も隙なく「私」を貫くくせに、こういうときのこいつは、すっかり素の「俺」だ。勝ち負けの棘が抜けた分だけ、声がまるく聞こえるようになった。
決闘のあと、井戸端で顔の汗を拭っていると、観戦していたフェリクスがにやにやと寄ってきた。
「ねえ、前から一つ聞いてみたかったんだ」王子は俺とオスカーを順ぐりに眺めやる。「君たちにとって、宿敵の定義って何なの。こんなに毎週やり合っておいて、仲がいいんだか悪いんだか、さっぱり読めなくてさ」
問いの意味を、俺は一拍おいて呑み込んだ。宿敵——かつては断罪すべき相手で、避けるべき修羅場で、関わりたくもない筋書きの中心にいた言葉。それが今の俺にとって誰を指すのかと問われれば、もう答えは一つきりに決まっている。ふと横を見れば、オスカーもちょうど、同じ問いに口を開くところで。
「「あいつ」」
声がみごとに重なった。俺はあいつを、あいつは俺を指さして、まるきり同じ二文字を同時に言い放っていたのだ。フェリクスがこらえきれずに吹き出す。俺たちは互いの指先をまじまじと見比べ、それからばつが悪くなって、そろって明後日の方を向いた。
結局、宿敵という物騒な肩書きだけは、俺たちのあいだにいまだしぶとく居座っている。とはいえその中身のほうは、出会った春の頃とはもう、まるっきり別物にすり替わってしまった。名前を書き換えたわけじゃない。定義のほうを、この半年でまるごと塗り替えてしまったのだ。——さて、来週の果たし状は、どんな無茶を書いて寄越してくるやら。




