第26話「筋書きより、こいつを知ってる」
借り物の地図をなくして、俺の手元にはもう、何も残っていないはずだった。前世の知識は破れ、物証は奪われた。逃げ切るための切り札は、一枚残らず叔父の手に渡っている。夜が明けてもみぞおちに居座った重さは消えてくれない。それでも机に突っ伏したまま、俺はぼんやりと、あることに気づき始めていた。
俺はさっきから、失ったものばかり数えている。じゃあ逆に、まだ失っていないものは何だ。
布団のなかで、俺は敗北の一部始終を何度も反芻した。どこで間違えたのか。どうすれば防げたのか。考えても考えても、答えは同じところへ戻ってくる。借り物の地図を過信した。結局はそれに尽きるのだ。自分の甘さが仲間まで危うい橋へ立たせてしまった。
答えは一人では出そうになかった。昼過ぎ、俺は重い足を引きずって図書塔へ向かう。仲間の顔を見るのが正直まだ怖い。俺の勇み足で、みんなを無茶に巻き込んでしまった。その負い目が階段の一段ごとにのしかかってくる。
集まった仲間の前でも、俺はまだ答えを出せずにいた。物証がなければ、叔父の描いた断罪の絵は覆せない。そう頭から思い込んでいたのだ。うつむく俺を見かねたように、口を開いたのはオスカーだった。
「なあ。お前の言う、その筋書きとやらだが」
あいつは俺が前世の物語を頼りに動いていたことを細かくは知らない。それでも俺が何か大きな地図を握って戦おうとしていたことだけは、うすうす察していたらしい。
「その筋書きの中の俺は、どんな男だ」
問われて、俺は言葉に詰まった。物語のオスカー・グランツベルクは、平民をいたぶる高慢な令息だ。器物を壊し、階段から突き落とす。当然の報いとして断罪される、冷たい悪役だ。……口に出しかけて、俺は気づく。そんな男を、俺は半年のあいだ、ただの一度も見ていない。
試しに、俺は確信の根拠を、頭のなかで一つずつ数えてみた。惨敗したくるみパンを、悔しがりながら最後のひとかけまで食べたこと。俺が距離を取ったあいだも、返事の来ない果たし状を書き続けていたこと。泣くテオの頭に、責める言葉のかわりにぎこちなく手を置いたこと。負けた俺の隣に黙って座り、「次だ」と言ったこと。——数え上げてみれば、そのどれもが、前世の画面には一度も映らなかった。全部、この半年で俺自身が見てきた、生身のこいつの記憶だ。
「……いないな」俺は顔を上げた。「筋書きのお前なんて、この半年、どこにもいやしなかった」
言った途端、胸のつかえがすっと軽くなった。俺はずっと、破れかけの地図を頼りに戦おうとしていた。でもあの地図に描かれたオスカーは、俺の知ってるこいつとはもう別人だ。だったら頼るべきは、紙きれの記憶なんかじゃない。この半年、俺がこの目で確かめてきた、こいつ自身のほうだろう。
考えれば考えるほど、確信は太くなっていった。俺が半年かけて知ったこいつは、器物を壊して人を陥れるような、けちな真似をする男じゃない。負けを恐れながら、それでも真っ向から挑んでくる、不器用なやつだ。前世の画面が何を映していようと、そんなものはもう関係ない。俺の目が見てきたものを俺はもう疑わない。
「なあ、みんな。物証を先に押さえて、断罪を未然に潰す作戦は、もう捨てる」
俺は仲間を見回した。向こうはこっちの先手を全部読んで潰してくる。だったら、逆だ。
「あいつの描いた断罪の舞台に、こっちからのこのこ乗ってやる。筋書きどおりに幕を開けさせて、結末だけを書き換える」
一瞬、塔の一室がしんと静まった。俺の言っていることの無茶さが、じわじわと皆に伝わっていく。物証もなしに、敵の土俵へ自分から上がる。正気の沙汰じゃないのは、俺だってわかっている。
「正気か、後輩」カミル先輩が眉をひそめた。
「正気ですよ。叔父は衆目の前でオスカーを裁くつもりだ。なら、その衆目の前で、全部ひっくり返してやります」
無謀だ、と誰かが呟いた。だが反対の声は思ったより早くやんだ。フェリクスがにやりと口の端を上げる。テオが唇を引き結んで頷く。オスカーは何も言わず、黙って俺の目をまっすぐ見返してきた。その視線が言葉のかわりに「任せた」と告げている気がした。
無謀な賭けなのは、俺がいちばんわかっている。一つでも札が欠ければ、今度こそオスカーは断罪され、俺たちもろとも沈む。それでも逃げ続けた末に何も残らないより、よほどましだ。仲間の顔を見回すと、もう誰の目にも迷いはなかった。呉越同舟の五人が、同じ覚悟で頷き合う。
フェリクスの手配で、国境の兄のもとにも早馬の使いが走っていた。無事に連れ帰れれば、これ以上ない切り札になる。もっとも色よい返事はまだ届いていない。間に合うかどうかは、今のところ神のみぞ知る、だ。
俺の武器はもう前世の記憶じゃない。この半年でこいつと交わした、数えきれない果たし状のやりとりだ。借り物の筋書きなんかより、俺はよっぽど、こいつのことを知っている。その一点だけは叔父にだって書き換えられない。腹は決まった。恐れはまだ胸の底にある。それでも俺の足はもう震えていない。ここまで来たら、あとは前を向いて進むだけだ。創立祭はもう目と鼻の先まで来ていた。




