第29話「勝敗の外側で」
最初に人垣を割ったのはテオだった。主人の従者が震える足で壇の前へ進み出る。いつも一歩下がって控えているあの生真面目な少年が、衆目の真ん中で、まっすぐ顔を上げた。
「……私が、証言いたします。エリアス様が廃嫡された、あの夜のことを」
テオは語った。子供だった自分が大人たちに囲まれ、ありもしない主人の落ち度を言えと命じられるまま書かされたこと。その偽りの署名が、兄君の追放を決める一枚になったこと。声は終始震えていたが、途中で一度も止まらなかった。
叔父は痛ましげに首を振った。
「憐れなことだ。だが、たかが子供の頃の、あやふやな記憶だろう。……誰かにそう言えと、吹き込まれたのではないのかな。従者ふぜいが、主家の大事を語るなど」
「では、記憶ではなく、紙に語らせましょうか」
人混みから、気だるげな声とともにカミル先輩が進み出た。抱えていた綴りを開き、一枚の写しを高く掲げる。
「公爵家の会計記録です。エリアス様が廃嫡された月、辻褄の合わぬ出金がいくつも。証言をした者たちへ渡ったであろう、口止めの謝礼。その日付が、そこの従者どのの証言とぴたり重なる」
「……ほう」叔父の笑みが、わずかに強張った。「だが、その文書。誰が真正だと保証する。没落男爵家の学生が、どこぞで書き散らした贋作かもしれん」
「保証なら、私がしよう」
講堂の扉が開いた。差し込む逆光を背に、旅装の男が一人ゆっくりと歩み入ってくる。オスカーによく似た面差し。だがその目には家名を捨てた者だけが持つ穏やかな据わりがあった。
「久しいですね、叔父上。国境で商いをしております、元グランツベルクのエリアスです」
どよめきが講堂を揺るがした。廃嫡され、消えたはずの前嫡男。その突然の帰還に、聴衆は総立ちになる。壁際のオスカーが、兄の姿に息を呑んで固まっていた。
「その帳簿は本物です。私の代の写しが、手元に残っている。突き合わせれば、一目瞭然でしょう」
オスカーは兄から目を離せずにいた。何年も生き別れていた、たった一人の肉親。その人が今、自分を守るために帰ってきた。あいつの喉がこくりと動く。何か言いたげに口が動き、けれど言葉にならない。積もった年月はそう簡単には声にならないのだ。俺は黙って、あいつの背をそっと押してやった。
叔父の額に、うっすらと脂汗が浮いた。それでもなお、声だけは絞り出す。
「……廃嫡された者の、逆恨みだ。家を追われた腹いせに、今さら舞い戻って私を陥れようというのだろう。皆、惑わされるな」
「逆恨み、ねえ。それにしては、証拠が揃いすぎだと思わない?」
招待客の列から、フェリクスが悠然と歩み出た。いつもの軽薄さをかなぐり捨てた、王族の顔で。手にした巻物を、ゆっくりと広げてみせる。
「王家が内々に進めていた、照会の記録だよ。グランツベルク公爵家の会計の不審には、以前から目をつけていてね。——それと、コンラート殿。あなたの理事の任免権限は、王家の裁可のもとにある。今この場をもって、その資格を停止させてもらう」
叔父の口が何か言おうと開いた。だが言葉は続かなかった。王家の照会記録。停止される権限。もはや、返す札が一枚も残っていない。柔らかな笑みは跡形もなく剥がれ落ち、その下から、追い詰められた男の青ざめた素顔がのぞいていた。詰み、だ。
講堂がしんと静まった。誰もが勝負の帰趨を悟っている。あれほど盤石に見えた叔父の絵図はもう跡形もない。俺は詰めていた息をそっと吐き出す。勝った。半年ぶんの記憶を懸けた大博打に、俺たちはとうとう勝ったのだ。
誰もが次にオスカーが口を開くのを待っていた。散々に貶められた次席が、ここぞと叔父を罵り断罪の言葉でとどめを刺すのを。勝ち負けだけを教わって育ったあの男なら、当然そうするはずだと。
だがオスカーは動かなかった。壁際から進み出て、青ざめた叔父の前に立つ。そうして、小さく首を振った。
「叔父上を、断罪はしない」
どよめく聴衆を、あいつの声が制した。
「あなたを地に落として勝ち誇ったところで、俺は失った兄上を取り戻せるわけじゃない。……勝ち負けで人を裁くのは、もう終わりにする。あなたには、あなたのしたことを、法のもとで償ってもらう。それが、俺の出した答えだ」
講堂の入り口で、エリアスが小さく頷くのが見えた。弟の言葉を誇らしむように。「二位は無価値」——その呪いを、オスカーは今、自分の意志で踏み越えた。勝ち負けだけがすべてだった男が、勝ちを手にした瞬間に、その勝ち負けの外側へと歩み出てみせたのだ。
言い終えて、あいつは客席のざわめきの中、まっすぐ俺のほうを振り返った。何百人もの目の前で。取り繕った「私」でもなく、素の、いつもの声で。
「——ルカ」
初めて、名前で呼ばれた。たった二文字だ。なのにその響きが、俺の胸の奥のいちばん硬いところを、じわりと溶かしていく。ミレットでも貴様でもない。オスカーが俺を名前で呼んだのだ。半年かけて宿敵とやりあってきた果てに、こいつはようやく勝ち負けの外側で俺の名を呼んでくれた。宣戦布告から始まった関係が、ぐるりと一周してまるで違う場所へ辿り着いている。
気づけば、周りの喧騒がひどく遠かった。何百人もの視線ももう怖くない。俺の世界には今、名前を呼んでくれたこいつしかいない。長い半年だった。逃げて、ぶつかって、それでもここへ辿り着いた。この一言を聞くために、俺は逃げるのをやめたのかもしれない。
祭りの喧騒が少しずつ戻ってくる。あんなに恐ろしかった断罪の景色はもうどこにもない。俺の知っていた筋書きは、たった今、俺たちの手で最後まで書き換えられたのだ。
「……なんだよ、いきなり名前呼びは。調子が狂うだろ」
照れ隠しに悪態をつく俺を、あいつは不思議そうに見て、それからふっと相好を崩した。宿敵の、見たこともない、勝ち負けから解き放たれた顔だった。




